
今回のケースについて、朝青龍の行動は、やはり擁護できない。
したいのはヤマヤマだが、私の力量では無理だ。擁護しきれない。
一緒に火だるまになってあげることぐらいはできるかもしれない。
が、それはしたくない。
私にも生活がある。
しみったれた生活だが。許せ、ドルジよ。
報道されていることのどこまでが真実で、どこから先が尾鰭なのかは、正直なところまだわからない。尾鰭とは別に、私が知らない手足や羽があるのかもしれない。それもよくわからない。
が、ともかく、真相がどうであれ、朝青龍が場所中に泥酔して暴行事件を起こしたところまでは、はっきりとした事実だ。とすれば、引退は、残念だが仕方のない結末だった。そう考えざるを得ない。
今回は、朝青龍をめぐる一連の出来事を、一歩引いた視点から見つめ直してみたい。
朝青龍個人については別のところで書いてしまったのでもう書かない。それに、様々な人々によって、言うべき事は言われつくしてもいる。これ以上付言すべきことがあるのだとすれば、「付き合う人間には注意しろよ」、と、後知恵で手遅れの忠告を伝えることぐらいだ。
思うに、この度の事件を、ドルゴルスレン・ダグワドルジ(←朝青龍の本名。スポーツ新聞は既に「元朝青龍」という名称を使いはじめている)という一人の人間の資質に帰してしまう態度は、安易であるのみならず、卑怯だ。でなくても、飽きた。平凡すぎる。
角界には、ここ数年不祥事が目立つ。
これは偶然ではない。
おそらく、続発する不祥事の多くは、相撲部屋が極めて内圧の高い組織であることに関連している。
一連の事件は、大相撲の世界が、若い力士(特に外国人力士)を適正にマネジメントできていないことへの反応として顕在化している。そう考えなければならない。
そう。マネジメントだ。
別の言葉で言えば心遣い。
あるいはホスピタリティ。
「管理」ではない。それは冷凍食品を扱う時に使う言葉だ。
外国人労働者の権益と待遇。彼らの心的負担と暴発。そして日本文化の独自性と普遍性。その閉鎖性と因循。こういうことについてもっと議論が起きないといけない。品格は、そうした議論が決着した後に、見る者と見られる者が対等の立場で語り合うべき話題だ。誰かが誰かに課して良いものではないし、まして、不特定多数の人間が特定の誰かについて評定したり落第点をつけたりできるものでもない。
というよりも、品格は、本来、語るものではない。
評価するものでもない。
ただそれは人が去った後に香気のように漂うものだ。
いずれにせよ、品格について語る者は品格を失う。いま語っている私も含めて。
大相撲は、今後、しばらくの間、興行的に低迷せねばならないだろう。なにしろキャラの立った人気横綱を失ったわけだから。人気だけではない。朝青龍は、実力的にも、歴代で五本の指に入る名横綱だった。
先場所の把瑠都との一番は見事だった。スピードと反射神経に頼りがちだった取り口に、巧さが加わって、第二の全盛期が来るのではないかと、入幕時以来のファンである私などは、見ているだけでわくわくさせられたものだった。琴欧洲戦も、素晴らしい切れ味だった。それだけに未練が残る。
たとえ一時的に観客動員に翳りが出ても、朝青龍の引退によって角界が正常化するのなら長期的には正解だ……と、良識派の人々は、おおむね同じ意見を述べている。
まあ、おっしゃる通りではある。
でも、彼らの言う「正常化」とは、一体どういう状態を指しているのであろうか。
私には、それがわからない。
というよりも、大相撲の「未来」や「改革」や「あるべき姿」については、人それぞれ、抱いているイメージが違うのだ。「正常化」もまた、国民的合意として、確かな像を結んでいるわけではない。
現在は「品格」「相撲の美」「正常化」「改革」「原点」といったあたりの編集部用語が一人歩きをしている。が、この状況もそんなに長くは続かない。どうせじきにみんな飽きる。で、忘れて元通り。おなじみの展開だ。
大雑把に考えて「正常化」にはふたつの道がある。
ひとつは伝統回帰。もうひとつは、オープン化だ。そのいずれを選ぶのかによって、シナリオは180度違うものになる。
協会はどちらの道を選択するのであろうか。
両方?
うん。気持ちはわかる。
伝統の枠組みの中で近代化するだとか、文化としての側面を継承しつつ競技としての透明化をはかるとか、国技である面を維持しながら国際化を果たすだとか、そういうふうに、現場は両にらみで行きたいのだと思う。
でも、それが一番いけない。
かなり高い確率でダブルスタンダードの混迷に陥る。
二兎を追う者は虻と蜂の両方に刺されて悶絶することになる。間違いない。
エキサイティングで魅力的な競技として観客を満足させるためには、わかりやすいレギュレーションとフェアな給与体系を構築、公開する必要がある。
そのためにはまずなにより部屋制度を撤廃しないといけない。というのも、本場所で採用されている「部屋別総当たりのリーグ戦形式」は、出場する力士に対して公平性を担保していないからだ。同じ部屋にどんな力士がいるのかによって、当たる相手が違う。これでは、スタートラインから差別があるということで、リーグ戦の条件が前提のところから壊れてしまっている。
力士の募集と養成が部屋単位の努力に委ねられている点も問題だし、その力士の頭数と成績が親方の収入源になっている面も奇妙だ。外から見て、公平に見えない。腐敗の温床。でなくても、少なくとも競技性をスポイルしている。
勝負を裁く役割を担う行司が部屋付である現況も、近代人には理解されにくい。
給金の制度も不透明だ。
……つまりアレだ。プロスポーツという面から評価してみると、現状の大相撲はあまりにも旧弊なのだ。
一方、伝統文化としての相撲を防衛するためには、部屋制度は死守せねばならない。
なんとなれば、相撲は、「部屋」そのものだからだ。
相撲の伝統は、親方がいて弟子がいる、という家父長制のメタファーの上に成立している。
その意味では、「部屋」が「一家」であり、その「一家」の中に「行司」と「床山」と「呼び出し」のすべてが起居しているカタチが、相撲が相撲であることの前提になっている。
そういう日本人の原形質を体現した文化的な体技である相撲の、その根幹である「部屋」を解体することは、家から壁を取り去ることに等しい。なるほど、壁の無い家はクリアで開放的かもしれない。が、壁の無い家は家ではない。「開かれた皇室」が皇室でないのと同じように。相撲部屋の無い相撲は、おそらくふんどしの無い相撲よりさらにみじめなものになる。
いやむしろ、相撲部屋は、玉手箱に似ている。
閉鎖的であるからこそ維持されている美質と外面。
蓋を開けたら、その内実は、ケムリとともに消滅する。
後には、自失した年寄りが残るばかり。うん。ありそうな話だ。
相撲はたしかに不合理なものだ。
が、その不合理は、われわれが日本人であるということそれ自体に端を発するものだ。
もしこの不合理を正したら、相撲は死ぬ。似たような話を学校で習ったはずだ。混沌に開明と知覚をもたらすべく七つの穴を開けたら、混沌は死んでしまった。中国の古い故事だ。相撲も同じ。閉鎖してこそ相撲。開放したら倒れる。
現状、大相撲は「いいとこ取り」をしている。
ある場面では、「文化」だと言い、別の局面では、「神事」を自称し、また別の立場では「スポーツ」である旨を主張している。そうやって昭和の時代をまるまる泳ぎ切ってきたわけだ。
税法上は財団法人としての優遇を受け、興業としても公共放送であるNHKから、年六場所の幕内力士の全取り組みを地上波で生中継するという明らかな特別扱いを受けている。
「プロスポーツ」としては、観客から入場料を徴収し、年間六場所という相撲の歴史始まって以来の過密スケジュールでのリーグ戦を展開し、なおかつ、その間に勧進元主催の地方巡業を組み込んでいる。
カネの出入りについて言うなら、入りの場面ではビジネスとして動いており、経費や損金を計算する時には、急に「文化」のコロモをまとった財団法人に変身しているカタチだ。
外国人の扱いについても同断。日本相撲協会は、現場の人材難を外国人労働者を招くことで解消している。
競技スポーツとしての水準を維持する上でも、外国人力士は切り札的な存在だ。
たとえば、現在幕の内優勝は、24場所連続で外国人力士が獲得している。
24場所。丸々4年間だ。
つまり、2006年の初場所で栃東が優勝して以来、4年間にわたって、国内産の力士は一度も優勝していないのだ。ちなみに栃東優勝の前は朝青龍の七連覇。誰が見たって、大相撲は外国人力士無しではどうにもならない所に来ているのである。
【お申し込み初月無料】有料会員なら…
- 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
- 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
- 日経ビジネス最新号13年分のバックナンバーが読み放題