
朝、目を覚ますと、まずパソコンの電源をオンにする。
で、2チャンネルの「視聴率提供専用スレッド」(以下、同掲示板に集う視聴率ウォッチャーの慣例に従って「視スレ」と略称する)をチェックする。週刊誌にテレビ番組批評コラムを連載していた頃からの習慣だ。
その、「視スレ」に、つい2~3日前、異変が起こった。突然、情報の提供が途絶えたのである。悲劇だ。行きつけの蕎麦屋が閉店した時みたいな衝撃。オレは明日から、どうやって朝の時間を過ごしたらいいんだ?
経緯を紹介する。
そもそも「視スレ」の視聴率データは、情報提供者の「リーク」に依存しているものだった。
情報源は、いくつかあった。以下、箇条書きにする。
1. 地上波民放局のうちの3局(フジテレビ、日本テレビ、テレビ朝日)は、ゴールデンタイム(G帯)およびプライムタイム(P帯)の自局の視聴率情報を電話経由で提供している。音声はテープ録音のものらしい。毎朝午前9時から9時半頃、この音声情報を電話確認して掲示板に書き込むボランティアが何人かいて、提供のある局については、おおむね10時前には数字が揃うことになる。
2. 関東地方の地上波テレビ各局(NHK教育は除く)のG帯&P帯の視聴率について、毎日その数字を公開しているブログがある。ブログ主はおそらく業界人。このブログは、情報提供者のプライバシーを配慮して「視スレ」民の間では「某所」と呼ばれている。「某所」の更新時間にはバラつきがあって、更新が滞る日もある。が、おおむね午後3時には前日の視聴率が書き込まれる。視スレでは、伝統的に、この「某所」提供のデータが、最も確実な視聴率情報として、確認用に使われている。
3. スポーツ関連番組(G帯P帯に放送されたものだけでなく、全日、深夜帯の番組も含む)の視聴率については、ある民放局の社員(高名な元ラグビー監督)が、局のホームページ内の個人ブログの中で、随時数字を書き込んでいる。この数字は、特にサッカーファン、野球ファンに珍重されている。
4. 2008年の12月頃から、「数字禿」ないしは「禿」と名乗る人物が、地上波の全局全時間帯の視聴率データを落とすようになった。データの書き込みは、時に中断する時期もあったが、断続的に2011年の2月まで続いた。「視スレ」民は、狂喜し、彼を「禿神」「神」と呼んでまつり上げていた。
以上が、私の知る、この5年ほどの「視スレ」の日常だった。
ところが、2月21日の夕刻、「NHKが大津放送局放送部の男性職員(27)を、視聴率データを契約に反してインターネットの掲示板に投稿したかどで諭旨免職処分にした」というニュースが流れると、事態は一変する。
1. 電話音声による特定民放局の自局視聴率情報は当面継続中。ただ、これについては「3月いっぱいで終了」という噂が囁かれはじめている。
2. 「某所」は、2月22日に閉鎖。サイト自体も消滅。データはオールデリート済み。別れのあいさつもなし。
3. ラガーマン社員は、2月23日のブログに「視聴率、レッドカード」というタイトルの記事を掲載して困難な状況を示唆。文面は、以下の通り。「毎日書く視聴率について、ビデオリサーチから警告が出されていて、ついにレッドカード。今後は特別な放送についてのみ視聴率を書けるか」
数時間後、ラガーマン氏は、午前中の書き込み(レッドカード)を丸ごと削除。さらに、過去の視聴率データも全消去。当日のブログは、「生ゼリーだぞ!」というタイトルのスイーツネタに差し替えられる。なんたる弾圧臭。
4. 報道された書き込み時期、内容から、諭旨免職になったNHK職員が「禿」氏であったことは、ほぼ確定。「視スレ」には、感謝と惜別のメッセージが溢れる。ありがとう、そしてグッドラック&グッドバイ。
かくして、「視スレ」は、存続の危機に立ち至っている。
しばらくの間は雑談愚痴スレッドとして残存することだろう。が、遠くない将来に消滅するはずだ。スクリーンの無い映画や、音の無いコンサートが観客を引き止められるはずはないから。
以上、長々と「視スレ」の消長について書いたのは、単に、巡回先がなくなって淋しいからというだけではない。サイトの消滅は日常茶飯事。ネットでは常識に属する出来事だ。
私が視スレの危機を重視しているのは、この事件が、わが国の言論状況のうすら寒い現状を象徴している気がするからだ。
もの言えば 首筋寒し 空き机
無事でいるためには、黙らなければならない。言論界の人間であるならなおのこと。本末転倒。
今回、「視スレ」への情報提供のルートが断たれたのは、視聴率情報の大元であるビデオリサーチ社(以下、「ビ社」と略称)が動いたからだと言われている。
広告料金算出の目安という本来の主旨からすれば、視聴率は、関係者(テレビ局と広告会社と広告の提供企業)だけが知っていれば良い数字であり、外部に漏らす必然性は無い。
が、テレビ局は、視聴率を番組のプロモーションに使っている。実際彼等は、自局の番組の週間視聴率ベスト5を局のホームページの一番目立つところに掲載していたり、日曜日の番組の中で、自局の番組の瞬間視聴率ベスト10を発表している。あるいは、特定のドラマなりバラエティーが顕著な数字を取ると、その旨を大宣伝する。
……と、以上の状況を受けて、わが国では、慣例として、少なくともテレビ局が自局の番組の視聴率を公表することは、当然の権利とみなされてきた。
同様のなりゆきで、スポーツ新聞が、テレビ局からリークされた視聴率を表にして掲載することや、週刊誌が1クールごとにドラマの視聴率をネタに記事を書くことも、特にビ社に対する契約違反とは見なされなかった。
が、「禿」氏のリークは、意味が違う。
局の番宣とも、新聞の読者サービスとも別だ。
「業務上知り得た機密情報をネット上にリークした」
という点では、尖閣諸島沖での中国漁船衝突映像をリークさせたsengoku38氏に近いのかもしれない。そういう点からすれば、処分は仕方のないところなのだろう。
でも、「諭旨免職」はいかにも重い。
おそらく、今後、高視聴率番組の数字が宣伝として利用されることはあっても、それ以外の日常的な数字は、視聴者の目に触れる場所には出てこなくなる。特に局や広告会社にとって都合の良くない数字(不人気番組の壊滅的な視聴率や、看板番組の不調)は、極力隠蔽されるはずだ。
ただでさえ、ここ数年、視聴率は、視聴者のテレビ離れ(事実、2000年以降、テレビ全体の視聴率は一貫して低下する傾向にある)を証拠立てる不吉な数字として、嫌な感じの一人歩きを始めている。彼等は隠したいはずなのだ。
この度の一罰百戒事案は、既存メディアが「ネットへの情報リーク」を、力ずくで阻止する旨を宣言した打ち上げ花火であるようにも見える。
というのも、わが国のメディア企業は、伝統的にインターネットを敵視している。
1月のはじめ頃、ある大手の新聞社が記者のツイッターを全面的に禁止したという噂がツイッター上で広がったことがある。
この噂は、どうやら無責任なガセネタに過ぎなかったようで、実際には、明文化された禁止令が出た事実は無い。
が、新聞社やテレビ局が記者や社員のツイッターに対して神経質になっているのは事実で、私の耳にも、その種の話はいくつか入ってきている。
前述の「禿」氏は、実はここのところに不満を持っていたのだと言われている。
「禿」氏と思われる人物が、放送局の中で、職員に言論の自由が許されていないのに、どうやって自由な放送ができるんだ? という意味の書き込みをしていたという話もある。
まあ、これは2ちゃんねるの連中の作り話かもしれない。どっちにしても、確認するすべはない。
「社員のメディアリテラシーを信用できない会社が、どうして放送局を運営できるんだ?」
と、彼は、書きこんでいたのだそうだ。
ありそうな話だ。嘘であるにしても。
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