「前に話したかもしれないけどさ」
という前置きの後に続く話には、実際、前にどこかで聞いた感じがつきまとっている。
とはいえ、聞いているこっちに確たる記憶があるわけでもない。だから、
「そうか? はじめて聞くぞ」
と言ってやる。
と、相手は安心して続きを話し始めるわけなのだが、果たして、しばらく耳を傾けているうちに、以前聞いた話であることがはっきりしてくる。うん。前に聞いた。確かだ。二度目どころか三度目かもしれない。というよりも、オレが「はじめて聞くぞ」と言ってやってからこいつがこの話を繰り返す展開自体、前回とまるで同じだ。
かように、ある程度以上年齢の行った人間同士の会話には、常に同話反復のリスクが織り込まれている。われわれは、互いに、以前聞いた話である旨を指摘しないことで、双方の体面を防衛していたりする。
「前に話したかもしれないけどさ」
という、この前置きは、おそらく、話し手が、以前、どこかで、同じ話を繰り返している旨を指摘されて(←たぶん何度も)、心に傷を負ったことを示している。とすれば、この形式上の問い掛けに対して
「うん、その話は三回目だ」
という指摘をもって報いるのは、人の道に反した態度だと申し上げねばならない。聞き手は、特に急いでいるのでない限り
「オレははじめて聞く」
と、よろしく寛大に応じるべきだ。ともだちの話を二回か三回余分に聞いたからといって、人生の時間が無駄になるわけではない。おそらくそれは、人生の恵みだ。
原稿を書く仕事にも、二度ネタの危険は常に潜在している。齢四十を過ぎた書き手は、この点に十分な注意を払わなければならない。
最近は全文検索ツール(「Googleデスクトップ検索」とか)という便利なものがある。私自身、原稿を書いていて「ん?」と思った折には、前に似たような原稿を書いたことがないかどうかを、その都度チェックすることにしている。
手順は簡単。いくつか心当たりの単語をタイプして、検索ボタンをクリックするだけだ。
と、ほとんどの場合、これから書こうとしていたのと同じ筋立ての原稿が画面表示されてくる。がっかりだ。オレはまったく同じ話を三年前に書いている。なんということだ。
今回書くつもりでいたエピソードも、実は、たった今、去年の6月に当コーナーで紹介していたことが判明した。で、いきなり出鼻をくじかれたので、悔しさのあまり「二度ネタ」をネタに急場をしのいでいる次第だ。
今週は野田佳彦氏について書く。
といっても、氏の政見や人となりについて独自の情報を持っているわけでもないので、先日の代表選での演説について触れるつもりでいて、それで、さしあたって、人の「声」について、私が体験したエピソードを紹介するところから話を切り出す所存だったのだが、そのエピソードが既に使用済みであったことが判明した――と、現在、私はここのところにいる。困っている。
私が書くつもりでいたお話は、学生の頃、さるデパートの乾物売り場でアルバイトをしていた時に見聞したもので、要は、「人々は、話の内容にではなくて、声のトーンに反応している」ということの実例だ。
詳しくはリンクを参照してもらうとして、この時、私は、「声」が人間の集団を支配する力の強烈さに、心を打たれた。人は、話に動かされるのではない。われわれは、声に動かされている。不思議な話だが、これは本当だ。
私が受けた印象では、8月29日の代表選も、「声」の闘いだった。すなわち、その日の選挙戦は、「話の内容」や「政策」の可否を問うバトルではなくて、「声」や「話し方」の優劣を競うステージだったということだ。
実際、各候補が提示した「政策」には、さしたる違いがなかった。それ以前に、投票権を持っている民主党議員の多くは、自らの所属するグループや政策集団の方針に従って、あらかじめ支持する候補を決めていた。ということは、演説の内容の如何は、そもそも票の行方には関係がなかったわけだ。
が、それでも、当日の両院議員総会に集まった三百数十名の民主党議員の中には、「当日の演説を聴いてから投票する候補者を決定する」つもりでいたメンバーが、数十名含まれていたと言われている。と、結果から考えて、それらの「当日決定組」がキャスティングボートを握っていたわけで、であるとするならば、やはり「演説」は、大きな意味を持っていたことになる。
当日、私は、全候補の演説をナマで聴いた。珍しいことだ。私は元来政治には冷淡な人間だ。それ以上に、政治家の演説に忌避感を抱いている。昔からずっとそうだ。だから、選挙にはコミットしない。というよりも、基本的にこの種の政治ショーには近づかないことにしているのだ。
それが、今回、5人の候補者の演説に耳を傾ける気になったのは、震災後の政治の行方に懸念を抱いているからでもあるが、私自身、首相になるかもしれない政治家について、いくらなんでもあまりにも無知である旨を痛感していたからだ。
自民党が政権を動かしていた時代はこうではなかった。少なくとも首相候補になるレベルの閣僚や派閥の領袖については、いかなノンポリのオダジマとて、それなりの知識を持っていた。つまり、昭和の時代は、国民の側が特に注目していなくても、主要な政治家の政策と人柄については、ひと通りの情報が流れてきたということだ。別の言い方をするなら、政治家が「顔」を持っていたということでもある。
それが、民主党に政権が移ってからこっち、政治家の顔は、にわかに見えにくくなった。
民主党が人材を欠いているせいなのか、メディアの伝え方に変化があったからなのか、理由は、簡単に断ずることはできない。が、ともあれ、私は両院議員総会の中継を見なければならなかったのである。
5人の演説を並べて聞いた中では、野田さんの話が一番聞きやすかった。
が、それもこれも、比較の中での相対評価に過ぎない。
単独のスピーチとして、当日の野田さんの演説を評価するのかとあらためて問われたら、私の答えはノーだ。
野田さんの演説に限らず、当日の各候補のお話は、どれもこれも、エモーショナルなばかりで、具体性を欠いていた。この点(つまり、各候補の演説が内容的に空疎であったこと)については、実際に演説を聴いたほとんどの国民が、同じ感想を抱いたと思う。
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