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大そうじへの備え
ytakahashi0505.hatenablog.com
2022年日本女性学会大会シンポジウム「ジェンダー化された表象とフェミニズム」 (パネリスト:吉良智子、田中東子、前之園和喜, コーディネータ:古久保さくら、荒木菜穂)に対する高橋幸の感想を掲載します。 『学会ニュース』(日本女性学会, The Women’s Studies Association of Japan, 第156 号, 2022 年9 月)p.2-3に掲載された文章です。 「ポルノ規制派フェミニスト─対─表現の自由派」の二分法を越えて─「ジェンダー化さ れた表象とフェミニズム」シンポジウムの感想(高橋 幸) 日本の第四波フェミニズム運動において「萌え絵広告」批判は、現在重要な闘争の場になっている。この闘争は「ポルノ規制派フェミニスト─対─表現の自由派」という、 既視感のある二分法で理解されがちであるが、この二分法そのものがアンチフェミニストに利するものであることを踏まえれば
(東大の)社会学系の先生から院生へハビトゥスのような形で伝えられ、そして院生同士でなされるコミュニケーションの特徴として、相手の議論を打ち砕いたり、破ったり、穴を突いたりすることに重きが置かれ、「結局のところ、こういうことでしょ」ということを強い言葉で言える人がその場を制するというものがある。 以下、さしあたりこれを社会学界隈における東大話法と呼ぶことにする(東大院生に限らず、東大社会学講座系の先生の下で学んだ人にも見られる話法である)。この風潮はおかしいとこの10年以上ずっと思っていたが、最近のマイノリティ研究者排除が起きかかっている社会学の現状を思うと、やっぱりこれは深刻な問題点だなと思っている。 東大話法がもたらす問題は、「結局のところ、こういうことでしょ」に行きつくプロセスで、多くの「これが常識」「これが社会というもの」「これが現代」という「常識」の押し付けが発生していることにある
「全ての女性が、性的客体化によって傷ついている」という言い方には、ちょっと無理がある。「性的客体化」という概念そのものをぶち上げて流通させるところから始めなければならなかった1970年代には、そういう言い方も戦略としてありだったが、現代ではもはやそういう言い方はむしろ、「性的客体化」という概念の有効性を損なうものになっている。 同じことをされても別に傷つかない女性と、強烈な違和感を感じて傷ついてしまう女性がいることを踏まえたうえで、どのような条件で女性の性的客体化が女性を傷つけるのかということを明らかにしていくことが必要なんじゃないだろうか。 ちなみに、対面的コミュニケーションにおける女性が性的客体化を引き起こす行為として、次のようなものがある。 ・性的客体化のまなざし(gaze)をうけること ・外見に基づいた誉め言葉( appearance-based compliments ) ・セク
横浜フェミニズム研究会で今日報告させていただいたレジュメをアップします。 バトラーによるレズビアン・ファルスの構想、重要。 どこまで使えて、どこは使えないのかをまとめました。 https://drive.google.com/file/d/1LeER5E2gf-zGCSForM5ZBENgLrcev6Zp/view?usp=sharing
ポストフェミニズムとは、ネオリベラリズムの登場を背景とする新しいフェミニズムのことを指します。ポストモダンが「モダン」の続きでありつつも、モダンの新しいモードのことを指すように、そしてポストコロニアリズムが新しい形態によるコロニアリズムのことを指すように、ポストフェミニズムはフェミニズムの続きだけど、新しいフェミニズムのモードを指すものです。 これは、90年代以降、英語圏で使われてきた用語で、その背景については、拙著『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど:ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020、晃洋書房)で論じています。 経済的政治的構造がネオリベラリズムによって再編されていくなかで、政府がグローバル資本の意向に従いながら官製フェミニズムを行うようになりました。 それとともに、「もう男女平等になった、もう女性差別はない」という主張をする「ポストフェミニスト」が現れる
1.認識レベルの不正義 websekai.iwanami.co.jp 上記の小宮論考は、私たちがいま使っている言語体系や思考枠組みにおいて、女性に対する暴力や抑圧を言い表す言葉が不十分であるという「認識的不正義」があるということを論じたものです。 ・小宮さんが「コード」(たぶんゴフマン~エスノメソドロジー由来)と呼んでいるものを、私はシュッツの言う「認識枠組み(schema)」と言い換えられそうだなぁと理解し、「認識枠組み」を日常語でいえば「思考枠組み」かなと思ったので、ここでは思考枠組みと一般向けに言い変えてみています(「コード」が社会学者以外にはわかりにくいという指摘を読んだので)。 整理すると、 認識レベルの不正義 行動・実践レベルの不正義 小宮「表象」論考はココを論じたもの (1)表象物による「男とはこういうもの」、「女とはこういうもの」という固定 観念(ステレオタイプ)の再生産の
1. 社会における表現の問題に関しては、「規制すべきか否か」をバトっていても、あまり意味はありません。「表現の自由」と「人権保障」の対立が起こったときに本当に議論すべきことは、表現のインフラを具体的にどう設計していくのか(既存の制度のどこをどう微調整・修正していくのか)です。広告表現はすでにかなり多くの規制から成り立っているので。 言い換えると、道徳論争はやっても決着がつかないことはある程度目に見えてるし、消耗率激しいので、お互いそれぞれの道徳感情や正義観があることを踏まえた上で、双方の意見を両立させるために、どういう実装化ができるのかを考えるのが重要ということです。これは別に冷笑主義とかエリーティズムとかではなく、社会科学というのはこういう営みのことを言うのだと私は理解しています。*1 でも、これはちょっと専門的っぽい話になるので(私はここらへんの専門家ではないのだが)、今度の#シンこれ
wezz-y.com 1.「わいせつ/性差別」の区別は重要 まず、堀さんは「わいせつ」と「性差別」を区別されています。これ重要です。 堀さんの議論によると、性器表現などの「わいせつ」は法規制されてきたが、フェミニズムにとっては「わいせつ」を規制することは、弊害の方が大きい。それに対して、「性差別」はこれまで法規制の対象になってこなかったが、現在*1ツイッター等での炎上が頻発しているところのものである。 もう少し詳しく整理すると、こういうことになります。 で、堀さんによると、青少年健全育成条例の有害図書指定の場では、「わいせつ」の問題ばかりを議論していて、「性差別」については考えることができていないのが問題である(と読解したのですが、なにせ私は有害図書指定関連の議論を今勉強しているところなので、詳しいことをまだきちんとは理解していません。すいません)。 このように「わいせつ」と「性差別」の違
1.自己紹介 #シンこれフェミ にご関心を持っていただきありがとうございます。 私、高橋幸は、フェミニズムを研究している人間です。 アカデミックの世界に15年くらい住んでいる関係で、 日本の学的なフェミニズムで、「だいたい」どんなような議論がなされてきたのかを知っているところが、私の強みであり、今回呼んでいただいた理由もそのあたりにあるようです。 つね日頃ツイッターをチェックしている人間ではないので、当日は「その用語は知らない」というようなことがあるかもしれませんが、その場合は、どなたか教えてください。 「女性」は一枚岩ではなく、 「フェミニズム」も多様なものとしてあります。 だから、私の考え方は、フェミニズムの「代表」ではないですし、これが「アカデミックに正しい」ということでもありません。ただ、私はこのような論理で考えているということは喋ることができます。 そもそも、社会運動や市民の抵抗
坂爪さんのコーディネートで、青識さんと討論会をします。 高橋が出ていく理由 1、坂爪本に良い意味で煽られたため:坂爪さんの今回の新刊本『「許せない」がやめられない』(2020)に煽られたところが一番大きいです(笑)。 坂爪さんは、今回さらに新しい一歩を踏み出しておられまして、同書では「女が許せない」「男が許せない」「LGBTが許せない」という立場をとる人々によってどのような議論がなされているのかをまとめて下さっています。 で、これらの人々を「ジェンダー依存」に陥っている人々と呼んだうえで、坂爪さんは次のように述べている。 ジェンダー依存の人に寄り添っていく自助グループや支援団体の立ち上げは、これからのフェミニズムや男性学、クィア・スタディーズに課せられた使命ではないだろうか。 ミソジニストに届く言葉を生み出せなかった男性学、ツイフェミの跋扈を防げなかったフェミニズム、ターフたたきや当事者の
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