1: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 21:15:30.81 0
ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教ネストリウス派、仏教、道教、儒教、マニ教など、ユーラシア大陸の様々な宗教の伝来が濃淡ありながら痕跡が見受けられる日本だが、イスラム教だけ伝来してなかったのは何故か?
本当に伝来していなかったのか?
本当に伝来していなかったのか?
2: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 21:21:12.34 0
千四五百年前から来日していたイラン人は未だムスリムにはなっていないが、その後まもなくイスラーム化した国である中央アジアのトカラ(吐火羅)という国から日本へやって来た人たちがいる。それは前記の事項よりも以前のことであるが「日本書紀」の中の「有明記」に以下の内容が記載されてある。
トカラ(吐火羅)国の勇二人文四人が奄美大島あたりで難破したすえに筑紫の海岸に漂着した。有明天皇の白雉四年(六五三)七月三日のことである。このトカラ国とはトカレスタンすなわち今のイランの東北角でアフガニスタン西北部の国境線に沿うあたりである。
では、この頃のイランの状態はどうであったか。新興勢力アラブ・サラセン軍の破竹の勢の遠征軍に圧倒されたイランのササーン王朝最後の皇帝ヤズダギルド三世は、その力戦も空しく六四一年ニハーワンドの一戦で完敗し遂にササーン王朝はここに滅亡した。
こうしてイスラーム・サラセン軍の西方よりの侵略によりトカレスタン地方を含むイランの人たちは東へ東へと移動して唐の部長安まで亡命して来た。その中の数人が来日したものであろう。
ともあれ、彼らは未だ一個のムスリムとしてイスラームにはこの時点では帰依していなかったかも知れないが、大作古麻呂の一件より百年も前に程なくイスラーム国に改宗するイランの東北部トハリスタンからはるばる日本の上を最初に踏んだ人たちであった。
5: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 21:27:51.20 0
>>2
筑紫に流れ着いた吐火羅国の人というのは、今で言うと、鹿児島県の奄美と屋久島の間の三島村・十島村あたりのトカラ諸島の人ちげーの?
筑紫に流れ着いた吐火羅国の人というのは、今で言うと、鹿児島県の奄美と屋久島の間の三島村・十島村あたりのトカラ諸島の人ちげーの?
6: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 21:38:28.13 0
>>5
吐火羅国は中央アジアのペルシャ系国家
吐火羅国は中央アジアのペルシャ系国家
7: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 21:50:05.85 0
政変があったとかで日本に支援を求めに来たんじゃなかったっけ
だがペルシャだとゾロアスター教かもしれないよね
酒船石とかあの辺は火を焚いてゾロアスター教の儀式で使ったとかいう説を読んだことある
だがペルシャだとゾロアスター教かもしれないよね
酒船石とかあの辺は火を焚いてゾロアスター教の儀式で使ったとかいう説を読んだことある
11: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 23:40:17.84 0
>>6
で、なんで、そこから筑紫に流れ着くの?
奄美のチョイこっち側から福岡ら辺に流れ着くならまだ分かりやすいんだが
で、なんで、そこから筑紫に流れ着くの?
奄美のチョイこっち側から福岡ら辺に流れ着くならまだ分かりやすいんだが
13: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 23:52:13.35 0
>>11
当時ペルシャの王朝交代でペルシャ人が離散してたからな
当時既に商売人としてペルシャ~日本はシルクロードで繋がってるからな
当時ペルシャの王朝交代でペルシャ人が離散してたからな
当時既に商売人としてペルシャ~日本はシルクロードで繋がってるからな
9: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 22:10:34.31 0
歴史的には、奈良時代にイスラム圏から玻璃器などの宝物が、シルクロードを通り、中国などを経由して日本にもたらされ、正倉院に保管されている。
また、元のクビライが日本に送った使節には、2人のムスリムがいたことが確認されている。
また、江戸時代にはオランダなどのヨーロッパからの情報として、イスラム圏に関する断片的な情報が日本にもたらされた[1]。
安土桃山時代には、中国やアラブからイスラム商人が訪日していたとも言われており、南蛮貿易などで東南アジアに渡った日本人商人の中には、イスラム教に改宗した者もいたとされる[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E7%A4%BE%E4%BC%9A
また、元のクビライが日本に送った使節には、2人のムスリムがいたことが確認されている。
また、江戸時代にはオランダなどのヨーロッパからの情報として、イスラム圏に関する断片的な情報が日本にもたらされた[1]。
安土桃山時代には、中国やアラブからイスラム商人が訪日していたとも言われており、南蛮貿易などで東南アジアに渡った日本人商人の中には、イスラム教に改宗した者もいたとされる[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E7%A4%BE%E4%BC%9A
10: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 22:36:10.44 0
イスラム世界と交流があったというのと布教がなされたというのは違うよね
>>1は漠然と布教が頭にあったんじゃないかと思うがどうなのか
>>1は漠然と布教が頭にあったんじゃないかと思うがどうなのか
14: 世界@名無史さん 2016/04/07(木) 23:54:40.13 0
だから、なんで、南西諸島の 吐噶喇諸島でなくて、ペルシャの吐火羅だと断定するん?
15: 世界@名無史さん 2016/04/08(金) 00:07:30.56 0
>>14
吐火羅は中国の史書でも日本の史書でもトハラのことを指してるからだよ
吐噶喇列島はトハラが奄美に難破したからそう名付けられたんだよ
筑紫に流れ着いたトカラ人は奄美から筑紫に行ったんだよ
吐火羅は中国の史書でも日本の史書でもトハラのことを指してるからだよ
吐噶喇列島はトハラが奄美に難破したからそう名付けられたんだよ
筑紫に流れ着いたトカラ人は奄美から筑紫に行ったんだよ
27: 世界@名無史さん 2016/04/11(月) 06:29:58.64 0
吐火羅国はイスラム教ではなくペルシャ系国家なのでゾロアスター教だろう
654年頃にアラブ軍の侵攻によってイスラム教が支配するところとなった
736年頃に日本に吐火羅人が渡来するが、これがイスラム教徒だったかは定かではない
渡来の要因がイスラム教アラブ人による侵攻によるものだとすると、イスラム教徒では無かった可能性の方が大きい
654年頃にアラブ軍の侵攻によってイスラム教が支配するところとなった
736年頃に日本に吐火羅人が渡来するが、これがイスラム教徒だったかは定かではない
渡来の要因がイスラム教アラブ人による侵攻によるものだとすると、イスラム教徒では無かった可能性の方が大きい
29: 世界@名無史さん 2016/04/11(月) 14:35:25.73 0
長安に援助を要請しに行った一派とは別の連中だろうな
亡命先を探しつつ、うまく行ったら援助も取り付けるみたいな
各方面にばーっと散ったと考えれば、日本を直接目指すグループがあったとしてもおかしくない
亡命先を探しつつ、うまく行ったら援助も取り付けるみたいな
各方面にばーっと散ったと考えれば、日本を直接目指すグループがあったとしてもおかしくない
33: 世界@名無史さん 2016/04/11(月) 17:46:25.41 0
イスラム教自体がそもそも商隊の信仰なので、日本に来てたとしても布教は行われていないだろうな
だから痕跡が見当たらない
だから痕跡が見当たらない
34: 世界@名無史さん 2016/04/11(月) 18:15:01.74 0
奈良時代にいきなり一神教伝えられても理解は難しかっただろうね。
イスラム教に限らず、古代日本は外来宗教をどのように扱ったんだろう。
仏教は受容したが道教は?古墳の星辰図や四神図は宗教と認識されていたのだろうか?
弥生式土器に方相氏の絵が描いてあった例もあったな。
イスラム教に限らず、古代日本は外来宗教をどのように扱ったんだろう。
仏教は受容したが道教は?古墳の星辰図や四神図は宗教と認識されていたのだろうか?
弥生式土器に方相氏の絵が描いてあった例もあったな。
37: 世界@名無史さん 2016/04/11(月) 20:01:50.59 0
>>34
ごっちゃまぜで「夷神」。
大阪に今宮戎神社ってあるだろ。対外積極策に出た聖徳太子の発願で建てた神社だ。
京の北に宮殿、南の東西に寺、という基本形で、難波京の聖徳太子の拡張で、東に四天王寺、西に夷社というわけだ。
或る種のカーゴカルト信仰で、蕃夷が海の向こうから珍品奇貨や新しい知識や技術という形で富を運んでくるということで、その信仰する神も運んでくる人もごっちゃにして信仰対象にしていた。
ごっちゃまぜで「夷神」。
大阪に今宮戎神社ってあるだろ。対外積極策に出た聖徳太子の発願で建てた神社だ。
京の北に宮殿、南の東西に寺、という基本形で、難波京の聖徳太子の拡張で、東に四天王寺、西に夷社というわけだ。
或る種のカーゴカルト信仰で、蕃夷が海の向こうから珍品奇貨や新しい知識や技術という形で富を運んでくるということで、その信仰する神も運んでくる人もごっちゃにして信仰対象にしていた。
38: 世界@名無史さん 2016/04/12(火) 12:23:50.33 0
蛭子さんの先祖はそういうエビス信仰にかかわってた人物だったのかな
あの人自体荒御魂として崇拝されそうw
あの人自体荒御魂として崇拝されそうw
39: 世界@名無史さん 2016/04/12(火) 14:51:34.60 0
荒魂をお祀するのは隣の廣田神社だよ
このお宮も小さいながら聖徳太子の勧進で建てた
このお宮も小さいながら聖徳太子の勧進で建てた
40: 世界@名無史さん 2016/04/13(水) 19:29:21.75 0
神道にも天御中主という一神教的な存在があって、これがヤハウェの事ではないかという日ユ同祖的な見方もある。
一神教の下地はあったが、日本の歴史は多神教を選んだって事だ
まぁ奈良時代に日本に伝来はしてたと思う。>イスラム
信者達の記録が残ってないだけじゃね
一神教の下地はあったが、日本の歴史は多神教を選んだって事だ
まぁ奈良時代に日本に伝来はしてたと思う。>イスラム
信者達の記録が残ってないだけじゃね
42: 世界@名無史さん 2016/04/21(木) 06:04:06.28 0
>>40
たいていの多神教や精霊信仰には最高神(ハイ・ゴッド)がいて、よく一神教の伝来の時にヤハウェの訳語に当てられたりするよ
日本だけが特殊なんじゃない
たいていの多神教や精霊信仰には最高神(ハイ・ゴッド)がいて、よく一神教の伝来の時にヤハウェの訳語に当てられたりするよ
日本だけが特殊なんじゃない
45: 世界@名無史さん 2016/04/21(木) 10:31:32.09 0
ヒジャーズの多神教社会では、最高神アッラーはそのままアッラーとして絶対神に移行したよな。
日本で大日如来が最高神から絶対神に移行する可能性はないが、天主閣の語源になったとされる天主が用いられたかもしれず、天皇の権威と直接衝突し、一神教 vs 神道・仏教(神仏習合時代の場合) の大戦争になったと思う。
日本で大日如来が最高神から絶対神に移行する可能性はないが、天主閣の語源になったとされる天主が用いられたかもしれず、天皇の権威と直接衝突し、一神教 vs 神道・仏教(神仏習合時代の場合) の大戦争になったと思う。
67: 世界@名無史さん 2016/04/22(金) 23:51:01.46 0
マムルーク朝崩壊後、インド洋の航路は西欧キリスト教圏に握られ、イスラム系の活動は抑止された。
68: 世界@名無史さん 2016/04/23(土) 00:22:03.20 0
時期的には合ってるけどさ、マムルーク朝滅亡とはあんまし関係ないだろ
滅ぼしたオスマンがすみやかに領土を吸収して役割ひきついでんだし
インド洋に関してはオスマンも参加してたディーウ沖海戦で勝ったのが大きい
地中海ではしばらくオスマンが攻勢かけたけど、インド洋では純粋に軍船の性能差がモノをいった
滅ぼしたオスマンがすみやかに領土を吸収して役割ひきついでんだし
インド洋に関してはオスマンも参加してたディーウ沖海戦で勝ったのが大きい
地中海ではしばらくオスマンが攻勢かけたけど、インド洋では純粋に軍船の性能差がモノをいった
69: 世界@名無史さん 2016/04/23(土) 00:38:22.36 0
インド洋におけるイスラムの商業活動はマムルーク朝崩壊後、キリスト教徒にとって代わられている。
オスマン朝は遊牧民を起源とする政権で海洋における商業活動は得意でなかったようだ。
示威的に艦隊を何度かインド洋を航行させているし、ジャワにも使節を派遣しているが、恒常的な制海権は西欧キリスト教に握られ、イスラム商人が北東アジアにまで活動を広げることなかった。
オスマン朝は遊牧民を起源とする政権で海洋における商業活動は得意でなかったようだ。
示威的に艦隊を何度かインド洋を航行させているし、ジャワにも使節を派遣しているが、恒常的な制海権は西欧キリスト教に握られ、イスラム商人が北東アジアにまで活動を広げることなかった。
73: 世界@名無史さん 2016/05/07(土) 13:53:24.24 0
>>69
そうでもないんじゃない?
16世紀にポルトガルに紅海・ペルシャ湾の入口を抑えられるけれど、イスラム勢力が盛り返してきて17世紀頭から19世紀前半くらいまで、オマーン・ザンジハルの勢力圏だったし、アチェがオランダの勢力を払拭しようとして、オマーンとオスマンに助力を求めたりしている
そうでもないんじゃない?
16世紀にポルトガルに紅海・ペルシャ湾の入口を抑えられるけれど、イスラム勢力が盛り返してきて17世紀頭から19世紀前半くらいまで、オマーン・ザンジハルの勢力圏だったし、アチェがオランダの勢力を払拭しようとして、オマーンとオスマンに助力を求めたりしている
70: 世界@名無史さん 2016/04/23(土) 00:48:16.44 0
マムルークが存続してたら状況違ってたということもないんじゃないの
単純に、人海戦術つかえない遠洋地域だとムスリムのガレー船・ダウ船では勝てないんだよ
そんで喜望峰周りのルートを確保されたら、中東を経由させる交易でボロ儲けもできないってだけ
単純に、人海戦術つかえない遠洋地域だとムスリムのガレー船・ダウ船では勝てないんだよ
そんで喜望峰周りのルートを確保されたら、中東を経由させる交易でボロ儲けもできないってだけ
71: 世界@名無史さん 2016/04/23(土) 18:44:32.18 0
オスマントルコが時々ジャワに使節を送るときだけは西欧の商船は大人しくなりを潜めた。
オスマントルコはマムルークほどインド洋における海洋交易に関心を持たなかったので、力の空白を埋める形で西欧キリスト教勢力が拡張した。
オスマントルコはマムルークほどインド洋における海洋交易に関心を持たなかったので、力の空白を埋める形で西欧キリスト教勢力が拡張した。
74: 世界@名無史さん 2016/05/09(月) 20:29:22.61 0
オスマンはインド洋に艦隊を派遣したりジャワにも使節を乗せた艦隊を派遣しているが、西欧の扶植した拠点を一掃するような軍事作戦には至らず、西欧はオスマン艦隊が航行しているときだけ大人しくして、オスマン艦隊が去った後は再び勢力の扶植を推進し徐々に支配を固めて行った。
オスマンやその他イスラム諸国が何とか西欧を一掃しようと思った時は既に手遅れだった。
オスマンやその他イスラム諸国が何とか西欧を一掃しようと思った時は既に手遅れだった。
77: 世界@名無史さん 2016/09/19(月) 23:01:25.50 0
>>74
オスマンの艦隊ってどんな船だったの?
オスマンの艦隊ってどんな船だったの?
80: 世界@名無史さん 2016/11/11(金) 17:25:15.50 0
78: 世界@名無史さん 2016/10/05(水) 09:33:42.80 0
奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20161004-OYT1T50163.html
2016年10月05日 06時00分
奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。
国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。
木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。
文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、今年8月、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。
表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。
(ここまで407文字 / 残り198文字)
2016年10月05日 06時00分
奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。
国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。
木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。
文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、今年8月、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。
表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。
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引用元: ・日本にイスラム教は伝来していたか