夏天故事

日々感じること、考えることを書き連ねていきます。

1年後の震災レポート 2

2012-03-19 17:17:40 | é›‘感・その他
大槌町にはいってガソリンを入れた。店舗もない野ざらしのスタンドだった。少し値段が高いな、と思いつつもふと見たら、大槌町役場の目の前だった。時間が気になって役場をみたら時計がある。4時15分を指していた。「おや?」と思いつつも写真を撮りながら歩いていると別の建物では3時ちょっと前を指している。釜石に入ったのが11時ちょっとすぎたくらいだったから3時や4時というのはあり得ないのだが、天候のせいもあって妙に説得力があった。
旧大槌町役場の前を通り墓地がある小高い丘の上にいったとき、ひょっこりひょうたん島のテーマが流れてきた。そこで、今が12時であることに気がつき、愕然とした。あの時計は、単純に止まっていたわけではない。大槌町の時間が止まっていたのだ。
そしてひょっこりひょうたん島のテーマは「シャレにならない」と感じた。小さな島は津波に弱いだろう、という先入観があったからだ。しかしあとになって歌詞をよくよく考えたとき、その考えが間違っていたことに気付いた。
……………………………………
ひょっこりひょうたん島  井上ひさしほか作詞 宇野誠一郎作曲

波を ちゃぷちゃぷ ちゃぷちゃぷ かきわけて
(ちゃぷ ちゃぷ ちゃぷ)
雲を すいすい すいすい 追い抜いて
(すい すい すい)
ひょうたん島は どこへ行く ぼくらを乗せて どこへ行く
ウーー ウーー
丸い地球の 水平線に 何かがきっと 待っている
苦しいことも あるだろさ 悲しいことも あるだろさ
だけど ぼくらは くじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう
進め
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
……………………………………

この歌は、苦しいことや悲しいことが起こることは否定していない。
ただ、それに対してくじけないぞ、泣くのはいやだから笑ってしまおうという歌詞だ。
とまっている時間を動かそうという決意のあらわれなんだ、と思った。
地震後、「頑張ろう」「負けないぞ」という言葉が盛んに言われた。
けれど大槌町の人たちが選んだ、時を告げる歌にはいっているのは、「頑張ろう」なんて言葉じゃない。「負けない」なんて言葉じゃない。
頑張るとは「頑なに張る」と書く。頑なに張り続けたら最終的には破れてしまう。破れたあとはどうすればよいのだろう? それに対して「笑い」はゆるみから来る。「頑張り」とは根源的に対照的な言葉だ。
「負けない」とは勝負の対象があって初めて成り立つ言葉だ。そして勝負事には必ず「終わり」がある。「終わり」のない勝負など、勝負していないに等しい。「負けないぞ○○」というステッカーを張った車を何台も見たが、「終わり」にたどりついたその先はどうするのだ? そもそも何をして勝ったと言えるというのだ? そしてもし「負けてしまった」らどうするのだ? このように「勝ち」「負け」などの言葉を使うと非常に気持ちを縛ってしまう。「くじけない」という言葉はそんな終わりのある言葉ではないし、対象があるわけでもない。ただただ、苦しみや悲しみが来てつまずいても、また立ちあがれるんだということである。
なんとステキな選曲だろう!!

ただ、ひとつ。
今はまだ、つまずいていてもいいんじゃないか。無理して笑わなくてもいいんじゃないか。大声で泣いてもいいんじゃないか、と思った。
皆がみんな、同じ時期に立ちあがれるとは限らない。もう泣くのはいやだと思えば笑えばいいし、まだ立ち上がれない人は泣いていてもいいと思う。
津波被害にあった地域はそれだけ、まだまだ時間の進みが遅いということだ。(「復興」という言葉も嫌いなのでこう言う表現になる。)

車を進めながら、「支援ありがとうございました」という看板をよく見かけた。
この看板にオレはがっかりした。
日本では「厚意を受けたら感謝の言葉を述べる」ことが過剰になりすぎていると思ったからだ。
この目で見た限り、どのパターンの「被災地」も支援を受けて「当然」のダメージを負っている。彼らだけで「復興」などとうていできない話だ。
だから、そこは持ちつ持たれつであって、次にどこかで災害があり、かつその時に自分たちに余裕がある場合に、支援をすればいいことである。「ありがとう」という言葉がなければ、支援ができないというのであれば、それは見返りを求めるものでどこかギスギスしたものになってしまう。
「被災地」は「ありがとう」を言わなくていい。堂々と支援を受けてほしい。
そもそもまだ「ありがとうございました」と言えるほど「復興」してないじゃないか。

それぞれの「被災地」には、時間を進めようという動きがある一方、まだまだ、立ち上がれない人も多い。そういった人たちに「もう泣くな」とか「支援ありがとうございました」という言葉は切り捨てに近いものがあると思う。
被害を受けた方々に、ゆっくり、時間をかけて
「だけど僕らは くじけない」
と思うことができるような環境を整えていくことが必要だと思った。
(続く)

1年後の震災レポート1

2012-03-14 22:27:41 | é›‘感・その他
テレビでは「被災地」という言葉一つで表現される東北地方太平洋沿岸部であるが…
オレは盛岡から遠野を経て釜石に入った。
はじめ、テレビなどでよく流れる風景がでてこなかったため、「あれっ?」と思っていた。
しかし、海に近付き、トンネルをくぐったあたりから、様相が一変した。
鵜住居地区にはいった時には釜石の内陸部との違いに愕然とした。
単純に標高差が明暗を分けたと言ってもいい。
宮古市や気仙沼市、石巻市も同様である。
これらの自治体は人口も多く街も大きいので全壊にならなくて済んだ。
いろいろな問題はあるだろうが、自治体としての形は保つことができた。
大槌町や南三陸町はそうはいかなかった。
全壊に近い被害だった。
特にオレは大槌町に大きなショックを受けた。
釜石市の鵜住居地区でもショックを受けたが、それ以前に通ってきた繁華街は、ぱっと見た限りでは津波の被害が見えなかったこともあって、釜石市の一部が被害を受けた(とは言っても悲惨な状況だったことは大槌町も鵜住居地区も同じである)という印象だった。
しかし大槌町は町全部が被害を受けた、まさに「壊滅」状態だったのだということがよくわかった。
宮古市や気仙沼市、石巻市はどちらかというと釜石市のパターン、南三陸町は大槌町のパターンだったと感じた。
マスコミは「被災地の○○(←自治体名)」と一言で言ってしまうため、すべての「被災地」が大槌町のように「全壊」状態のように感じてしまっていた。
このような情報の誤解があったことを再確認したとき、釜石市パターンの「被災地」の瓦礫の撤去状況と、大槌町パターンの「被災地」の瓦礫の撤去状況に差があることが気になった。
釜石市パターンのほうではある程度瓦礫が取り除かれ津波の被害を受けた地区にも営業しているお店などが見えたり、人の流れが見えたのに対し、大槌町パターンの「被災地」では、釜石市パターンのような動きが見えないのである。処理できていない瓦礫や道路の劣悪さは釜石市パターンにはあまり目立たなかった(なかったというわけではない)。
語弊を恐れずに言えば、釜石市パターンの「被災地」息を吹き返し始めているのに対し、大槌町パターンの「被災地」は未だに「死んだまま」なのである。
もちろん、釜石市パターンの「被災地」にもまだまだひどい状況のままの地区がたくさん残っていることも確かだし、大槌町パターンの「被災地」の方々も他の「被災地」同様に生き返ろうと必死に踏ん張っているのも確かだが、オレがそれぞれの「被災地」に対して差を感じたことも事実だ。
この差を生んだのには様々な要因がある。
例えば、津波が来て大槌町の意思決定にかかわる人々が軒並み犠牲になられたこともその一つだろう。
だが、津波の被害にあって1年もたつのにこのように「被災地」に差がでてきてしまう、というのは日本国が国としての責任を果たしてこなかった一つの証だと思う。
それぞれの「被災地」に差ができたなら、その差を上方にあわせて埋めるべく調整していくのが国の役割ではないのか。その調整を全くせずに一年を過ごした、ということだろう。
「被災地」の方々やボランティアの方々の力だけではこの差は埋まらない。国の働きがなんだかんだ言って必要なのである。
ところが、小泉首相以来の日本の政治は「グローバル化」を言い訳にした「新自由主義」を標榜してきた。アメリカでも「カトリーナ」の時、富める者と貧しい者で差が出たと聞いているが、今の「被災地」では自治体レベルでそれが起こっているのだ。
国の責任を全うせず、強きを扶け弱きを挫くのがまさに「新自由主義」なのだ、と「被災地」間にできた差をみて実感した。
蛇足だが、自民党も民主党も、橋下大阪市長サマも、「新自由主義」を手放そうとしない。なぜならば彼ら自身も「強き」者だからである。
彼らがどんな言葉を使って被災した方々の気を引こうとしても、「新自由主義」を捨てない限りは、彼らが「被災者」の味方であることはできない。
(続く)

釜石~宮古、気仙沼~石巻

2012-03-13 15:55:25 | é›‘感・その他
365日目と366日目にあわせて釜石~宮古と気仙沼~石巻に行ってきた。
とりあえずは、そこで撮った写真を見ていただこう。
地震のあった日から一年目の風景である。
釜石市鵜住居


大槌町












気仙沼市




南三陸町








石巻市


感じたこと、考えたことは別の記事で記す。