1:世界@名無史さん:2013/04/11(木) 20:32:23.59 ID:0
范蠡が囚人部隊に自殺させたやつかな
范蠡が囚人部隊に自殺させたやつかな
「名将から大商人」范蠡(はんれい)
http://zatuijinden.seesaa.net/article/335631956.html
7:世界@名無史さん:2013/05/09(木) 01:19:23.37 ID:O
韓信の背水の陣と
http://ja.wikipedia.org/wiki/井ケイの戦い
エパミノンダスの斜形陣
http://ja.wikipedia.org/wiki/斜線陣
基本にして奇策
ただ背水の陣は凡将には真似できないだろうな
40:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 04:55:54.06 ID:0
>>7
エパメイノンダスの斜線陣はたまたまそう見えただけでそういう戦術でなかったという解釈がある
考察サイト
http://crazyhis.web.fc2.com/aspar/leuktra.htm
42:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 06:30:51.00 ID:0
>>40
最強を誇ったスパルタを倒したのは新戦術ではなく政治工作って解釈か
面白いし説得力あるね
あとホモつええ
10:世界@名無史さん:2013/05/09(木) 18:30:08.68 ID:0
フリードリヒ大王の斜線陣こそ奇策
なお奇策すぎて失敗したこともあった模様
出現当初奇策だったのが第一次世界大戦の準備砲撃をほぼなしで突撃させる戦術
のちの浸透戦術の原型で、膠着していた塹壕戦に変化をもたらした
13:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 01:24:51.77 ID:0
世界史に燦然と輝く奇策
船の山越え
15:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 01:43:32.92 ID:0
無難なところでトロイの木馬
19:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 15:16:32.33 ID:0
定石を奇策が打ち破ったのは
カエサルとポンペイウスが戦ったファウサルスの戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファルサルスの戦い
23:世界@名無史さん:2013/05/11(土) 18:31:11.43 ID:0
ハンニバルの包囲殲滅凄いけど制海権取られてるの忘れてたのかな?
韓信も戦術家として名将だったが、やはり張良あって活きてた
>>19
ポンペイウスが勝負出なければ勝ってたけどなあ
20:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 17:22:35.45 ID:O
新戦術と奇策の区別が付いていない人がいるな。
21:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 22:20:12.24 ID:0
奇策だったのが後に汎用性もっちゃったのが新戦術
27:敢闘精神:2013/05/11(土) 21:32:55.24 ID:0
31:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 06:21:24.44 ID:0
>>27
将棋やチェスで王は使わないのである
まさに王将を囮にした奇策
28:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 00:57:45.27 ID:0
羽柴秀吉の中国大返し
秀吉が本能寺の変で光秀に討たれた信長の仇を取るため、
水攻め中の高松城にて急遽毛利軍と和睦し
岡山⇒大阪間150キロもの山陽道を僅か二昼夜で2万の軍勢を走らせ、
三日目に山崎の合戦で明智軍を打ち破った。(世に言う「光秀の三日天下」)
その後に秀吉がスピーディに実権を握ることになった発端の作戦。
29:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 06:10:51.36 ID:0
海を越える船で川も遡れるようにしたらものすごい機動力と行動範囲になるんじゃね?
↓
ヴァイキング奇襲無双
33:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 11:02:55.21 ID:0
キスカ島撤退作戦
36:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 15:25:25.13 ID:0
ここは天才奇術師ジャスパー・マスケリンのスレですね。
37:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 17:36:44.79 ID:0
トラファルガーの海戦
敵の集中砲火うけるところに突っ込んで分断した
日本海海戦のま逆
http://ja.wikipedia.org/wiki/トラファルガーの海戦
39:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 01:30:38.98 ID:0
ディオクレティアヌス時代の分割統治した皇帝の一人がゲルマンぶったおすために
2つの離れた川を繋ぐ大土木工事して船で奇襲攻撃したやつ
だれだったかな?コンスタンティヌスのパパだったような気がするんだが
41:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 06:24:08.83 ID:0
敵陣へ向かい、途中の川を渡ったところで食糧を三日分のこし他は焼き払い、船を沈め
退路はないから殺されるか敵をぶち殺して食料を奪って生き残るか、という状態にした項羽
48:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 23:48:29.14 ID:0
バイバルスのやった「敵の城で伝書鳩使ってるみたいだからこっちで用意した伝書鳩に偽の命令書を持たせてかく乱」
57:水 ◆TCygujgOWY :2013/05/15(水) 01:09:48.90 ID:0!
アレクサンドロス大王の病死したやつの死体を要塞だか城に投げ込んだやつ
まあ最高かどうか分からんが結構な奇策だよな
59:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 01:18:17.76 ID:0
>>57
それ攻城の基本じゃね?
61:水 ◆TCygujgOWY :2013/05/15(水) 01:42:21.37 ID:0!
>>59
この時代はもう普通にやられてた戦術だったのか。
アレクサンドロス大王が世界で初めてやったとか聞いたからすげーと思ったんだよな。
62:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 01:56:53.69 ID:0
相手の戦意をくじくために首とか手足を放り投げることはあったけど
疫病を狙ったのはアレクが初めてなのかな?
それ系統の策だけど、四面楚歌ってある意味すごい奇策だよな
63:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 01:58:27.68 ID:0
歌で敵を倒すとかいうアニメも真っ青の奇策
71:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 02:40:35.44 ID:0
>>63
1988年9月にエストニアで起きた歌声革命のこと?
それともこれかな?
923 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2006/10/27(金) 04:31:44 0
三国呉の武将の留賛は戦になると
みんなで歌いながら突撃した。
三国志「孫峻伝」によると、最初に留賛が歌い出し、次に左右の武将が唱和して
最期は部隊全員が歌いながら戦って負け知らずだったそうな。
ミンメイアタックは三国志発祥
73:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 19:21:56.27 ID:0
>>71
ミンメイアタックっていったら、フス戦争なんかもあるよね。
賛美歌うたいだしたら、圧倒的多数の敵がパニック状態になりながら
逃げていったというあれ。
64:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 03:48:11.43 ID:f0aJegCs0!
そういえば空城の計なんてのもあったね
これもかなりの奇策だと思う
67:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 07:54:25.96 ID:0
>>64
家康がマネしてる
66:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 07:52:04.80 ID:0
一番戦果が多かったのは
疫病にかかった患者が来てた毛布をわざとわたして
先住民を浄化したアメリカ入植者のみなさんがとった策でFA
数百万いたインディアンが5%くらいしか生き残れなかったとかw
ナチスも敬礼するレベル
68:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 10:42:27.72 ID:O
中国なら陳平の冒頓の嫁の買収も奇策だな。
嫁を買収して絶体絶命のピンチ脱出自体は孟嘗君とかあるけど、
戦場では世界史上陳平だけだろ。
遊牧民はオルドまで連れ歩いてるのな。
70:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 02:32:57.03 ID:0
攻城戦で猫を放り込んだのはいたがな
猫を神聖視していたとされるエジプト第22王朝を攻めたアケメネス朝のカンビュセス王
他にもこんな事をした
エジプト人が死守していたベルザの城を
ペルシャ王カンビセスの大群が久しく囲んで落とせないでいた。
智慧の深いカンビセスは、攻撃軍の先鋒に当たる兵士や士官の全部に楯を与える
代わりに猫を一匹ずつ持たせた。
この、世にも堂々たる進軍が起こされると同時に、城の輿論が決した。
エジプト人は猫を殺すくらいなら潔く城を明渡そうと云うのに一致したのだった。
(「猫のいる日々」大佛次郎氏著 より抜粋)
74:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 22:56:38.68 ID:0
その辺の例では、具体的に「歌」っていうのが凄いって話でいいのかな。
「音」ならイェニチェリ軍団も旗として用いていた鍋の音がすると
敵は恐怖で逃げ出したというが……
精鋭部隊の象徴とされるものが何かあって、
士気がそれほど高いわけでもない一般兵は
その象徴に遭遇したら逃げたがるのは割と普通っぽい。
ナチスドイツのスツーカサイレンとか、日本の戦国時代の赤備の赤い軍装とか。
昔、国語の教科書に載ってた「形」とかいう小説でもそのことについて言及してたな。
兵士が恐れているのはその人本人ではなく、強い武将として有名な赤い武者だとか。
75:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 07:33:05.33 ID:0
馬に木の枝をくくりつけて、大量の土煙がでるようにして、
兵士の数を実際よりも大幅にたくさんいるように見せかけた策
それで圧倒的に兵数不利なのにほぼ戦わずに城を落とすのをティムールとかがやってた
76:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 09:05:38.61 ID:0
城と周辺の米を買い占めてから兵糧攻めをした秀吉の鳥取城攻めは評価していいと思う
77:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 09:16:42.56 ID:0
大阪冬の陣が早くおわったのも
大阪で兵糧の買い占めがおこったからとか
78:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 12:52:22.36 ID:0
兵糧買占めもコロンブスの卵で
後から見れば実は経済的にも効率的で何でもないようにみえるけど
当時は誰も思いつかなかった戦術なんだよね
82:世界@名無史さん:2013/05/18(土) 08:40:09.68 ID:0
兵糧不足で死にかけてしかも敵が迫ってきてた状態で
米を砂山の上にぶちまけて、大量に兵糧があるように見せかけて、敵をしりぞかせた策
すさまじいリスクを払ってるのが最高
117:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 07:31:18.11 ID:0
第二次ウィーン包囲のソビエスキのフサリアによる縦深突破戦術
桶狭間とは桁が違う規模
見事と言うほかはない
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次ウィーン包囲
118:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 07:33:03.88 ID:0
あのフサリア戦術は紛れもなく世界の軍事史上最も見事な騎兵突撃
120:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 15:42:04.53 ID:0
オーストリアの没落っぷりは欧州一やでぇ…
121:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 16:28:37.00 ID:0
確かにな
ほんの100年前はロシア、イギリス、フランス、ドイツと並ぶ大国だったのにな
148:世界@名無史さん:2013/05/30(木) 23:58:44.95 ID:0
背水の陣は誤解してる奴多いけど
ただ寡兵が川を背に逃げられずに必死に戦ったから勝ったわけじゃないのよ
寡兵だから逃げられないようにして一時的に対抗してる間に
背後の城を別働隊に攻め落とさせてるのよ。
あれの凄いところはそこ。
150:世界@名無史さん:2013/05/31(金) 00:07:55.72 ID:0
>>148
それね
戦場で兵士たちは相手を殺すことよりも自分が死にたくない気持ちの方が遥かに強いんだよね
だからいざという時に逃げ道である背後の退路の方が気になる
その退路を断って味方を死ぬ気にさせて時間稼ぎをする間に
突如相手の退路を突いて動揺で一気に崩壊させるという
自軍敵軍兵士たちの心理をうまく利用した作戦だね
【閲覧注意】怖い家・ヤバイ建物
江戸時代の人はどうしてたんだよってこと上げてこうぜ
自衛隊の良い話
【閲覧注意】表に出ない、あなたの知ってる「ヤバイ」話『宇宙ヤバイ』
毎回死者を出し累計死亡者数239名の危険な公道サーキット。Isle of man
見てるこっちがハラハラするクレイジーな冒険野郎たち
韓信の背水の陣と
http://ja.wikipedia.org/wiki/井ケイの戦い
エパミノンダスの斜形陣
http://ja.wikipedia.org/wiki/斜線陣
基本にして奇策
ただ背水の陣は凡将には真似できないだろうな
40:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 04:55:54.06 ID:0
>>7
エパメイノンダスの斜線陣はたまたまそう見えただけでそういう戦術でなかったという解釈がある
考察サイト
http://crazyhis.web.fc2.com/aspar/leuktra.htm
42:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 06:30:51.00 ID:0
>>40
最強を誇ったスパルタを倒したのは新戦術ではなく政治工作って解釈か
面白いし説得力あるね
あとホモつええ
10:世界@名無史さん:2013/05/09(木) 18:30:08.68 ID:0
フリードリヒ大王の斜線陣こそ奇策
なお奇策すぎて失敗したこともあった模様
出現当初奇策だったのが第一次世界大戦の準備砲撃をほぼなしで突撃させる戦術
のちの浸透戦術の原型で、膠着していた塹壕戦に変化をもたらした
13:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 01:24:51.77 ID:0
世界史に燦然と輝く奇策
船の山越え
オスマン艦隊の山越え
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse498.html
15:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 01:43:32.92 ID:0
無難なところでトロイの木馬
ギリシア神話に登場する装置である。トロイの木馬とも言われる。トロイア戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となった。木でできており、中に人が隠れることができるようになっていた。 転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指して「トロイの木馬」と呼ぶことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/トロイアの木馬
19:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 15:16:32.33 ID:0
定石を奇策が打ち破ったのは
カエサルとポンペイウスが戦ったファウサルスの戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファルサルスの戦い
23:世界@名無史さん:2013/05/11(土) 18:31:11.43 ID:0
ハンニバルの包囲殲滅凄いけど制海権取られてるの忘れてたのかな?
韓信も戦術家として名将だったが、やはり張良あって活きてた
>>19
ポンペイウスが勝負出なければ勝ってたけどなあ
20:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 17:22:35.45 ID:O
新戦術と奇策の区別が付いていない人がいるな。
21:世界@名無史さん:2013/05/10(金) 22:20:12.24 ID:0
奇策だったのが後に汎用性もっちゃったのが新戦術
27:敢闘精神:2013/05/11(土) 21:32:55.24 ID:0
●昭和20年4月6日、戦艦大和の菊水特攻隊に呼応して海軍航空隊の大攻勢「菊水一號作戰」と
陸軍飛行隊による「第一次航空総攻撃」が実施され合計524機が出撃した。
よく『大和艦隊に航空護衛がなくて惨敗した』と訳知り顔で言う「識者」がいるが、
実は大和艦隊こそが米第5艦隊空母部隊と艦上機群を北方に引き寄せるための囮の役目を担っていたのである。
大和出撃に加えて特攻機の大群が押し寄せて来たのだから、さしもの米艦隊も防戦に目も回る程の忙しさであった。
米艦隊の護衛戦闘機群は何とか特攻機を撃墜しようと奮闘したものの、
約200機が沖縄海域に突入し、うち61機が米艦艇に命中または至近に墜落して大損害を与えた。
この戦闘で米海軍は駆逐艦2、掃海駆逐艦1、戦車揚陸艦2、そして地上軍のための給弾艦2を失い、
如何に物量を誇った米軍とはいえ、この損害により上陸後の戦闘に支障をきたすこととなった。
さらに空母ハンコック、護衛空母サンハーシント、戦艦メリーランド以下27隻もの艦艇が翌日までに損害を受けており、
日本軍による『最大の神風デー』に恐怖に包まれた米兵らは、
特攻機を『THE GREEN HORNETS』と呼んで震え上がったという。
そう、この名前こそが、あのブルース・リー出演のTVドラマ題名の由来である。
そして、米艦艇の乗員たちがあまりにも特攻隊の事を話題にするため、
ニミッツ太平洋艦隊司令長官は配下の将兵が特攻隊について語り合うのを半年間禁止した程であった。
戦艦「大和」艦隊を囮に使うとは、米軍も思いつかんかったな!!
31:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 06:21:24.44 ID:0
>>27
将棋やチェスで王は使わないのである
まさに王将を囮にした奇策
28:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 00:57:45.27 ID:0
羽柴秀吉の中国大返し
秀吉が本能寺の変で光秀に討たれた信長の仇を取るため、
水攻め中の高松城にて急遽毛利軍と和睦し
岡山⇒大阪間150キロもの山陽道を僅か二昼夜で2万の軍勢を走らせ、
三日目に山崎の合戦で明智軍を打ち破った。(世に言う「光秀の三日天下」)
その後に秀吉がスピーディに実権を握ることになった発端の作戦。
29:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 06:10:51.36 ID:0
海を越える船で川も遡れるようにしたらものすごい機動力と行動範囲になるんじゃね?
↓
ヴァイキング奇襲無双
33:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 11:02:55.21 ID:0
キスカ島撤退作戦
キスカ島撤退作戦
昭和18年7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にある
キスカ島からの守備隊撤収作戦のこと。
キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が
無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キスカ島撤退作戦
28 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :2001/05/11(金) 00:03
日本軍がキスカ島から撤退するとき、
無人のはずの島から万歳三唱が聞こえてきたんだって。
それを聞いた兵士たちは「死んだ戦友たちが見守ってくれているんだ」と泣いたとか。
実際の話、キスカから撤退するときは、タイミングよく濃霧になったりと幸運続きだった。
だから今でも、死んだ戦友が守ってくれたと信じてる生存者も少なくないとか。
何か切ないよ。
46 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :2001/05/11(金) 14:35
>>28
キスカ撤退のとき、実はすぐそこまでアメリカ艦隊が接近してたんだってね。
でも、アメリカ艦隊は、レーダーに反応した敵艦隊に砲撃するのに夢中で、
寸前のところで日本軍を逃してしまったとか。
けど、実際には、レーダーに写ってた日本軍の艦隊は存在しなかったんだって。
これはアメリカ軍の公式文書にも載ってる話なんで、信憑性は高いよ。
元軍人の人が「恐らくは北の海に特有の不思議な現象でしょう。
何もないのにレーダーが反応してしまうことって、よくあるんですよ」と語ってた。
そして「でも、自分としては、死んだ戦友が助けてくれたと信じてます」と目頭を熱くしてた。
この“死んだ戦友に助けられた”というパターンは、戦場怪談の定番だね。
死んだはずの戦友の声に励まされて、撃沈された輸送船から陸に流れ着くことができた。
味方陣地に戻ることができた・・・そーゆー話はよく聞くよ。
ありがちな話なんだけど、ジーンと来るね。
36:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 15:25:25.13 ID:0
ここは天才奇術師ジャスパー・マスケリンのスレですね。
自伝書『Magic: Top Secret』およびデビッド・フィッシャーの『The War Magician』によると軍におけるマスケリンの経歴は以下の通りである。
第二次世界大戦が始まるとマスケリンは自分の技術をカモフラージュに役立てられると考え、イギリス軍の工兵隊に参加した。彼はテームズ川で鏡と模型を使ってドイツ軍艦のイリュージョンを作ってみせ、当初は懐疑的だった士官を納得させた。彼は西アフリカ戦線に配置され、基本的には部隊の中で奇術を通じて慰安活動を行なっていた。
1941年1月、アーチボルド・ウェーヴェル大将は欺瞞と防諜を目的とした部隊「Aフォース」を設立した。ここに任命されたマスケリンは建築家、絵画修復技術者、大工、化学者、電気設計士、電気技師、画家、舞台技師など14名からなるグループを組織した。彼等はマジックギャングという通称で呼ばれた。
マジックギャングは数多くの手品を行なった。彼等は絵の描かれた布と合板を使ってジープを戦車のように見せかけ、キャタピラの痕跡まで偽装する一方、戦車をトラックに見せかけたりもした。彼等は軍隊や軍艦のイリュージョンも作ってみせた。
彼の最大の手品はアレクサンドリアやスエズ運河を隠蔽してドイツ軍の爆撃機の方向を誤らせるものである。彼はアレクサンドリアから3マイル離れた湾に夜明かり、建物、灯台、高射砲隊といったものの模型を作った。またスエズ運河を隠すために回転する円錐状の鏡を用いて、回転する光で幅9マイルに及ぶ光の輪を作った。
1942年、マスケリンは第二次エル・アラメイン会戦に先立つバートラム作戦に参加した。これはドイツ軍のロンメル将軍に連合軍が南から攻撃してくると思わせるためのもので、実際にはイギリス軍のモントゴメリー大将は北からの攻撃を計画していた。北には千台もの戦車がトラックに偽装されていた。南にはマジックギャングによって二千台の戦車の偽物が置かれていた。偽の線路、偽の無線会話、偽の建築音まで偽装された。偽の水用パイプラインも敷設され、攻撃が行なわれるのはずっと後であるように見せかけた。
この作戦ののちマジックギャングは解散し、ウィンストン・チャーチルはマスケリンの成果を褒め称えたが、マスケリン自身が望んだほどには評価されなかった。マスケリンは舞台奇術へ戻ったがさほど成功せず、ケニアに移住して自動車学校を設立した。
ガーディアン紙は2002年6月28日の記事で率直にコメントしている。「マスケリンの功績は公式には全く認められなかった。これは虚栄心の強い男にとっては耐え難いことであり、彼はみじめな酔っ払いとして死んだ。彼の経歴は胸躍るものだが、その最期はいくばくかの痛ましさを残している。」
ジャスパー・マスケリンは1973年に死んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャスパー・マスケリン
37:世界@名無史さん:2013/05/12(日) 17:36:44.79 ID:0
トラファルガーの海戦
敵の集中砲火うけるところに突っ込んで分断した
日本海海戦のま逆
http://ja.wikipedia.org/wiki/トラファルガーの海戦
39:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 01:30:38.98 ID:0
ディオクレティアヌス時代の分割統治した皇帝の一人がゲルマンぶったおすために
2つの離れた川を繋ぐ大土木工事して船で奇襲攻撃したやつ
だれだったかな?コンスタンティヌスのパパだったような気がするんだが
41:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 06:24:08.83 ID:0
敵陣へ向かい、途中の川を渡ったところで食糧を三日分のこし他は焼き払い、船を沈め
退路はないから殺されるか敵をぶち殺して食料を奪って生き残るか、という状態にした項羽
48:世界@名無史さん:2013/05/14(火) 23:48:29.14 ID:0
バイバルスのやった「敵の城で伝書鳩使ってるみたいだからこっちで用意した伝書鳩に偽の命令書を持たせてかく乱」
57:水 ◆TCygujgOWY :2013/05/15(水) 01:09:48.90 ID:0!
アレクサンドロス大王の病死したやつの死体を要塞だか城に投げ込んだやつ
まあ最高かどうか分からんが結構な奇策だよな
59:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 01:18:17.76 ID:0
>>57
それ攻城の基本じゃね?
中世ヨーロッパに孫子のような兵法はあったの?
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4057099.html
61:水 ◆TCygujgOWY :2013/05/15(水) 01:42:21.37 ID:0!
>>59
この時代はもう普通にやられてた戦術だったのか。
アレクサンドロス大王が世界で初めてやったとか聞いたからすげーと思ったんだよな。
62:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 01:56:53.69 ID:0
相手の戦意をくじくために首とか手足を放り投げることはあったけど
疫病を狙ったのはアレクが初めてなのかな?
それ系統の策だけど、四面楚歌ってある意味すごい奇策だよな
63:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 01:58:27.68 ID:0
歌で敵を倒すとかいうアニメも真っ青の奇策
71:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 02:40:35.44 ID:0
>>63
1988年9月にエストニアで起きた歌声革命のこと?
それともこれかな?
923 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2006/10/27(金) 04:31:44 0
三国呉の武将の留賛は戦になると
みんなで歌いながら突撃した。
三国志「孫峻伝」によると、最初に留賛が歌い出し、次に左右の武将が唱和して
最期は部隊全員が歌いながら戦って負け知らずだったそうな。
ミンメイアタックは三国志発祥
73:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 19:21:56.27 ID:0
>>71
ミンメイアタックっていったら、フス戦争なんかもあるよね。
賛美歌うたいだしたら、圧倒的多数の敵がパニック状態になりながら
逃げていったというあれ。
64:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 03:48:11.43 ID:f0aJegCs0!
そういえば空城の計なんてのもあったね
これもかなりの奇策だと思う
兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術。
野戦で敵に敗れた場合、既にして敵軍が圧倒的に優勢な状況であることが多い。その状態で城に逃げ込んでも結局最後には補給を断たれ、降伏することを余儀なくされるだろう。自軍が圧倒的に数が少ない場合、敵軍が攻城戦や包囲戦に移ることを防ぐためには、敵将に自軍の戦闘能力を錯覚させることが重要である。例えば敵軍に攻め寄せられた際に城門を開け放ち、自ら敵を引き入れようとすれば優秀で用心深い指揮官ほど逆に警戒するものである。
『三国志演義』では蜀の諸葛亮が野戦で魏に敗れた際に、蜀軍は魏軍と比べて圧倒的に兵力が少なかった。そこで諸葛亮は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の司馬懿は諸葛亮の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという。
正史では、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操軍を撤退させたのが初である。 敵の食糧を奪いに行った黄忠が帰陣の時間を過ぎても戻って来ないので、趙雲は残った少数の部下を率いて黄忠の応援に向かった。 ところが黄忠の軍が見つからないうちに突然、趙雲軍は曹操軍の大軍に遭遇したが、無謀にも馬を敵の大軍の中に突入させたところ、曹操軍は乱れて退却し始めた。 暴れ回っていた趙雲は、これを見ると馬の首を反転させるや、今度はまっしぐらに自分の陣に向かって退却した。 それを見ていた曹操軍は一斉に追い始め、趙雲の陣近くまで達すると、急に指揮官が馬上から手を上げて、全軍を静止した。 不気味にも趙雲の陣の門が開かれ、中がシーンと静まりかえっているからだ。 指揮官は「おそらく伏兵がいるに違いない」と考え、退却を命じた時、突然後方から石や矢が飛んできた。 やはり趙雲軍は陣の外に伏兵を配置しており、曹操軍は散々な目にあって逃げ去って行ったとされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/空城計
67:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 07:54:25.96 ID:0
>>64
家康がマネしてる
【孫子】お前ら、兵法は勉強してるよな?【六韜】
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4116839.html
日本の戦国時代、徳川家康がこの空城計を使ったことがある。
三方ヶ原の戦いで家康軍は武田信玄軍に大敗し、わずかな兵と共に浜松城に逃げ帰った。
山県昌景ら信玄軍は追撃したが、浜松城の門が開かれ、中で篝火が明々と焚かれているのを見ると、
指揮官が「待て」と曹操軍の指揮官と同じように全軍の突入を止めた。
武田軍の指揮官は信玄の教えによって、ほとんどが中国古来の孫子・六韜・三略などの
兵法を知り尽くしており、指揮官は「これは空城の計だ」と叫び、軍を引き揚げさせた。
家康は武田軍の知におぼれた考え過ぎによって、危機を脱したのである。
その直後、家康は反撃を開始し、武田軍を窮地に誘い込んで散々に損害を与えたという話しが残っているが、
これは家康方の流した嘘だといわれている。
その時の家康に反撃の余力などなく、もし武田軍が浜松城に突入したら、
家康をはじめ全将兵の命は無かったといわれている。
日本では伝来時期が不明だが、マスメディアなどでこの例が
空城計を引用したという例として報告されることがある。
このように、自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略を空城計と呼ぶ。
但し敵方に見破られた場合即座の全滅の危険性があり、際どい心理戦であることは言うまでもない。
66:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 07:52:04.80 ID:0
一番戦果が多かったのは
疫病にかかった患者が来てた毛布をわざとわたして
先住民を浄化したアメリカ入植者のみなさんがとった策でFA
数百万いたインディアンが5%くらいしか生き残れなかったとかw
ナチスも敬礼するレベル
68:世界@名無史さん:2013/05/15(水) 10:42:27.72 ID:O
中国なら陳平の冒頓の嫁の買収も奇策だな。
嫁を買収して絶体絶命のピンチ脱出自体は孟嘗君とかあるけど、
戦場では世界史上陳平だけだろ。
遊牧民はオルドまで連れ歩いてるのな。
70:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 02:32:57.03 ID:0
攻城戦で猫を放り込んだのはいたがな
猫を神聖視していたとされるエジプト第22王朝を攻めたアケメネス朝のカンビュセス王
他にもこんな事をした
エジプト人が死守していたベルザの城を
ペルシャ王カンビセスの大群が久しく囲んで落とせないでいた。
智慧の深いカンビセスは、攻撃軍の先鋒に当たる兵士や士官の全部に楯を与える
代わりに猫を一匹ずつ持たせた。
この、世にも堂々たる進軍が起こされると同時に、城の輿論が決した。
エジプト人は猫を殺すくらいなら潔く城を明渡そうと云うのに一致したのだった。
(「猫のいる日々」大佛次郎氏著 より抜粋)
74:世界@名無史さん:2013/05/16(木) 22:56:38.68 ID:0
その辺の例では、具体的に「歌」っていうのが凄いって話でいいのかな。
「音」ならイェニチェリ軍団も旗として用いていた鍋の音がすると
敵は恐怖で逃げ出したというが……
精鋭部隊の象徴とされるものが何かあって、
士気がそれほど高いわけでもない一般兵は
その象徴に遭遇したら逃げたがるのは割と普通っぽい。
ナチスドイツのスツーカサイレンとか、日本の戦国時代の赤備の赤い軍装とか。
昔、国語の教科書に載ってた「形」とかいう小説でもそのことについて言及してたな。
兵士が恐れているのはその人本人ではなく、強い武将として有名な赤い武者だとか。
75:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 07:33:05.33 ID:0
馬に木の枝をくくりつけて、大量の土煙がでるようにして、
兵士の数を実際よりも大幅にたくさんいるように見せかけた策
それで圧倒的に兵数不利なのにほぼ戦わずに城を落とすのをティムールとかがやってた
76:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 09:05:38.61 ID:0
城と周辺の米を買い占めてから兵糧攻めをした秀吉の鳥取城攻めは評価していいと思う
37 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 15:04:28.48 ID:82ZHXF2/P
1580年(天正8年)に織田方秀吉の第一次鳥取城攻めで
3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担)の末、
和議により降伏し9月豊国が織田信長に臣従した。
が、同月毛利の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。
牛尾は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い死亡したとも帰還したとも伝えられる。
(近年の研究では重傷を負ったものの、その後も生存していたことが明らかになっている)
何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏重臣吉川経家を城主に迎える。
4月、因幡守護山名豊国は織田へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に
斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の
攻略を担当していた羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。
陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。
このとき、城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦によりまたたくまに兵糧は尽き飢餓に陥った。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、
4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れた。
信長公記にはこう記されている。
「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、
叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」
吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城、自害した。
41 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 15:07:52.51 ID:82ZHXF2/P
1580年7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。
三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、
鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。
9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。
冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。
しかし、現実は甘くなかった。
これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。
秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、
兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。
しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する
援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、
これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。
そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。
鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから
愚の骨頂としか言いようが無い。
だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。
さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、
盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。
人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。
それにしても秀吉恐るべしである。
そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。
飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、
虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。
吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。
秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の
重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。
10月25日 - 吉川経家が切腹。
最後は子供達に手紙を書き残している。
「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。
これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
吉川経家の他に森下道与、奈佐日本助の二将が切腹している。
61 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:03:35.09 ID:82ZHXF2/P
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、
吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。
しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。
困惑した秀吉は信長に「経家が自害してもよいか」との確認をとり、
信長はそれに対し、経家の自害を許可している。
10月25日に経家は自害し、その一生を終えた。
その際に父や子供らに遺書を送っており、自分の心情を記している。その遺言状は現存している。
余談
落語家で『笑点』の4代目司会としても知られる三遊亭圓楽(本名吉河寛海)は、
吉川経家の3男、吉川家好(いえよし)の子孫であるという。
家好は後に鳥取藩池田家の家臣となり、明治時代に至り、
圓楽の祖父吉川寛雅が「吉川」から「吉河」に姓を改めたと言う。
62 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:06:32.96 ID:82ZHXF2/P
天正9(1581)年10月、羽柴秀吉が、鳥取城を包囲して3ヶ月余りがすぎていましたが、
鳥取城に籠城している吉川経家以下城兵や領民らは悲惨な状況に陥っていました。
城兵らは数日おきに鐘を合図に一斉に城外の柵際まで雑草などを取っては
城内に引き返すといった方法で何とか飢えをしのいでいましたが、
雑草も取り尽くして牛馬を食べなくてはいけない状況になっていました。
しかし、これも食べ尽くすと寒さも加わり飢え死にするものが増えていきました。
籠城する者たちは、飢えの苦しさのあまり城外の柵際まで出てきて、城を包囲する羽柴軍に助けを求めます。
しかし、羽柴軍は容赦なくこれを鉄砲などで撃ち殺します。
この死人や重傷者に城兵が群がりその肉を奪い合うという惨劇が繰り広げられます。
この状況に城将・吉川経家は、降伏を決断。
秀吉に自分と森下道与(道誉)・奈佐日本介(中村春続?)の三人の首を差し出すので
城兵の命を助けて欲しいと嘆願してきます。
秀吉は早速、信長に状況を報告。信長もこの申し出を承諾します。
10月24日、秀吉からの返事を得た経家ら三人はすぐに切腹し、その首は秀吉のもとへ届けられます。
こうして鳥取城は落城しますが、悲劇はこのままでは終わりませんでした。
25日、羽柴軍の兵は、開放された飢えた城兵を哀れみ食事を与えましたが、
城兵らは大喜びし一気に大量に食べてしまいます。
しかし、極限まで飢えた状態で一気に食事することは危険なことで、
せっかく助かった城兵の過半数が頓死してしまいます。
後の世に『鳥取城渇え殺し』と呼ばれることになった、凄惨な籠城戦はこうして幕を閉じます。
この鳥取城には、城代として宮部継潤が入城します。
63 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:10:04.54 ID:82ZHXF2/P
吉川経家の切腹を知った一族の吉川元春は、「前代未聞」「当世の流行」と経家の死を揶揄したそうです。
当時は城を明け渡せば城主の命も保証される慣例だった上、
経家は派遣された城将だったので切腹する必要はなかったようですが、
元春は経家を見殺しにしてしまった無念と織田軍への憎しみが逆に
「前代未聞」「当世の流行」という言葉を使わせたのかもしれません。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/news/1285306744/
77:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 09:16:42.56 ID:0
大阪冬の陣が早くおわったのも
大阪で兵糧の買い占めがおこったからとか
78:世界@名無史さん:2013/05/17(金) 12:52:22.36 ID:0
兵糧買占めもコロンブスの卵で
後から見れば実は経済的にも効率的で何でもないようにみえるけど
当時は誰も思いつかなかった戦術なんだよね
82:世界@名無史さん:2013/05/18(土) 08:40:09.68 ID:0
兵糧不足で死にかけてしかも敵が迫ってきてた状態で
米を砂山の上にぶちまけて、大量に兵糧があるように見せかけて、敵をしりぞかせた策
すさまじいリスクを払ってるのが最高
117:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 07:31:18.11 ID:0
第二次ウィーン包囲のソビエスキのフサリアによる縦深突破戦術
桶狭間とは桁が違う規模
見事と言うほかはない
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次ウィーン包囲
118:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 07:33:03.88 ID:0
あのフサリア戦術は紛れもなく世界の軍事史上最も見事な騎兵突撃
120:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 15:42:04.53 ID:0
オーストリアの没落っぷりは欧州一やでぇ…
121:世界@名無史さん:2013/05/26(日) 16:28:37.00 ID:0
確かにな
ほんの100年前はロシア、イギリス、フランス、ドイツと並ぶ大国だったのにな
148:世界@名無史さん:2013/05/30(木) 23:58:44.95 ID:0
背水の陣は誤解してる奴多いけど
ただ寡兵が川を背に逃げられずに必死に戦ったから勝ったわけじゃないのよ
寡兵だから逃げられないようにして一時的に対抗してる間に
背後の城を別働隊に攻め落とさせてるのよ。
あれの凄いところはそこ。
150:世界@名無史さん:2013/05/31(金) 00:07:55.72 ID:0
>>148
それね
戦場で兵士たちは相手を殺すことよりも自分が死にたくない気持ちの方が遥かに強いんだよね
だからいざという時に逃げ道である背後の退路の方が気になる
その退路を断って味方を死ぬ気にさせて時間稼ぎをする間に
突如相手の退路を突いて動揺で一気に崩壊させるという
自軍敵軍兵士たちの心理をうまく利用した作戦だね
転載元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1365679943/
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