夏天故事

日々感じること、考えることを書き連ねていきます。

暴力に暴力で応えたらそれは立場が同じこと

2011-05-02 17:16:22 | Weblog
確かにアメリカは9月11日に大変な状況を負わされた。
しかし、アメリカはそのことに暴力で応えてしまった。
そして今日、ラディン氏を殺した。
そのことについて喜んでいるアメリカ市民の姿をテレビは映している。
報復テロがあるかもしれない、と不安がる人もいるが、
その通り、その不安はアメリカもラディン氏らと同じ立場に降りてしまっていることを端的に示している。
どちらが先、という問題があるにせよ、ラディン氏側にしたらアメリカがテロに映っているだろう。
暴力に対して暴力で応えるのは根本的な問題の解決にはならないのでは?と思ってしまう。

…というか、テレビは2001年9月11日の事件を非常に大きく取り上げているが、
その30年前の9月11日アメリカがチリでしたことはテロではないのだろうか。
そして、仮にそのことを理由にアメリカがチリから攻撃されたら、
今回喜んでいるアメリカ市民は同じように『喜ぶ』のだろうか。

ご当地ファーストフード??

2011-04-26 21:18:34 | Weblog
沖縄のご当地ファーストフードはJEF。
ぬーやるバーガーやらごーやーリングやら。
厳密にはご当地ではないかもしれないけれどA&W(エンダ)もある。
でもこの店は多分アメリカ本国にもあると思うんだ。
エンダのルートビアはおススメ。カーリーフライもスパイシー&不思議な形で良い。

山形のご当地ファーストフードはサフラー。
その昔は上山や七日町にも支店があった。
シェイクの種類の多さとポテトが人気だった。
本店では今もそれを買いに来る客が多い。
個人的にはチリヒレカツバーガーが大好きだったけど、
もう販売は止めたようだ。
サフラーのハンバーガでの新しいお気に入りを探さんと。
ってわけで、サフラーにはいつまでも頑張ってもらいたいなぁ…

ソテジ…

2011-04-22 17:48:02 | Weblog
ソテジとイジアが結婚・離婚していたことが分かり、韓国芸能界は結構な騒ぎになっているらしい。
オレはソテジのハヨガとか、教室イディア、子どもの瞳でなんて歌を聞きながら韓国語を勉強していたから、ちょっと心配だったりする。
…というか、ソテジ結婚してたんだ…
結婚しないものと思ってた…
なんだかなぁ…

ソテジ Human Dram
http://www.youtube.com/watch?v=brVfHQjorT8
ソテジ Ultramania
http://www.youtube.com/watch?v=BykZNO5GCfA&feature=related
ソテジ Take 5
http://www.youtube.com/watch?v=OA1_kESrPr8

ソテジ ワ アイドゥル(서태지와 아이들)  Come Back Home
http://www.youtube.com/watch?v=J6-AJgGPrgU&feature=related
서태지와 아이들 渤海を夢見て(발해를 꿈꾸며)
http://www.youtube.com/watch?v=0Uf0xLbhyU4
서태지와 아이들 하여가
http://www.youtube.com/watch?v=E47kCewaPdI&feature=related

民主主義

2011-04-19 15:39:00 | Weblog
多数決は民主的な決定方法ではない。
多数決で少数派を切り捨てるのは、形を変えた独裁だ。

意見を述べることは意見を押し付けることではない。
意見を表明したことに対して、意見を押し付けている、というのは
「おまえはしゃべるな」ということを形を変えて言っているに過ぎない。

このことをよくわかっていない主権者が日本社会には多すぎるように思う。

春は…

2011-04-15 14:28:56 | Weblog

梅が良い。
紅梅白梅問わず、押しつけがましくないのがいい。
一般的に桜が人気だけれど、昼に見る桜は賑々し過ぎて興ざめする。
なんだか押しつけがましいのだ。
桜を見るなら、夜桜がいい。
節電ってことで、今年は雪洞や灯篭の電気を消しているところが多いらしいが、
そもそもそんな明るさはいらない。
月の光に照らされた桜のいかに幻想的なことか!!
それをわざわざ、人工的な明かりで消してしまうなんて、もったいないことこの上ない。
桃は山形にあまりないのでよくわからない。

福島の三春という地名は、梅、桃、桜がいっぺんに咲くことからついたそうだ。
原発問題は、まるで夜桜の幻想的な景観を人工的な明かりで消してしまう行為そのもののように思えてならない。

"がんばろう日本""がんばろう東北"の呼びかけがウソな理由

2011-04-13 14:23:23 | Weblog
3月11日の地震以降、いたるところで"がんばろう日本""がんばろう東北"という呼びかけが聞かれるようになった。
オレはこの呼びかけがウソくさくて仕方なかった。

"がんばろう東北"というクセに東北には無関心であること。

東北はすごく広く、歴史的にも文化的にも言語的にもひとくくりにできない。
その広さは、6万3983平方キロメートル(『東北-つくられた異境』 河西英通 2001年 中央公論社 )で、中国・四国地方に福岡、佐賀、長崎をあわせた6万1962平方キロメートルよりも広い。
日本の国土面積38万平方キロメートルの約17%を占めるのだ。
そしてその広大な土地で様々な人々が、ヤマトの政権と微妙な距離を保ちつつ独自の文化を育んでいった。

東北の中で県単位、市町村単位でどれだけ互いにライバル視しているか。
ずんだは仙台が全国的に有名になってしまったけれども、そのことを山形人は苦々しく思っている。
山形内陸地方の芋煮は醤油味だが、同県内の庄内地方(+宮城)では味噌味で、互いに譲らない。

けれど、東北以外の人々は、東北をひとくくりにする。
結局東北に無関心だからひとくくりにできるのだ。

東北以外の人々にとって、東北の方言は"東北弁"であり"ずーずー弁"だし、
東北の歴史は常に受動的で、京都・東京の政権に従であった、というイメージしかないだろう。
そのようなイメージの中では、東北のどこであっても同じような風景に映るだろう。
また都会の人々は東北の自然に触れて、ある種の憧れを抱くかもしれない。
しかしこの憧れは、東北を近代化の遅れた地域とみなす意識と、表裏一体をなす危険性がある。
田園風景を見て素晴らしいなと感じても、自分では絶対に農業をしようという発想にならないのだ。
ある意味で"日本的なオリエンタリズム"といえるだろうか。

今回福島の原発問題に際して、どれだけの人が東北の歴史に思いをはせただろうか。
なぜ東京の電力を供給する原発が福島にあるのか、そのことを歴史的に考えた見解はあっただろうか。
歴史的に見れば、沖縄の米軍基地同様の構造があるのだが、そのことに言及している"評論家"たちをいまだ見たことがない。

ある番組で毎週某漫画家が歴史をすかして現代を考察する、というコーナーをやっている。
今週は米沢藩の上杉鷹山だった。
上杉鷹山を解説するにあたって、コーナー中ずっとテロップなどで"東北を救った"などと書いてあった。
あのテレビ番組の制作陣は、米沢が東北すべてを代表できると考えているのだろうか。
そう考えているのなら、東北全体に対して失礼だし、
そこまで考えが至らな(知らな)かったとしても、
ようは東北に対して無関心だということがはっきりしている。

本当に"がんばろう東北"という気持ちがあるのなら、
テレビ局などもヤマトに"従"な東北の歴史ではなく、
ヤマトと戦った"アテルイ"や、渤海や金と独自に交易していた東北の人々を焦点に当てたらいいのにと思う。
歴史を主体的に生きてきた東北の人々をもっとクローズアップできないクセに
"がんばろう東北"などといったところで、ウソくささしか感じられない。

そして同じ日本の東北に、これほど斯様に無関心な人々が"がんばろう日本"といったところで
所詮かっこいいこと言いたいだけなんじゃないのと思う。
その"日本"の中にどのような東北象があるのか、東北以外の人々に尋ねてみたいものだ。

まぁ、東京都知事選で東京都民が石原を選択したことで、所詮東京の人々の東北地方観はその程度のものだよくわかった。

それは「ホントウ」なの

2011-02-06 17:45:42 | Weblog
吉川英治氏の『三国志』はあくまでも小説であって翻訳ではない。
同様に、安能務氏の『封神演義』は翻訳ではない。
あれは、原典を基に安能氏がアレンジしたもので、良くいえば意訳、翻案であり、はっきり言って安能氏の私的な小説である。
吉川氏と決定的に違うのは、小説であることがはっきりしているかどうかである。
この点で『封神演義』の文庫本には「訳」と書いてあるのでたちが悪い。
駒田信二氏による『水滸伝』などの、信頼できる翻訳であれば、
註釈や、どのように訳したかがわかるような断り書きが必ずある。
エンターテイメントだけでなく、中国の古典としての学問的な意味合いもあって、
そのような断り書きや註釈を載せているのだ。
しかし、安能氏の『封神演義』にはそれがない。
そのことも含めて安能氏の『封神演義』を批判しているサイトをちらっと見たら、
『封神演義』が大好きな人たちからの反論に、以下のようなものがあった。
 
  原典がどうであれ、面白いからいいじゃないか。

ここでの問題は、『封神演義』が中国でどういう位置づけであるのか、
安能氏の『封神演義』は、その位置づけを尊重しているのか、ということである。
少なくとも、初めの文章を読むと、尊重しているとは思えないような内容が書いてある。
(中国三大奇書の下りや、孔子は呂尚を否定した文化マフィアだ、などの下り)

面白ければいいという発想に対して疑問に思うのは、
『封神演義』が中国でどういう位置づけであるのか、
安能氏の『封神演義』は、その位置づけを尊重しているのか、という点を軽視しておきながら、
本当に『封神演義』が好きだ、と言えるのかということである。
彼らは安能氏の小説『封神演義』が好きなのであって、『封神演義』が好きなわけではないのだろう。

似たようなことは歴史にも言える。
日本の歴史修正主義者たちは明治以降の近代史に対して「司馬史観」という言葉を使う。
自分たちの歴史の見方が「司馬遼太郎の歴史の見かた」を基本にしている、ということだろう。
けれど、ちょっと待ってほしい。
司馬遼太郎氏はあくまで小説家であって歴史家ではないのだ。
彼の文章には脚注は必要ないのだ。
小説には学問的な正しさはあまり必要がないからだ。
しかし歴史家の文章には脚注が必要になってくる。
それは学問的な正しさに忠実であろうとすればするほど必要なものなのだ。
だから、歴史学の関係者たちのうちで「司馬史観」を支持する人はいないだろう。
そして「司馬史観」を支持する人たちは学問的な正しさに興味がなく、
ただただ、司馬遼太郎氏の頭の中の近代史にのみ興味があるのだ。
だからこそ、韓国併合の際の日進会の勢力を過大評価して、義兵闘争を無視したり、
アイヌや東北、沖縄、朝鮮、台湾の視点が抜け落ちても平気でいられるのだ。
「日本人」と誰かが言ったとき、「司馬史観」は座りがいい。
けれどそれは学問に裏打ちされたわけではないため、誰かの勝手な妄想にすぎないことに注意すべきだ。

「司馬史観」は歴史学ではない。だのにその考え方が一定の影響力を持っているのは
日本社会が
「面白いからいいじゃないか」のような「簡単さ、わかりやすさ」に弱いってことなのかもしれない。

そろそろ「反日」なんて言葉やめっべず

2010-10-22 00:01:08 | Weblog
「反日」なんて言った途端、自分を高みにおいて相手を見下しているんだってことに、なんで気が付けないのだろう。
80年代アメリカで日本車がかなりたたかれたことがあったけれど、その時に「反日」なんて言ったか?
例えば原爆や米軍基地の問題について、アメリカに対して抗議のデモをするときに「反米」デモなんていうか?
韓国・中国の人々が日本に対して頭にきてるときというのは、大抵歴史認識について日本側からおかしなことを言い出したりしたときだ。
今回の尖閣諸島に関しても、オレ自身は、尖閣諸島の領有については日本のほうが中国よりも有利だと思っているけれど、日本と中国が、国民感情を刺激しやすい領土問題について、じっくり交渉できる相手同士になっていないのは、結局「大日本帝国」の行為を、きちんと清算できていない日本という問題が根底にあるからじゃないのか?
ましてや、「大日本帝国」の行為をなかったことにしようとしている人たちが元気な日本の状況をみれば、領土問題に関して純粋な交渉が望めるとは、中国はもちろん、アジアの多くの国が思っていないことは簡単に予想がつくことじゃないか。
領土的野心があるから尖閣諸島を欲しがっているのだとしか受け取られない。日本のマスコミが中国側の思惑に対して邪推するのとなんら変わらないのだ。

さらに言えば、日本のマスコミがよく言う、「反日」教育を受けた人々が「愛国心」でもって、「反日」デモをやるんだ、というのは本当にひどい言い方だ。
「大日本帝国」によって被害を受けた人々が、受けた被害について学ぶことが「反日」なのか?
沖縄戦を教えれば、または、原爆を教えれば「反米」教育になるのか?
このこと一つをとっても「反日」という言葉が、非常にいい加減で、いかに相手を見下している言い方なのかがわかりそうなものだ。
しかし、多くの日本人はこの言葉を簡単に使ってしまう。平気で使う。
さらに一部の人は「だから中国(韓国)はオカシイんだ」「だから韓国(中国)が嫌いなんだ」と続ける。
結局、「反日」云々と口にだした瞬間、中国や韓国の人々と対話しよう、交渉しようという気持ちを、日本人自らが断ち切っているのだ。
そして、自分で理解のための糸口を断ち切っているくせに、中国や韓国などで何か事がおこると、「よくわからない国」だとか、「おかしな国」だとか、「怖い国」というイメージでみるのは相当に自分勝手なことだ。
これから中国はなんだかんだで、アジアの中心になっていく(なっている)。この状況に加え、韓国と北朝鮮がもし統一を果たしたとき、日本人が、現在のようなアジア認識しか持てないのであれば、日本は完全にアジアから見放されてしまうだろう。
そうなる前に自分たちが使っている「反日」という言葉について、もっと深く考えてみるのは無駄じゃないと思うんだけれど。

※ちなみに10月16日に東京であった中国に抗議するデモについて、マスコミが少し報道してたみたいだけれど、このデモに関して「反中」デモという言葉で報道したマスコミは寡聞にして知らない。
デモに参加した当事者たちは「反中」デモと呼んでいたかも知れないけれど。

人の振り見て…

2010-10-11 01:21:58 | Weblog
日本国内の政治的に大事なことや、一部の政党及び思想・考え方を排除して、
人々になるべく知られないようにしている日本マスコミに、
今回劉氏が平和賞を受賞したことについて、
中国で報道が規制されている件をとやかく言う資格はないよね。