bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

横浜市歴史博物館で令和6年かながわの遺跡展を見学する

横浜市歴史博物館で、令和6年かながわの遺跡展「縄文のムラの繁栄ーかながわ縄文中期の輝きー」が開催されている。タイトルの通り、縄文時代中期の土器類が所狭しと飾られている。縄文土器が好きな人にとっては嬉しい展示である。

縄文時代中期は、5,500~4,500年前に当たり、東日本では縄文時代の中で最も集落数・住居数が多くなった時期として知られ、神奈川県では中期前葉に五領ヶ台式、中葉に勝坂式、後葉に加曽利E式の土器が造られた。さらに後葉には甲信地方の曽利式、多摩・武蔵野地域の連弧文の土器も見られる。

この展示での代表する土器は、入ってすぐの6点だろう。
厚木・林南遺跡の深鉢、中葉。鉢の上の把手と鉢の側面の模様に工夫が凝らされていて見ごたえがある。

相模原南区・当麻遺跡の深鉢、中葉。口の部分に向かって広がる曲線に特徴がある。

海老名・上今泉中原遺跡の水煙文把手付深鉢、後葉。把手の部分を見事に飾っている。

平塚・上ノ入遺跡の有孔鍔付土器、中葉。上部にある孔は何のためにあけられているのだろう。蓋をするためと思われるのだがどうだろう。

左:横浜鶴見区 生麦八幡遺跡の釣手土器、後葉、右:横浜旭区 市ノ沢団地遺跡の釣手土器、後葉。これも用途が良く分からないのだが、燭台のような役割をしたように思える。

次の棚には、顔面把手(深鉢型の土器の取っ手部分に付けられた顔、いずれも中葉)が数多く並んで展示されていた。顔の表現に変化があり、見ていて楽しくなる。なお、右上の二つは釣手土器(顔面把手をモデルにしたものと考えられ、いずれも後葉)である。

小さな土偶、いずれも後葉である。お守りとして用いたのだろうか。

上:三角柱状土製品、左下:土製品、右下:土鈴、いずれも中葉。土器を用いて生活に必要な色々なものを作成したのだろう。さしずめ、現在のプラスティックのような役割をしたようだ。

装飾のある土器も展示されていた。魚が描かれている浅鉢(厚木・恩名沖原遺跡、中葉)。単なる飾りなのか、それとも何か神秘的なことを想像してのことなのだろうか。縄文人の宗教観を知りたいところである。

蛇の絵が描かれているのだろうか、深鉢(相模原緑区・川尻中村遺跡、中葉)である。

左:人体の装飾が施されている人体装飾付き深鉢(相模原緑区・大日野原遺跡、中葉)、人体装飾付き有孔鍔付土器(厚木・林王子遺跡)である。

ミニチュア土器、いずれも中葉。小物入れ、そうではなくて練習用とも思える。

ここからはそれぞれの遺跡についての紹介である。

相模原南区・勝坂遺跡で中・後葉。勝坂遺跡は1926年に大山史前学研究所による調査が行われ、古くから知られている遺跡で、縄文時代中期の良好な遺跡として国史跡に指定されている。


相模原緑区・川尻遺跡で中葉。神奈川県北部の谷ヶ原浄水場周辺一帯にあり、縄文時代中期から晩期にかけての変遷が分かる遺跡で、国史跡である。

綾瀬・道場窪遺跡で後葉。綾瀬市西部の目久尻川左岸にある。

横浜都筑区・二ノ丸遺跡で後葉。港北ニュータウン遺跡群の一つで、中期後葉を中心に100軒を超す環状集落である。

海老名・杉久保遺跡で中葉。東名高速道路の海老名サービスエリア南側の台地にある集落で、250軒以上の中期の住居跡が調査され、二つの環状集落が接するように見つかっている。

寒川・岡田遺跡で中葉。全国的にも珍しく三つの環状集落が連なっていると考えられ、600軒以上の住居跡が調査されている。

横浜都筑区・大熊仲町遺跡で中葉。この遺跡は住居跡170軒以上で、港北ニュータウン遺跡群を代表するものである。近くの台地上には住居数5軒の上台の山遺跡がある。大きなムラと小さなムラが隣接しているのが特徴で、一つの集団が分散や移動を繰り返していたのではと考えられている。

横浜都筑区・大高見遺跡と小高見遺跡で中・後葉。両遺跡とも集落の形成が断続的であり、同じ時期の住居数も多くはない。

相模原緑区・橋本遺跡で後葉。国道16号線のバイパス工事で調査され、中期後葉の環状集落が見つかっている。また住居に囲まれる土抗墓群の構造が良く分かる集落である。

相模原南区・当麻遺跡で中・後葉。国道129号の整備に伴い、1974年から調査された。

下溝遺跡群は、相模の大地を流れる姥川流域の河岸段丘に、上中丸、下原、下中丸の遺跡などが所在し、環状集落と200軒以上の竪穴住居跡が発見され、集落研究において重要とされている。

変わったところで、左上:漆塗土器、右上:木製容器、下:籠とみられる編み物(全て伊勢原・西富岡・向畑遺跡、後葉)である。

埋葬に使われた深鉢(相模原緑区・川尻中村遺跡、後葉)。川尻中村遺跡は環状集落で、ほぼ中央に土抗墓群があり、その周りには環状列石が発見されている。

遺跡毎の展示は、壁に沿って下の写真のように展示されていた。

参考に展示されていた縄文時代前期の南堀貝塚からの黒浜式土器である。

今回の展示で紹介されている遺跡は、勝坂遺跡を除けば、ニュータウン開発や大型土木工事(高速道路・バイパス)などに伴って発見された。現代人は海や川沿いの低地に居住することを好むが、縄文の人々は、そうではなく、高台に住むことを好んでいたことを示してくれる。このことは、定住型の狩猟採集民が小型の小動物や木の実などを採取しやすい場所を優先して近くに川のある高台を選んだということを、教えてくれる。縄文の人々の生活は、文字資料がないので、遺物から想像するしかないが、彼らの土器の中には表現力に優れたものが多く、精神文化の豊かさを感じることができる。今回の展示からもそのことが感じられ、クリスマスの日の彼らからの良いプレゼントであった。

東村山に国宝・正福寺千体地蔵堂を訪ねる

東京都にも国宝の建造物はあるが、二つだけと少ない。そのうちの一つは明治時代に建てられた迎賓館赤坂離宮である。国宝に指定されている(国内の)建造物はすべて江戸時代かそれ以前なので、赤坂離宮は例外的といえる。従って、残りの一つは、木造建造物では東京都唯一の国宝と言っていい。そして、それは東村山市にある。室町時代の応永14年(1407)に建立*1された正福寺・千体地蔵堂であり、その姿を今に伝えている。

Google Earthで、正福寺の周りを見ると、都会と田舎が入り混じった地域と表現できそうな景観で、家々と畑が混合している。

正福寺は西武線の東村山駅から歩いて12分程度のところにある。

東村山駅は、高架駅にするための改良工事中で、駅前にはタワーマンションもある。

それでは正福寺を訪れてみよう。山門、奥に見えるのが千体地蔵堂。山門は元禄10年(1701)の建立で、建築様式は禅宗様の四脚門・切妻である。

千体地蔵堂を正面から見る。構造は桁行三間・梁間三間 で周囲に一重裳階(もこし)が付いていて、屋根は入母屋造・こけら葺である。

近づいてみると、禅宗様建築であることが分かる。屋根の強い反り、白木の丸柱、花頭窓、素朴な板壁、弓欄間、三手先出組などからその様子がうかがえる。

正面には、国宝千体地蔵堂と記された扁額がある。扁額の下の弓欄間、さらにその下の桟唐戸上部の連子もきれいである。

紅色のニシキギの向こう側に朝の陽光を浴びて地蔵堂が輝いている。

裏から見た地蔵堂。地蔵堂の本尊は木造の地蔵菩薩立像で、文化8年(1811)に江戸神田須田町の万屋市兵衛の弟子善兵衛によって造られた。また、地蔵菩薩像の両脇の棚には、千体の小地蔵尊像が安置されている。これは江戸時代に奉納された20cmほどの木造小型仏像で、祈願者はこの仏像を一体持ち帰り、成就すれば別に一体添えて奉納したことから、たくさん集まり、千体になったとのことである。千体地蔵堂と呼ばれるのはこのためである。

逆光の中の地蔵堂。

屋根を支えている三手先出組と垂木。

境内に安置されていた十三仏像。


本堂。正福寺の建立については次のような逸話が寺伝として残されている。鎌倉幕府の8代執権・北条時宗が東村山の地に鷹狩りに来た時に大病にかかり、命が脅かされる状態になった。夜眠っていると、夢の中でお地蔵様が現れ、この丸薬を飲めば良くなると差し出された。時宗が夢の中でその薬を飲んだところ、翌朝からどんどん体調が良くなったとのことである。自分を救ってくれたお地蔵様への供養のために、正福寺を開創したそうである。

境内の槇の木。

朝の陽を浴びての鐘楼。

聖観世音菩薩像。

北条家縁の寺であることを示す三つ鱗の家紋が入った鬼瓦が展示されていた。

隣には八坂神社があった。

千体地蔵堂はかねがね訪れたいと思っていた寺院である。それは次のことによる。鎌倉の円覚寺・舎利殿(建造物では神奈川県唯一の国宝)の建立時期は不明であるが、千体地蔵堂と建物がよく似ていることから、同時期のものと考えられている。下の写真は2016年に私が撮影したものだが、瓜二つと言っていいくらいよく似ているのに驚かされる。

建造物の国宝は、関東では、栃木県3件、埼玉県1件、群馬県1件あるので、来年はこれらの見学を目標にしようと思っている。

追伸:境内に貞和5年(1349)の板碑があったのだが、見逃してしまった。正福寺は西口からであるが、東口にはこの地の出身の志村けんさんの銅像があったことも、帰宅してから知った。彼は、先般猛威を振るった新型コロナウィルスの初期の頃の犠牲者である。みんなが知っている彼が亡くなったことで、国民みんながコロナウィルスの恐ろしさを知ることとなった。これを契機としてと言ってもいいと思うが、自主的な行動自粛が徹底されるようになった。他国と比較して少ない犠牲者で済んだのは、志村けんさんの文字通り命をかけた貢献と言っていいのではないかとさえ思う。

*1:昭和9年改修の時に発見された墨書銘で判明した。

鎌倉で光明寺・和賀江嶋を見学

世界の情勢は不安定さを増しているが、皆が願っているような穏やかな初冬の日に、鎌倉・材木座の光明寺を訪れた。国の重要文化財である本殿(大殿)は、浄土宗が開宗されてから850年の記念事業として保存修理中であり、工事の様子が見られるということで出かけた。

現在は素屋根で覆われ、往時の姿を想像することはできない。ちょうど幼稚園の子供たちが来ていて、一人だけ離れて遊んでいる子がいた。

現在の本殿が建立されたのは元禄11å¹´(1698)である。それまでは、祖師堂あるいは記主堂と称せられていた。棟札*1によると、境内の諸堂が大破していたので、上意により江戸で出開帳*2を実施し、祈祷堂、鎮守、本堂、客殿などを建立したとなっている。棟札を読み解くと、幕府は建立を認めただけ(良きに計らえとだけ言った)で、実際の事業は民衆を基盤とした造営であったそうである*3。本堂は、入母屋造り、瓦屋根を模した瓦棒銅板葺で、正面中央に優美な唐破風がついている。ウィキペディアには修理に入る前の写真が載っている。建物本体は、桁行9間、梁間11間で、鎌倉に現存する近世の仏堂の中では最大規模である。内部の天井や組物等には彩色された装飾が施され、欄間には雲の中で楽器を奏でる天人などの意匠が彫られている。

本堂は、元禄地震(1703)、安政江戸地震(1855)、大正関東大地震(1923)などで被害を受け、建立以来今日まで6回の大修理を行っていて、今回が7回目で、令和元年から10年計画で行われている。現在は屋根の部分が外され、本堂の内陣・外陣の柱の組み方が分かるところまで進んでいる。


写真の中央を横断する柱の下に、斗栱(ときょう) *4が見え、その下に彩色された装飾が保護のために和紙で覆われている。

屋根の一番高いところに取り付けられていた鬼飾りは葵紋で飾られている。徳川家の庇護を受けていたことが分かる。

後先が逆になったが、光明寺の由来について説明する。正式な名称は天照山蓮華院光明寺で、江戸時代は関東18檀林の筆頭として栄えた。寺伝によれば、開山は記主禅師然阿良忠(1199~1287)で、開基は鎌倉幕府4代執権北条経時(1224~46)である。仁治元年(1240)に蓮華寺として開創され、寛元元年(1243)に現在地に移り、光明寺と改称された。その後に不明な時期があり、第8世観誉祐崇(1426~1509)時代の明応4年(1495)に後土御門天皇の帰依により勅願寺となり、格式の高い浄土宗の古刹として君臨した。慶長2年(1598)に関東本山と称せられ、そののち、浄土宗関東18檀林第一の学問寺となり、徳川幕府の庇護のもとに繁栄した。

それでは、県の重要文化財に指定されている三門(山門)を見てみよう。弘化3年(1846)に設計され、翌年に造営された。桁行5間、梁間3間、入母屋造、瓦葺き屋根を持つ2階建てである。外観は中国風の唐様(禅宗様)を基本として、一部和風の要素を取り入れている。この種の唐様山門は本来禅宗寺院に見られる建物だが、近世になると、他宗派の寺院でも建てられるようになった。外側から、

内側から、

屋根の構造、

三門2階より見た富士山、

左は稲村ヶ崎、道を通すために切通しが造られていることが良く分かる。

三門の2階に安置されている釈迦如来像、右側が文殊菩薩、左側の隠れているのが普賢菩薩である。

十六羅漢、

そして、市の重要文化財に指定されている総門を見てみよう。寛永年間(1624~44)の再建と伝えられている。禅宗様四脚門で屋根は元は茅葺だった。外側から、

内側から、

高倉健さんの墓碑が三門を入ってすぐのところにある。

鐘楼も近くにある。

この後は近くにある和賀江嶋に寄った。この島は、北条泰時が執権を務めていた貞永元年(1232)に築かれた人工島である。現存最古の築港遺跡で、国の史跡に指定されている。築港の基礎石は、主として伊豆石とされ、さらに相模川・酒匂川の石などを用いたとされている。干潮時には岬の突端から西に200mほどに渡って石積みが見られるとのことであった。和賀江嶋がある材木座海岸は、鎌倉時代は、海運によって唐物や建築資材などのあらゆる物資を運んだ港であった。その中期、良観房忍性が極楽寺の長老となってから、極楽寺に和賀江嶋の維持・管理・出入りする船からの関料徴収権が与えられたとされている。

船の向こう側が島だが、満潮の時間に近かったため、海の中に埋没していた。

この辺りからの富士山もきれいである。左側は江の島、中央は稲村ケ崎である。

材木座海岸は、子供の頃に泊りがけで海水浴に行った記憶があるだけで何十年ぶりだろう。その頃は、朝早く、地引網を漁師の人たちが引いていたので、それを見るのが楽しみだった。今でもこの習慣はあるのだろうか。地引網を引いたくらいだから、この辺は遠浅な海で港には適さなかったのであろう。大きな船を係留できるようにするために、和賀江嶋を築いたのであろうが、どの程度役立ったのか知りたいところである。もしかすると、沖合に大きな船を停留させて、小舟で取りに行ったのではと考えたりもして、遠い昔を想像しながら小春日和の一日を鎌倉で楽しんだ。

*1:棟札は建物の新築や修理の際に棟木や梁などの小屋裏に取り付ける札

*2:出開帳は、近世以降盛んになり、特に江戸時代には江戸、京都、大坂、名古屋などで数多く行われた。伽藍の修繕費用の捻出や、信者との結縁を目的としていた。

*3:今回受けた説明では、江戸時代の鎌倉には建立・修理を行う寺院がたくさんあったことから、鎌倉大工と呼ばれる職人集団が存在していたようである。この人々は平面図と立面図だけから寺院を設計・建築できるほどに、禅宗様寺院の建築にこなれていたそうである。

*4:斗栱とは、柱の最上部や軸部に設置され、軒桁を支える組み木です。

エマニュエル・トッド著『西洋の敗北』を読む

今回読んだ本を紹介しようと思って書き始めたが、書いても書いても、説明しきれないので、思い切ってものすごく短くまとめることにした。

今回の本で、エマニュエル・トッドさんは、宗教ゼロ状態という用語を新たに導入した。形式的に宗教行事に参加している状態を宗教ゾンビ状態としていたが、これとは異なる今日のアメリカの状態を正確に表すためにこの新しい用語を導入した。宗教ゼロ時代では、宗教は生活の中で全く無視されるので、プロテスタントとしての勤勉さを失い、欲望だけがむき出しのニヒリズム(虚無)を生み出していると指摘している。そして、現在のアメリカの政治形態を少数の超富豪者によって支配される「リベラルな寡頭制」とした。アメリカは1965年に宗教ゼロ時代に入ったが、西洋の諸国はこれよりは一世代遅れて宗教ゼロ時代になったとし、アメリカと同じように問題を抱えるようになったとしている。

ロシアについては、宗教ゾンビ状態でかつ共同体家族であることから、まだまだ組織を守ろうとする力が働き、「権威主義的民主主義」であると位置づけた。途中の説明をすっ飛ばしていきなり彼の結論を示すと、今回のウクライナ侵攻は、ロシアが成功し、西洋が敗北するだろうと予想している。

最後にこの本の中で最も強い印象を受けた部分は、直系家族である日本やドイツのリーダーがなぜ不幸であるかを説明している個所である。そこ(p192)を抜きだすと以下のようである。日本がアメリカを目標にできた頃は良かったが、もしアメリカから突き放された時、危惧されることは何かについて重要な示唆を与えてくれている。

個人主義的文化の国、たとえばアメリカ、イギリス、フランス(中央部)では、権力の座につくことは「問題」ではなく「最高の栄誉」である。個人としてのリーダーは、大成した個人として、絶対的な個人として、リーダーになることに幸せを感じる。

ところがドイツや日本の直系家族型文化ではそうはならない。社会全体を調和的に進行させる全般的な諸条件が整っていれば、すべての階層の個人は、自分より上にある何らかの権威によって安心感を得る。ただしリーダーだけは違う。彼らには自分に安心感を与えてくれるような上位の権威は存在しないからだ。国がそこまで強固でなければ、リーダーたちが感じる居心地の悪さはそこまで深刻な問題にならない。国際社会ではたいていの場合、外部に権力者が存在し、自分自身の意思決定能力は問題にならないからだ。しかし、その国が周辺国を支配するようになった場合、このタイプの国の指導者は要注意である。直系家族の本質的な価値は(父親の息子に対する)権威と(兄弟間の)不平等であることを思い出してみよう。兄弟間の不平等は、人間における不平等、民族間の不平等へと変質する。「権威」は、より弱い民族を支配する「権利」に変わる。これが国際関係の次元に昇華されると、非常に強力な国家のリーダーにとって次のことを意味するようになる。「我が国は他国より優れている。だから他国は我が国に従わなければならない。自分の上位には権威がなく、自分で決めなければならないから居心地はよくないが、とにかく我が国は他のすべての国より優れている。それだけでも喜ばしいことだ」。だから要注意だと私は言ったわけである。

ロシアや中国のような共同体家族の場合は、権威主義は平等主義によって補正される。兄弟間の平等が人間の平等と民族間の平等につながる。ここにまず「共産主義的普遍主義」、続いてプーチンの「一般化された主権主義」の人類学的源泉を見出すことができる。「一般化された主権主義」とは、多極的世界を前提とし、そこではすべての「極」は他の「極」と対等な関係にあるが、それぞれの「極」は、その勢力圏において権威主義的に存在するというビジョンである。したがって、ウクライナがロシアと対等だとは、おそらくロシアの指導者は考えつきもしなかったことだろう。彼らの頭の中では、モスクワとキエフ(キーウ)の関係を支配しているのは「権威の原則」だからである。

スラヴォイ・ジジェク著『戦時から目覚めよ: 未来なき今、何をなすべきか』を読む

最近の選挙では予想外のことが時々生じるが、今回の兵庫県知事選挙は特にそうである。選挙が始まった頃は、聞いてくれる人が全くいない街頭で、候補者が一人寂しくマイクを握って演説していた。ところが、最終日には、彼の演説を聞くために、熱狂した何千人もの聴衆で道路の隅々まで埋め尽くされた。なぜこのようなことが起きたのであろう。

話は変わるが、最近、スロヴェニアの哲学者の『戦時から目覚めよ:未来なき今、何をなすべきか』を読んだ。環境破壊によって世界が滅びようとしているのに、世界がそこから目を背けている。このような嘆かわしい状態にあることを、ウクライナへの侵略などホットな話題を例にしながら、時には荒々しい汚い言葉を用いて説明している。読み終わったところで、あまりにも例が多すぎたため、さて彼の考え方の本質はどこにあったのだろうと疑問に感じた。そこで、序の「フュチュールとアヴニールのはざま」に思考の中心が書かれているように思えたので、そこで述べられている概念を参照しながら、例題を作って解いてみようと考えた。例題にしたのが、今回の兵庫県知事選挙の分析である。

ジジェクはたとえ話が上手である。複雑な社会現象を、世界で一番高級なコーヒー豆の製造方法で説明する。図に示すように、ジャコウネコがコーヒー豆を食べ、それを消化して糞として出す。それがコピ・ルアクと呼ばれる貴重なコーヒーである。ジャコウネコのおなかでは、消化酵素が働いて酸味を取り除き、まろやかな豆に変えてくれる。兵庫県知事の彼が職を失った経緯もコピ・ルアクと同じように表すことができる。

ここではジャコウネコの役割をしてくれるのは、新聞・テレビなどのかまびすしいマスコミや兵庫県議会のような既成勢力である。入力される情報は、彼の県政での実績で、そこには内部告発も含まれている。マスコミや既成勢力は、入力された事象の中から道徳的に厳しく糾弾されなければならない「パワハラ」や「おねだり」などを抽出し、積極的に情報として流す。これが功を奏して、彼は県議会からの罷免決議によって失職する。彼がこのまま何もせずに放っておくと、最終的には落後者になってしまうかもしれない。コピ・ルアクでは最高のコーヒーが得られたのに、ここでは好ましくない結果になっている。さて、どうしたらよいのだろう。

ジジェクは、別の未来に導く方法を教えてくれている。日本語では、未来を示す単語は一つだが、フランス語には二つあるそうだ。フュチュール(futur)とアヴニール(avenir)である。フュチュールは、現在の続きとしての未来、すでに定まっている傾向の実現を表す。これに対して、アヴニールは、急激な断絶、現在との非継続性という意味を有し、将来どうなるかではなく、これから新しく起きる何かを意味している。

失職した彼には、何もしないと落後者というフュチュールが待っている。これが嫌だとすれば逆転満塁ホームランを狙うしかない。そう、彼にとってのアヴニールを見つけることである。彼が打った手は再選されることであった。ジジェクは、未来に二つの道があったとき、選択された将来は当然となり、そこに至った過去も当然になるとした。アヴニールを実現したいのならば、過去に働きかけ、そこを変えることだと説明している。

上のことを説明するために、彼は「真実と噓」という比喩を用いている。ある時、妻が夫にたばこを買ってきて欲しいと頼んだ。あいにくタバコ屋さんが閉まっていたので、彼はバーに行き、そこで入手しようとした。そこに魅力的な女性がいて意気投合し、彼女のアパートに行ってしまう。煙草を買うにしてはあまりにも長い時間がかかってしまったので、妻への言い訳を彼は考え、アパートにおいてあったベビーパウダーを手にすりこんでもらう。家に戻った彼は、浮気をして遅くなったと妻に正直に言う。妻はそれを信じず、嘘でしょう、いつもの悪友とボーリングに行ったのでしょう、その証拠に手に粉がついていると言う。

この話で、フュチュールは浮気したことが妻にばれてしまうこと、アヴニールは悪友とボーリングに行ったことである。妻に伝えた情報は、浮気をしたという事実とボーリングしたという嘘である。彼は、何もしなければ、フュチュールとしての浮気がばれてしまうので、アヴニールとしてボーリングをしたという嘘を作り上げた。そして、騙す材料として、ベビーパウダーを手にすりこむことを考え出し、妻の心理をうまく誘導した。妻にとってはボーリングしたことが真実で浮気したことは嘘となった。


今回の選挙の場合も上記と同じような状況が、意図したかどうかはわからないが、作りだされた。選挙期間を通して、一人で街頭に立って立候補の理由を一生懸命に説明している姿を見て、これほど誠実に対応している人が悪いことをしているはずはないと有権者は思うようになり、そして県民のために立派な成果を残していることも理解するようにもなった。どうも、マスコミや既存勢力が情報を正しく伝えていないのではないかと考えだし、さらに、SNSでは彼の応援がどんどん増えているので、これまで言われていたこととは異なり「信用できる人」で「頼れる人」だと確信するようになった。これが昨日の選挙結果としてあらわれた。

ジジェクは、地球温暖化に対しては早急の対策をとるように要請している。しかし、世界の動きは鈍く、グローバル資本主義の中で生み出された原理主義右派と自由主義「ウォーク(人種差別や社会問題に対して関心を持つこと、敏感でいることを意味するスラングで、覚醒したという意味。過剰な意識の高さに対して否定的なニュアンスで使われることが多い)」左派を、汚い言葉を使ってクソと呼んでいる。これがフュチュールだとしたら、アヴニールは何なんだろうか?ジジェクは劇薬とも思える言葉を使っているが、それは本の中で探してもらうことにし、我々も自分自身で考えだす必要があると思う。

ジジェクの哲学にはヘーゲルに代表されるドイツ観念論、マルクス、そしてフロイトの後継とされるラカンの精神分析学が大きく影響している。選挙のところで、候補者と有権者との心理的な変化を説明したが、理論的に説明するためにはラカンの精神分析学を必要とする。今回、応用問題を解くことでこの本の序に書かれていることが理解できたので、本論の方をもう一度丁寧に読んで理解を深めたいと考えている。その時にラカンについてもさらに勉強できればと考えている。

ジュリアーノ・ダ・エンポリ著『クレムリンの魔術師』を読む

魔術師という言葉から何を想像するだろう。指をパチンと鳴らすだけでモノを隠したり出したりと、変幻自在の芸を召せてくれるマジシャンだろうか。この本でのマジシャンはなにをしてくれるのだろう。クレムリンを操るようなすごい人について語っているのだろうか。本のタイトルを見ただけで興味津々になる。

この本の作者は、ジュリアーノ・ダ・エンポリさんである。父はイタリア人、母はスイス人で、1973年のパリ生まれである。イタリア語とフランス語を流暢に操る。どこの国の人というよりも、西ヨーロッパの人と言った方が適切だろう。イタリアのフィレンツェ市の副市長、イタリア首相のアドバイザーを務めた後、パリ政治学院で教鞭をとっている。ちなみに、この本はフランス語で書かれている。

主人公は、クレムリンの魔術師として活躍するヴァディム・パラノフという架空の人物だが、そのモデルはウラジスラフ・スルコフとされている。彼は、ロシア副首相、大統領府副長官、補佐官を歴任し、新スラブ主義的な概念である「主権民主主義(ロシアの伝統を重視して国民の権利よりも国益を重視)」を提唱し、プーチン政権をリードするイデオローグであった。

登場する人物には、ドイツ首相・メルケルやアメリカ大統領・クリントン、そしてロシアの政治家、実業家などが実名で登場する。面白いところではチェスの元世界チャンピオンカスパロフも登場する。主なところをあげておこう。

ミハイル・ホドルコフスキーは、金融業を梃子に一大財閥を作り上げたが、脱税などの容疑で逮捕され、ソチオリンピックの恩赦で釈放され、現在は亡命中である。ボリス・ベレゾフスキーは、数学者から実業界に転身し、エリツィン時代のオリガルヒの代表で、ロシア公共テレビなどのメディアを傘下に置き、政界の黒幕として活躍、エリツィンの後釜としてプーチンを担ぎ上げるが対立してロシアを離れ、ロンドンで自殺した。

イーゴリ・セーチンは、プーチン政権によって台頭した治安当局出身者「シロヴィキ」の代表格で、プーチンの個人的秘書を務め、右腕として活躍し、ホドルコフスキーの石油会社を吸収した国営石油会社ロスネフチの会長を務めている。よく知られているエフゲニー・プリゴジンは、レストラン業、ケータリングサービス、カジノ事業などで財を成し、彼が設立した会社は傭兵をドンバス地方に派遣するなどして、プーチンの汚れ役を引き受けていたが、昨年暗殺された。

エマニュエル・トッドの『家族システムの起源I』よれば、ロシアの家族システムは共同体家族*1である。その特徴は権威主義的親子関係と平等主義的兄弟関係である。そして、この共同体家族は共産主義体制との親和性が高いと見なされている。共産主義体制を掲げたソヴィエト連邦は20世紀末に崩壊し、その大半はロシア連邦として引き継がれた。共同体家族が持つ精神的な支柱、特に集団主義的・権威主義的な思考は、ロシア連邦においても受け継がれ、さらに強化されたようである。本を参照しながらこの点を確認していこう。

ベレゾフスキーは、エリツィンの後継にと、当時FSB長官であったプーチンを口説く。その場面で、「ロシア人は、街に秩序を取り戻し、国家の道徳的な権威を回復させる手腕を発揮する人物に導かれたいと願っています」(80p)と、また、「さまざまなデータからは、ロシア人が縦軸である権威の強化を望んでいることがわかります。精神分析の枠組みに落とし込むのなら、ロシアのリーダーになるのは、母親の言葉を忘れさせ、父親の言葉を再び押しつけることのできる人物です。財政破綻したときにモスクワ市長が語ったように、政治を変えなければならないのです」(81p)と述べている。ここでは、ロシアが卓越した指導者によって、伝統的な家父長的統治に回帰すべきだと説いている。

この後でプーチンは、ベレゾフスキーとの会談での印象をパラノフに伝えている。それは、「私(プーチン)はベレゾフスキーに大きな敬意を抱いており、彼の申し出には感謝している。われわれが取り組もうとする計画の実現には多大な努力が必要であり、ボリス(エリツィン)が奇跡を起こす力の持ち主であることは承知している。同時に、私は5回も心筋梗塞を起こした老人ではない。私がこの冒険に挑むのなら、他人の手を借りずに自力でやり遂げるつもりだ。私は命令を遂行することに慣れている。これは人間にとって居心地のよい状態ともいえる。しかし、ロシアの大統領は、相手が誰であろうと従うことはできないし、従うべきでない。ロシアの大統領の判断が私的な利益に左右されるようなことは、私には想像すらできない」(86p)である。プーチンは誰にも干渉されずに自分の政治をやり抜くと述べている。人の意見を受け入れず、全てを自身で決めようとする権威主義が表明されている。

次は、パラノフが定義した縦軸、これはロシア的な権威主義であるが、それについてプーチンは「君の言っていた縦軸という概念について考えてみた。面白い概念だが、権威は赤い風船のように宙に浮いたままではいけない。地に固定して具体性を持たせなければいけない。わが国は混沌した状態にあり、信頼できる指導者が求められている。そうはいっても、あらゆる問題を一刀両断できると考えるのは幻想だろう。そこで、縦軸である垂直方向の力を具体的かつ即座に復元するための明確な舞台が必要になる」(87p)と言い、さらに続けて「政治の目的は、人々の不安を解消することだけだ。だからこそ、国家が国民の不安を解消できなくなると、国家の存在は根幹から揺らぐ。1999年の秋、戦場がコーカサスからモスクワへと移り、9階建ての建物が砂上の楼閣のように崩れ始めたとき*2、すでに途方に暮れていたモスクワの善良な市民は、初めて内戦の脅威を目の当たりにした。無政府状態、社会の崩壊、迫りくる死。ソヴィエト連邦の崩壊時でさえ感じることのなかった原初的な恐怖が国民の意識に浸透し始めていた。では、どうしたらよいのか。唯一の回答は垂直方向の力であり、この力だけが獰猛な世界に閉じ込められた人間の苦悩を鎮めることができる。だからこそ、連続爆破事件後、皇帝の優先事項は当然ながらこの力を復元することだった。このときから、統計資料の折れ線グラフを比較検討する官僚の討論会といった西側諸国のやり方を捨て、人間の根源的な欲求を満たすシステムを構築することがわれわれの使命になった。連日連夜、国の深部にまで達する政治の確立に専念することになったのだ」(p97)と述べる。権威主義をさらに進めるに、反体制派の出現を阻止するための強力な治安機関の必要性を説いている。

パラノフは、ホドルコフスキーが逮捕された後の、プーチンの権力の源泉について「機会があれば動物園のライオンや猿を観察してみるがよい。動物たちが遊んでいるとき、上下関係は明確であり、リーダーが全体を管理している。逆に、動物たちが散らばっているとき、動物たちは怯えている。プーチンは垂直方向の力を再構築することによって宮仕えする者たちの舞踊会に規範を示した。舞踊会の掟の歴史は古く、舞踊会のリズムは参加者の昇格と降格によって決まる。宮仕えする者たちのなかには、皇帝の執務室の近くにオフィスを持つ者、皇帝から直接電話を受ける者、皇帝の外遊に同行する者、皇帝とソチでのバカンスをともにする者、政府内で閑職を得る者、国営企業のトップに居座る者がいる。祝宴での席順、大統領に謁見する際に控えの間で待たされる時間、身辺警護にあたる人数など、ちょっとしたことも見逃せない。というのは、権力は些細なことから構成されるからだ。宮仕えする者たちは、上下関係は細部に宿ることを知っている。よって、彼らはどんなことにもこだわる。そしてわずかな不備であっても建造物に亀裂を生じさせることがあると心得ている。これらの要素を無視したり軽視したりするのはアマチュアだ。プロなら些細なことであっても注視する」(136p)と語っている。パラノフの縦軸の概念、それを強化したプーチンの垂直方向の力は、仕えるものにとっての恐怖政治である。

ロシアは民主主義国家ではないと西洋諸国から批判されることに対して、パラノフは、主権民主主義という考え方を提案する。プーチンの考え方も一緒で、「主権を取り戻さなければならない。ヴァディア(パラノフ)、唯一の方法は、持てる資源を総動員することだ。ロシアのGDPはフィンランド並みかもしれない。しかし、ロシアはフィンランドではない。ロシアは面積最大の国であり、最も豊かな国でもある。ところが、われわれは犯罪者集団がロシア国民に帰属する国富を収奪するのを許してしまった。近年、ロシアは国外に貴族を生み出した。彼らはロシアの資源を占有する一方で、心と財布はロシア国外に置いている。ヴァディア、われわれはわが国の富の源泉を再び掌握する。天然ガス、石油、森林、鉱物などだ。そしてこれらの富を、コスタ・デ・ソルに別荘を持つならず者たちでなく、ロシア国民の利益と繁栄のために役立てるのだ。問題は経済だけでなく軍隊もだ。エリツィンは軍隊をどう扱えばよいのかわからなかった。彼は軍隊を少しばかり恐れ、少しばかり軽視した。だからこそ、軍隊と関わることを避けたのだ。軍隊は店舗や高層ビルといった新生ロシアの舞台から遠ざけられた。軍隊は腐ってしまい、将軍はギャングになるか、あるいは政界入りした。飢えた兵士は一箱のたばこ代のために身売りした。南アメリカのどこかの国のようになったのだ。今、われわれは軍隊と公安組織を垂直方向の力に組み戻しているところだ。ロシア国家の中枢には常に武力があり、武力こそがロシア国家の存在意義だった。われわれの責務は、垂直方向の力の復元だけでなく、ロシアの独立を守るためならどんな犠牲も厭わない、祖国を愛する新たなエリートを育成することだ」(142p)と述べている。

ロシアの独立を守るという言葉の中には、兄弟であるベラルーシ、ウクライナが含まれている。袴田茂樹さんによれば、「ロシアの民主主義は、ナショナルな国家性とロシアの伝統的文化の上に構築され、新たな政治制度は特殊ロシア的な性格を有する。ロシアの文化認識は全体論的、直観的、反機械論的である。つまり分析より総合、実利より理念、論理より形象、理性より直観、部分より全体が優越している。この考えは、現実政治の特性を決める公理である。ロシア政治文化の3つの特徴は、(1)「中央集権」による政治的全体性の志向、(2)政治目的の「理念化」、(3)政治制度の「人格化」*3、である」と知恵蔵で説明されている。

パラノフはこれを受けてプーチンの内面を、「当時、私は皇帝の演説を文字通りに受け止めていた。だが、その背後にはどす黒い復讐心が隠されており、その虚しさは決して満たされることがないだろうとは考えもしなかった。だがあの晩、私は、オリガルヒ狩りは始まったばかりだと悟った。悪の手に落ちた企業の経営権を取り戻せば済むという話ではなく、ロシアの資源と力を総動員して国際舞台でのロシアの地位を取り戻す必要があった。目的は主権民主主義の確立だった。主権民主主義の実現には、国の防衛と攻撃を十全に指揮できる鋼鉄の男が必要だった。こうしたエリート集団はすでに存在していた。シロヴィキと呼ばれる治安機関に勤める者たちだ。プーチンはシロヴィキの一人だ。プーチンは彼らのなかでも最大の権力を握り、最も思慮深く、最も厳しかった。それでもプーチンはシロヴィキの一人だ」(143p)と描く。パラノフが、プーチンの恐ろしさを感じ始めた瞬間である。時すでに遅しだろうが、プーチンは他人のアドバイスを受け入れることはなく、不都合な人物は抹殺し、ひたすら自身の信念を貫いていく。

パラノフはプーチンに命じられてウクライナ東部ドンバス地方での暴動を挑発し*4、そして侵攻する。アリーナに乱入し拡声器から、「ナショナリスト、ネオナチ、ロシア嫌い、反ユダヤ主義者たちは、権力のためなら恐怖、殺人、暴動など手段を選ばない。われわれがウクライナ市民の救済を求める悲痛な叫び声を無視することはありえない。無視するのなら、それは裏切りだ。なぜなら、ロシアとウクライナは隣国同士であるだけでなく、これまで何度も述べてきたように、われわれは一つの民族だからだ。キエフはロシア国家の母だ。キエフ大公国はわれわれの共通の源だ。われわれには互いの存在が必要なのだ。ロシアとウクライナは数多くのことをともに行なってきた。そして今後もともにやるべきことや、ともに挑戦すべきことがたくさんある。私は、ロシアとウクライナはどんな難局も乗り切ることができると確信している。なぜなら、ロシアとウクライナは一つだからだ。ロシア万歳〉」(214p)と、発せられた。この事件が起きたのは2014年である。それ以降、ロシアは虎視眈々とウクライナを自国に組み込むチャンスをうかがっていた。そして、ついに2022年にウクライナへの侵攻が始まり、今日まで戦争状態が続いている。

この本では、主人公のフランス人の私が、SNSで知り合った友人からモスクワ郊外の邸宅に招かれ、その人の祖父の代からの「ロシアの権力の歴史」を聞くという筋立てになっている。その老人こそがパラノフである。小説では、エリツィンの末期から、ドンバス地方侵入までの15年間を、ロシアで起きた事件を辿りながら、実名でそれぞれの人がどのような役割を演じたかが描かれている。描写が際立って上手な作者で、思わず登場してくる人物に肩入れしてしまいそうで怖かった。この本を読むまでは、ロシアという国の政治体制には疎かったが、ロシアの政治・イデオロギー・社会などについてたくさんの知見を得ることができた。他方で、権威主義体制の国々と向き合っていかなければならない国際政治の難しさも同時に嫌というほど知らされた。

*1:子どもは成人/結婚後も親と同居し続けるため,家族を持つ兄弟同士が一人の父親の下に暮らす巨大な家族形態が生まれる。遺産は平等に分配され,権威主義的な親子関係と平等主義的な兄弟関係がそこにはみられる。

*2:ロシア高層アパート連続爆破事件:8月終わりから9月にかけて、首都モスクワなどロシア国内3都市で爆発が発生し、計300人近い死者を出した。8月に首相となったプーチンは、チェチェン独立派武装勢力のテロと断定。本事件と、チェチェン独立派のダゲスタン侵攻を理由にチェチェンへの侵攻を再開し、第二次チェチェン戦争の発端となった。プーチンの強硬路線は反チェチェンに傾いた国民の支持を大きく集め、彼を大統領の座に押し上げた。

*3:ロシアの理念にはメシア思想がある。第3のローマ、第3インターナショナルなどもメシア思想であった。ロシアの政治文化においては、個人がすなわち制度である。ロシア人の全体的世界観は形象化(具体像)を求め、カリスマ的な個人の形象によって表現される。

*4:マイダン革命の余波で、2014年3月初旬からロシア連邦を後ろ盾とする反ウクライナ政府の分離主義グループが、ドネツィク州とルハーンシク州で抗議行動を実施した。当初の抗議行動は主にウクライナ政府に対して不満を表明する国内的なものだったが、ロシアが彼らを利用してウクライナに対する組織的な政治活動および軍事行動を開始したとする見方もがあり、スルコフ(ここではパラノフ)が画策したとされている。

群馬名物「ひもかわうどん」を用いた「味噌味の豚肉うどん」を料理する

友人から幅広のうどん「ひもかわうどん」をもらったので、AI(Copilot)君にレシピを教えてもらい、試してみた。AI君には、「みそ味のうどんを豚肉を入れて作りたいがレシピを教えて」と尋ねた。答えは次のようであった。

美味しい味噌味の豚肉うどんを作るためのレシピはこちらです!

材料
・うどん麺:2玉
・豚肉(薄切り):200g
・味噌:大さじ3
・だし(かつお、昆布):4カップ
・醤油:大さじ1
・みりん:大さじ1
・砂糖:小さじ1
・野菜(白菜、ネギ、人参など):適量
・生姜:1片(すりおろし)
・ニンニク:1片(すりおろし)
・ごま油:適量

作り方
1.だし作り:鍋に水を入れ、かつおと昆布でだしをとります。煮立ったらかつおと昆布を取り除きます。
2.野菜の準備:白菜やネギ、人参などお好みの野菜を食べやすい大きさに切ります。
3.豚肉の炒め:フライパンにごま油を熱し、すりおろした生姜とニンニクを加えて香りが立つまで炒めます。豚肉を加えて色が変わるまで炒めます。
4.味噌スープ:だし汁に味噌を溶かし、醤油、みりん、砂糖を加えて混ぜます。野菜を加えて煮立たせます。
5.豚肉の追加:炒めた豚肉を鍋に加え、さらに煮ます。
6.麺の準備:うどん麺を別の鍋で茹で、ざるにあげておきます。
7.仕上げ:煮えたスープに茹でたうどん麺を加え、少し煮て味をなじませます。
これで美味しい味噌味の豚肉うどんの完成です!お好みで七味唐辛子をふりかけても美味しいですよ。楽しんでください!他に知りたいレシピがあれば教えてくださいね。

AIを信じてさっそく試した。材料は、うどん、豚肉、長ネギ、にんじん、しめじである。

材料は2人前だが、うどんの方は4人前。食べるのは我々夫婦2人。どうしようということになったが、うどんは全部使い、お昼は半分だけ食べて、残りは具を足して夜にでもということで、うどんは4人前、具は2人前という、人にはあまり勧められない策を用いて料理した。

野菜は次のように切った。

肉は、ごま油を熱し、チューブ入りの生姜とニンニクを加えて、香りが出るまで炒め、そのあと豚肉を加えて色が変わるまで炒めた。

ひもかわうどんは、熱湯に入れて10分ほど茹でた。

鶏ガラスープの素、しょうゆ、みりん、砂糖で作ったスープに野菜類を加えた。

さらに、うどんと豚肉を加えて出来上がり。

どんぶりに移して食した。

茹で始めてから割合と早い時間に、ひもかわうどんに亀裂が入り始め、それがだんだんと伸びて、ひもかわが縦に裁断されてしまった。調理しているときは、これが当たり前なのだろうと思っていた。しかし、ちょっと気になったので、店のホームページで確認してみると、幅広のままである。茹でているときに箸でかき回しすぎたようだ。それでも、もちもち感があり麺の特徴を楽しむことができた。味噌を用いての家庭的な味もうまく作り出せ、なかなかの出来栄えだった。次回チャンスがあれば、ひもかわの物理的な形状も楽しみたいと思っている。

トーハクで特別展『はにわ』を鑑賞する

選りすぐりの埴輪が出展されているとブログで見たので、興味を抱きトーハクに出かけた。連休明けの火曜日は博物館や美術館は通常は休館になるのだが、この展示だけ、この日は例外だった。多くの人は休館と思い込んでいるだろうから、混まないと予想して出かけた。しかし、思惑は見事に外れた。確かに日本人は少なかったが、その代わりにインバウンドの観光客が多く、耳慣れない言葉をたくさん聞いた。彼らはこの日を美術館や博物館で過ごそうと思っていた人たちのようだ。あいにく他の館が閉じていたので、仕方なくトーハクに足を運んだ人たちが少なからずいたようだ。都合の良いことに埴輪に関する歴史を知らなくても、その独特なフィギュアを楽しむことができる。インバウンドで訪れた人たちは興味深げに一つ一つを丁寧に観察していた。そこにアニメのキャラクターを見つけ出したのだろうか、満足した様子であった。

埴輪が造られたのは古墳時代のことである。この時代は3世紀から7世紀で、ヤマト王権の時代と呼ばれることもある。この頃は各地に有力な豪族が現れ、その首長たちはヒコ、ワケ、あるいはオオキミと呼ばれた。特に、大和盆地・河内平野に拠るオオキミが強い権力を持つようになり、各地域の豪族をリードし、連合国家を形成した。首長たちは、彼らの支配領域の人々にその権力を見せつけるために、大きな墓を築造した。特に、ヤマト王権のオオキミは巨大な前方後円墳を造るようになる。同じように地方の首長たちもその権力に応じて大きな前方後円墳を築造した。

この頃の墓には、そこに眠っている首長を守るために埴輪が置かれた。埴輪のきっかけになったのは古墳時代前の吉備地方と言われている。この地域では墳丘墓が築造され、そこに特殊器台・特殊壺が置かれた。これがベースとなって、3世紀後半に円筒埴輪と壺形埴輪が登場、4世紀に家形・器財形・動物形が出現、5世紀以降に人物埴輪が造られるようになった。

それでは、今回の展示を見ていこう。メインは挂甲(けいこう)の武人である。数ある埴輪の中で最初に国宝に選ばれたのは、トーハク所有の挂甲の武人である。選定されてから50年になるので、それを記念しての特別展である。挂甲の武人は、小さな鉄板を閉じ合せた挂甲(鎧)を身にまとい、左手には弓、右手には大刀を持ち、矢を入れた靫(ゆぎ)を背負っている武士である。挂甲の武人はいずれも6世紀に造られている。

以下の5体は同じ工房で作ったと見なされている。いずれも冑(かぶと)・甲(よろい)などの武具がとても丁寧に作られているのに感心する。武人にしては顔が穏やかすぎるようだが、墓守りには恐ろしい形相は必要なかったようである。

これが最初に国宝となった挂甲の武人である*1。群馬県太田市飯塚町で出土した。

次は、群馬県太田市成塚町出土で、国重要文化財である。

背中には靫を背負っている。

これは群馬県伊勢崎市安堀町で出土した。

これは群馬県太田市で出土した。今回、アメリカ・シアトルからの里帰りである。

最後は群馬県太田市世良田町からの出土で、国重要文化財である。ここまでの5体は兄弟のように似ている。

埴輪は造られた時は彩色されていたようで、その復元が次である。着色するとイメージが随分と変わる。これならば、墓の中で安心して眠れたことだろう。


次のも頼りになりそうな武士である。トーハクの挂甲の武人の次に国宝にされたのが綿貫観音山古墳の出土品で、これはその中の一つである。

やけに腰が細く、軟弱そうに見えるが、優しい墓守なのだろう。栃木県真岡市鶏塚古墳からの出土である。

この後もしばらく人物埴輪を紹介する。同じようにすべて6世紀造である(人物埴輪は5世紀からとされている)。

天冠を付けた男子。この地域の首長だろうか、顔には彩色(あるいは刺青)を施し、頭にかぶっているのは首長であることを示す冠だろう。手を前に合わせて端正でしかも威厳のあるたたずまいに恐れ入る。福島県いわき市神谷作101号墳出土で、6世紀造で、国重要文化財である。後ろに見学者の顔が入ったので、埴輪の部分だけを切り取った。背景の色は、主体が飛び出ないようにと思い、埴輪のそれに近いものを選んでみた。どうだろう。

次の2体は、群馬県高崎市綿貫観音山古墳の出土で、先に説明した挂甲の武人とともに国宝である。

あぐらの男子。前の埴輪と同じスタイルだが、山高帽に親近感を感じる。

正座の女子。首の周りの飾りが女性らしさを醸し出している。

左:挂甲の武人、右:捧げものをする女子。高貴な香りのする埴輪である。それもそのはず継体天皇の墓と言われている大阪市高槻市今城塚古墳出土である。

踊る人々。冒頭で展示されているのがこの埴輪である。今回の一番の売りはこれなのだろう。ピカソ的な才能を有する古代人の作と見ては言い過ぎだろうか*2。埼玉県熊谷市野原古墳出土である。

あごひげの男子。童話の世界に導かれたような、ファンタジーな気分になる。茨城県出土である。

琴をひく男子。この時代は琴を弾いたのは男性である。前回のブログで紹介したように支配の道具として用いたならば、弾き手はこの地域の首長だろう。茨城県桜川市出土である。

ひざまずく男子。亡き首長の徳をたたえ、新たな首長に忠誠を誓う公式儀礼のようである。左:茨城県桜川市青木出土、右:群馬県太田市塚堀り4号墳出土で、共に国重要文化財である。

力士。この頃から存在していたようで、祭祀などの公式行事で相撲を披露したのだろう。福島県泉崎村原山1号墳出土である。

盾持人。相手の攻撃から身を守るため盾を身に付けている。顔が誇張され、緊張した面持ちが伝わってくる。埼玉県本庄市前の山古墳出土である。

両面人物埴輪。遊び心で作ったのだろうか?和歌山市大日山35号墳出土である。国重要文化財である。


人物埴輪はここまでで、ここからは古墳時代を通して存在した円筒埴輪である。

冒頭で説明したように埴輪の起源とされる特殊器台・特殊壺である。岡山県新見市西江遺跡出土で、2〜3世紀造である。

朝顔形円筒埴輪。奈良県天理市東殿塚出土で、3~4世紀造である。

円筒埴輪。一緒に写りこんだ人と比較しても分かるように、とても大きく高さ2.5mである。ヤマト王権の力の強さを示しているのだろう。奈良市桜井市メスリ山古墳出土で、4世紀造で、国重要文化財である。

円筒埴輪。奈良県天理市東大寺山古墳の出土で、4世紀造で、国宝である。

盾形埴輪。大阪市高槻市今城塚古墳出土で、6世紀造である。

ここからは動物埴輪を紹介する。4世紀以降に造られたが、ここに展示されているのは5世紀以降の造りである。

馬形埴輪。もともと馬は日本には存在せず、古墳時代に朝鮮半島を経由して入ってきたとされている。戦いや運搬に使われたことだろう。三重県鈴鹿市石薬師古墳群63号出土で、5世紀造である。

旗を立てた馬形埴輪。戦いに使われたことの象徴だろうか、運動会での旗取りゲームを思い出した。埼玉県行田市酒巻14号墳古墳出土で、6世紀造で、国重要文化財である。

次の二つの写真は動物たちのオンパレードである。生活の一部となっていた動物が分かる。手前から、子馬形埴輪(四条畷市忍ヶ丘駅前遺跡),魚型埴輪(千葉市柴山町白桝遺跡)、馬型埴輪(前橋市白藤古墳群V-4号墳)、鵜形埴輪(高崎市保渡田八幡塚古墳、5世紀)、馬型埴輪(熊谷市上中条、国重文)、水鳥形埴輪(行田市埼玉)、(この後ろにわずかに見えるのが鶏型埴輪(真岡市鶏塚古墳) )、馬型埴輪(春日井市味美二子山古墳)、翼を広げた鳥形埴輪(和歌山市大日山35号墳、国重文)、鹿形埴輪(浜松市辺田平1号墳、5世紀)である。5世紀と記述あるもの以外はすべて6世紀の造りである。

左から、わずかに見える鶏型埴輪(真岡市鶏塚古墳)、馬型埴輪(春日井市味美二子山古墳)、翼を広げた鳥形埴輪(和歌山市大日山35号墳、国重文)、鹿形埴輪(浜松市辺田平1号墳)、鹿形埴輪(伊勢崎市剛志天神山古墳、国重文)、牛形埴輪(高槻市今城塚古墳)、猪形埴輪(伊勢崎市剛志天神山古墳、国重文)、犬形埴輪(伊勢崎市剛志天神山古墳)である。すべて6世紀造である。

上記の中から選んだ牛形埴輪。馬と同様に牛も古墳時代に日本に広まったとされている。大阪市高槻市今城塚古墳出土で、6世紀造である。

猿形埴輪。表情豊かなサルで、今と同じようにいたずらをしたのだろう。伝茨城県行方氏大日塚古墳出土で、6世紀造で、国重要文化財である。

水鳥形埴輪。背に子供を載せた愛らしい水鳥である。兵庫県朝来市池田古墳出土で、5世紀造で、国重要文化財である。

次は家形埴輪とそれに関連する埴輪で、4世紀以降に造られた。

家形埴輪。大阪市高槻市今城塚古墳出土で、6世紀造である。先に説明したようにこの古墳は継体天皇の墓とみられている。この建物も当時の王の館を表したものだろう。当時の建物がどのようなものであったのかが良く分かる。

家型埴輪。当時の普通の家は竪穴住居なので、それとは比べ物にならないほどの立派な住居で、屋根は切妻か寄棟で、二階建ても見られる。在地の豪族の長に関係するものだろう。一番奥は伊勢崎市釜ノ口遺跡、その他の5点は伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土で、いずれも5世紀造である。

子持家形埴輪。複雑な構造の屋敷である。宮崎県西都市西都原古墳群出土で、5世紀造で、国重要文化財である。

椅子形埴輪。首長が座る椅子なのだろうか。群馬県伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土で、5世紀である。

船形埴輪。当時、物の運搬は水路を利用した。それに使われたのだろうか立派な船である。大阪市長原高廻り1号墳出土で、4〜5世紀造である。国重要文化財である。

埴輪は墓を守るために造られたが、亡骸を治めた棺には、首長が使用していた道具類が一緒に埋葬された。

金銅製環状鏡板付轡。馬に付けられた轡である。裸馬ではなく、ちゃんと馬具を付けて馬に乗っていたことが分かる。群馬県高崎市綿貫観音山古墳の出土で、6世紀造で、国宝である。

ここからの4点は、奈良県天理市東大寺山古墳の出土で、4世紀に造られ、すべて国宝である。古墳時代の初めごろ、畿内の豪族を中心にしたヤマト王権は、各地の豪族、特に西日本の豪族と連合し、連合国家の範囲を広めていった。次に見るのは、近隣の豪族の墓からの副葬品で豪華である。

金象嵌銘大刀。副葬品の一つで見事な大刀である。

次の3点は、腕飾りとして使われた。
鍬形石。

車輪石。

石釧。

次の4点すべては、熊本県和水町江田船山古墳の出土で、5〜6世紀造で、国宝である。ヤマト王権の力が強まり、この頃には、すでに九州まで勢力が及んでいたのだろう。出展されていないが、ヤマト王権よりこの地の有力者に銀象嵌銘大刀が贈られている。

画文帯同向式神獣鏡。

衝角付冑・頸甲・横矧板鋲留短甲。埴輪の挂甲の武人は、実際にはこのような武具を付けていた。さぞかし重かったことだろう。

金製耳飾。在地の豪族の長の装飾品だろう。

金銅製沓。同じく首長が履いた高価な靴である。

次の2点は群馬県高崎市綿貫観音山古墳の出土で、6世紀造で、国宝である。

金銅製鈴付大帯。腰につける帯で身分によって装飾が異なった。

金銀装頭椎大刀。ヤマト王権から授かったのだろうか、立派な大刀である。

締めくくりは明治天皇陵を護る埴輪である。大正元年(1912)に吉田白嶺さんにより制作された。近世の兜が使用されているのが、特徴である。

各地の古墳を訪れるたびごとにそこの埴輪を見学した。記憶がバラバラなので、一度まとめて観察したいと思っていたので、今回の特別展は絶好の機会となった。国宝、国重要文化財となっている埴輪をたくさん見ることができ、また、相互に比較することもでき、埴輪に関する知識をまとめることができた。最後は、時代背景を知らないインバウンドでの見学者と同じ気分になって、フィギュアとしての埴輪を楽しんだ。お気に入りは、「挂甲の武人」、「天冠を付けた男子」、「あぐらの男子」そして二つの「馬形埴輪」である。出口で人気投票をし、終了後にその結果を公表したら面白かったのではと考えるがどうであろう。

*1:文化遺産オンラインには次のように説明されている(一部変更)。挂甲の武人は、全身を甲冑で固め、大刀と弓矢をもつ勇ましい姿の人物埴輪で、6世紀の東国の武人のいでたちを知ることができる貴重な資料である。冑(かぶと)は顔を守る頬当てと後頭部を守る錣(しころ)が付いた日本列島独自の武具で、鉢の部分には粘土の小さな粒が貼り付けられ、鉄板を組み合わ、鋲でとめて作られていたことを忠実に表現している。甲(よろい)も小さな鉄板を綴じあわせて作られていて、腰を守るスカートのような草褶(くさずり)がついている。さらに、肩や膝を守るパーツ、手を守る籠手(こて)や、臑当(すねあて)、沓甲(くつかぶと)など、細かい部分や構造までしっかりと表現されている。後ろ側には蝶結びにした紐がついている。武器は次のようになっている。腰には太く長い大刀を提げ、左手に弓を持っている。左手首に巻かれているのは弓を引くときに、手首を守る鞆(とも)である。背中には鏃(やじり)を上に向けた5本の矢が入った靫(ゆぎ)を背負っている。この埴輪が出土した群馬県東部の太田市周辺では、同じような特色をもつ武人埴輪が数体出土し、これらに共通する高い技術とすぐれた表現力から、この地域には埴輪作りを専門とするプロ集団がいたのではないかと考えられている。

*2:トーハクのブログには次のように紹介されている(一部変更)。ポカンとあいた目と口の愛らしい表情。左手をあげて右手を胸前に出すポーズ。埴輪と言えばこのフォルムを思い浮かべる人も多いだろう。「踊る埴輪」として親しまれているが、近年では左手で馬の手綱を引く馬子とみる説もある。小さい方の埴輪は、腰に鎌を着け、顔の両脇で髪を結って束ねる美豆良(みずら)という男子の髪型をしている。一方、大きい方の埴輪にはその特徴がみられず、男女のどちらかよくわかっていない。ただ、女子の埴輪によくみられる胸部や服飾の特徴的な表現がないことから、男子の埴輪であるとも考えられている。衣服や武具、アクセサリーを身に着ける埴輪も多くあるが、この作品はどちらの衣装も帯のみと大胆にデフォルメされている。この素朴さ、そして生き生きとした動きが作品の魅力でもある。

神奈川県立歴史博物館で特別展「仮面絢爛-中世音楽と芸能があらわす世界-」を鑑賞する

小学校に上がる前の記憶なのではっきりしないのだが、秋になると近所の神社に芝居小屋が設けられ、田舎芝居が昼から夜にかけて行われていた。近辺の人はそれぞれの家からゴザを持ち出し、空いている場所にそれを広げて鑑賞した。

その頃は、テレビなどない時代で、お祭りは庶民の楽しみであった。子供達は神社の境内に並んだ屋台で、駄菓子を買ったり、射的や金魚釣りなどのゲームをして楽しんだ。芝居の方は大人たちの楽しみだったが、付き合わされた子供の私には迷惑な話であった。話の筋がさっぱりわからず、楽しめたのはチャンチャンバラバラと切りあう場面だけだった。このようなわけでどのような演目があったのかは定かではない。それらの中には仮面をつけたものもあったのではないかと思う。

仮面をつけた踊りが演じられたとすると、境内であったことから推察して、神楽だっただろう。神楽の起源は、天照大御神が天の岩戸に籠ったとき、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞ったこととされている*1。神楽には2種類あり、宮中で行われるものを御神楽といい、民間で行われるものを里神楽という。御神楽は仮面をつけないが、里神楽は仮面をつける。

神楽は神の世界だが、仏の世界にも民俗芸能として知られているものがある。現在、神奈川県立歴史博物館で、広済寺(千葉県山武郡)の鬼来迎(きらいごう)が映像で流れている。鬼来迎は、地獄に落ちた亡者(亡くなった後、成仏できずに迷っている者)が鬼たちから想像を絶するほどの苦しみを受けているところに現れた菩薩が亡者を地獄から救い出すという野外演劇で、それぞれの演者が、亡者、鬼、菩薩などの仮面をつけている。かつては利根川流域を中心にいくつかの寺で行われていたが、廃れてしまった。今日、唯一実施しているのはこの寺だけである。民俗芸能として重要無形民俗文化財に指定されている。行事の様子はポーラ伝統文化財団が作成した動画で、鬼来迎面は千葉県のホームページで見ることができる。

日本の伝統芸能として楽しまれているものに、先の二つに加えて皇室行事や神社で営まれている舞楽・雅楽がある。こちらも1000年以上も続いてきた伝統芸能である。天皇や貴族が楽しんだ舞が舞楽で、舞を彩る音楽が雅楽である。舞楽・雅楽は中国・朝鮮半島から伝わり、有名な雅楽に「陵王」がある。日本芸術文化戦略機構が作成した動画もある。

これらの伝統芸能は今でも楽しまれているが、どのような歴史的な経緯で現在まで生き延びてきたのだろう。この特別展の主催者は、音楽がその媒介として大きな役割を果たしたとしている。しかし、音楽は音である。このため、現在のような録音技術がない時代には、音は出した瞬間に消えてしまう。このため、その足跡をたどることは容易ではない。そこで、その時に一緒に用いられた仮面でみようというのが、今回の特別展のテーマである。

今回の特別展はあることを前提にしている。それは、音と音楽は権力者のものであったということである。古代の支配者は統治するために音楽を利用し、中世になると武力的権力を握った幕府によって都より鎌倉に音楽が導入され、さらに、地方に配置された御家人たちによってその領地に広まり、近世になると地域の寺院を中心としてこれまでの音楽が大衆化していった、というのが今回の筋書きである。朝廷から大衆へ、中心から辺縁へ、時間軸とともに音楽がどのように浸透し変容したかを観察してみようということである。それでは、図録内の記事・渡邊浩貴著「日本中世音楽社会史論序説」を参考にして特別展を見ていこう。

まずは音からである。

古代にあっては音は支配者のものであったことを、横須賀・蓼原古墳出土の弾琴男子椅座人物埴輪で示している。この埴輪は男性が琴(きん)を弾いている。彼は音楽を専門にする人ではなく、権力者その人と見なされている。それは、古事記や日本書紀から、「琴は国政に関して神の託宣を請う際に天皇自らあるいは重臣が弾く弦楽器であった」ことが読み取れることによる*2。写真の撮影が許されていなかったので、横須賀市自然・人文博物館で撮影したものをあげておく。

中世からは「鐘の音」を例にしている。梵鐘の音は、時を知らせたり、外敵の来襲をおしえたり、コミュニティに一体感を持たせたりするために利用された。梵鐘銘の拓本や、梵鐘鋳型のかけらが展示されている。近世からは「笙の曲譜」を例にしている。近代になるまで、日本は身分社会で身分ごとに担う職種が決まっていた。それぞれの職には継承すべき技能が存在するが、その伝達は口述などにより秘密裏に行われた。音の世界もそうであっただろう。しかし、この曲譜のように多くの人に分かるように書かれているところを見ると、この時代には音に対する大衆化が進んだと言えそうである。

ここからは本題の音楽である。仏教での迎講(むかえこう)・鬼来迎を主に紹介し、最後に舞楽についても触れる。

平安時代、朝廷は平城京(京都)に置かれ、体制は仏教による鎮護国家であった。平安時代後半には浄土教が盛んになり、死んだあとは極楽浄土に迎えられることを願い、権力者は寺院などを寄進した。そして、釈迦如来が死者を極楽浄土に迎える来迎を、念仏(音楽)と仮面を用いての仏教行事として実現し、迎講が行われるようになった。来迎の様子は、下図の高野山の阿弥陀聖衆来迎図(ウィキペディア)のように仏教画として表現される。阿弥陀如来が多種の菩薩と一緒になって、雲に乗って迎えに来てくれる。

時事通信映像センターからは、奈良・當麻寺の迎講「練供養会式」の様子が動画で提供されている。

源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、武力だけで権力を維持することは難しいと考えたのだろう。彼は音楽も含めて都の文化を積極的に導入・利用した。著名楽人を都から招聘し、配下の御家人たちに音楽教育を施したり、鶴岡八幡宮寺に舞楽・御神楽のための楽所を設けたりした。この時のものとされる菩薩面(来迎会・迎講で使用される面)、舞楽面(雅楽にのって舞う際につける面)が展示されている*3。

ところで、都の音楽の受容は、源頼朝だけが行ったわけではない。平安時代にも関東の有力な武士たちは都と交流があり、それぞれのルートを通じて同じように受け入れていた。この例として、延久3å¹´(1071)作の神奈川県・阿弥陀寺の菩薩面、天台宗・古刹久能寺に伝来したとされる静岡・鉄舟寺の舞楽面・陵王、甲斐源氏一族の遺品とされる浜松・津毛利神社の王の舞面が展示されている。

鎌倉御家人たちは、鎌倉幕府成立に伴って平家方から得た領地を、また、承久の乱に勝利して京方から得た領地を、地頭職という身分を得て経営するようになる。彼らは新米・外来というハンディキャップを乗り越えるために、文化戦略として音楽を活用しながら、その地を治めていく。

鎌倉からはそれほど離れていない千葉県君津市・建暦寺からは鎌倉時代制作の菩薩面が展示されている。この地域はもともとは上総一族が支配していたが、上総広常が頼朝に謀殺された後、中原親能一族が支配した。中原親能は京都政界や文化に精通し、京都賀茂社齋院次官にもなった。これらの経験を活かして、この地に迎講を広めたとされている。

承久の乱の後、多くの鎌倉御家人が西国に領地を得た。土肥実平の子孫である小早川茂平もその一人で、安芸国・沼田荘を所領とした。そして、迎講を創始したと伝えられている。氏寺の米山寺には鎌倉前期制作の行動面8面(菩薩面・天童面)が残されている。しかし、迎講を創始したというのは言い過ぎのようである。近くの御調八幡宮(みつきはちまんぐう)で、前の領主の沼田氏は迎講をすでに行っていたようで、そこには菩薩面などが残されている。小早川氏は沼田氏の迎講を継承し、自らの偉大さを強調するために実平顕彰と茂平神秘体験*4をその中に組み込み、権力の維持を図ったようである。米山寺と御調八幡宮の菩薩面などが展示されている。

ここまで、鎌倉御家人が迎講を創始・推進した宗教儀礼を見てきたが、近世になると民俗芸能へと変貌をとげる。この頃には宗教は大衆化し、庶民の生活にも深く浸透する。仏教では生前の所業が善であれば極楽に、そうでなければ地獄に行くとされている。寺院は多くの信者を得るために、地獄ではどんなに酷い目に遭うかを仏教劇で示した。これまでは阿弥陀如来が極楽浄土に迎えに来てくれる場面だったが、宗教が大衆化するにしたがって亡者が地獄で鬼にこっぴどく痛めつけられる場面を強調するようになった。この記事の始めの方で紹介した弘済寺の鬼迎講もこの例である。

鬼迎講の痕跡を、弘済寺に近い寺々で見ることができる。香取市・寿福寺には、鎌倉期制作の菩薩面と、江戸期制作の鬼舞面(奪精鬼、奪魂鬼、脱衣婆、大王)がある。鎌倉時代にこの地域を支配していたのは千葉氏一族である。鎌倉時代末期、千葉一族の粟飯原胤秀は、宗教者の伝道を支援し迎講の受け皿となった。胤秀に招かれた然阿良忠は、初めの頃は菩薩の行道を中心とした迎講を整備した。その後、鬼面を用いての鬼舞を創始した。迎講の性格は徐々に薄れ、地獄の獄官や鬼を登場させる場面を増やし、最後には鬼来迎と呼ばれるようになった。同じように成田市の迎接寺にも鬼舞面がある。今回の展示では寿福寺と迎接寺の仮面が多数展示されている。

同じような傾向は、舞楽でも見ることができる。伊勢原・高部屋神社には、室町時代に制作された舞楽面の陵王がある。初めの頃は神社での舞楽に使われたようだが、近世になると大衆化し、雨乞の儀礼に用いられるようになった。陵王の頭部はもともとは龍であるが、修理した頃はその意味が薄れていたのであろう。なんとウサギの耳に代えられてしまい、名前も黒面と呼ばれるようになった。同じように、癋見(べしみ)の方は赤面と呼称されるようになった。高部屋神社からはこれらの面が展示されている。

長野県駒ヶ根市の光前寺も同じで、舞楽面陵王が雨乞儀礼で用いられるようになった。極めつけは、甲賀・油日(あぶらひ)神社の福太夫面とずずい子*5で農業儀礼として用いられる。これらも展示されている。さらには、大山阿夫利神社からは能面*6が展示されている。

今回の展示では当たり前のことだが仮面が多数展示されていた。菩薩面(行道面)、舞楽面、鬼舞面、能面と種類も豊富だ。菩薩面はその性質もあってどれもが似通っている。それに対して、舞楽面は、二ノ舞、陵王、納曾利、地久、抜頭、八仙、貴徳、退宿徳、胡飲酒、新鳥蘇など種類が豊富で見ていて楽しい。鬼舞面も同じように多様性に富んでいて面白く、特に鬼の面は見ていて楽しい。これだけたくさんの仮面を借りるにあたって、学芸員の方は人には言えない苦労をしたのではないかと思われ、感謝である。しかし、仮面だけ見ていても中世音楽は聞こえてこないので、Youtubeで関連する動画を鑑賞しその良さを理解したが、それには努力と時間が必要であった。展示会で音楽をテーマに取り上げることの難しさがよく分かったが、デジタル技術の発展が著しいので将来は良い方法が見つかるのではないかと期待したい。

*1:「かぐら」の語源は「かむくら(神座)」で、その意味は「神の宿りどころ」だそうだ。すなわち神座は、神々が降りてくるところであり、巫(みこ)・巫女(みこ)が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流したりするところである。すなわち、神と人とが一体となる宴の場である。そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになった。

*2:横須賀市自然・人文博物館からの歴史のたより「古代の琴は神を呼ぶ」に次のように記述されている。『古事記』仲哀天皇の条には「‥、天皇御琴を控かして、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。」とあり、『日本書紀』神功皇后の条には「‥、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。則ち武内宿禰に命して琴撫かしむ。中臣烏賊津使主を喚して、審神者にす。」とあることから、古代において琴は国政に関して神の託宣を請う際に天皇自らあるいは重臣が弾く弦楽器であったことがわかる。

*3:建立時、菩薩面・舞楽面あわせて33面制作した。今日、菩薩面1面と舞楽面6面が伝承している。菩薩面はかつては12面存在し、迎講の行道面 として使用された考えられている。また、伝世する舞楽面の陵王、散手、黄徳鯉口、黄徳番子は、頼朝が東大寺大仏供養に参列したときに、奈良・手向山八幡宮から送られたのではとみられている。

*4:小早川家の氏寺米山寺由来記には、「文治3年(1187)に小早川家の祖とされる土肥実平が探題としてこの地に下向、沼田庄高山に居住、承久2年(1220)に亡、遺骸が当山に送葬された。また小早川茂平は、暦仁元年(1238)に関東御教書を拝領、荒野を再開発、不断念仏堂を建立、来迎の阿弥陀仏を正尊として、毎年2月15日に往生結縁の供養をした」となっている。また、小早川茂平は、阿弥陀仏に招かれたかのように、迎講が行われている2月15日に亡くなった。

*5:白洲正子の代表作は「 かくれ里」である。京都の博物館で見た「お面」を思い出し、油日神社へ寄り道したと言った。そこで、正子は「福太夫の面」と「ずずい子」を見ることができた。福太夫の面の正式名称は「田作福太夫神の面」と言う。1508年に、桜宮聖出雲が制作した。ずずい子の顔は満面の笑みである。福太夫と同じく桜宮聖出雲が制作したもので、豊穣の祭りに使われた。ずずい子を見て、かつて豊穣の祭りでは裸のまま田圃をつついて回ったのではないかと、白洲正子は見ている。

*6:室町時代に、菩薩面・舞楽面などの影響を受け完成した。

東北城柵巡りの旅 秋保温泉・磊々峡

今回の旅行の最後の宿泊地は秋保温泉である。奥州三名湯の1つとして数えられ、大和物語や拾遺集に名取の御湯と歌われた温泉である。その起源は1500年ほど前までさかのぼり、時の帝の欽明天皇が疱瘡(天然痘)に罹ったとき、治癒を祈祷したところ、奥羽秋保の温泉湯浴みすればよいと告げられたとのことである。

秋保温泉には、景勝地として知られた磊々(らいらい)峡がある。仙台市教育委員会が作成した案内板(一部変更)には、「奥羽山系二口渓谷より発した名取川は、この場所で急に川幅を狭め、急流となったりあるいは勢いを緩めて紺碧の深淵となったりする。両岸は秋保石と呼ばれる石英石質凝灰角礫岩*1よりなっていて、奇岩・怪石が磊々と重なり合い、奇面岩・八間岩・鳴合底・猪跳岩などの奇勝、さらに雨滝・糸滝など懸崖敷布して、一層景勝を豊かにしている。昭和6年小宮豊隆しにより磊々峡と命名された」と説明がある。

暖かな陽が差し込む朝、すがすがしい気分で磊々峡を散策した。しかし、真横に近い状態で朝の光が当たったため、光と影がまだら模様になり、あまり良い写真は撮れなかった。小さな渓谷を楽しむには十分ではないが、これよりはきれいだと想像しながら、鑑賞して欲しい。









東北はもうすぐ紅葉の季節を迎える。磊々峡も一段と美しさを増すことだろう。このような時期に訪ねられれば良いのだがと思いながら、今回の城柵巡りの旅を終えた。

今回の旅行に当たっては次のようなパンフレットを作製した。

*1:石英石質凝灰角礫岩は、火山灰と角張った岩片からなる岩石で、火山砕屑岩の一種である。

東北城柵巡りの旅 東北歴史博物館

多賀城跡を訪ねた後、国府多賀城駅の反対側にある博物館に寄った。遺跡に隣接しているので、その関連の遺物を紹介しているのだろうと予想したが、そうではなく、東北地方の歴史を全般的に網羅していた。写真を中心にして、紹介していこう。

東北歴史博物館の全景。コンクリート壁の大きな建物が、工場のように感じられた。

縄文時代の漆を塗った太刀や弓。復元なので、漆の色も艶も鮮やかで、受ける感じがだいぶ違う。

縄文時代の土器など。上段から遮光器土偶、中段には石・骨・ヒスイによる造形品、下段は土・岩製品の仮面・偶など。遮光器土偶なども制作時のように彩色されていれば印象はずいぶん違うことと思う。

古墳時代の墓。会津大塚山古墳から出土の木棺、丸太材を二つ割にして内部をくりぬいて身と蓋を作った。復元だが、リアルに近い古代の木棺を見るのは初めてで、なるほどと感じた。

古墳時代の𤭯(はそう)を持つ女性の埴輪。長いこと𤭯は何に使われていたのだろうと思われていたが、𤭯を持つ埴輪が見つかったことから、祭祀用となっている。本来の埴輪は彩色されているので、やはりこれとはずいぶん違って見えることだろう。

古墳時代の馬具、刀、須恵器。鉄がもたらした威力はすごいと認識させてくれるのが、この時代の遺物である。

古代の地方役人。行政は文書主義で行われ、その後の文字文化の発展に大きく貢献した。

古代の多賀城創建時の瓦。左上だけが複製である。

多賀城廃寺跡からの土器と泥塔。左上は藤原押勝の乱の後、称徳天皇の命により造られた百万塔である。古代は、仏教による鎮護国家であったことを地方の廃寺が強調してくれる。

古代の祭りの道具。土着の宗教を表す遺物で、仏教と融合していく。

古代の土師器と鉄製品。

古代の朝廷と蝦夷の戦いで使われた武器。異なる文化の境界では戦争が起こりがちであることを知らせてくれる。

中世、中尊寺仏教関連の遺物。これらは、都にも劣らない文化が東北平泉に開花したことを知らせてくれる。金字宝塔曼荼羅図、

中尊寺の金銅華鬘と金銅釈迦如来像御正躰、

中尊寺の金色堂内陣柱。

中世の大型板碑。中世には仏教は大衆化し、地方の有力者は板碑や五輪塔などを建立した。

近世、石巻の風景。近世になると交易がとても盛んになり、石巻も例外ではなかった。

近世の仙台藩細谷十太夫が戊辰戦争で着用した陣羽織。戊辰戦争は東北地方は過酷な試練の時であった。

近現代の北海道移住の様子と太政官高札、

近現代のお人形様、村の境を守ってくれる。

近現代の厄神様。もちろん厄除けの神様である。

近現代のヤマハゲとアマハゲ。どちらも怠け心を戒め、厄災を祓い、豊作や豊漁を祈願するときに使われる。

江戸時代の城下町・仙台のジオラマ。

応援展示の上野三碑、左より山上碑・多胡碑・金井沢碑。中国では、歴史の記録や土地の紹介、権威の誇示、慰霊や追悼などの目的でたくさんの石碑が建てられているが、日本では多くはなく、かえって珍しい。他には、栃木県大田原市の那須国造碑、京都府宇治市の宇治橋断碑が知られている。

博物館の外に展示されている今野家住宅。明和4年(1769)に建てられ、今野家は桃生郡橋浦村の肝入であった。

馬屋としても使われた中門、

堂々とした母屋、

畳の部屋は役人を迎えるために使われた。

台所の床が竹製であるのは珍しい。

柱にお面が飾られている。

雪の重みに耐えるために、屋根の柱は特別な造りで、角に補強柱が入っている。。

仙台の繁華街の一つであるクリスロード商店街。

なんとここに三瀧山神社がある。最後にびっくりさせられた。

多賀城跡見学後の残された時間を、博物館や仙台駅周辺で楽しみ、迎えに来たバスで今夜の宿泊地の秋保温泉へと向かった。

東北城柵巡りの旅 多賀城

多賀城が創建されてから今年は1300年の節目である。これを記念して、外郭南門が復元され、いくつかの催しも予定されている。ここを有名にしているのは多賀城碑だろう。これは江戸時代初めに発見され、「壺碑(つぼのいしぶみ)」*1と呼ばれた。

「奥の細道」で知られる江戸時代の俳人の松尾芭蕉はこの碑を見て、「むかしより、よみ置ける歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木に変れば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬ事のみ。ここに至りて、うたがひなき、千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に、古人の心を閲(けみ)す」と記している。芭蕉はこの石碑を見て、「不易流行」*2という俳諧の理念を体得した。さらに、「行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、覊旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり」*3と詠んでいる。

それでは、多賀城碑が造られたころ、この地はどのような場所だったのだろう。この時代、東北地方の北部では狩猟採集を、南部では農業(水田稲作)を生業としていた。多賀城の周辺はこの二つの文化がせめぎあっていたところのように見える。水田稲作が行われたところでは、豪族が生まれ、その人々が古墳を作った。特にヤマト王権との結びつきが強いところでは権力が強ければ強いほど、大規模な前方後円墳を造営した*4。しかし、東北地方のすべてに古墳が存在するわけではなく、その北限は仙台から約50km足らずの大崎平野と見なされている。

多賀城の周辺にも、6~7世紀の稲荷殿古墳(円墳)、大代横穴墓、田屋場横穴墓が存在する。これらのことから、多賀城周辺は、水田稲作を生業としている地域の辺縁で、その北隣は狩猟採集を生業とする地域であったと考えていいだろう。時代区分でいうと、南側は古墳時代、北側は続縄文時代であった。文化が境をなすところでは、諍いも起こるし、また、交流も起きる。多賀城からは続縄文時代に属すと思われる遺物も発見されるので、お互いにかなりの交流があったのであろう。

6世紀までに陸奥には10国造*5が存在し、大崎平野のあたりまでカバーしている。

7世紀中ごろ(孝徳朝の後半で大化改新の頃)に国造制が評制へと変わり、陸奥国(建国時は道奥国とも)が建国され、その領域は仙台の南の阿武隈川あたりを境としていた。国造制(ヤマト王権)の時代と比べると、律令制国家を目指している飛鳥朝の勢力圏は南に後退したといえる。8世紀になると名取郡が設置され、霊亀元年(715)には東国6国の富民1000戸が陸奥に移配され、大崎平野への入植が本格化する。

神亀元年(724)に多賀城が造営され、郡山遺跡から陸奥国府が移転した。多賀城創建と同じころ、大崎・牡鹿地方に天平5柵*6が築かれ、大崎平野を中心に大規模な植民と城柵官衙の整備が行われ、東北中部における律令国家としての体制が整った。そして、この地域は黒川以北十郡*7と呼ばれるようになった。

陸奥国の国府は前述したように現在の多賀城市に置かれ、国分寺は仙台市内にあった。また、多賀城には鎮守府が置かれ、按察使*8が常駐していたことから、陸奥国の国府は陸奥・出羽両国を軍事的に統轄していた。

8世紀半ばになると、海道に桃生城(759年)、山道に伊治城(767:栗原)が築かれ、律令制による支配はさらに強まった*9。

宝亀5年(774)に、蝦夷が桃山城を攻撃し、落城させる。ここから38年戦争が始まる。宝亀11年(780)には、伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)が伊治城で道島大楯らを殺害、伊治城は焼かれ、呰麻呂軍はさらに多賀城を襲撃、兵器・兵粮を略奪・放火した。

秋田城の記事で説明したように、桓武朝になって、延暦8年(789)に紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始されたが、大敗を喫してしまう。延暦13年(794)には第二次の蝦夷征伐が行われ戦果を上げた。延暦20年(801)には坂上田村麻呂を征夷大将軍として第三次の征討が行われ、阿弖利爲(あてるい)・盤具公(いわぐのきみ)・母禮(もれ)が和平に応じ降伏したが、結果的に裏切られ河内で斬首されてしまう。

この征討後に政情は落ち着き、胆沢城(802)、志波城(803)、中山柵(804)が築かれた。さらに延暦24年(805)の「徳政相論」によって、桓武天皇の肝いりの政策であった「征夷」と「造都」は中止された。さらに、志波城の機能は新たに築かれた徳丹城(812)に移された。

城柵では、蝦夷は朝貢し、城司が天皇に代わって彼らを饗給*10した。城柵は行政だけではなく、「交易センター」としての機能も持つようになり、軍事的な役割は後退した。

それでは多賀城を見ていこう。外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860m、周囲は築地塀(ついじべい)で囲まれ、南・東・西に門が開かれていた。ほぼ中央に、儀式などを行う政庁があり、その大きさは東西103m、南北116mであった。政庁跡の内部に石敷広場があり、その東西に西脇殿、東脇殿、北側に正殿、後殿、西北殿、東北殿などが配置されていた。政庁の南東方向に多賀城廃寺、政庁正殿の北側に延喜式内社の多賀神社がある。

宮城県多賀城跡調査研究所のホームページには、それらを示す地図がある。

Google Earthで示すと次のようである。なお、ここでは外郭南門は完成しておらず、左中央にある白い建屋がそれである。

Google Mapでは次のようである。右下が東北本線の国府多賀城駅である。駅からは朱色の外郭南門が見え隠れしているので、そちらに向かって歩いていけばよい。しかし、駅からの取り付け道路がまだ完成していないので、少し回り道をすればたどり着ける。外郭南門もまだ工事中だったため、遠目からの見学になる。そして、南北大路を真っ直ぐ北に上ると、政庁にたどり着ける。途中に多賀城碑、復元された官衙建物を楽しむことができる。

東北歴史博物館には、多賀城の模型があった。

多賀城廃寺模型もあったので、併せて掲載する。

それでは実際に見学してみよう。
外郭南門(外側より)。朱塗りのなかなか荘厳な門である。

外郭南門(内側より)。

国宝の多賀城碑。前半には都などからの距離が記されており、後半には「多賀城が神亀元年(724)に大野朝臣東人(あずまびと)によって設置されたこと、天平宝字6年(762)に藤原恵美朝臣朝狩によって改修された」ことが記されている。最後に、天平宝字6年12月1日に碑が建立されたと刻まれている。

外郭南門から政庁に通じる政庁南北大路。道幅もあり、小高いところに政庁が遠く見えたであろうことを思うと、威厳に満ちた国衙であったと容易に認識できる。

官衙主屋。外郭内には行政を行う官衙が建てられていたが、その一部の建物が復元されている。



政庁復元模型。政庁内部にあり、それぞれの建物遺跡がどれに当たるかを探すのに役立った。

政庁正殿跡。

政庁東殿跡。

排水暗渠施設。官衙主屋の手前付近の政庁南北大路に復元されていた。南北大路の最も低いところに雨水が集まってくるため、路面に穴を掘って石を詰めた桝(ます)が造られた。さらに、桝の地下に暗渠が造られ、西側の低湿地に排水されていた。この機能を見て、先人の知恵は大したものだと感心させられた。

築地塀。防御用に外郭に沿って築地塀が設けられた。

池。多賀城ができた頃、この周辺は湿地であった。この池は当時を反映してのものである。

今回の城柵巡りで多くのことが理解できた。太平洋側は、古墳時代には国造の配置から分かるように仙台の北(大崎平野)あたりまで水田稲作が行われていた。しかし、7世紀飛鳥朝の頃は彼らの行政組織である評を設定できたのは仙台の南(阿武隈川)にとどまっていた。8世紀を迎え奈良時代になると、関東から農民を移住させ、古墳時代の範囲まで律令による行政支配の地域を戻した。そして、平安時代初めの桓武天皇の時代には、律令制の支配地域の拡大が図られ、盛岡付近にまで及んだ。蝦夷と呼ばれる狩猟採集の人々から見ると迷惑な話であったことだろう。一方、日本海側は、奈良時代・律令制が制定された頃には、その領域はすでに秋田にまで達していて、その後の変化は小さかった。

旅行をしているときに、セルヒー・プロヒー著『ウクライナ全史』を読んだ。今日でもロシアの侵攻を受けて厳しい毎日を送っているが、総じてウクライナの歴史は過酷だったことがこの本から分かる。この国には、北部は森林地帯、南部はステップという地勢的な相違があり、北部では農耕が、南部では遊牧が行われてきた。そして、農耕民と遊牧民との間での衝突は激しく、ウクライナの歴史を特徴づけてきたともいえる。東北の古代の歴史もウクライナと比較すると規模は限られているものの、北部の狩猟採集民と南部の農耕民とのせめぎあいであった。ハンチントンの『文明の衝突』で結論付けられているように、「世界の安全を守るには世界の多文化性を認めなくてはならない」ということが大事なのだが、東北の古代では少なからずそのような方向には働かなかったようである。今日の世界情勢もいい方向に向いているようには思えず、改めて歴史を振り返り反省する必要があるように思う。

*1:壺碑は陸奥のおくの方にあると伝わる古い石碑で、歌枕として多くの和歌に詠み込まれていた。西行や源頼朝の和歌でも使われている。

*2:「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」と説いた。すなわち、「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるとした。

*3:現代語訳:(壺碑を見られたのも)行脚をしたおかげであり、生き長らえてこその喜びであると、旅の苦労を忘れて、涙もあふれ落ちるほど感動した。

*4:東北地方の前方後円墳は、仙台平野、米沢盆地、大崎平野、新潟平野南半部、山形盆地などにある。最大の前方後円墳は、宮城県名取市にある雷神山古墳で、主軸長は168m、後円部の径は96m、高さは12mである。

*5:道奥菊多国造(菊多郡に相当)、石城国造(磐城郡)、染羽国造(締葉郡)、浮田国造(宇多郡)、思国造(思太の誤りか)、白河国造(白河郡、石背国造(磐瀬郡)、阿尺国造(安積郡)、信夫国造(信夫郡)、伊久国造(伊具郡)

*6:天平9年(737)に多賀柵・牡鹿柵・色麻柵・玉造柵・新田柵に5つの5城柵があったと、続日本記に記されている

*7:「10郡」とは、黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿郡で、前半の6郡は山道、後半の4郡は海道と区分された。さらに遠田を加えると11郡となる。

*8:奈良時代には国司の施政や諸国の民情などを巡回視察する役割であった。 平安時代になると陸奥・出羽だけを任地とし、大納言・中納言の名目上の兼職となった。

*9:桃生城は標高80mの丘陵に、伊治城は河岸段丘上に築かれ、これまでの城柵に比して防御が厳重である。両城は蝦夷の領域を侵食しているため、強い反発・抵抗を受けた。伊治城の外郭は丘陵地に数kmにわたって二重の堀と土塁がめぐり、古代山城を思い起こさせる。

*10:饗給儀礼は城柵の政庁前の広場で行われ、蝦夷の有力者には位階や官職が与えられ、絹や麻布、朝服や食料などが支給された。

東北城柵巡りの旅 盛岡・レトロ建築

盛岡市のホームページを漁っていたら、ニューヨークタイムズ紙で「2023年に行くべき52か所」の中の2番目に盛岡が選ばれたという記事を見つけた。1位はロンドンで、その理由はチャールズ国王の戴冠式があるからとあった。では、なぜ盛岡がこの次なのだろう。クレイグ・モド*1さんのニュースレターがものをいったようで、そこには「…山々に囲まれた盛岡市は、日本の高速鉄道新幹線で東京から北へ数時間。市街地は街歩きにとても適している。大正時代に建てられた西洋と東洋の建築美が融合した建造物、近代的なホテル、歴史を感じさせる旅館(伝統的な宿泊施設)、蛇行して流れる川などの素材にあふれる。城跡が公園となっているのも魅力のひとつだ。…」と紹介されている。

それではさっそく散策に出かけよう。今回のコースは、下図のように、盛岡城跡を出発点(右の赤いマーク)とし、明治・大正時代のレトロな建物を見学して、北上川、そして盛岡駅(左の赤いマーク)を終着点としている。

盛岡は、江戸時代は南部氏が治め、その居城はこの地にあった。城の構造は連郭式平山城であったが、建造物は明治初期に解体された。現在の盛岡城跡は、近代公園の先駆者・長岡安平*2の設計によって、明治39å¹´(1906)に岩手公園として整備された。そして、平成25å¹´(2013)に盛岡市は「史跡盛岡城跡整備基本計画」を策定した。盛岡市ホームページによれば、次の鳥観図のように整備される予定である。

今回、この鳥観図の左側の入り口から入り、本丸にたどり着いた後、図上部の二の丸、三の丸を通り、右側の川に抜けた。
本丸南西部の石垣。

本丸跡。日露戦争で戦死した南部家第42代当主・南部利祥(としなが)の騎馬像が明治41年(1908)に建てられたが、太平洋戦争中に金属供出で持ち去られ、台座しか残っていない。

先に説明した基本計画に基づいて、本丸跡の発掘調査が行われていた。

二の丸にある啄木歌碑で、「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」と記されている。少年時代の啄木が、学校の窓から逃げ出し、文学書、哲学書を読み、白日の夢を結んだのが、この二の丸とされている。

二の丸の石垣。

鶴が池。かつては盛岡城の内堀だった。

啄木・賢治青春館(旧九十銀行)。旧第九十銀行本店本館は、明治43年(1910)に竣工、設計は盛岡出身の若き建築家横濱勉である。構造は、煉瓦造2階建、正面から見て非対称、屋根はドーマー窓で、建物の隅石や入口・窓のアーチは川目産の花崗岩の切石で飾られている。開口部の石造アーチやスレート葺の寄せ頭頂部にあるトンガリ屋根等により、ロマネスク風の雰囲気と簡略化されたモダンな気品を同居させている。次の大正期の流行を先取りしたデザインでもある。現在は「もりおか啄木・賢治青春館」として公開されている。石川啄木と宮沢賢治は盛岡で青春を育んだ。館内には二人の業績を示す展示があった。

岩手銀行赤レンガ館。この建物は、明治44年(1911)に盛岡銀行の本店として落成し、昭和11年(1936)に岩手殖産銀行がこの建物を譲り受け、昭和58年(1983)に岩手銀行新社屋完成に伴い中ノ橋支店となった。東京駅で有名な辰野金吾が設計し、東北地方では唯一残る彼の作品である。平成24年(2012)に銀行としての営業を終了し、平成28年(2016)より一般公開されている。赤煉瓦造りに緑のドーム、外観はルネッサンス風の輪郭で厳格さを表現している。

銀行の内部。音楽会の準備中だった。

天井が高いのが特徴である。

盛岡信用金庫。盛岡出身の葛西萬司の設計で、昭和2年(1927)建造の旧盛岡貯蓄銀行である。1階から2階まで伸びる太い円柱は重厚感がある。昭和初期のモダンな表現と近代的デザインの流れをくんだ建物である。

銀行正面。

ござ九・森九商店。江戸から明治時代の古風な商家のたたずまいを、瓦、格子、ガラス戸が伝えてくれる。

紺屋町番屋。明治24年(1891)に盛岡消防よ組番屋として建てられ、大正2年(1913)に消防組第四部事務所として改築された。建物は、木造2階建で花崗岩の石畳である。

櫻山神社。江戸時代中期、盛岡藩第8代・南部利視により盛岡城内に建立された神社である。

開運橋。盛岡駅と市の中心部を結ぶ重要な橋である。別名「二度泣き橋」である。転勤で盛岡に来た人が「遠くまで来てしまった」と泣きながら渡り、住んでみると盛岡の人の温かさと優しさに触れ、去る時は「離れたくない」と泣きながら渡るというのが由来だそうである。盛岡は、きっと単身赴任者の多い街なのだろう。

岩手山。開運橋から北上川越に見る岩手山が好まれる風景なのだが、あいにく曇っていたので、次の日の朝、ホテルから窓越しに撮影した。

次の訪問場所は今回の旅の本命の多賀城である。それを前にして、息抜きと言っては盛岡に失礼になるが、クレイグ・モドさんの推薦にたがわない素晴らしい市街地を楽しく散策でき、大いに英気を養い次に備えることができた。

*1:クレイグ・モドさんは作家であり写真家である。著書には「Things Become Other Things」(2023年)、「Kissa by Kissa: 日本の歩き方」(2020年)、「Koya Bound: 熊野古道の8日間」(2016年)、「僕らの時代の本」(2015年)、そして「Art Space Tokyo」(2010年)などがある。特に、2016年にライカカメラとのコラボレーションによって出版された『Koya Bound』は、『50 Books/50 Covers』のデザイン賞を受賞した。

*2:長岡安平は、明治から大正にかけて活躍した造園家で、楠本正隆にその才を見いだされ、東京の芝公園、秋田の千秋公園、福井の足羽山公園など全国各地の公園や庭園の設計、街路樹苗木の育成、史跡名勝天然記念物の保存に尽力した。

東北城柵巡りの旅 志波城

東北城柵巡り二日目は盛岡市で、最北端にある城柵の志波城を見学することが主要な目的である。旅館からのバスが予定していた時間よりも早く角館駅に着いたので、ひとつ前の新幹線に乗れそうである。このようなとき「えきねっと」は助かる。スマホから簡単に変更ができるので、時間が迫っていても、切符の購入窓口が混んでいても、労せずして予定を変えられる。良い方向に働いて盛岡に早く着けた。この日のホテルは駅からすぐのところなので、そこに荷物を預け、タクシーで目的地に向かった。

志波城が築かれたのは延暦22年(803)で、異色の桓武天皇の時世である。新しい都(長岡京と平安京)の建設と蝦夷(えぞ)征討という二つの大きな事業を行ったことで知られている。父は光仁天皇(天智天皇の孫)で、この時に天武天皇系から天智天皇系に皇統が代わった。大したことではないように感じられるかもしれないが、この時代の人々にとっては大事件だった。また、母は百済系渡来人・和氏出身の高野新笠であった。この頃は、皇后は皇女あるいは藤原家から選ばれたので蔑視されたことだろう。

このため、特異な出自が起因となり、偉大な業績をあげることに邁進したのではないかとも見られている。そして、都の移転は肥大化する奈良仏教のの影響から逃れるためとされ、東北の平定は中国の中華思想*1を真似ての小中華思想*2に基づいて行われたとされている。東北地方に住んでいた蝦夷(えみし)の人々にとっては大変に迷惑な話であったことだろう。

桓武天皇は3度にわたって蝦夷征討*3をおこなった。その結果、蝦夷の脅威は減退(802)し、坂上田村麻呂は胆沢城(802)を、さらに志波城(803)を築いた。そして、朝廷の律令制支配は北上川北部まで及ぶことになった。田村麻呂は志波城の築城と同時か数年後に鎮守府を胆沢城に移転した。志波城は雫石川氾濫により北辺部分を失い、徳丹城が造営されるとその機能を移転し、約10年でその役割を終えた。

志波城の外郭は、パンフレットによれば、一辺928mの外大溝、一辺840mの土を突き固めた土塀(築地塀)で正方形に囲まれ、築地塀の各辺中央には門、約60m間隔で櫓が立っていた。城内中央やや南寄りには、150m四方を築地塀で囲んだところに行政や蝦夷をもてなす饗給(きょうごう)と呼ばれる儀式などを行う政庁があり、大路で外郭と結ばれていた。政庁の周囲には行政事務を行った官衙建物群が、外郭沿いに兵舎である竪穴建物が1200~2000棟立ち並んでいた。

パンフレットには次の図も添えられていた。

Google Earthで見るとなるほどと思える。下の方に南側の外郭が、中央に政庁が見えている。

志波城古代公園案内所には、志波城のジオラマがあった。実際の見学は、手前から政庁の方に向かって行った。

それでは志波城を見ていこう。

外郭南門とその周辺。南門が中央にあり、両脇から少し離れたところ(おそらく60m)に櫓がある。

外側から見た南門。2階部分は防御のための設備だろう。

内側より。2階に登るための梯子が備えてある。

兵舎。このようなものが1200~2000棟も立ち並んでいたとは驚きである。各棟に何人の兵が入れたのだろう。全体で万を超える兵が駐在できたとすると、どれだけ大きな戦いに備えたのだろう。

建造中の兵舎。新築工事を行なっているところで、竪穴建物の構造がよく分かった。

南大路。外郭と政庁を結ぶ重要な道で、道幅が広い。

官衙建物。復元された大型掘立柱建物である。

政庁南門。外郭側から見たもので、防備のための特別な施設は備えていない。ここまで攻め込まれたらもうダメという事だろうか。

政庁内部。建物が立っていないためかとても広く見える。

政庁西門。外側より、

内側より。南門より小ぶりである。

政庁東門。外側より、

内側より。西門と同型である。

最前線の城柵ということで、戦いへの備えもしっかりしているだろうと予想して訪れたが、兵舎の数は多いものの、平坦地で防御に全く向いていない事にびっくりした。兵は駐留させるためだけの施設のようで、戦いは他の場所で行われたのだろう。おそらく、律令国家としての責務を蝦夷の人々に徹底させ、租庸調による税制が確実に行われることを目指したのであろう。実際に観察することで、城柵の役割が段々に明確になってきた。多賀城を見学することでさらにはっきりすることを期待して、盛岡市街地の散策を楽しむためにこの地をあとにした。

*1:中華思想は華夷思想とも言う。これは皇帝がいる中国の中心を「中華」(世界の中心)とし、そこから離れるにつれて野蛮な人が住む地域になるという、同心円状の世界観である。

*2:朝廷に従わない蝦夷が住む東北や北海道を「夷狄」(東と北の蛮族が住む土地)、隼人が住む九州南部を「戎」(西の蛮族が住む土地)と名付けた。そして、化外の地に住む蛮族を従わせ、天皇の支配を全国に広めることは正しいことであると考えた。

*3:征討は、①紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗(789)、②2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として抜擢された坂上田村麻呂が活躍(791)、③3度目の遠征で夷大将軍・田村麻呂は勝利(801)し、アテルイら500人の蝦夷を京都へ護送、である

東北城柵巡りの旅 角館・武家屋敷

秋田で古代の城柵を見た後で、角館で近世の武家屋敷を見学した。宿泊もこの地なので、旅館のバスが迎えに来るまで江戸時代にタイムスリップして散策を楽しんだ。駅前で荷物を旅館まで届けてくれるように手配し、ガイドマップを貰った。そこには次のように紹介されていた。

深い木立と重厚な屋敷構えで知られる角館町は、元和6年(1620)にこの地方を領していた佐竹一族の蘆名義勝*1によって造られた。三方を山に囲まれ、南の玉川筋によって仙北平野に開いている地形が城下町にうってつけであった。そこで、現在の古城山(城跡)を北端とし、南に向けて三本の道路を設定して町造りを行った。それ以前は山の北側で、地の利や広さなどで難があり、水害・火災などもあったため、移設したとされている。町の中央部にある幅25メートルの広場は「火除け」と呼ばれ、武家地と町人地を分断している。北側の武家地は深い木立で覆われ、南の町人地は家並みがびっしりと続き、対照的である。町が造られた当時は、武家屋敷250戸、町家420戸であった。明暦2年(1656)に蘆名氏が断絶し、佐竹北家*2が入部して秋田藩の所領とし、佐竹氏一門筆頭の城下町となった*3。以来400年余り、町の形は大きく変わることなく現在に至っている。

Google Mapで現在の角館の周辺を見ると次のようである。三方を山に囲まれ、残った一方を川が流れていることが分かる。

Google Earthで町人地から武家地を見ると下図のようである。手前の幅広い空間(火除け:その一部は白色となっている)で、町人地と武家地は分断されていて、上部の緑で覆われているところが武家地で、下部は町人地である。奥の方に見えるのが古城山である。左側の川は桧木内(ひのきない)川で、図には表れていない下の方で、玉川から分岐している。

ガイドマップの主要部は下図のとおりである。散策のルートは、右下の駅通りを市街地に向かい、郵便局で右に折れ、武家屋敷通りに沿ってある。このルートは主要な見学場所をほとんどカバーしている。

それでは散策に出かけよう。出発点の角館駅で出会った秋田内陸縦貫鉄道の気動車である。ここが起点で、終点はおよそ北100kmのところにある北秋田市である。

上記の説明では省いたが、角館には武家地が2ヶ所あり、先に説明したのは北側で、もう一つ南側にある。ガイドマップでは左側下部の紫で塗られた道沿いである。ここは田町武家屋敷と呼ばれ、佐竹氏の直臣である今宮氏とその武士団が移住した。今宮武士団の中で重んじられていた西宮家は、明治後期から大正時代にかけて最も繁栄した。明治後期の当主西宮藤剛(ふじたけ)は角館の初代町長を務めた。明治後期から大正時代に建築された主屋と蔵が現存している。
主屋である。

主屋内部には古文書や陶磁器などが展示されている。

道を挟んで新潮社記念文学館がある。この町出身の佐藤義亮は新潮社の創立者である。その業績に因んで記念館が建てられた。

駅前通りに戻って町人地を通る。道沿いにある秋田銀行の建物も角館の風情に溶け込むように建てられている。

郵便局を曲がってすぐのところに江戸時代から続く商家・たてつ屋がある。内部も公開されている。
商家の門はこのようになっていたのだろう。

7代目当主の妻の実家の打掛をミニ着物にしたとのことである。

屏風は角館出身の日本画家・寺澤幸太郎が描いた「松図」である。下には美人画と役者絵が飾られている。

押絵雛人形である。押絵が生まれたのは鎌倉時代とされ、江戸時代は大奥女中の手遊びとして流行し、やがて庶民に広がったそうである。角館には日本画家の平福穂庵・百穂親子を始めとしてたくさんの画家がいたため、雛人形・歌舞伎・縁起物の押絵が多く作られた。

冒頭で紹介した緑豊かな武家屋敷通りに入る。

小田野家の屋敷。小田野家は今宮家を介して角館の領主であった佐竹北家に仕えた。この屋敷は小田野直武の子孫が所有していた。小田野直武は、日本で最初に日本語に訳された西洋医学の教科書「解体新書」の図版を描いた。門の様式は薬医門である。薬医門は左右それぞれに2本の柱がある。武家の威厳を示し、階級ごとにその大きさや装飾が異なる。小田野家は中級武士であるため比較的簡単な造りとなっている。この門は家の当主よりも身分の高い武士が訪れた時のみ使用され、普段の出入りは脇の小さな門を使って行われた。

主屋の一室である。

主屋の外観である。

河原田家の屋敷。河原田家は蘆名氏の重臣として角館に移り、その後は佐竹北家に仕えた。明治以降も学者や政治家を輩出し、第16代当主河原田次重は私財で水力発電事業を手掛けるなど地域の発展に貢献した。現在の家屋は明治24年に建てられ、四室で構成された主屋は角館武家住宅の典型的な造りとなっている。
中級武士であるため同じように薬医門は比較的簡単な造りである。

主屋の玄関である。

岩橋家の屋敷。蘆名氏の重臣で、蘆名氏が絶えた後は佐竹北家に仕えた。屋敷と敷地の配置は、角館の中級武士の典型的な邸宅である。
門は比較的質素な薬医門である。

主屋の雨戸で、上から落とす構造になっている。子供の頃、このような構造の家が近くにあって、いつも不思議に思ってみていた。

主屋の外観である。

石黒家の屋敷。佐竹北家の用人(勘定役)を勤めた家柄である。石黒家の屋敷は慎ましく見えるが、角館で最も古い武家屋敷であり、石黒家がこの地域で高い地位にあったことを示している。

門は上級武士だけに許された重厚で格調高い薬医門であった。

青柳家の屋敷。青柳家は蘆名氏の譜代で、蘆名氏断絶後はこの地域の新しい領主となった佐竹北家に仕えた。青柳家の屋敷は、この時期の武家屋敷の優れた史料である。
門は薬医門である。同じように重厚で格調高い造りである。

主屋、

主屋の一室、威厳に満ちた造りになっている。

武器蔵に飾られていた甲冑、これだけではなくいくつも飾られていた。

客用の掛布団で、模様が素晴らしい。

解体新書記念館には、先に説明した小田野直武関連の展示があった。解体新書の絵は彼が書いた。

小田野直武が16歳の頃に描いたとされる唐美人画である。きっと幼いころから絵がうまかったのだろう。

武家道具館には数々の鉄砲が展示されていた。

最後は山車である。

これまで見てきた武家屋敷はすべて薬医門だったので、これしかないのではと思われてもいけないので、そうでない家を探すと見つけることができた。

門の格式に拘った記事になってしまったが、この時代は、同じ武士でも身分・格式に差があり、お互いに相当に気を遣いながら生活していたのだろう。タイムスリップしてこの時代の風情を味わうのは楽しいが、現実の生活がこのようになってしまったらさぞかし窮屈な事だろうと思われた。今回は、角館に旅行客が集まる時期ではなかったので、ゆっくりと散策を楽しむことが出来た。ここは枝垂れ桜で全国的に有名で、その時は身動きが取れないほどに混みあうようだが、静かな環境で桜を楽しむ機会があれば良いのだがと望んでいる。

秋田城、武家屋敷とかなり歩き回ったので、角館の郊外にある旅館・花葉館で温泉に浸かって疲れをとり、次の日の旅行に備えた。

*1:義勝は天正3年(1575年)に佐竹義重の次男として生まれた。関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したため、連座して所領を没収された。慶長7年(1602)に父義重・兄義宣とともに秋田領に入り、仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。角館に随従した蘆名家家臣には、稲葉家、河原田家、岩橋家、青柳家などがあり、総勢は200名程度だったとされている。

*2:佐竹北家は清和源氏佐竹氏の分流である。戦国時代に常陸国太田城の北に住したためにこのように呼ばれる。江戸時代に佐竹氏が出羽国久保田藩(秋田藩)に減転封されたとき同藩の一門家臣となった。

*3:角館の武家地には、もともとは蘆名氏の家臣であってその断絶によって入部した佐竹北家に仕えたものと、佐竹北家の入部に伴って角館に移住してきた家臣を祖先とする2系統の武家が居住していた。