bitterharvest’s diary

A Bitter Harvestは小説の題名。作者は豪州のPeter Yeldham。苦闘の末に勝ちえた偏見からの解放は命との引換になったという悲しい物語

藤井一至著『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』を読む

土というタイトルを見たとき、あまり期待しなかった。空気や水と同じように身近な存在であるにもかかわらず、都市生活に馴染んでしまった私は、土に触れる機会はあまりない。外に出かける時は、舗装された道を歩くので、土のあの柔らかい感触を味わうことはない。小さな庭も、手をかけないで済むようにとほとんど芝で覆われている。季節の花を楽しめるように少しは花を植えてあるが、それとても、花鉢に入れてある土を入れ替える程度である。大事なものというよりも、この時期に舞う土埃のような迷惑なものとの認識が強い。

そのような中にあって、何となく読み始めたこの本だったが、読み進めて行くうちに興味を持ち始め、最後には素晴らしいとさえ思った。土がこんなにも我々の生命と深く関係を持っていることを知ったのは、恥ずかしいことだが、この本が初めてである。しかも46億年という気も遠くなるような長い時間をかけて、我々が生存できるようにしてくれているということを知らされ、いたく感激した。

土は地球の誕生とともに存在していたわけではない。この本の最大のテーマは、土がどのようにして生まれたのかという疑問に答えることである。

地球の始まりは、無数の微粒子(宇宙塵)を集めた小惑星同士が衝突しあってできたとされている。微粒子は鉱物によって構成されているが、その大きさは10μm程度の大きさで、造山鉱物と呼ばれる。これは粘土よりは大きく、やがて粘土を生み出す母体となる。小惑星が衝突すると、巨大な熱エネルギーが生じ、6000度以上の高温が微粒子を溶かしてマグマを生み出す。さらに小惑星を取り込んで巨大化し、惑星となったのが地球である。

そのうち地球は冷え始め、熱いマグマを内に秘めたまま、地表面では水蒸気が冷めて水となり、地球が誕生してから2億年後ぐらいには、海と小規模な陸が生まれた。地球の内部では、比重が大きいものが下の方に、小さいものが上の方に移動し、最も軽いガスの水素、ヘリウム、ネオンなどの多くの元素は、宇宙へと戻っていった。最終的に地球表層に残留したのは、中間の重さを持つ窒素、二酸化炭素、水蒸気(水)である。

地球の内部は、中心部から外側に向かって、コア、マントル、地殻で構成されている。地球中心部のコア内部(内核)は個体の鉄となり、コア表層(外核)はドロドロに溶けた鉄が対流している。これにより地球に磁場が造られ、太陽風や宇宙線から地球を守ってくれている。

マントルは、酸化鉄や酸素と結びついたアルミニウム、珪素、マグネシウムを構成成分としている。地表の表層近くのマントルでは、鉄より軽いアルミニウムと珪素の割合が多い。また、沈み込んだマントルの一部は地下深くで溶け、ドロドロのマグマになる。

水によって冷却されるとアルミニウムや珪素は単体では存在できなくなり地球に来た時の姿に戻り、石英、長石、雲母などの造岩鉱物となる。これが集まったのが花崗岩である。陸地の部分はほとんどが花崗岩である。

マグマが冷えたことでできる岩石には、上述の花崗岩の他に玄武岩がある。これは地中深くのマグマから誕生したもので、斜長石、輝石、カンラン岩などの造岩鉱物が集まったものである。噴火によって放出された火山灰は玄武岩質の造岩鉱物である。地殻およびマントル表面は岩石で覆われ、それぞれ大陸プレートと海洋プレートと呼ばれる。海洋プレートは玄武岩で、その上に海や大陸がのっている。そして、大陸プレートは花崗岩である。地球が生まれてからまもない頃には土は存在しない。花崗岩、玄武岩、大気の状態からどのようにして土が生まれたのだろう。本の中では、岩石+大気⇒(風化作用)⇒土+海、として説明されている。

ここまで、土を定義せずに使ってきたが、ここではっきりさせておこう。土とは、「岩石が崩壊して生成した砂や粘土と生物遺体に由来する腐食の混合物」である。生まれた頃の地球には、粘土もなければもちろん生物も存在していない。土が生まれるためには、粘土が作られ、さらには生物が誕生する必要がある。石礫、砂、粘土は粒の大きさにより区分される。粒径が2.0mm以上のものを石礫、0.02mm以上のものを砂、0.002mm以上のものをシルト、それ以下のものを粘土という。すなわち、粘土は粒径が2μm以下のとても小さな粒である。

地球が生まれたころは、地上を大気(現在とは異なり、高濃度の二酸化炭素が含まれ、酸素は少なかった)が覆い、地表面にはわずかな陸(花崗岩)と広大な海があり、そして海面下にはマントルが冷えてできた岩(玄武岩)があった。原子地球の冷却化に伴って大量の雨が降ったが、それは火山ガス、二酸化炭素を溶かし込んだ酸性雨であった。酸性雨は海底の玄武岩によって中和されたが、そのとき岩石からは珪素やアルミニウムが海水中にどんどん流れ出した。珪素は相棒のアルミニウムと結合するとスメクタイトという粘土鉱物を析出する。生命よりも早く、海底に粘土が誕生した。

アルミニウム同士は横方向に結合する性質を有する。珪素もまた同様である。サンドイッチのようにアルミニウムの層を珪素の層で挟んだものができる。この三層構造(サンドイッチ)を重ねたものは粘土鉱物となる。すなわち、三層構造同士の間にカリウムを挟んだのが雲母、マグネシウムを多く含むのがスメクタイト、セシウムを多く取り込んでいるのがバーミキュライトである。三層構造同士の間になぜこのような正電荷の原子を挟むことができるのだろうか。これは、三層構造の外側の層を構成しているアルミニウム(Al³⁺)の一部がマグネシウム(Mg²⁺)で置き換わる(同型置換)ことで生じる。より低い正電荷の原子で置き換わったことにより、この三層構造は負電荷となる。このため、正電荷の原子(陽イオン)を引き寄せる。引き寄せられた原子の種類によって、雲母になったり、スメクタイトになったり、バーミキュライトになったりする。

この中で、スメクタイトは水やイオンをよく吸収するという性質をもっている。スメクタイトは、マグネシウムだけでなく、ナトリウムもカルシウムも含む。これらはカチオンと呼ばれ、水の分子はこのカチオンに引き寄せられる。スメクタイトは水を含むことで数十倍にも体積が増える。バーミキュライトと雲母は、スメクタイトやカオリナイト(珪素の層とアルミニウムの層の二層で構成される)とは異なり、地上では生成されず、地下の高温高圧条件で堆積岩や花崗岩の造岩鉱物として生成される。

これで土を構成するのに必要な粘土は備わったが、この他に腐食が必要である。このためには生命を必要とする。生命はどのようにして誕生したのだろうか。生命はアミノ酸を主要な材料としている。例えばヒトの細胞はタンパク質でできているが、これをバラバラに分解するとアミノ酸となる。アミノ酸に必要な元素は、酸素、水素、炭素、窒素である。アミノ酸を作るための元素は地球上にそろっているが、これからどのようにしてアミノ酸がつくられたかについては定まった説はないものの、粘土が大きな役割を果たしただろうとされている。

生命が誕生すると同じころに地殻変動が活発化した。35億~25億年前にかけて大陸が急激に拡大する。しかし、5億年前までは陸地に土はなかった。海中ではそれまでにシアノバクテリア、緑色植物が生まれ、それを食べるゴカイ類、さらにそれを食べる三葉虫、さらにこれを食べるアノマロカリスといった食物連鎖が生まれた。これに対して、陸地は荒涼とした岩石砂漠であり続けた。陸地に生命が誕生しなかったのは、大気中に十分な酸素がなかったことによる。

5億年前になると、地衣類とコケ類が上陸し、岩石を風化させ始める。しかし生活圏は川や池のほとりに限られていた。4億年前になるとシダ類が出現するがその状況は変わらなかった。ところが3億年前になるとタネを持つ裸子植物が登場し、乾燥した地域にも土が拡大した。2億年前には被子植物、キノコ(被子植物のリグニンを分解する)が誕生する。

この本では、この後の植物の進化、そして、動物の進化について、土と関連させて説明されている。とても面白いのだが、長くなるので割愛する。

最後に、生命が利用している成分は、花崗岩を例にすると、花崗岩+炭酸水=砂+粘土+珪素+塩(ナトリウム)である。この具体例が面白い。愛知県の濃尾平野と豊橋平野の背後には、花崗岩質の山があり、戦国大名の土岐氏にちなんで土岐花崗岩と呼ばれている。

花崗岩は風化すると、石英砂、長石、雲母の微粒子に分解される。重い砂は木曽川によって山のふもとに堆積し、守口大根を生む砂質土壌となる。長石が風化してできるカオリナイト粘土は水の力で運ばれ、かつて名古屋を含む下流域に広がっていた巨大湖に堆積する。これは陶器に使われる粘土層となる。岩石から放出されたカリウムと珪素は田んぼで稲に吸収される。海に流れ込んだナトリウムは食塩となり、珪素は珪藻の材料となってウナギを育む。

上記の反応は、一つの重要なことを教えてくれる。山の恵みと海の恵みは岩石の反応速度に制限されているということである。生命は、土や海の栄養分の存在量よりもその循環によって支えられている。このことは、循環量を超えて資源を利用すれば、やがて生命は維持できなくなることを教えてくれる。環境を守ることの大切さを伝えてくれる。

この本には、関連する話題が豊富に含まれていて、読んでいて楽しくなる。時には、親父ギャグと思えるところもあるが、関心を呼び起こすための工夫があちらこちらに凝らされていて、読者のために努力している姿勢に好感が持てる。高校で習った化学の知識がなくても理解できると思うが、あるとなるほどと思わせてくれる。私は、推理小説を読んでいる気分になって、ワクワクしながら楽しんだ。

左足の疼痛と闘う

20日ぐらい前になるが、目覚めたとき左足がなんとなく重いように感じられた。歩くと痛みを感じる。この日は、オーストラリア人の夫妻と15年ぶりに会うことになっている。娘さんを伴って、3週間の日本旅行を楽しんでいる最中である。何の前触れもなく、長野の白馬に来ているというメッセージを突然受けて、それでは東京に戻ったときランチを一緒にしようということになった。

予約したレストランは飯田橋の大東京神宮近くのイタリアンレストランで、私が利用する地下鉄・九段下駅からは歩いて10分位である。レストランに向かうときは痛みを感じたものの、再会できることの嬉しさもあって余り気にすることはなかった。お互いに健康であることを喜び、昔話に花を咲かせて、美味しい料理を食べながら、楽しいひとときを過ごした。食事中は足のことを全く忘れていたが、帰り道では途中で休みたいと思うほどの痛みを感じた。

次の日は、立ち上がる時に強い痛みを感じるようになった。夕方に、近所の歯医者に行く予定が入っていた。長いこと通っていた歯科医院が廃業したため、通い始めた医院である。歯周ポケットがあるということで、その治療をしようということになっていた。なかなか人気のある歯医者のようで、一ヶ月半も待たされての治療となった。今回キャンセルすると、また、長いこと待たされそうなので、足の痛いのを我慢して治療を受けた。歩いて10分弱の距離のところだが、往きは痛みを感じながらもたどり着けた。歯周ポケットは少し深かったので、麻酔をしての治療であった。歯肉への注射は痛いという印象が強いが、ここではゲル状の表面麻酔を塗ってから注射をしてくれたので苦痛はほとんどなかった。歯石除去の治療が始まり、痛みを感じたら教えるようにと言われた。それよりも仰向けの姿勢からくる足の痛みのほうが心配で、治療のことを気にする暇はなかった。帰り道は少し強い痛みが出たため、途中でしばらく休んだ。私が住んでいるこの地域も高齢化の波が押し寄せていて、杖やカートに頼っているシニアが多い。このため、木に寄りかかって休んでも目立たなかったことと思う。

一ヶ月後には旅行が控えているので、整形外科に行った方が良いかなと考え、帰宅後にどのような治療になるのかをWEBで調べた。数年前にやはり足が痛くなり、整形外科で見てもらったところ、脊柱管狭窄症の始まりですかねと言われたことがあった。WEBでこの病気を得意としているところを調べてみると、整形外科だけでなく、整体院、整骨院、さらには手術だけを専門としているところなど、どのように選択したら良いのか困るほどたくさんあった。どれが本当に良いのか迷う。中には、長いこと治らないで困っていた患者さんを、特別な方法で元気にしてあげて感謝されたと宣伝している整体院もあった。溺れるもの藁をもつかむ状態の時は、このような施設を頼りにしかねないとも感じた。少し遠いが前に行ったことのある整形外科にとりあえず予約を入れた。

そして、次の朝はさらに痛みを感じる。これはまずいと思い、予約なしでも受け入れてくれるしかも馴染みでもある近くの整形外科に、開院時間少し前に駆け込んだ。強い痛みが左足太ももの前部にあると伝えると、とりあえず、腰椎と股関節のレントゲン写真を撮ってみようということになった。その結果、背骨が左右に蛇行していることと、腰椎の間隔が上部の方で縮まっていることが分かった。数年前にやはり足が痛くて診断してもらったときは、足の裏側だったそうである。今回は表側なので、原因が違うだろうということであった。腰椎は5個の椎骨から構成されていて、隣りあう椎骨の間から神経が出ている。腰椎上部の上の部分からは足の表側に、下の部分からは裏側に行く神経が出ているとのことだった。腰椎に原因があるとすると、上部が狭まっているためだろうと説明された。あるいは、股関節のほうに原因があるかもしれないので様子を見て、必要があればMRI検査をしましょうということになった。とりあえず、その後のリハビリと診察を予約し、痛み止めの薬ももらった。

診察を受けてからも、痛みは治まるどころか、ますます、激しくなってくる。あまりの痛さに、体を折り曲げて歩くさまとなった。診察4日後に、とても痛いので次の検診を待たずに診察して欲しいと電話すると、今日は担当の先生がいないので、明日来てくれということだった。5分程度のところなのに歩くことができず、車を運転してやっとのことで病院に行った。妻も一緒だったので、かなり大変な痛みなのだろうと容易に察してくれたようである。立ち上がった時に痛みが来るのは股関節の可能性が高いので、その部位のMRIを撮ろうということになり、その予約をすぐに取ってくれ、さらには座薬と飲み薬の痛み止めをもらった。

最近の医療機関は専門化が進んでいるようで、MRIやCTの撮影だけを専門に行う病院がある。その日の夕方に予約がとれていたので、タクシーで出かけた。病院の中に入ると、予約制のためなのだろう数人の患者しかいない。受付で紹介状を見せ、医師の問診を受け、MRIの部屋へと導かれた。仰向けになれますかと聞かれる。座薬の痛み止めが効いているので大丈夫そうなのだが、ダメですと言ったらどうなったのだろう。痛いときはその時と覚悟して、MRIの床に寝転ぶ。大丈夫そうである。次に、足の親指同士をつけてくださいと言われた。「えっ」と言いそうになった。我慢できない程ではないが、かなりの痛みを伴う。撮影には20分かかるそうで、この間はこの痛みからくる地獄に絶えなければならない。しかも動かないようにといわれている。痛みを忘れるために、ブログの記事を考えたり数学の問題を解こうとしたりと工夫を凝らすが、痛みの方が勝って思考が中断される。手元にはもしものためにとスイッチが渡されているのだが、押すわけにはいかない。もうこれ以上ダメだと思ったとき、終わりましたと天の声が聞こえた。この病院での診断結果も添えて、依頼先の病院に画像を届けてくれるとのことであった。

週が明け、痛みを感じ始めてから12日目に、MRIの診断結果を妻と二人で聞きに行く。MRIの病院の医師も、整形外科の医師も股関節に異常はないとの診断であった。重大なことが体の中で起きているわけではないようである。医者からは、長い時間、同じ姿勢で作業をし続けたのではないかといわれる。週末にリハビリと診断をしましょうと言われた。痛みの強さはMRI検査をした日(痛みを感じてから8日目)がピークであったようで、徐々に緩和されていて、この日は杖をついているものの、真っ直ぐに立って歩けるようになっていた。

週末に病院に行ったときは、立ち上がるときに痛みを感じるものの杖も使わずに普通に歩けるようになった。理学療法士のリハビリを受け、医者からも旅行に行っていいですよとの許可を得て、やっと安堵した。

今日で痛みを覚えてから19日目。痛みはほとんどなくなったものの、痺れが残っている。外出が大丈夫かどうかを試すために、マイナンバーカードを受け取りに市役所の地区センターへと出かけた。外の空気は美味しく、青空も見事なほどに透き通っていて、普段の生活のありがたさを十分に味わった。旅行まであと10日余り、普通に歩けるようになっていればいいのだがと願いながら、健康であることのありがたさを改めて感じた。

細見和之著『フランクフルト学派 ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』を読む

なぜ、人間は戦争をするのだろう。20世紀が終わる頃、資本主義陣営と共産主義陣営の間で繰り広げられた冷戦はソ連の崩壊によって終了した。これによって、世界に民主主義が広く行き渡り、平和を享受できる時代が迎えられると夢を抱かさせてくれた。しかし、このはかない夢は、権威主義国家の台頭や新型コロナウィルスの猛威によって打ち消され、きな臭い匂いも漂い出し、ウクライナへの侵攻が始まった。まさかと思われていたヨーロッパで、人が亡くなり、家が失われ、町や村が破壊されるという状況が生じ、3年経った今でも続いている。中東でも同じように衝撃的な状況が起きている。

他方で、人類は生命科学や生成AIに代表されるような医療・科学技術を発展させた。賢いはずの人類が、なぜ、戦争のような愚かな行為を繰り返しするのだろう。20世紀の前半にもこのような状況が発生した。第一次世界大戦で多くの人の命が失われた後で、国際間の紛争を解決するための国際連盟が設けられたり、ドイツでは民主主義の典型とも言われるワイマール憲法が制定されるなど、人類の理性を結集したかに見える施策が施され、国家間の争いはこれからは起きないのではと期待をもたせてくれた。しかし、その期待は見事に裏切られ、膨大な人命が失われる第二次世界大戦が発生してしまう。このような状況をどのように見たらよいのだろう。

この時代にこのようなことがなぜ起こるのだろうという疑問を解明しようとしたのが、戦後になってフランクフルト学派と呼ばれる思想家たちである。第一次大戦終了後にフランクフルトに社会研究所が設立され、1930年前後から彼らは活動を始めた。この研究所の思想家たちはユダヤ系の出自を持つ人々で、しかも豊かな人々であった。社会研究所での活動を開始してからしばらく経つと、国家社会主義(ナチズム)が勢力を有するようになり、彼らは身の危険を感じて、国外に亡命する。そして、なぜこのようなことが起きたかについて研究する。この考察は、戦後ドイツに戻ってからも続けられる。

フランクフルト派の代名詞ともなっているのは「批判理論」である。社会研究所の設立当時の参加者であったマックス・ホルクハイマーは、1937年に長大な論文「伝統的理論*1と批判的理論*2」でこの言葉を使っている*3。伝統的理論は、自然科学に代表されるように、相互に矛盾のない法則によってその分野の現象を説明しようとする。この方法はデカルトに始まる。一方、批判的理論は、社会には矛盾が存在するとし、その矛盾を乗り越えていこうとするものである。カントの純粋理性批判にその根源がある。

フランクフルト派のもう一つの特徴は、水と油のように思われる二つの思想をまとめていることにある。フランクフルト派の始めの頃の思想家たちは、資本主義の矛盾を指摘したカール・マルクスと、無意識を心の深層としたジークムント・フロイトの理論を統合して、その当時の社会を批判した。それがホルクハイマーとテオドール・アドルノによる『啓蒙の弁証法』である。この第2章「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」では、ギリシャの詩人ホメロスの傑作「オデュッセイア」が引用されている。オデュッセイアは、ギリシャの英雄オデュッセウスがトロイアの戦いに勝利した後に、さまざまな海の冒険を経て、故郷のイタケーにたどり着き、妻と再会し家族と領土を回復するという長編叙事詩である。叙事詩の中には、「文明が自然を克服したはずなのに、逆に自然に支配されている」という矛盾が隠されているということを、フロイトの理論を応用しながら説明している*4。ここでの最終的なテーマは、「自然と文明との融和」である。ここで指摘されたテーマは、地球温暖化という課題を抱えた今日でも、重要な課題であることは言うまでもない。

ホルクハイマーとアドルノの後を引き継いだのは、ユルゲン・ハーバーマスたちである。彼らは、フランクフルト派の第2世代ともいわれる。ハーバーマスは多彩な人物で、アカデミックな理論家、社会的な批評家、果敢な論争家という面を持っている。ハーバーマスの著作の出発点は、教授資格論文の『公共性の構造転換』である。この本の前半で、18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパで、「市民的公共性」*5が形成されていた経緯を跡づけている。本の後半では、そのようにして成立した自律性を持った市民的公共性が、19世紀からの国家の介入と巨大なマスメディアの成立によって、失われてゆくさまを描いた。国家が主導権を握り、市民の生きる場は「社会圏」と「親密圏」という両極に分解していき、かつての「文化を議論する公衆」は「文化を消費する公衆」へと姿を変えたと分析した。ハーバーマスの最終的な関心は、そういう構造変換を経たのちの現在において、コミュニケーション的行為としての市民公共性をどのように再興できるかというところにあった。

フランクフルト学派は現在は第3世代となり、アクセル・ホネットなどが活躍している。彼の『承認をめぐる闘争』は、社会的な葛藤や不正義を理解するための理論を提供している。この本で、社会的なアイデンティティや人間関係の形成における「承認」の役割を探求している。ホネットは、承認論を3つの主要な形式に構成した。それらは、①親密な関係における愛、②市民社会における法(権利)、③社会的な連帯、である。これらはハーバーマスのコミュニケーション的行為の根底にあるものとして、承認ないし承認をめぐる闘争に改めて強い光を当てた。これらの承認形式が欠如すると個人はアイデンティティの危機や社会的疎外を経験する可能性があるので、これらの承認を求める闘争が、社会的な変革や進歩の原動力になると彼は主張した。この理論は、現代社会における不平等や差別、社会的排除の問題を分析するための強力なフレームワークを提供している。

矛盾を抱え込んでいる状況の中で、荒れ狂った争いを防ぐことは簡単に解決するような課題ではないようである。しかし、著者は、『啓蒙の弁証法』を説明する中で、オデュッセウスの中に潜んでいる悲惨さを語り継いでいくことが、将来に希望(メルヘン)を与えることになると指摘していた。特効薬はないが、「自然(人の欲望も含まれる)と文明との宥和」に向けての地道な努力を続けていくことの大切さを訴えていた。残念ながら、現実を見るとそう思わざるを得ないようである。

*1:ニコニコ大百科によれば、伝統(的)理論を一言で言ってしまえば、科学主義、統計主義のことである。デカルトから始まった近代科学理論は、いまではあらゆる分野に広まった。複雑な情報を統計的に処理し、理論化する。そこでは厳密なルールが定められた形式論理に基づいて、全ての部分で矛盾が取り除かれる。伝統(的)理論においては主観的な事柄と、客観的な事柄を完全に分離させる二元論[1]に基づいているのだ。客観的な数量データを統計処理し、主観によってそれを定式化する。そして逆にその定式に客観的なデータを当てはめたりすることもある。例えば心理学では、実験参加者はアンケート受け、心理学者はその結果を統計でまとめ、理論として確立する。またその理論を別のケース当てはめて問題解決の鍵とすることもできるだろう。このような用法こそが近代科学の意義である。

*2:ニコニコ大百科によれば、批判(的)理論は伝統(的)理論とは異なり、理論の内部に矛盾を持たないことを真理の証としない。というのはそもそも私たちが生きる現実社会というのは矛盾に満ちているものだからである。批判(的)理論はそんな矛盾に満ちた社会を総体として捉えるのだ。ホルクハイマーは社会というものを、個人の行為の集合体でありながら、総体としては独立した動きを示す存在であると解釈する。社会は個々の主体を超越し、彼らを従わせる巨大な主体なのである。そんな社会の持つ矛盾を積極的に意識したものが批判(的)理論であり、それは批判(的)理論が矛盾溢れる社会の自己意識であることを意味する。よって批判(的)理論は主観と客観を区別することをやめる。批判(的)理論にとって、社会は客体であるとともに主体でもあるからだ。批判(的)理論は、伝統(的)理論のように現状を観察、分析するだけのものではない。批判(的)理論の関心は、社会の総体が抱える矛盾の克服を目指すという実践的問題である。批判(的)理論は科学や学問の成果を、社会的実践に役立てることを目的とするのだ。

*3:批判を表すドイツ語の原文は、この論文では小文字の形容詞で、戦後は固有名詞の大文字で使われている、このため、著者もこの論文に対しては批判的とし、戦後のものに対しては批判を使っている。この批判(的)理論のモデルになっているのはマルクスの経済思想である。マルクスは当時の経済学者(古典派)が疑いなく前提としていた利子、地代、貨幣、そして資本主義をラディカルに(根底から)再検討し、そういうものが廃棄される新しい社会を展望していた。ホルクハイマーの批判理論もまた、これまでの理論の前提そのものの変化の可能性を信じ、最終的にそれらの前提が廃棄され社会が変革されることを望んでいたのである。

*4:ニコニコ大百科には次のような説明もある。オデュッセイアで引用されるのはそのエピソードの一つである、「セイレーンの歌」だ。オデュッセウスとその従者たちの船は、セイレーンのいる浜へさしかかる。この不気味な女共は近くにきた人間を歌で惑わして殺してしまうという恐ろしい魔女であった。オデュッセウスは娼婦の女神キルケーからこのことを聞いており、部下には耳に栓をさせ歌が聞こえないようにしてひたすら船を漕がせた。一方で自分は船のマストに手足を自ら括り付け、歌声を聞いても惑わされないようにした。こうしてオデュッセウスは見事この難所をくぐり抜けたのである。オデュッセウスは、①従者に耳を聞こえなくして船を漕がせる、②自身は身体を縛り付け魔女の誘惑に耐える、という2つの方法でこの場所を通過した。このアレゴリー(たとえ話)は自然に対する人間の支配。あるいは神話に対する支配と労働の関係性を示唆している。ここにおけるセイレーンは自然。オデュッセウス一行は自己(人類)を表している。先述したように、自然は野蛮サイドであり、(自然と区別された)自己は文明サイドの単語になる。ここでも野蛮と文明の対立があることがポイント。人類(オデュッセウス一行)というのは自己の統一性を保持し、自己の保全を目的として(つまりセイレーンに殺されないため)に、社会的分業を行う。支配者であるオデュッセウスはセイレーンの歌声による身の破滅を防ぐために、身体を縛り付ける。これは文明化した市民が身近になった幸福を、それに溺れることを厭って逆に遠ざける様子を表現している。一方で服従者である漕ぎ手はその歌声の魅力を知りながらも耳を塞がれ、ただただオデュッセウスの命令に従って労働に専念する。彼らは本来的な人間感覚(ここでは聴覚)を喪失し、命令に従うだけの被支配者になる。オデュッセウス(命令者)と従者(服従者)は、セイレーン(自然、野蛮)に打ち勝つ(自己保存する)ために、分業を行いながらも、それぞれが禁欲を強制される。自然を支配するつもりが、逆に自然に支配されてしまっているのです。ここから文明化社会の呪いが見て取れる。

*5:この時期、社交界のサロン、喫茶店、読書サークルなどを通じて、身分差を越えて人々が集い、語り合う場が成立していった。そこでは、自由に発言しあうために、貴族もまた一般市民と同等であることを望んだ。

田中史生編『日中関係史』を読む

日本と中国との関係は、世界の歴史の中でも最も長く続いている二国間関係の一つだろう。『後漢書』には、後漢の光武帝が朝貢してきた「倭の奴の国」に「印・綬」を与えた(西暦57年)という記載がある。そして、これに符合するとされる金印は、江戸時代に博多湾口の志賀島で発見されている。二国間の関係はこれよりも前にさかのぼることとなるので、少なくとも2000年以上は続いていることが分かる。このように長い二国間の関係をたどってみようというのがこの本である。

両国の関係は、日本の戦国時代を境にして変化する。室町時代までは朝貢貿易により中国の文化を積極的に受け入れていたが、江戸時代になると長崎の出島を窓口とした国交なき貿易から分かるように細々とした交流になり、明治以降は競合するようになる。

大陸国の中国は、農業を生業とする人々と遊牧をそれとする人々の間でのせめぎあいの歴史であった。このような環境の中にあって、国家を統治する方法は早い時期に確立された。最初の王朝が成立したのは、今から4000年以上も前のこととされている(この頃は日本はまだ縄文時代である)。長い歴史を経る中で、中国が育んできた外交政策は冊封*1である。先に金印を説明する中で、奴国が朝貢したと説明したが、これがそうである。冊封が終了したのは19世紀末とされている。

中国は、後漢のあと、短命の国が複数分立した五胡十六国の時代を迎える。この時代に、倭の王権の体制保証と国際的優位性を付与してもらうために、5世紀には倭の5代の王が南朝の宋に入貢し冊封を受けている。

6世紀末には中国大陸を統一した隋が出現する。これを受けて、朝鮮半島の三国が冊封を受ける。倭国は冊封を受けないものの、これに遅れまじと遣隋使を送って朝貢する。その後すぐに隋が倒れ唐が建国すると、すかさず遣唐使を送る。さらに、8世紀初頭には中国の律令制度に倣って大宝律令を制定し、その少し前には国名を日本、倭国の大王を天皇と称した。

8世紀前半に10~15年おきぐらいに遣唐使が派遣されたものの、その後半には唐で安史の乱が発生したこともあり国家間の交流は消極的になる。しかし、天武系から天智系へと天皇の系統が変わった9世紀初めの平安時代初頭には、唐の勢いが衰えているにも関わらず王権の力を誇示する目的から遣唐使が派遣された。遣使には、この後の時代の仏教を興隆に導く最澄・空海が含まれていた。しかし、9世紀末になると、予定された遣唐使は唐の衰えを理由に菅原道真によって中断された。

10世紀初めに唐が滅びると、中国は再び短命国が複数並び立つ五代十国の時代となる。この頃の日本は、平安時代後期から鎌倉時代前半で、交流したのは宋である(五胡十六国時代の宋とは異なる)。宋は10世紀後半から13世紀後半まで続いた王朝であるが、12世紀半ばに女真族の金に華北を奪われて南遷した。これより前を北宋、後を南宋という。宋は、貿易振興の目的で各地に市舶司を設置し、日本、高麗、南海との貿易を行った。日本は、大宰府の統制下で鴻臚館貿易を行ったが、刀伊の入寇の頃から太宰府権能の衰微が始まった。日宋間では正式の外交貿易は行われず、一般人の渡航は表向き禁止されたが、宋の商人は主に博多や薩摩坊津そして越前敦賀まで来航し、私貿易を盛んに行った。

11世紀初めには入宋僧の活躍も目立つ。例えば、奝然は円融天皇から宣旨を受け、海商陳仁爽・鄭仁満の船で入宋している。寂照・成尋も同様である。彼らは依頼主の罪業消滅を期待されている場合もあった。12世紀中頃には、東大寺大仏殿を再建した重源、禅宗を伝えた栄西も入宋している。

鎌倉時代の13世紀から14世紀初めには、禅宗を広めた俊芿(しゅんじょう)・道元・円爾も入宋するが、反対に宋からの渡来僧も目立つようになる。蘭渓道隆(時頼)・兀庵普寧(ごったんふねい、時頼)・無学祖元(時宗)・東明慧日(貞時)などが招聘され、鎌倉の建長寺・建仁寺・円覚寺の住持となった。

鎌倉幕府が倒された後の南北朝時代(14世紀)は戦いに明け暮れ、中国も明王朝が誕生する激動期にあり、両国とも国内体制は安定していなかった。このため、両国の間の安全な貿易は保障されず、前期倭寇と呼ばれる海賊が跋扈した。

14世紀後半に、足利義満と永楽帝が室町幕府と明王朝の政権を確かなものにする。義満は民間貿易を禁じている明と貿易をするための方便として、冊封を受けた。朝貢貿易は、一時的な中断はあったものの室町幕府が衰退するまで続けられた。しかし、幕府の力が衰えた時代には、朝貢貿易を実際に実施したのは、管領の細川氏や守護大名の大内氏であった。室町時代の朝貢貿易は、勘合符を用いて行われた。勘合を所持している船が、朝貢貿易の権利を持っていると見做された。

16世紀前半には、勘合符の所持で争っていた大内氏と細川氏が、中国の寧波で中国側も巻き込んで遣明船を焼き払うなどの激しい争いを起こした。この事件をきっかけにして、私貿易・密貿易が活発化し、後期倭寇が跋扈した。後期倭寇として知られているのは、王直である。後期倭寇(わこう)の首領。中国安徽省出身で、塩商だったが失敗して密貿易に転じた。16世紀半頃の海禁政策のゆるみに乗じて、広東で禁制品の密貿易をした巨大な富をたくわえた。その後、日本の五島列島に拠点を移し、嘉靖の大倭寇とよばれる海賊活動をおこし、数百隻の船団で中国沿岸を襲撃したが、明の総督胡宗憲の勧めに応じて投降し斬首された。

16世紀後半には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって国内は統一され、中国や南アジアとの貿易が盛んとなる。しかし、徳川幕府が落ち着いた17世後半以降、幕府の貿易制限策によって鉱物の輸出は制限された。しかし、生糸・砂糖・朝鮮人参に対する輸入の需要は強かった。8代将軍徳川吉宗の時、これまでの主要な輸入品の国産化が進められた。生糸は18世紀前半には生産が増大し、西陣織に代表される絹織物の生産を発展させ、18世紀後半には中国産生糸・絹織物の輸入は大幅に減少した。砂糖は日本ではほとんど生産できずオランダ船による輸入砂糖に依存していたが、18世紀前半より高松藩・薩摩藩で国産化が推進され、19世紀初めには国産砂糖が輸入品を圧倒するようになった。また、朝鮮人参の国産化にも成功した。

貿易の変化は、長崎経由の貿易だけでなく、琉球・対馬にも及んだ。琉球は、薬種・唐雑物を輸入し、海産物(日本産の俵物・諸色)を輸出し、対馬は銅の輸出と薬種を輸入するようになった。こうして、銀・生糸による日中貿易の時代は終わり、18世紀の日本市場は中国経済から自立していった。

本の後半では近代・現代の日中関係が説明されているが、ここでは割愛する。

ここまで見てきたように日中間では、政権がしっかりしているときは振興策あるいは制限策は官主導の貿易で行われ、そうでないときは海賊行為を伴うこともありえる私貿易が盛んであった。この本を読む前に、上田信著『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』を読んだばかりだったので、戦国時代についての私貿易についてはさらに理解を深めることができた。特に、上田さんの本には、 倭寇の取り締まりを行った鄭舜功の目を通しての戦国時代の日本人像が描かれていたので、この二つの本を合わせて読むと、戦国時代から江戸時代にかけての両国の関係を知るうえで助けになることが多いと感じた。

最後に両国間の貿易品目の推移をあげておく。

・唐との貿易
  輸出:琥珀(蝦夷)・瑪瑙(メノウ)・紙・美濃絁(あしぎぬ)・水織絁(みずおりのあしぎぬ)
  輸入:あらゆる分野の書物・仏教関係(仏像、図像、香薬)・高級絹織物・高級工芸品

・北宋との貿易(平安後期)
  輸出:金・硫黄・巻貝(奄美諸島以南、螺鈿細工)・工芸品(刀剣・扇・蒔絵)
     南宋では木材も加わる
  輸入:陶磁器・香薬・織物

・遣明船での貿易(室町時代)
  輸出:硫黄・工芸品(刀剣・扇・蒔絵)・銅
  輸入:生糸・絹織物・銅銭・香薬・書籍

・清との貿易→高級品・奢侈品から民生品へ

*1:冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」という意味である。冊封体制は、二国間の外交関係を著し、中国王朝の天子と周辺国の君主が臣下の関係になることを指す。君主が臣下となった周辺国には、毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用する義務があり、中国からの出兵命令に応じなければならない。その逆に、攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。

田口善弘著「知能とは何か」を読む

高校生の頃、物理は悩ましい科目だった。授業で出てくる式がなぜ正しいのかが理解できず悩んだ。まるで、神の啓示でもあるかのように提示されるので、何も考えずに受け入れなければならないように感じ、それに反抗する感情さえ生まれた。

半世紀以上も経って、高校生の時に抱いた疑問をやっと解消してくれたのがこの本である。この本には、物理は物理現象をシミュレーションすると書かれている。そう、物理的な現象を正確に再現できるようにしてくれるものである。そうであるとすれば、高校で教わった方法(いわゆる物理学)だけでなく、他にもいくつかの方法があっていいことになる。物理学は、神の啓示ではなく、物理現象を説明するための一つの物語に過ぎないこととなる。あの時、授業での内容に従わずに、自分で新たな物語を作ってもよいのだと、一言教えてもらっていれば、随分と救われたことだろう。

この本の内容は、私の高校時代の再現でもある。AIは人間の力を超える恐ろしいものであると思われているが、そうではないというのがこの本の主張である。人間の脳は現実世界をシミュレーションしているとみなしている。そして、人工知能も脳と同じように現実世界のシミュレーションをしているに過ぎないと看破している。それぞれが、別の方法でシミュレーションしていると、著者は考えている。

著者は、物理学者で、非線形非平衡多自由度系の研究者である。非線形非平衡多自由度系は、「線形」でなく、「平衡」でなく、「少ない自由度」ではない物理現象である。ここで、「線形」は、二つのものが同時に存在する時、二つのものが別々に存在した場合の重ね合わせで理解できるというものである(例えば、1.5ボルトの乾電池を直列につなげば3ボルトとなる)。「平衡」は、時間的変化がないことである(今見た状態が永遠に続く)。少ない自由度は、数少ないものによって決定されるということである。

1990年代に、非線形非平衡多自由度系の研究が盛んに行われたそうである。チャットGPTに代表される大規模言語モデル(LLM)は、その中身において、非線形非平衡多自由度系と何ら変わらないそうである。この時の研究から類推して、大規模言語モデルというのが現実世界のシミュレーションの範囲にとどまるだろうというのが、筆者の論点である。

人工知能の研究史、大規模言語モデルで用いられている深層学習、効率的な脳などの興味を惹く話題が、平易な言葉で説明されていたので、半日ほどで読むことができた。高校時代に抱いた疑問にも答えてくれた素晴らしい本であった。

憂世(うきよ)と浮世(うきよ)

所属しているアマチュアの歴史研究会では、メンバーがそれぞれの研究成果を紹介することになっている。今月は私の番だったので、『憂世(うきよ)と浮世(うきよ)』ということで発表した。

江戸時代は、高い年貢をとられる食うや食わずの百姓や傘張りの内職で糊口を凌ぐ浪人たちのイメージが強く、とても過酷であったと学校教育で教えられた。しかし、浮世絵に代表されるこの時代の文化は、西洋ではジャポニズムとしてもてはやされた。緊縮財政・質実剛健を強いてくる幕府の政策下にありながら、自由奔放・享楽的とも見える江戸の文化はなぜ開花したのだろう。この謎を解くカギは「中間層の拡大」と「知的欲望の湧出」と考えた。そして、なぜこのような結論に至ったかについて、経済学や精神分析での理論を利用して、謎解きを行った。

憂世(ゆうせい)は、元々は仏教用語で、平安後期から中世にかけて無常観や穢土観など仏教的厭世思想の色合いをもって使われたと、司会者の方から教わった。タイトルだけから判断した人は、仏教的な内容と思った人もいたようだ。この論文ではそうではなく、憂世は、つらいことの多い世の中、苦しみに満ちたこの世という意味で使っているので、あらかじめ断っておく。

また、浮世は「ふせい」とも読むそうで、仏門に入られた司会者の方は、題名を「憂世(ゆうせい)と浮世(ふせい)」といわれたが、ここでは少ししゃれて、「憂世(うきよ)と浮世(うきよ)」とした。興味を持たれた方は、以下の論文を読んでほしい。

エルヴェ・ル・テリエ著『異常 アノマリー』と虚数との関連について

3年前、フランスの作家・テリエさんが書いた『異常 アノマリー』が日本でも評判になった。彼はフランスで最高峰の文学賞ともいえるゴンクール賞を、2020年にこの小説で受賞している。多くの書評で紹介されているので、読まれた方も多いことと思う。私も友達に勧められて、楽しく読んだ。読後感は、「デリダの差延(彼の造語でdifféranceと綴る。différerが異なるという意味と遅らせるという意味を持っていたので、差異+遅延を意味する名詞を作りだした。)という言葉を、推理小説のなかで素晴らしく上手に表現している」である。この本は筋を追っていくことに醍醐味があるので、タネを明かしてしまうと読む楽しみが半減してしまう。したがって、触れない方がよい。

しかし、今日の話題を進めるためには、少しだけその筋を説明しなければならない。この本には、殺し屋、小説家、建築家、弁護士など関連のなさそうな11人が登場する。そして、三部構成になっている。第一部では、それぞれの人のこれまでの人生が綴られる。そして、彼らは一つの事件を共有する。同じ飛行機に乗り合わせ、その飛行機は乱気流に巻き込まれてしまう。第二部では、この事件の3か月後の彼らの姿を描き出す。最後の第三部では、3か月後にタイムスリップした人々と、事故直後の彼らとの出会いが語られる。この出会いの部分はスリリングでとても面白い。本の中で楽しんで欲しい

この本が刺激的だったこともあり、しっかりと頭の中に記憶されていたことと思う。といっても、最近では思い出すことはなかった。そのようなとき、妙な夢を見た。数学での虚の世界が、何の脈略もなく、登場した。起きてからなぜだろうとしばらく考えた。先日、この本を勧めてくれた友人が突然入院した。そのことが刺激となって、頭の中を駆け巡ったためだろう。寝ているとき、友人をキーワードにしてこの本が呼び起こされ、そして、同一の人を別々の二人として見る世界、どちらが真でどちらが虚であるかが判然としない二つの不思議な世界で悩んでいるうちに、解決策として虚を扱った数学の世界が現れたのだ。

そこで、ここからは夢に現れてきた世界である。虚数を習うのは高校の2年生ごろなので、それほど高等な数学の分野ではない。でも、ここでは数学の常套的な説明ではなく、できるだけ物語的な説明になろよう試みることにしよう。人が左回りに半径$a$の円を描きながら移動しているとしよう。$t$を移動した長さとすると、直交座標系$(x,y)$では次のように表すことができる。

\begin{eqnarray}
x &=& a \cos t \nonumber \\
y &=& a \sin t \nonumber \\
\end{eqnarray}
また、円の周りを歩いていることから
\begin{eqnarray}
x^2 + y^2 = a^2
\end{eqnarray}
が成り立たないといけない。

上記の式で、$a=1$としても一般性は失われないので、ここからは$a=1$とする。

ところで、ここでの$x$と$y$は何を表しているのだろう。人が円の周りを移動している時、水平方向にプロジェクションしたのが$x$であり、垂直方向に写し出したのが$y$である。両者とも、水平方向、垂直方向に写っているイメージの動きを表していると見てよい。

もちろん、人とイメージの間には、距離がある。先の$x$と$y$ではこれを表していない。そこで、見えていないものを表すことにしよう。見えていない世界を虚数$i$で表すことにする。例えば、人とイメージの間の長さが$h$であったとき、これを$ih$で表すことにする。ここで、$i^2=-1$である。整数や実数は、自分自身をかけ合わせたものは正の数になると教わっている。それに対して虚数は自分自身をかけ合わせると負の数になってしまう。違う世界に属していると感じさせてくれるのが虚数である。

そこでイメージの位置とそこまでの長さをともに表すことにする。それらを、水平方向は$x'$、垂直方向は$y'$とすると、それぞれは次のようになる。
\begin{eqnarray}
x' &=& \cos t + i \sin t \nonumber \\
y' &=& \sin t +i \cos t
\end{eqnarray}
数学の世界では、虚数を用いた数を複素数と呼んでいる。そして、イメージの位置を実部、イメージまでの長さ(虚数の部分)を虚部と呼んでいる。

これらの式から次の関係が成り立つことがわかる。
\begin{eqnarray}
x^2+y^2 &=& \cos^2 t +\sin^2 t\ \nonumber \\
&=& ( \cos t + i \sin t)( \cos t - i \sin t) \nonumber \\
&=& x' (-iy') \nonumber \\
&=& 1
\end{eqnarray}
これは何を表しているのだろうか。$x'$と$y'$とは、プロジェクションした場所が異なっているだけで、実は同じものをそれぞれの方法で表現している。垂直方向にプロジェクションして得られている$y'$を、水平方向のそれに変えるためには、それの虚像を作ればよいので(鏡に写して左右が反対になってしまった鏡像をもとに戻すには、それを別の鏡に写せばよいのと同じ原理)、$iy'$とすればよい。ところが、$i$は$i^2=-1$なので、垂直方向にプロジェクションし直したときは、符号を反対にする必要がある。そこで、
\begin{eqnarray}
{-} i y' = \cos t - i \sin t
\end{eqnarray}
を得る。$x'$と$-iy'$との違いは、虚部の符号が異なるだけである。イメージへの長さを表すときには、正負の符号にこだわらなくてよかったことが分かる。数学では、虚数の符号が入れ替わったものを共役数という。表現上は異なっているが同じものである。

同じように、次のこともいえる。
\begin{eqnarray}
y^2+x^2 &=& \sin^2 t +\cos^2 t\ \nonumber \\
&=& ( \sin t - i \cos t)( \sin t + i \cos t) \nonumber \\
&=& (-ix') y' \nonumber \\
&=& 1
\end{eqnarray}

数学的な話はここまでにして、テラリさんの『異常』に戻ろう。飛行機事故の後、3年後を生きている人を$y'$、事故直後を生きている人を$x'$としよう。同じ人なのだが、$y'$と$x'$として、別の二つの世界を生きている。それでは、二人が出会った瞬間、例えば$y'$が$x'$になるときどのようなことが起きるのだろう。$y'$は$x'$に戻ろうとするので、$-iy'$となる。従って、
\begin{eqnarray}
x' &=& \cos t + i \sin t \nonumber \\
{-} i y' &=& \cos t - i \sin t
\end{eqnarray}
となる。ここで、前述したように虚部の符号が違っていることに気がつく。これを同じとみるのだろうか、あるいは「デリダの差延」と見るのだろうか。私は、後者と見たのだが、皆さんはいかがだろう。

ラカンの精神分析によれば、幼児は鏡に写った姿をみて自身を認識する。しかし、それは鏡に写っている者なので本当の自分ではない。左右も逆なのでその通りである。彼の理論では、自身を他人として認識しているとしている。それでは、鏡に写った姿を別の鏡に写したのは、真実の自分だろうか。確かに左右は逆ではない。元に戻っている。他の人が見ている自分とも同じである。でも、他人としての自分を鏡に写したことで、本当の自分になるのだろうか。そこに写っている自分は、いつも鏡で見ている自分でもない。やはり、他人としての自分ではないだろうか。このため、デリダが言う差延なのではと思った次第である。

最後に、参考までにそれぞれの関係を圏論で示しておく。

熊本・宮崎の古墳・神社巡り(三日目)―大規模古墳群

いよいよ旅行の最終日になった。この日は、大規模な古墳群を見るために、熊本から人吉盆地を抜けて宮崎への大移動である。

そして、天気の方も荒い歓迎をしてあげようと思ったのだろうか、熊本の山間部では雪が予想されていた。案の定、八代から人吉へと山中を抜けていく九州縦貫自動車道では、長いトンネルを出ると必ず雪に見舞われた。運転手さんは大変だったことだろうが、乗客である私は久しぶりの雪景色を楽しんだ。

人吉盆地に到着し、ここでの見学場所は青井阿蘇神社である。この神社の境内にある楼門・拝殿・幣殿・廊・本殿は国宝である。人吉藩主・相良氏による江戸時代初期の建築で、球磨地方独自の意匠が施されていることが評価されての結果である。これらの建物は、黒漆を基調とし、組物を赤漆で装飾し、急勾配の茅葺屋根を特徴としている。創建は大同元年(806)とされ、阿蘇神社から12柱のうち3柱(阿蘇大明神(健磐龍命)、阿蘇津媛命(妃)、速甕玉命(はやみかたまのみこと・初代阿蘇国造))を勧請したとなっている。
楼門。

組物の赤漆。

拝殿。

左が拝殿、右が幣殿。

左が幣殿、中央が廊、右が本殿。

幣殿の内部。

欄間は仏教様式。一般に、寺院は装飾し、神社は簡素にするが、青井阿蘇神社はそうなっていない。仏教様式の装飾になっているのは、江戸時代は神仏習合であったことによる。

「みそぎばし」から楼門を望む。

左は御神木(くすのき)、右は建築家の隈研吾さんが設計した参集殿。

次の見学場所は、かつては新婚旅行のメッカであった宮崎・青島である。

青島への橋。左が青島、中央が青島神社の鳥居、右が奇岩「鬼の洗濯板」である。「鬼の洗濯板」は、中新世後期(約700万年前)に海中で出来た水成岩(固い砂岩と軟らかい泥岩が繰り返し積み重なった地層)が隆起し、長年にわたって波に洗われ、砂岩層だけが板のように積み重なって残り、このような形状になった。

「鬼の洗濯板」。亀の頭みたいである。

亀甲のような小さな枠が造られ、その内側が削られている。

青島神社拝殿。

元宮。

亜熱帯性植物のビロウ樹。樹林の中を散歩していると、南国にいるような気がしてきた。

やっと、古墳群の見学である。訪れる場所は宮崎市の生見(いきめ)古墳群と西都市の西都原(さいとばる)古墳群である。宮崎県には3600基の古墳があるとされている。川の流域ごとにどのような古墳があるかは、シンポジウム「世界文化遺産としての古墳を考える Part IV」から読み取ることができる。

上図から、生見古墳群は前期(4世紀)がピークで、中期(5世紀)には勢いを失っていくことが分かる。それに対して、西都原古墳群は前期には小規模な古墳が多数あり、中期の初めになると突然大規模な古墳が造られ、その後同じように威勢がなくなる。

それでは、生見古墳群から見ていこう。この古墳群は、宮崎市街地の西部に位置し、大淀川右岸の標高約20mの丘陵上に南北約1.3㎞、東西約1.2㎞の広さである。Google Mapで見ると南北に展開していることが分かる。

Google Earthを用いて3次元で見る。墓の形状が分かりやすい。

2003年の宮崎市教育委員会発行の「史跡生見古墳群―保存整備事業 発掘調査概要報告書Ⅳ―」によると古墳群の概略は以下のようである。また、この古墳群の前方後円墳は4世紀から5世紀初めに造られたとされている。

生見古墳群のガイドブックから、それぞれの古墳が造られた時期が分かる。

5世紀初めに造られた5号墳。前方後円墳で墳長は57mである。この古墳では、後円部と前方部は2段に造られ、墳丘の表面は河原石を並べた葺石になっている。また、墳丘の東側の平坦な場所に埴輪が並べられていたことが分かっている。この古墳の復元は当時と同じようにほとんど手作業で行われ、表面には約90,000個の葺石が当時の並べ方そのままに再現されている。

前方部より後円部を望む。埴輪が並んでいたのは、左側の奥の平坦なところだろう。

4世紀に造られた14号墳。前方後円墳で墳長は63mである。発掘調査では、当時のままを残す葺石が発見された。また、5号墳で出土した埴輪と同じ形状のものが発見された。

4世紀中ごろに造られた3号墳。前方後円墳で墳長は143m、高さ12.7mである。この古墳群の中で最大で、九州でも3番目の大きさである。

4世紀に造られた21号墳。前方後円墳で墳長は35mである。この古墳群の中では最小の規模である。この古墳の周りで13基の地下式横穴墓が確認された。ここでの地下式横穴墓は、周溝の底に竪穴を堀り、そのあと周溝の外側に向けて横穴を掘り、羨道と玄室を設けて墓を造っている。

生見の杜遊古館では発掘品を見ることができる。

円筒埴輪。

復元埴輪。

須恵器(7号墳)。

地下式横穴墓。古墳時代の南九州には、「地下式横穴墓」が多く存在し、これは名前の通り地下に造られた墓で、平坦な大地の上に造られた。これまでに1000基以上見つかっていて、中には前方後円墳に埋葬された人物の副葬品と見劣りしない多様な品々を出土するものもある。地域の有力者が前方後円墳ではなく、地下式横穴墓に埋葬されたこともあったとされている。ここの古墳群では50基を超えている。また、前方後円墳の周囲で発見されることが特徴である。写真で人がいるところに竪坑が掘られ、そのあと横穴が掘られる。そして、死者が埋葬されたら竪穴は埋め戻される。

地下式横穴墓からの頭蓋骨、土師器と須恵器。

同じく土師器と須恵器。

同じく高坏。

同じく鉄刀・鉄斧・鉄鏃。

それでは最後の訪問地である西都原古墳群を見ていこう。この古墳群は、標高50~80mの台地上に東西約2.6㎞、南北4.2㎞と広大である。3世紀後半から7世紀前半にかけての古墳が300基あまり、点在している。
Google Mapで見た古墳群。

Google Earthで俯瞰してみる。

九州に古墳を見に行きたいと思うようになったのは、ある人から宮崎には広大な古墳群があると知らされたときからである。それがこの西都原古墳群である。このため、ゆっくりと見学したいという希望を抱いていたが、帰りの高速道路が交通事故のため使用不可能ということで、帰りの飛行機に間に合わせるための急いでの見学となった。

見学できた古墳は、鬼の窟古墳だけとなった。この古墳の名前は通称で、正式には206号墳である。西都原台地のほぼ中央部に位置し、直径37m、高さ7.3m、土塁の高さ約2~2.6m、土塁の基底部幅約9mを有している円墳である。西都原古墳群では唯一の横穴式石室を持ち、墳丘の周囲には土塁(外堤)を廻らす特異な形状をなし、全国的にみても他に例がない。

石室の天井石は畳3枚程の大きな石を使用し、石室の規模は、羨道の長さが4.82m、幅2.29m、高さ1.8m、奥方の玄室は、長さが4.82m、幅2.29m、高さ2.15mである。全てが加工された切石で積み上げられている。築造時期は、古墳時代後期から終末期の6世紀後半から7世紀初頭頃とされている。

鬼の窟古墳の外堤手前。

横穴式石室入口。

石室内部。

外堤より周囲を望む。周りには古墳が見える。

宮崎県立西都原考古博物館近くの古墳。

西都原考古博物館。地元の那須設計が設計した。

埴輪 子持家。

埴輪 船。

壺。

器台。

さて、埴輪に関係するものが出てきたので、埴輪の起源について説明しておこう。古墳時代に先立つ弥生時代に、器台の上に壺を逆さにして乗せたものを、農耕祭祀の道具として用いた。古墳時代になると、この形式が死者を祀るために使われるようになった。そのとき、器台と壺は特殊器台と特殊壺に変化し、昨年のトーハクの『ハニワ展』で見たような形となった。

地下式横穴墓から出土した頭蓋骨。

女性の頭髪復元模型。竪櫛が付いたままの頭蓋骨が発見されたので、それをもとに復元された古墳時代の女性の頭髪である。

西都原古墳群には、九州地区では最大級の古墳が二つある。男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)で、前者は天孫降臨したニニギノミコト、後者はその妻のコノハナサクヤヒメの御陵である*1。男狭穂塚古墳は墳長154.6mで国内最大の帆立貝形古墳であり、女狭穂塚古墳は、墳長176.3mの前方後円墳で九州最大規模を誇っている。陵墓参考地であるため、特別参拝日以外は見学できない。館内では映像で紹介している。左側が女狭穂塚、右側が男狭穂塚である。

3日間かけて、古墳と神社を巡った。一人で計画を立てて廻ったとしたならば、このような短い時間の中で、これだけのものを見学することは不可能だっただろう。この分野に詳しいガイドさんが、上手に選択し、効率よく見学させてくれたことで、予想以上に大きな収穫を得ることができた。特に、装飾古墳と地下式横穴墓については全く知識がなかったので、古墳時代の九州の特殊性を知るうえで、良い材料が得られたと感謝している。最後の西都原遺跡は見学する時間が短く消化不足であった。しかし、これだけの広大な古墳群を見ようとすると、少なくとも一日はかかるので、次の機会があることを期待したい。

*1:神話では二人は次のように伝えられている。高千穂の地に天下った天つ神の皇子「ニニギノミコト」は、ある日小川で美しい姫「コノハナサクヤヒメ」に出会い、一目で心を奪われてしまう。ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメの父「オオヤマツミノカミ」に姫との結婚を申し入れ、めでたく結婚する。しかし、夫婦としてともに過ごした一夜が明けるとニニギノミコトは反乱部族の討伐へと旅立って行く。時が過ぎ、無事帰還したニニギノミコトはコノハナサクヤヒメの懐妊を告げられる。一夜限りの逢瀬で子どもを授かったことが信じられないニニギノミコトは姫の貞節を疑う。「子どもはほかの国つ神の子ではないのか」と言われ、姫の心は深く傷つく。あらぬ疑いを掛けられ、悲しみに怒りをおぼえた姫は、「もし生まれてくる子がほかの国つ神の子であるなら、無事に生まれないだろう。 しかし、天つ神ニニギノミコトの子であれば、たとえ火の中でもきっと無事に生まれるだろう。」と言って、姫は出口のない産屋にこもった。出産の時が近づき、姫は産屋に火を放った。燃えさかる炎の中で無事に3人もの子を産み、姫は身の潔白を証明した。

熊本・宮崎の古墳・神社巡り(二日目)―装飾古墳

この日に見る古墳は、日本全国にたくさんある古墳の中でも変わりものであろう。石室の中に装飾が施されている。このような装飾古墳は、熊本県におよそ200基あり、全国には約700基である。熊本から全国へ広がったとみられている。装飾という様式を伝える独自のネットワークが存在したようだ。

ところで、古墳はなぜ生まれたのだろう。松木武彦さんの『はじめての考古学』によれば、今から紀元前3000年前の中央ユーラシアに起源があるようだ。この地に「地面に木材などで墓室を作り、その上に高く大きく土を盛り上げた墓」が出現し、紀元前の数百年で急速に大型化しながら東西に広がった。中国には紀元前5世紀頃の戦国時代から土を盛り上げた同じ系統の墓が発達し、秦の始皇帝の時に頂点に達した。紀元後になると、地球規模の寒冷化に伴って、巨大な帝国(漢・ローマ帝国)が衰退し、滅亡していく。漢の歴代の皇帝も大きな墳墓を築いたが、その滅亡とともに墳墓の造営は廃れていく。逆に、周辺地域の高句麗・百済・新羅・加那・大和の各国では、漢の皇帝たちに倣って、王の権威を示す手段として大きな墓を作るようになる(西ヨーロッパでも同じようなことが起きる)。

中央ユーラシア、中国、新羅、加那では、地面に墓を作って王を埋葬し、その上に礫や土を盛り上げて墳丘を完成させた。高句麗や百済では石を積み上げていく途中で石室を設けた。これに対して、日本列島の古墳は、まず土を盛り石を葺いて墳丘を作り、その後で、頂上に浅い墓穴を作り、その中に作られた石室に王を埋葬した。日本列島だけが埋葬が最後であるのも特徴の一つである。また、墓が墳丘の上部にあるのも特徴で、亡くなると天に登るという思想を、反映したのではないかと松木さんはみている。さらには、中国、高句麗、新羅、百済では大きな墓はほぼ王だけに限定されているのに対し、日本ではあちらこちらに大きな墓が存在しているのも異なる。これはヤマト王権が軍事的な統一ではなく、卑弥呼という女性をみんなの王にしたと魏志倭人伝で書かれているように、合意と連合の産物によるとされている。すなわち、中心のヤマトには大王(王の中の王)の古墳が築かれ、地方にはその土地の王(首長)の古墳が築かれた。墓の大きさは、大王を中心とする連合の中での王の序列を表現していると考えられている。

大和王権が発足したのは3世紀中ごろとされている。奈良盆地で最大の古墳である箸墓古墳が、初代の大王の墓とみられている。この墓と同じ前方後円墳は、大和を中心に近畿・瀬戸内・九州北部に主に分布し、東日本にも小規模のものが散在する。また、前方後方墳は、その最大のものは近畿を中心に分布するが、たくさんのものが東日本に存在する。そのほか、円墳と方墳もかなりの大きさを有するものが全国にある。それぞれの古墳の形には地域性も見られることから、大王との結びつきの濃淡や強弱を表しているのではないかと考えられている。

大和王権成立当初の副葬品は、鏡、腕輪型石製品、銅鏃(どうざく)だが、埋められている数の多さは大和王権との繋がりの強弱を表しているとされている。また、種類での偏りは、大和王権と地方の王たちの間に異なるネットワークが種類毎に存在していたのではとされている。また、副葬品の内容から埋葬者の性別を知ることができる。そこからは、大和政権が発足した当初は埋葬者の男女比は6対4であり、ジェンダーによる違いが小さかったことが分かっている。

大和王権は3世紀中ごろから4世紀中ごろまで奈良盆地に大規模な古墳を築いていたが、4世紀の終わりごろになると大阪平野に築くようになる。ここからは古墳時代の中期とされる。この時代になると大王により強い権力が集中し、前期が重なり合う弱いネットワークであったのに対し、中期になるとネットワークは一元化される。各地の王や有力者の大多数は男性が占めるようになり、甲冑や矢が副葬されるようになる。中期は、中国の史書に記される倭の五王の時代で、朝鮮半島での権益の獲得と保持を狙って、中国南朝・宋からのお墨付きを求め、朝鮮半島の勢力の一部とは緊張関係にあった。この時期の大王の前方後円墳は巨大化し、外交の窓口であった大阪湾沿岸に築かれ、国威を発揚したと考えられている。また、前期にはバラエティに富んでいた各地の王の墓も、中期には前方後円墳に統一されるようになる。さらに、各地の王の古墳にも賑やかな埴輪が飾られるようになる。須恵器や馬など、朝鮮半島から先端の技術が導入されたのもこの時期である。

6世紀は後期と区分される。巨大だった前方後円墳は、規模が小さくなり始める。この時代、5世紀に大陸から伝わってきた横穴式石室が爆発的に普及する。この石室は墳丘の底に近いところに造られる。このため、墳丘を高く大きく作ることの意味が薄れて、石室の内部やその空間を大きく美しく示すようになる。中期の前方後円墳が三段で築かれたのに対し、後期は二段が通例となる。穀類の生産が発展したことで生活に余裕がでてきて、地域のリーダーも小さな円墳や山すそなどに数十あるいは数百基にも及ぶ墓(「群集墳」と呼ばれる)を副葬品を伴って造ることになる。しかし、7世紀になると仏教の影響を受けて寺院建設が盛んとなり、前方後円墳は消滅し、古墳時代の終末期を迎える。

少し、前置きが長くなったが、それでは、熊本の装飾された古墳を見ていこう。この日の行程は下図のように、菊池川に沿って下流に向かう。

熊本の古墳は他の地域ではあまり見られない横穴式石室を持つ。肥後型横穴式石室と呼ばれるが、これには二つの構造がある。一つは単室構造、もう一つは複室構造と呼ばれる。単室構造は羨道と玄室からなり、複室構造は羨道と玄室の間に前室が設けられる。この場合には、玄室は後室と呼ばれることもある。玄室には、主たる埋葬者の遺体が安置される石屋形がある。石屋形は前面に開いていて、死者が見えるようになっている。そして、後方と側面には装飾が施されている。側面の屍床にも死者を安置できるので、この墓には複数人が埋葬される。また、天井がドーム型になっているのも特徴である。図は熊本県装飾古墳総合調査報告書(1984)からのコピーである。

最初はチブサン古墳とオブサン古墳である。チブサンは、石屋形に描かれた文様が乳房に見え、オブサンは「お産」に由来しているとのことである。チブサン遺産の横穴式石室には、山鹿市の職員の方が扉の鍵を開けてくれたので、石室の中を見ることができた。石室は複式構造で、扉の中に入るとそこは羨道である。さらに進むと保護扉に行きつく。そこの扉も開けてもらい、這うようにして中に入ると前室である。前室と玄室の間には観察窓が設けられているので、そこから、石屋形を観察する。内部は写真を撮れなかったが、近くにその複製がある。壁面には三角形や丸を用いて幾何学模様が描かれている。そして、左側に、白い大きな丸の中に小さな黒い丸が二つ並んでいるが、乳房に見えるだろうか。私にはどうしても目のように見える。

この古墳は、6世紀初め(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、墳丘長が約55m、後円部の高さが約7mである。

前方部と後円部の間のくびれ部分に立てられていたと伝えられている石人(石人は九州地方に多く出土する)、

朝顔形埴輪と円筒埴輪が出土している。このほかには、須恵器・土師器が見つかっている。

次のオブサン古墳は円墳で、直径は約22m、高さは約5mである。6世紀後半に造られたとされた。複室構造の横穴式石室で、その入口両脇は突き出している(この形は珍しい)。

前室を閉じるための閉塞石。この辺りは西南戦争の時の激戦地で、薩摩軍はこの石室の中に立てこもった。閉塞石には砲弾のあとが残っている。

玄室を閉じるための閉塞石。途中で折れてしまったようで、下部だけが展示されている。元の大きさは、壁面に沿って描かれているとおりである。

出土品の復元。古代から近世のものまで多数見つかっているが、玄室付近からはあまり発見されていない。これは盗掘にあったためとされている。また、石室の装飾の多くも傷つけられ、ほとんど残っていない。

二つの古墳を見学する前に、山鹿市立博物館を訪れた。展示を撮影することは禁じられていたので、玄関先にあった首のない石人を撮影した。山鹿市の臼塚古墳に立っていた武装石人のレプリカである。

次は、熊本県立装飾古墳館(左側)と岩原(いわばる)古墳群である。古墳群は5世紀(古墳時代中期)に造営され、双子塚古墳(右側)とその周りに大小11木の円墳がある(図は右側が北)。

熊本県内最大級で、全長107mある前方後円墳の双子塚古墳。左側が祭式を行うための前方部で、右側が死者を埋葬する後円部である。墳丘は3段築盛で、墳長は107m、高さ9m、後円部直径97mである。発掘調査が行われていないため埋葬施設については不明だが、地中レーダー探査などからは家形石棺が直接埋められているとみられている。

双子塚古墳(左側)と周囲の円墳。

円墳。

それでは館内で、復元された装飾古墳を見ることにする。

鴨籠(かもこ)石棺(宇城市)。5世紀の後半円墳で、直弧文を浮き彫りで描いて、赤・灰で彩色している。

井寺古墳(嘉島町)。6世紀の円墳で、直弧文、同心円文などを線刻のあと、赤、白、緑で彩色している。

小田良古墳(宇城市)。5世紀の円墳で、円文、鞘、楯などを浮き彫りで描いている。


千金甲1号墳(熊本市)。5世紀の円墳で、鞘、同心円文などを浮き彫りのあと、赤・黄・緑で彩色している。

チブサン古墳(山鹿市)。6世紀の前方後円墳で、人物、三角文、円文などを赤・白・黒で彩色している。

大坊古墳(玉名市)。6世紀の前方後円墳で、連続三角文や円文などを赤・灰・黒で彩色している。

弁慶が穴古墳(山鹿市)。6世紀の円墳で、同心円文、舟や馬などを赤・白・灰で彩色している。


永安寺東古墳(玉名市)。7世紀の円墳で、三角文や円文、舟などを赤で彩色している。

以上は熊本県の装飾古墳であるが、参考に、福岡県の王塚古墳(嘉穂郡桂川町)も、復元されていた。6世紀の前方後円墳で、鞘、楯、騎馬、星、双脚輪状文、わらびて文、三角文などを赤・黄・緑・黒・白で彩色している。

装飾古墳館。建築家の安藤忠雄さんが設計した。

次の訪問地は江田船山古墳。この古墳は5世紀末から6世紀初頭にかけて築造され、全長が62m、高さが10mの前方後円墳である。

大刀復元。この古墳は銀象嵌の銘文入りの鉄刀が出土したことで有名である。

刀の峰に銀象嵌の銘文が記されている。読み下し文で表すと、「天の下治らしめししワカタケル大王の世、典曹に奉仕せし人、名はムリテ。此の刀を服する者は、長寿にして子孫は洋々、□恩を得る也、其の統ぶるところを失わず、刀を作る者、名はイタワ、書する者は張安なり」と記されていた。ワカタケル大王は雄略天皇とされている。

江田船山古墳の周りにはいくつかの古墳が存在し、公園になっている。肥後古代の森には、無人の和水町歴史民俗資料館があって、銀象嵌銘大刀を始めとする江田船山古墳からの副葬品を復元したものが展示されている。本物はトーハクにある。

この日の最後の訪問地は大坊古墳と玉名市博物館である。ここの古墳のレプリカは装飾博物館で見学したが、現地で実際に確認した。パンフレットには次のように紹介されている。大坊古墳は、菊池川右岸の玉名平野を望む丘陵の先端に位置しており、6世紀前半から中頃に造られた古墳で、全長40mを超える前方後円墳と考えられている。大坊の集落の北側丘陵裾部に大坊天満宮が位置し、その背後に古墳が築かれている。後円部には、南に開口する横穴式石室が設けられている。石室内部は、手前に前室、その奥に玄室(奥室)があり、複室と呼ばれる構造である。玄室は、平たい石を積み上げて構築され、中に遺体を安置する石屋形が設けられている。石屋形は、板状の石を組み合わせて箱状に造られており、奥壁には、赤・黒・青・灰色などの顔料で連続三角文、円文が描かれている。
山梨の職員の方が内部を案内してくれ、前室前に設けられた見学窓から見ることができる。

毛綱毅曠(もづなきこう) さんが設計した玉名市立博物館。

この博物館では玉名市の歴史が紹介されているが、今回見学したのは、古墳時代に関するものだけである。

舟形石棺(山下古墳)。古墳時代前期から中期を中心とした、九州の刳抜式(くりぬきしき)石棺が始まったのは、讃岐地域と考えられている。これとつながりのある舟形石棺は、菊池川流域に50基ほど分布し、下流域には34 基が確認されている。また、この玉名で製作された石棺は、5 世紀中頃になると大牟田・みやま・佐賀の他、瀬戸内海沿岸、大阪の有力者古墳の棺として舟で運ばれた。

これだけ古墳を見たのだから古代人の死生観を知りたくなる。装飾博物館にその説明があったので、その部分をコピーすると次のようである。古代の人たちはこの世で死ぬことは、あの世で生まれることであると固く信じていた。したがって、あの世の生活のために、大きな古墳を作り永遠に壊れないように石積みの堅固な家を作り、部屋を少しでも美しくしようと、赤や青や白などの絵を描いたり、いろいろな文様を彫ったりした。その絵や文様から、古代の人の死生観が想察される。

古代人が死後の世界と考えた所は、①あの世は地下にある:古事記や日本書紀に、愛する妻を失ったイザナギノミコトが妻を訪ねてユモツヒラザカから、黄泉の国に下りて行き妻と問答する話がある。この物語をよく示しているのが横穴式石室である。

②死ねば魂は鳥になる:神話の中にヤマトタケルノミコトの話がある。東国退治に行ったミコトはノボノで死ぬ。塚を築いてミコトを葬り祭っているとミコトの魂は白鳥となって古里ヤマトをさして飛んでいく、という話である。弁慶が穴古墳や珍敷塚(めずらしづか)古墳に描かれている鳥の絵はその好例である。

③あの世は海の彼方にある。万葉集の「おきつ国しらさむ君がしめ屋形 黄染めのやかた 神の門わたる」の歌は「あの世の君となるべき貴人を乗せた舟が山の狭門を静かに流れていく」という光景をうたったものとされる。隋書倭国伝には「葬におよび、屍を船上におき陸地にこれを牽く」とある。

④あの世は山の上にある:民俗学では、「死出の山といわれるように死ねば魂はそれぞれの村を見下ろせるような高山や霊山に行くという信仰があった」という。万葉集にも柿本人麻呂が、死んだ妻を求めて山に行こうと詠んだ歌がある。村を見下ろす高いところに古墳があることが多い。装飾古墳の文様にはないが、古代から確かにその思想はあったものと思われる。

古代の人々の死生観が分かったところで、次の日は日向国(宮崎)の古墳巡りである。

熊本・宮崎の古墳・神社巡り(初日)―神社と古代山城

神社と同じぐらいたくさんの古墳が存在すると言われているので、その全てを見ようなどというとんでもない夢を抱くことは決してない。しかし、口の端に上ったものは見ておこうと古墳好きの人なら考えるだろう。今回、そのような人を対象にしていると思われるガイド付きツアーを見つけたので、それに参加した。

数年前に北九州の古墳を見学しがてら大分の友人を訪ねたとき、奥さんから宮崎にも大きな古墳があると教えられた。機会を見つけてと思っているうちに、コロナによる妨害にあった。やっと、世の中も落ち着きを取り戻しインバウンドも急増してきたので、それほど混まないうちにと思って調べてみると、公共の交通機関ではとても行けないところにあることが分かった。レンタカーを借りてという手もあるが、疲れてくるとウトウトと寝てしてしまう危険があるので、リスクをとることはできない。

思いあぐねていたあるとき、南九州の古墳巡りをキーワードにしてググってみた。すると、ツアーの案内が出てきた。それほど人気がないだろうと予想して先に進めてみると、このツアーはすでに定員オーバーだった。でも、キャンセル待ちの枠がまだ残っていた。旅行代金を払い込むときになると取り消す人が少なからずいるという話を聞いていたので、参加できなくて元々と考えて申し込んだ。幸い、こちらの予想はあたりとなった。

出発日は月曜日であった。博物館利用者だと知っていることだが、この曜日は多くが休館である。博物館をめぐる旅行を計画するときは、火曜日スタートか日曜日エンドとするのがほぼ常識である。今回のツアーはこのルールに反しているのだが、そのような施設を利用しなくてよいように工夫されていた。この日は阿蘇山の外輪山近くの二つの神社と、古代山城の見学である。

今年の冬は暖かい日が続きとても過ごしやすいのだが、この日は大違いだった。大寒の名に恥じない冷え込みであった。しかも、熊本の気候は日本海側のそれに似ていて、冬季には太陽との縁は薄いようだ。阿蘇山の山並みを見ながらのお昼を楽しんでもらおうと思って、道の駅「あそ望の郷くぎの」を選んだのだろう。しかし、残念ながらそうはならず、山は雲の中にあった。

道の駅は阿蘇山のカルデラの中にある。Google Earthで、上部を北にして見ると次のようである。食事をした場所は、赤いバルーンがあるところである。

この日の前半のルートは、西側(上の図の左側)からカルデラに入り、阿蘇山にゆかりのある神社に立ち寄り、ほぼ一周して抜けるようになっている。カルデラの大きさは、南北25km、東西18kmで、面積は380k㎡である*1。カルデラの中央には火口丘があり、そこには高岳・中岳・根子岳・烏帽子岳・杵島岳の五岳がある。今回はこれらの山を見ることができず、誠に残念であった。また、カルデラの周りは外輪山で囲まれている。

最初の見学場所の上色見(かみしきみ)熊野座神社は外輪山の中にある。神主さんは常駐していない。ここの御朱印が欲しい人は、最寄り駅(南阿蘇鉄道・高森)の近くに観光センターがあるのでそこでもらうようになっている。このような状況からもわかる通り、かつては寂れていた。しかし、最近になって幸運が続いた。熊本県出身の漫画家・緑川ゆきさんの漫画・アニメ「蛍火の杜へ」の舞台となった。さらに、映画「るろうに剣心」最終章のロケ地となった。これらをきっかけに、国内外から多くの若い人が訪れるパワースポットへと変貌を遂げた。この日も、雨にもめげず、中国語や韓国語を話す若者たちでにぎわっていた。

右側が拝殿、左側に見えるのが本殿である。この神社は、国産みの神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)、そして阿蘇大明神の荒魂*2である岩君大将軍を祭神としている。創建は不詳である。

さらに奥には「穿戸磐(うげといわ)」があり、そこには巨大な風穴が開いている。この穴は、阿蘇大明神の従者「鬼八」が大明神の怒りをかって逃げる時に開けたと言い伝えられている。

穿戸磐から拝殿を望む。

次に訪れたのは肥後国一宮の阿蘇神社である。創建は第7代天皇の「幸霊天皇」の御代と伝わっている。平安時代の『延喜式(927年』では、名神大社に列せられていて、格式の高い神社である。主祭神は神武天皇の孫である「阿蘇大明神(健磐龍命:たけいわたつのみこと)」と11柱の家族神を祀っている。本殿3棟(一の神殿・二の神殿・三の神殿)と3門(楼門・神幸門・還御門)が国の重要文化財に指定されている。いずれも江戸時代末期の建築である。

楼門。熊本地震(2016年)で倒壊し、大きな被害を受けた。地震から約7年半を経て復旧した。

左は還御門、右は楼門。

拝殿。

一の神殿。

二の神殿。

健磐龍命が江戸時代に雷霊と共に降りたとされる神杉。

初日最後の見学場所は、『続日本紀』に「甲申(698年)に、大宰府をして大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城(みつのき)を繕治せしむ」と記載された鞠智(きくち)城跡である。いつ建てられたかの記述はない。しかし、大野、椽(き)の城が白村江の戦(663年)で敗れた後に防衛のために築かれたと『日本書紀』にあることから、鞠智城も白村江の戦のあとに建てられた山城と考えられている。この城は、米原(よなばる)台地上に立地し、滅亡した百済の職人たちが手掛けたと推定されることから「朝鮮式山城」と呼ばれる。百科事典マイペディアによれば、朝鮮式山城は、「多くは標高300〜400mの急峻な地形にあり、稜線に沿って石塁または土塁を築き、城内に倉庫群があり、谷間に渓流が流れるか泉があるのが特徴としている」と説明されている。

鞠智城もこのようになっている。下図で、中央の米原台地(標高90~171m)と呼ばれるところが城内で、建物群が存在する。土塁は図中の濃紺の線に沿ったところと考えられている。

そして、南側(図の下方)は谷間になっている。おそらく、渓流もあったことだろう。

鞠智城跡は周囲の長さ3.5km、面積55haの規模である。鞠智城跡に到着したとき、急に風雨が強くなり、横殴りの風が吹く中で雨を避けながらの見学となった。持参した傘の骨も折れてしまい散々であったが、なんとかこれというものは見ることができた。

左側は米倉、右側は八角形鼓楼である。

八角形鼓楼。柱のあとが八角形という特殊な形で配置されていた。このため、特別な性格の施設だろうと考えられ、鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元されている。掘立柱建物で、高さは15.8mである。また、重量約76トンの瓦がのっている。軒丸瓦の様式は朝鮮式で百済系の単弁八葉蓮華文である。

米倉。発見された21棟の礎石建物跡は規則正しく石が並べられ、それを土台にしている。その中の1棟は、重い荷物に耐える造りであり、かつ周囲から大量の炭化米が出土したので、食料である米を蓄えるための「米倉」として復元された。この建物は、長さ7.2m、幅9.6mの3間×4間である。

校倉(いたくら)。柱穴を建物の内側にまで配置した総柱の掘立柱建物跡が見つかった。その中の1棟は、荷物を保管するための高床の造りで、「兵舎」の近くにあった。このため、武器や武具などを保管するための倉庫として復元され、「板倉」と呼んだ。この建物は、長さ6.9m、幅12.0mの3間×4間である。

兵器庫。柱穴が建物の外壁部分だけに掘られた掘立柱建物跡が見つかり、その中の1棟は日常的な生活をうかがわせる土間床の比較的大きな建物であった。このことから、鞠智城の守りについた防人たちが共同で暮らすための「兵舎」として復元されている。建物は、長さ26.7m、幅7.8mの3間×10間の建物である。

中央に貯水池跡がある。また、建築の木材を保管する貯木場や、水汲み場の跡も見つかった。池の中からは百済から持ち込まれたと考えられる銅造菩薩立像や、木簡、建築部材、木製農耕具などの貴重な遺物が発見された。

鞠智城温故創生之碑。鞠智城のシンボルとして平成8年度に建てられた。中央に防人、前面(左側)に防人の妻と子、西側(中央)に築城を指導したといわれる百済の貴族、東側には八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女が配置されている。北側(右側)には一対の鳳凰が立っている。台座には万葉集からの防人の歌と鞠智城の歴史を解説した6枚のレリーフが掲げられている。

鞠智城を知ったのは、2018年に鞠智城・古代山城シンポジウムに参加してからだ。シンポジウムで得た知識をもとに、頭の中に描いた鞠智城のイメージは、山の奥深く、木立に囲まれた所に広場があり、そこに大きな建物があるというものだった。聞くと見るとは大違いで、広い台地上に建物群が展開されているのを見て、ずいぶんと違ったイメージを抱いていたと思い知らされた。特に三方を山で囲まれている低地では、水と食料を確保できるようになっていた。敵に包囲されたとしても、長い期間にわたって籠城できるように作られていることを知った。激しい風雨を衝いての見学となったが、「一見は百聞に如かず」であることを強く印象づけられ、このような悪いコンディションの中にもかかわらず、得るところは多かった。

この日は神社の見学が主であったが、次の日はいよいよ熊本の装飾古墳をたくさん見ることができる。

*1:日本で一番大きなカルデラは釧屈斜路湖である。阿蘇山のカルデラはこれに次ぐ大きさである

*2:神道において、神の霊魂は2つの側面を持つとされる。荒魂(あらたま)は神の荒々しい側面で荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる。しかし、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出している。これに対し、和魂(にきたま)は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている。

トーハクで『大覚寺展』を観る

トーハクでは大覚寺展が開催されている。テレビなどで紹介されると混雑するようになるので、それを避けるために開幕3日目に訪れた。ゆっくり見られるのではと願いながら行ったのだが、どこの展示の前にも複数人おり、淡い期待は裏切られた。それでも、しばらく待っていると一番前に立つことができ、遮られることなく見学できた。良しとすべきだろう。同時に開催されていた西洋美術館の『モネ展』は、入場するのに80分待ちとプラカードにあったので、これとは比べ物にならないほど恵まれていた(もちろんお客さんにとって)。

大覚寺という名前を聞くと、建造物としての寺院よりも、天皇家の歴史を思い出す人もいることだろう。鎌倉時代の終わりごろ、天皇家は二系統に分かれた。二系統になる前の天皇は後嵯峨天皇で、彼には天皇になった息子が二人いた。一人は後深草天皇、もう一人は亀山天皇である。治天の君*1であった後嵯峨上皇が彼の後継者を決めずに崩御すると、後深草上皇と亀山天皇とが治天の君をめぐって争った。鎌倉幕府に裁定が持ち込まれ、これ以降の治天の君は鎌倉幕府が決めることになった。おそらくは面倒くさかったのだろう、それぞれの皇統から交互に選ぶようにした。後深草天皇の系統を持明院統、亀山天皇の系統を大覚寺統という。なお、大覚寺統という用語は、亀山天皇の子の後宇多天皇が京都郊外の嵯峨野にある大覚寺の再興に尽力し、出家後は大覚寺に居住して院政を行ったことに由来している。同じように、持明院統は後深草天皇の子の伏見天皇が持明院殿を継承したことによっている。

会場には後宇多天皇に関係するものがいくつも展示されていた。後宇多天皇の肖像も、出家前と出家後のものが展示されていた。出家前のものがウィキペディアにも掲載されている。

後宇多天皇によって自ら書かれた文書類も展示されていた。『後宇多天皇宸翰御手印遺告』は21か条の教えで、弟子たちの間で守り伝えられていくことを願ったものである。同じものがウィキペディアに掲載されている。

今回の特別展は、開創1150年記念となっている。貞観18年(876)に清和天皇から寺号を勅許された。そして、来年(2026年)はそれから数えて1150年目を迎えることになる。開山は恒寂入道親王である*2。この寺の始まりはもっと古く平安時代初期まで遡る。親王の叔父の嵯峨天皇(786~842年)が退位後の御所としたのが嵯峨院である。ここは嵯峨天皇の親王時代の山荘として始まり、天皇在位中は毎年のように北野遊猟の地として訪れた。退位した後はここに居住し、そしてこの地で崩御した。嵯峨天皇には空海(774~835年)との逸話もある。弘仁9年(818)、悪疫が蔓延し国民が塗炭の苦しみに見舞われていたとき、どうしたらこの惨状から救うことができるのかを空海に相談した。空海から「般若心経」の写本を勧められた。実行したところ、たちまち疾病が去り、安穏が訪れたとのことである。

会場には、嵯峨天皇、空海の肖像が飾られていた。嵯峨天皇の肖像画はウィキペディアにも掲載されている。

空海の肖像画もウィキペディアにある。

また、空海は離宮内に五大明王*3を安置する持仏堂の五覚院を建て、修行を行ったとされていた。会場には、平安時代に円派の明円によって作られた五大明王像が飾ってあった。また、室町時代に作られたとされる五大明王像も見ることができた。

展示では、後宇多天皇関連の展示が第2章、嵯峨天皇と空海に関するものが第1章で、第3章は歴代天皇と宮廷文化であった。ここのコーナーで興味を持ったのは、大覚寺本と呼ばれる源氏物語の写本と、清和源氏に伝わるとされる大覚寺の太刀・膝丸と北野天満宮の太刀・髭切であった。

そして、最後の第4章は女御御所の襖絵である。すべてが重要文化財という素晴らしい展示である。大覚寺の中心に宸殿がある。この建物は、元和6年(1620)に後水尾天皇に入内した徳川和子(東福門院)の女御御所を移築したものとされている。内部を飾る襖絵・障子絵などの障壁画は、安土桃山・江戸時代を代表する画家・狩野山楽(1559~1635)の作である。山楽は、狩野派の代表的な画人である狩野永徳(1543~1590年)の弟子である。永徳は東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に病気(過労死)になり、それを完成させたのが山楽である。永徳のあと狩野派は、濃厚華麗な画風の京狩野派と瀟洒淡白な画風の江戸狩野派に分かれる。山楽は京狩野派を代表する画家である。大きな会場に展示されている山楽の障壁画を楽しむことができた。また、この場所は写真を撮ることも許されていた。

宸殿(境内図で④)の襖絵は、山楽によって描かれた。柳松の間には、二種類の襖絵がある。
松鶴図、

柳桜図。

牡丹の間の襖絵。

正寝殿の襖絵も展示されていた。正寝殿は歴代門跡の居室で、その中で最も格式が高いのが「御冠の間」である。
竹林七賢図(伝渡辺始興筆)、

野兎図(渡辺始興筆)、

鶴図(渡辺始興筆)、

松に山鳥図、

立木図、

御冠の間

室町時代後期から安土桃山時代にかけて大覚寺は数度の火災に見舞われる。応仁の乱ではほとんどの堂宇が焼失した(1468年)。天文5年(1536年)には木沢長政の放火により堂舎は炎上した。天正17年(1589年)に空性が門跡になり復興にとりかかった。また、元和3年(1617)には、徳川秀忠により1016石の知行を追認されている。宸殿と正寝殿の移築は元和から寛永年間にかけての後水尾天皇の時代に行われた。36~39世の門跡空性・尊性・性真・性応は天皇の近親者でこの時代に寺観がほぼ整えられた。

Google Earthで大覚寺を俯瞰すると次のようである。

感想は一言、「百花繚乱」でした。

*1:治天の君とは、院政において政治の実権を握った上皇である。この頃は上皇は一人でなく、複数人の場合もあった。

*2:平安京に遷都した桓武天皇には、天皇になった息子が三人いた。平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇である。平城天皇の子の高丘親王と淳和天皇の恒貞親王は一度は皇太子になるものの、のちに廃されている。二人は僧門に入り、高丘親王は真如となり、恒貞親王は恒寂となった。なお、恒寂の師は真如である。嵯峨天皇の子が仁明天皇となった。

*3:五大明王とは、不動明王、降三世明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳明王、金剛夜叉明王のことである。

川崎で「雅楽装束師」の仕事を観る

半年も前なので覚えている人は少ないだろうと思われるが、NHKの大河ドラマ『光る君』で藤原道長の子供たちが舞楽を舞うシーンがあった。一条天皇の母で道長の姉である栓子が40歳を迎えたので、その祝が催された。現在では40歳なんて若いと思われているが、短命な平安時代にあっては、40歳は初老と言われ、「四十の賀」で長寿を祝った。この後は十年ごとに「五十の賀」「六十の賀」...と続く。藤原実資の日記『小右記』と藤原行成の日記『権記』には、道長の長男・田鶴(たづ・後に頼通、母は源倫子)が雅楽『陵王』、道長の次男・巌君(いわぎみ・後に頼宗、母は源明子)が雅楽『納蘇利(なそり)』に伝わる曲を舞ったと記されている。大河ドラマの中でも、原型を活かしながらオリジナルの陵王・納蘇利が披露された。

陵王は中国・北斉(550~577年)のイケメンの若武者・高長恭(こうちょうきょう、蘭陵王)に由来している。彼は味方の兵士の士気を高めようと獰猛な面をかぶって合戦を指揮し、次々に勝利を重ねた。そして、これを祝しての舞楽が陵王になった。『光る君』では、田鶴役の三浦綺羅さんが陵王を舞った。

音楽を演奏する人たちも華やかな装束である。楽器には、太鼓、鞨鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)、篳篥(ひちりき)、竜笛(りゅうてき)、笙(しょう)が用いられる。尺八は平安時代初期まで使われていたが、音色があまりにも小さかったためにこの頃には外されていたそうだが、ドラマでは用いられた。

納蘇利は、天から龍が降りてきたことを祝し、それを表現した舞楽とされている。一人舞と二人舞とがあり、一人舞を落蹲(らくそん)、二人舞を納蘇利と呼ぶことが多いが、奈良では逆のようだ。納蘇利は、巌君役の渡邉斗翔さんが演じた。

『小右記』には明子を母とする巌君の舞の方が賞賛されたと記されていたので、ドラマの方もそのようにしたとのことであった(道長には二人の妻・倫子と明子がおり、子供たちはライバル関係だが、倫子の子供の方がより高い身分についた。四十の賀では明子の子供の方が舞が上手だった。これからの人生において、実力ではなくエコヒイキが予想される場面である)。日記に忠実にドラマでも納蘇利の方が切れ味良く演じられていた。舞楽で、中国大陸・西方諸国から伝わったものを左方と言い、朝鮮半島・南方諸国からのものを右方という。陵王は左方であり、納蘇利は右方である。そして、装束の色は、左方は「赤」、右方は「青」と決まっている。演奏者の装束もこれに倣っている。

昨年は、ボランティア活動している場所で舞楽に関する話題が多く、自然と興味を持つようになった。そして、東海道かわさき宿交流館で「納蘇利の装束を着装する実演」があるという情報を得たので、見学に出かけた。着付けの実演者は、雅楽装束師の高橋忠彦さんで、長年、宮内庁式部職楽部の衣紋方として活躍され、2020年には黄綬褒章を受章された。下の写真で、右側が高橋さんである。着付けは二人で行うのだが、もう一人の方はこの日は都合がつかなかったようで、代わりに笙奏者の野津輝夫さんが手伝った。また、納蘇利の衣装を着たのは竜笛奏者の纐纈(こうけつ)拓也さん、解説をしてくれたのが篳篥奏者の高多祥司さんであった。

今回は、納蘇利の着付けを実演してくれた。使用された衣装は以下のようである。左上が袍(ほう)、左中が赤大口(あかのおおくち)、その下の靴のように見えるのが絲鞋(しかい)、右上では2点が一緒になって見えるが、上の小さな装束が銀当帯(ぎんあておび)、そして下の殆どを占めているのが裲襠(りょうとう)、右中が差貫(さしぬき)、下は装束をしまうための紙・袋類である。

納蘇利の面である。

最初に、雅楽の奏者である野津さん、纐纈さん、高多さんによる演奏があった。そして、高橋さんによる着付けの実演が行われた。着付けの仕方について、赤大口を着ける高さ調整や、帯の結び方などかなり詳しく説明して頂いた。着崩れしないようにしかも舞い易くするために、ゆるみを持たせてしっかりと締めることがとても大事であると教わった。高橋さんはこのような技術を先輩に教わることなくその作業を見ながら習得したそうである。しかし、現在ではこのような流儀は通用しないし、伝統芸術を守るということもあって、若い人たちには手取り足取り教えていると現状を話された。着付けが終わった後の納蘇利、



納蘇利の一部を纐纈さんが舞ってくれた。着付けの時に舞うことがいかに大変かを聞いていたので、一つ一つの動きを納得しながら観察できた。特に面は大切で、これを付けると舞う人の視界は想像以上に限定されるので、舞う時に事故が起こらないように、舞う人が納得する位置でしっかり固定するように心がけているとのことだった。

最後に、雅楽奏者による「君が代」の演奏があった。知る機会が少ない裏方の仕事をしっかりと学ぶことができ、貴重な時間を過ごせたことに感謝して、会場を離れた。

館内では、「東海道五十三次・押絵羽子板展」が行われていたのでついでに立ち寄った。正面に展示されていたのは大型の羽子板で「牛若丸と弁慶」である。

ここに展示されている羽子板は、徒然流古今押絵教師・吉田光寿さんが作られたものである。吉田さんは、歌川国貞(三代豊国)が描いた「役者見立東海道」や「歌舞伎十八番」を題材に、押絵羽子板を制作された。会場には日本橋から白須賀までの作品が展示されていた。

川崎宿ももちろんあった。ここに描かれている人物は白井権八で、ブリタニカ国際大百科事典には、「歌舞伎狂言の主人公の名。実名平井権八という因幡 (いなば) の武家の嫡男であったが,父の同役本庄助太夫を殺害して国元を出奔し,江戸で渡り徒士 (かち) 奉公をしているうちに吉原三浦屋の太夫小紫に深くなじみ,金に詰って強盗殺人を重ねて延宝7 (1679) 年に処刑され,小紫もあとを追って自害したという。この実説から美しい若衆の白井権八と幡随院長兵衛の一件が加えられ,安永8 (1779) 年『江戸名所緑曾我 (みどりそが) 』として初めて歌舞伎化されて以来,種々の趣向によって多くの作品を生んだ。なかでも有名なものは文政6 (1823) 年,4世鶴屋南北作『浮世柄比翼稲妻 (うきよつかひよくのいなづま) 』で,特に大勢の雲助を相手に立回る権八とそこに来合せた長兵衛の出会いの「鈴ヶ森」の場が名高い」とある。羽子板の権八を演じているのは、五代目の岩井半四郎である。

元絵である歌川国貞の『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』は、下の絵である。

別の階には、川崎宿が復元されていた。下のジオラマは、宿の中心である田中本陣とその周辺、

下は川崎宿の風景。ピーク時の旅籠の数は天保期に編集された「東海道宿村大概帳」に記された72軒で、神奈川県下9宿の内3番目の旅籠数だった。

近くのお店に入ってパンケーキを食べながら感想を述べあった。「演技の方がもう少しあればよかった」とか「着付け教室みたいだった」とか言いながら、スイーツを味わった。

横浜港・大さん橋を訪ねる

神奈川県庁の近くで用事があったので、少し早めに出て、横浜港・大さん橋を訪ねた。JR線の桜木町駅で降りて、横浜の官庁街ともいえる本町通りを県庁の方に向かった。桜木町を出てすぐに大岡川に行きつくが、川越しに見る「みなとみらい」の高層ビルはとても近代的である。ここからの夜景はきれいなので、屋形船での見学に良い場所である。

横浜は1859年に開港され、西洋文明がいち早く導入されたため、「日本で初めて…」のという石碑があちらこちらにある。新聞のもその一つで、明治3年には「横浜毎日新聞」がこの地で誕生した。

また、この通りには戦前の建物も多く残されている。「旧横浜銀行本店別館 (元第一銀行横浜支店)」もその一つで、昭和4年に建築された。

その真向かいには、大正15年に建築された「旧横浜生糸検査所附属専用倉庫」がある。

このような建物をいくつか鑑賞し、県庁のところで折れて港の方にいくと、開港の頃に「イギリス波止場」と呼ばれた場所に着く。1866年の大火の後、波止場は作り替えられた。この時、湾曲した形状になったので「象の鼻」と呼ばれるようになった。ここからは観光船も出ている。

象の鼻から見た「みなとみらい」。左側に見えるのは、「クイーンの塔」として親しまれている横浜税関の塔である。

近くの建物の4階から見た「象の鼻」。

大さん橋の手前には、逆三角形の屋根がユニークな「大さん橋ふ頭ビル」がある。

関内地区の観光スポットを巡る「あかいくつ」バス。

海外の人々を迎える横浜港・玄関口の「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」。

大さん橋より横浜ベイブリッジを望む。

「クジラのせなか」と名付けられている大さん橋。

大型のクルーズ船が入港していなかったのは残念だったが、その分、まわりの景色を十分に楽しむことができた。

横浜市歴史博物館で令和6年かながわの遺跡展を見学する

横浜市歴史博物館で、令和6年かながわの遺跡展「縄文のムラの繁栄ーかながわ縄文中期の輝きー」が開催されている。タイトルの通り、縄文時代中期の土器類が所狭しと飾られている。縄文土器が好きな人にとっては嬉しい展示である。

縄文時代中期は、5,500~4,500年前に当たり、東日本では縄文時代の中で最も集落数・住居数が多くなった時期として知られ、神奈川県では中期前葉に五領ヶ台式、中葉に勝坂式、後葉に加曽利E式の土器が造られた。さらに後葉には甲信地方の曽利式、多摩・武蔵野地域の連弧文の土器も見られる。

この展示での代表する土器は、入ってすぐの6点だろう。
厚木・林南遺跡の深鉢、中葉。鉢の上の把手と鉢の側面の模様に工夫が凝らされていて見ごたえがある。

相模原南区・当麻遺跡の深鉢、中葉。口の部分に向かって広がる曲線に特徴がある。

海老名・上今泉中原遺跡の水煙文把手付深鉢、後葉。把手の部分を見事に飾っている。

平塚・上ノ入遺跡の有孔鍔付土器、中葉。上部にある孔は何のためにあけられているのだろう。蓋をするためと思われるのだがどうだろう。

左:横浜鶴見区 生麦八幡遺跡の釣手土器、後葉、右:横浜旭区 市ノ沢団地遺跡の釣手土器、後葉。これも用途が良く分からないのだが、燭台のような役割をしたように思える。

次の棚には、顔面把手(深鉢型の土器の取っ手部分に付けられた顔、いずれも中葉)が数多く並んで展示されていた。顔の表現に変化があり、見ていて楽しくなる。なお、右上の二つは釣手土器(顔面把手をモデルにしたものと考えられ、いずれも後葉)である。

小さな土偶、いずれも後葉である。お守りとして用いたのだろうか。

上:三角柱状土製品、左下:土製品、右下:土鈴、いずれも中葉。土器を用いて生活に必要な色々なものを作成したのだろう。さしずめ、現在のプラスティックのような役割をしたようだ。

装飾のある土器も展示されていた。魚が描かれている浅鉢(厚木・恩名沖原遺跡、中葉)。単なる飾りなのか、それとも何か神秘的なことを想像してのことなのだろうか。縄文人の宗教観を知りたいところである。

蛇の絵が描かれているのだろうか、深鉢(相模原緑区・川尻中村遺跡、中葉)である。

左:人体の装飾が施されている人体装飾付き深鉢(相模原緑区・大日野原遺跡、中葉)、人体装飾付き有孔鍔付土器(厚木・林王子遺跡)である。

ミニチュア土器、いずれも中葉。小物入れ、そうではなくて練習用とも思える。

ここからはそれぞれの遺跡についての紹介である。

相模原南区・勝坂遺跡で中・後葉。勝坂遺跡は1926年に大山史前学研究所による調査が行われ、古くから知られている遺跡で、縄文時代中期の良好な遺跡として国史跡に指定されている。


相模原緑区・川尻遺跡で中葉。神奈川県北部の谷ヶ原浄水場周辺一帯にあり、縄文時代中期から晩期にかけての変遷が分かる遺跡で、国史跡である。

綾瀬・道場窪遺跡で後葉。綾瀬市西部の目久尻川左岸にある。

横浜都筑区・二ノ丸遺跡で後葉。港北ニュータウン遺跡群の一つで、中期後葉を中心に100軒を超す環状集落である。

横浜瀬谷区・阿久和宮越遺跡で、中・後葉。

海老名・杉久保遺跡で中葉。東名高速道路の海老名サービスエリア南側の台地にある集落で、250軒以上の中期の住居跡が調査され、二つの環状集落が接するように見つかっている。

寒川・岡田遺跡で中葉。全国的にも珍しく三つの環状集落が連なっていると考えられ、600軒以上の住居跡が調査されている。

横浜都筑区・大熊仲町遺跡で中葉。この遺跡は住居跡170軒以上で、港北ニュータウン遺跡群を代表するものである。近くの台地上には住居数5軒の上台の山遺跡がある。大きなムラと小さなムラが隣接しているのが特徴で、一つの集団が分散や移動を繰り返していたのではと考えられている。

横浜都筑区・大高見遺跡と小高見遺跡で中・後葉。両遺跡とも集落の形成が断続的であり、同じ時期の住居数も多くはない。

相模原緑区・橋本遺跡で後葉。国道16号線のバイパス工事で調査され、中期後葉の環状集落が見つかっている。また住居に囲まれる土抗墓群の構造が良く分かる集落である。

相模原南区・当麻遺跡で中・後葉。国道129号の整備に伴い、1974年から調査された。

下溝遺跡群は、相模の大地を流れる姥川流域の河岸段丘に、上中丸、下原、下中丸の遺跡などが所在し、環状集落と200軒以上の竪穴住居跡が発見され、集落研究において重要とされている。

変わったところで、左上:漆塗土器、右上:木製容器、下:籠とみられる編み物(全て伊勢原・西富岡・向畑遺跡、後葉)である。

埋葬に使われた深鉢(相模原緑区・川尻中村遺跡、後葉)。川尻中村遺跡は環状集落で、ほぼ中央に土抗墓群があり、その周りには環状列石が発見されている。

遺跡毎の展示は、壁に沿って下の写真のように展示されていた。

参考に展示されていた縄文時代前期の南堀貝塚からの黒浜式土器である。

今回の展示で紹介されている遺跡は、勝坂遺跡を除けば、ニュータウン開発や大型土木工事(高速道路・バイパス)などに伴って発見された。現代人は海や川沿いの低地に居住することを好むが、縄文の人々は、そうではなく、高台に住むことを好んでいたことを示してくれる。このことは、定住型の狩猟採集民が小型の小動物や木の実などを採取しやすい場所を優先して近くに川のある高台を選んだということを、教えてくれる。縄文の人々の生活は、文字資料がないので、遺物から想像するしかないが、彼らの土器の中には表現力に優れたものが多く、精神文化の豊かさを感じることができる。今回の展示からもそのことが感じられ、クリスマスの日の彼らからの良いプレゼントであった。

東村山に国宝・正福寺千体地蔵堂を訪ねる

東京都にも国宝の建造物はあるが、二つだけと少ない。そのうちの一つは明治時代に建てられた迎賓館赤坂離宮である。国宝に指定されている(国内の)建造物はすべて江戸時代かそれ以前なので、赤坂離宮は例外的といえる。従って、残りの一つは、木造建造物では東京都唯一の国宝と言っていい。そして、それは東村山市にある。室町時代の応永14年(1407)に建立*1された正福寺・千体地蔵堂であり、その姿を今に伝えている。

Google Earthで、正福寺の周りを見ると、都会と田舎が入り混じった地域と表現できそうな景観で、家々と畑が混合している。

正福寺は西武線の東村山駅から歩いて12分程度のところにある。

東村山駅は、高架駅にするための改良工事中で、駅前にはタワーマンションもある。

それでは正福寺を訪れてみよう。山門、奥に見えるのが千体地蔵堂。山門は元禄10年(1701)の建立で、建築様式は禅宗様の四脚門・切妻である。

千体地蔵堂を正面から見る。構造は桁行三間・梁間三間 で周囲に一重裳階(もこし)が付いていて、屋根は入母屋造・こけら葺である。

近づいてみると、禅宗様建築であることが分かる。屋根の強い反り、白木の丸柱、花頭窓、素朴な板壁、弓欄間、三手先出組などからその様子がうかがえる。

正面には、国宝千体地蔵堂と記された扁額がある。扁額の下の弓欄間、さらにその下の桟唐戸上部の連子もきれいである。

紅色のニシキギの向こう側に朝の陽光を浴びて地蔵堂が輝いている。

裏から見た地蔵堂。地蔵堂の本尊は木造の地蔵菩薩立像で、文化8年(1811)に江戸神田須田町の万屋市兵衛の弟子善兵衛によって造られた。また、地蔵菩薩像の両脇の棚には、千体の小地蔵尊像が安置されている。これは江戸時代に奉納された20cmほどの木造小型仏像で、祈願者はこの仏像を一体持ち帰り、成就すれば別に一体添えて奉納したことから、たくさん集まり、千体になったとのことである。千体地蔵堂と呼ばれるのはこのためである。

逆光の中の地蔵堂。

屋根を支えている三手先出組と垂木。

境内に安置されていた十三仏像。


本堂。正福寺の建立については次のような逸話が寺伝として残されている。鎌倉幕府の8代執権・北条時宗が東村山の地に鷹狩りに来た時に大病にかかり、命が脅かされる状態になった。夜眠っていると、夢の中でお地蔵様が現れ、この丸薬を飲めば良くなると差し出された。時宗が夢の中でその薬を飲んだところ、翌朝からどんどん体調が良くなったとのことである。自分を救ってくれたお地蔵様への供養のために、正福寺を開創したそうである。

境内の槇の木。

朝の陽を浴びての鐘楼。

聖観世音菩薩像。

北条家縁の寺であることを示す三つ鱗の家紋が入った鬼瓦が展示されていた。

隣には八坂神社があった。

千体地蔵堂はかねがね訪れたいと思っていた寺院である。それは次のことによる。鎌倉の円覚寺・舎利殿(建造物では神奈川県唯一の国宝)の建立時期は不明であるが、千体地蔵堂と建物がよく似ていることから、同時期のものと考えられている。下の写真は2016年に私が撮影したものだが、瓜二つと言っていいくらいよく似ているのに驚かされる。

建造物の国宝は、関東では、栃木県3件、埼玉県1件、群馬県1件あるので、来年はこれらの見学を目標にしようと思っている。

追伸:境内に貞和5年(1349)の板碑があったのだが、見逃してしまった。正福寺は西口からであるが、東口にはこの地の出身の志村けんさんの銅像があったことも、帰宅してから知った。彼は、先般猛威を振るった新型コロナウィルスの初期の頃の犠牲者である。みんなが知っている彼が亡くなったことで、国民みんながコロナウィルスの恐ろしさを知ることとなった。これを契機としてと言ってもいいと思うが、自主的な行動自粛が徹底されるようになった。他国と比較して少ない犠牲者で済んだのは、志村けんさんの文字通り命をかけた貢献と言っていいのではないかとさえ思う。

*1:昭和9年改修の時に発見された墨書銘で判明した。