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大そうじへの備え
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ある出版物が、電子ジャーナルになるという。ここでいう電子ジャーナルというのは、商業的な刊行ではなく、誰でも見れる形でネットにあげるということだそうだ、無料で。となると出版社は、仕事としては関われないことになる。 電子ジャーナルなら、wordでPDFでコストがかからないと考えている方がいらっしゃいます。その場合、編集者が関われば、文章を書き換えたもらったり、校正して赤字を見つけたりする。それをすべて、自分でwordで直してもらう、というのでは、学術編集者としてコメントできない、気がする。 関与するのではあれば、ビジネスとしての可能性がないと難しい。ゼロと可能性では大きく違う。電子ジャーナルの場合でも、出版社が関われば、InDesignか何かの組版ソフトで組んでそれを使うと言うことが必要だろう。ePub3にするにしても、PDFにするにしても、体裁を変えるということは、重要なプロセスだ。 体裁を
丸山真男は「1968年の東大紛争の際、大学の研究室を占拠して貴重な資料・フィルムを壊した全共闘の学生らに「ファシストでもやらなかったことを、やるのか」と発言した。」(wikipediaによる) という話しを吉本隆明氏の文章で読んだことがあります。その時の吉本氏の論調は、丸山真男の発言は東大教授の特権的な愚かな考えに基づく発言だ、持てるものの特権的な発言だ、ばかやろう、という調子の文章でした。それを読んで、かつて若者であった私は、そうだそうだと思ったと思います。 丸山真男の研究室にあったであろう、ドイツ語やフランス語の文献も、研究書もそんなものはどうせ自分は読むこともないわけだから、燃やされようが、水浸しになろうが、破られようが、消え去ろうが関係ない。東大教授、つまり国家公務員という特権の持ち主の研究室の本がどうなろうと関係ない... 最近、電子書籍を持てはやす方々が、本を壊して、スキャンす
国文学研究が売れず、まだ国史研究が売れるのはなぜか? 国文学研究は日本文学研究と呼んでもいいし、国史研究は日本史研究と呼んでもいい。 かつて、それこそ元禄時代の学術出版が勃興した時、古典文学の注釈書的な書籍の出版は大きく花開いた。国文学研究は、学問のコアの1つであった。これも、幕末まで続いて、国文学の教養は、「市民」としての教養であったのではないか。 明治になり、文学は教養のコアと言うよりは、文学そのものとなり、そのもの自体が尊ばれるようになった。教養のコアというのは、政治家、学者、実業家でも歌舞伎や和歌や能楽などは知っていて当然の教養ということだ。(副専攻あるいは教養科目) それが戦後は女子教育の事業となり、文学研究は、自己批判・自己批評から、国や階級を代表するものではなくなって、一見使えないものという意味での教養に変わった。 大学は実学志向になり、女性も経営学部、商学部に行くようになり
昨今では「電子書籍」ということが新聞などを騒がせています。新聞の論調は、どうも実質がなく、これまでの書籍というものについてあまりよく認識できていない論調であると感じています。 ある電子書籍の自称ジャーナリスト先生は、文字だけ読めればいいじゃないか、などといっています。そういう自称ジャーナリスト方など評論家は、学術書・学術論文についても、単にマイナーで少数の発行物とだけ認識しているようで、電子化すれば、みんなが読めていい、という認識です。私は、文字列だけで研究論文、研究書になるというレベルの低い議論にうんざりしています。 一方、電子ディバイスによって閲覧される電子書籍あるいは電子論文というものの可能性をまじめに検証してみたいという気持ちがあります。単純にテキストを流しただけ、あるいはpdfにして閲覧できるだけというのでは、わざわざ「電子書籍」という新しいカテゴリーを作る必要がないのではないか
近世文学会参加記 近世文学会に参加して思ったのは、文学だけで学会がなりたつのだろうか、とのこと。歌舞音曲やら出版流通やら、商業史や知識史、学問史、売春の歴史、などさまざまな「近世」にまつわる諸領域が合同で集まらなければ、「近世」について議論しにくいのではないかと思いました。 私の関心だと下に記した吉川弘文館から刊行されている『知識と学問をになう人びと』がとても面白い。近世史の成果の1つですが、結集しないと難しいのではないか? 文学の中でも文学、俳諧、仏教文学など、それぞれが分割されてしまっている。21世紀、それをもう一度融合し直さないと。 書簡史、書籍史などとも関連するし、当然、言語史とも関係する。大修館書店から刊行されると聞いている「歴史語用論入門」の刊行が、待ち遠しい。「歴史語用論」は文学史と知識史と言語史の接点となりうるからだ。 早稲田大学の和田敦彦さんたちがやっている「リテラシー史
日本文学研究者の方へ 日本文学研究者の方向けカタログに書いた文章です。 ひつじ書房は、言語学の出版を20年行ってきましたが、これからは日本文学研究の研究書も刊行したいと本気で考えています。 言語学の出版社としてこれまで歩んで参りましたので従来の国文学研究書の出版社とはひと味違った出版を行いたいと考えています。 文科系の研究は行き詰まっているかのように言われていますが、文学の問題は、いつも新しい課題を抱えています。たとえば、電子書籍というものが注目されていますが、文字列とテキストとは同じものなのか、文字列をブラウズすることとテキストを読むと言うことは同じ体験なのか、twitterなど誰もが発言できるようになるという人類史的に新しい事態の中、読み・書くという体験の意味はどうなるのか、これらがもし違う体験であれば、文学的経験というものは違ったものになるはずで、その意味するものは何なのか、などなど
学術書の電子書籍化、というのはなかなか容易ではない、ということを申し上げてきた。 これは、学術書が電子書籍化できないということをいいたいのではない。テキストが流れたり、文字の大きさを変化させたりするようなこと、すべてをすっぽりあきらめて、InDesignで組版した上で、pdfでデータを作るということは比較的容易である。pdfを書き出す時に特殊のフォントの埋め込みまでするとデータが重くなってしまうけれども。フォントの埋め込みが必要なのは、本文の明朝体の書体を固定したいということではなくて、発音記号など、普通のパソコンにインストールされていない場合には、データに組み込んでいないと表示できないから。 電子書籍というからには、画面の状態によって、フローし(流れ)てほしいと思うわけです。pdfでいいのなら、ディバイスはpdfリーダーであれば、よいということになる。 もし、テキストを活かして電子書籍を
朝日新聞を読んだところ、国際交流基金の事業仕分けは、今回、芸術部門については対象とならずに、日本語教育についてが対象となるようだ。日本語能力試験だけではないようだ。 芸術部門についての仕分けがないのは、前回の仕分けのあとで芸術関連の人々が、世の中に公開されたかたちで議論をし、抗議をしたからということがあるのかもしれない。分からないが、本当にこれまでのようなかたちでの芸術支援でいいのか、という議論はあったように思います。 一方、日本語教育業界で、国際交流基金の支援、文化庁の支援ということについて議論があったかというとなかったのでは? 芸術家は、基金が助成しないという方針を出した際に、ある意味命がけで反対しただろう。しかし、日本語教育業界は、基金が日本語教育学会への支援を打ち切るという時に、日本語教育学会首脳陣の全員の辞任を表明するであるとか、そういう抗議の姿を見せずに、ただ、受け入れたのでは
電子書籍なら、簡単に直ぐにぴゅっとできる、と思っている人が多いようだ。在庫リスクがないといういい方がされることが多いが、印刷しないでいいので1冊からでも採算が採れると思っている人もいるのではないだろうか。これも間違いです。 つまり、電子書籍になったからといって、現在の出版が抱える問題を解決できるわけではない、のである。問題は知的なものをどうやって、共有できるか、その時に編集者や出版社、あるいは取次、書店、図書館という書き手以外の存在がどう関わることで読者とつながれるのかという根本的な問題は、電子書籍になることでは解決しないのである。 (解決しないのでやらなくていいということではなくて、紙を捨てれば解決するかのようにいうヤカラは間違っていると言いたいのであります。) 本日、届いた「日本出版学会会報」127に高木利弘さんが次のように言っている。 「電子書籍」であれば、在庫リスクも絶版になる心配
S:電子書籍って言うけどさ、それは紙の本で言うと装丁のことなのか、それとも中身のことなんだろうかね?容れ物のことなのか、それとも中身のことなんだろうか? D:たぶん、今言われているのは、ほとんど区別してないで言っているんじゃないのかね。 S:区別しないで言えることってなのだろうね?単なる「もてはやし」かね。バブル? D:まあ、ネットで電子書籍って言っている人のほとんどが出版業界の人ではないので、イメージで言っているんじゃないの? S:何とかコンサルタントとかね。はやりのことに乗っていて、今の旬です、みたいなことかね? D:アンタはアクロバットが出る前から電子書籍って言ってたからね。今頃、訳も分からない奴が口を挟むなと。 S:好き勝手なことを言っても構わないんだけど。本屋さんに勤めている人がやる気をなくしたり、本屋の仕事をしようと思っている若者が、やる気をうしなうのなら、罪は大きいよ。 D:
アマゾンは、kindleでのロイヤリティは70パーセントと言ったという情報が、tiwiterの中やブログで引用されまくっていた。 アマゾン、電子書籍「キンドル」の作家ロイヤリティは70%Amazonは、販売中の電子書籍キンドル(Kindle)で、作家に支払われるロイヤリティが70パーセントとなると発表した。 Amazonによると、新しいロイヤリティは2010年の6月30日から導入される見込み。 このサービスで出版社は打撃を受けるが、本の大筋の内容を出版社の編集者が作家と共に共同で考えることや、 編集者を通して作品が変化する場合もあるようなので有能な編集者は生き残ると思われる。 アマゾン、電子書籍「キンドル」の作家ロイヤリティは70% 米Amazon.comは20日、電子書籍端末「Kindle」シリーズ向け出版物の著者印税率を70%にするオプションを発表した。 Amazon.comでは、個人
twitterの時代、フローのテキストとストックのテキストの意味が、問い直されている。これまでテキストといえば、それは、ストックのテキストが、テキストであったと言って良いかもしれない。組版し、印刷されるためには、インフラが必要で、それにアクセスできる人は、限られた人であったと言って良いかもしれない。それが、1980年代にワーブロが普及し、全ての人に印刷機が普及した。これが、インターネットの時代、さらに複製と配達が可能になった。そして、twitterにより、技術的にはまとめたり、推敲もせずに思っただけのことを書き、発信できるようになった。これは、極北だ。行きつくところまで来たということではないか。 わたしは、折り返し地点だと思う。誰でも書くことが、できることは、誰でも読まれるということを意味しないのは、当然のことだ。書く力のあるある人は、書く力だけで読まれるだろうが、そんな力のない人は、書い
ポット出版のページの情報が正確ではないようなので、特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩(http://www.tamadepo.org/)の公式的な見解の公表を待ちます。 公開されました。(11.4日現在) http://www.tamadepo.org/katudou.html 私たちは10月9日付で都立中央図書館長から市町村立図書館長に宛てられた文書において、都立多摩図書館が所蔵していた地域資料約9万点が処分されようとしていることを知りました。このことについて、私たちは大きな衝撃を受けるとともに危機感を感じています。 以下の要望を松本功(東京都民 武蔵野市出身)は、支持します。 (1) 地域資料という希少性が高く、地域を考える上で重要な資料を性急に処分しないこと。 (2) 今回の処分を撤回し、対象となっている地域資料を一括して都立多摩図書館等に戻し、その収集、整理を継続しながら、都民
澤辺由記子さんのトークを聞きに表参道のutrechtに行って来ました。青山のビルの2階、テラスがご飯を食べることも出来るようになっているオープンな感じの気持ちのよい洋古書店でした。 http://www.utrecht.jp/ utrechtは、本を紹介したい、本を書いた人を紹介したい、とのことで、その結果、アーティストの本、作品を取り上げることが多くなってしまう、とのことです。utrechtのあり方自体がアートかと。 澤辺さんのトークは、優しくかつ情熱的で、話しの内容と語り口に魅了されました。活版に取り付かれたミューズ、あるいは、語り部なのかもしれません。神がかっているという意味ではありません。あくまで、冷静で、理智的ではあるのに、ひきこまれるのです。 活版の魅力は、活字の圧力にあるのではないか、との質問に、本来的には、活版も均一を目指していたはず、との答えは、冷静なものです。中途なノス
「今、アメリカの大学でライブラリアンと呼ばれる職業が絶滅しつつある」というショッキングなタイトルの文章がある。図書館と図書館員(ライブラリアン)はどうなっていくのだろう。 私は、googleがいかにこれまでの検索というあり方を変えたとしても、ライブラリアンという人間的なリサーチアシストの機能の必要性は失われることはないと思ってきた。図書館に関わる人々はどう思っていたのだろうか。書籍の未来は危ないとして、ライブラリアンは生き残ると思っていたのではないだろうか。高をくくっていた、というような気がする。 カードを繰り、大型コンピュータを使い、書籍を見つけるという機能、調べている人の検索を手助けし、不明な点は図書館員という専門性によってサポートし、元気づけるというプロの機能が、素人の情報検索の前でその価値を失った、あるいは失ったと思われているとしたら、それはどうしてなのか。 この石松さんとフランス
『国語年鑑』の紙の版の刊行を停止するとのこと。市民アクセス不全の危険性を考えるべきではないか。 年鑑というものの性格として紙版と電子版のどちらが意義があるだろうか。論文や刊行物の書誌的な情報であれば、ネットで配信した方がよいかもしれない。そういう判断もありえるだろう。 かつての『国語年鑑』は、言葉関係の研究者・著者の住所録もあって、その年の概況を知るのにとても便利であった。しかし、ネットではそういう情報は掲載できないだろう。余談だが、新聞社とかテレビ局の人から、電話が掛かってきてとても有名な人の連絡先を聞かれるということがあって、そのたびに、マスコミのくせに『国語年鑑』くらいもっていないのかと思ったものである。 危惧は2つあって、そうならないようにしてほしい。紙を止めることによって、2次情報(その年の国語に関する情報・状況の要約とか抽出)を人力で作っていくということをないがしろにして欲しく
忙しい中、国立国会図書館の資料デジタル化に関する説明会に参加してきました。 2009年9月4日 出版社を対象とする国立国会図書館の資料デジタル化に関する説明会のお知らせ 平成21年6月に、国立国会図書館が原資料の保存を目的として行う資料のデジタル化に関する著作権法改正がありました。国立国会図書館では、この改正を視野に入れて、保存のための資料のデジタル化及びその利用に関し、平成20年度から出版者団体、著作者団体等と関係者協議会を行い、平成21年3月に第一次合意(PDF: 134KB)を取りまとめました。 また、平成21年5月には、国立国会図書館の資料を大規模にデジタル化する補正予算が成立しました。 国立国会図書館では、資料デジタル化を関係各位の御理解のもとに進めてまいりたいと考えております。そこで、出版社各位の御理解、御協力を賜るため、以下の要領で出版社を対象とする説明会を開催いたします。
テキストファイルとこれまで言ってきたモノについて認識を変えないといけないことになっていることに遅くも気がついた。何という無知。 著者がJIS第一第二水準の漢字で書いてくれていれば問題がないが、もし、第3水準、森鴎外の鴎の編を口三つで書いていた場合、plain textに落とすとそれは、文字が無くなるか、unicodeのファイルになるということだそうだ。 JIS改正とMS新書体をめぐって http://www.okazaki.sakuraweb.com/biboroku/msnewfont.html テキストデータのゆくえ Windows や Mac OS X で、補助漢字や第三・第四水準の漢字を使う場合、Unicode のデータとして扱われます。 テキストデータでお願いします、と言われた場合には、第一・第二水準の範囲の漢字で済ませればそれでよいわけで、これまでは、そうしてきたと思います。(
大学での読書推進運動の記録です。今回は少し宣伝を入れています。でも、いい本です。 読書が危機だとよく言われる。日本の高校生も大学生も半数以上本を読まないし、読む本も圧倒的に少なくなっている。大学図書館の需要は下がる一方で、しかも大学図書館では人べらし、本べらしが深刻で、もはや知の蓄積と運用の態勢を維持できないところまで追い詰められている。いまデキルことは何なのか。図書館が頭をしぼって考えた読書推進運動は学生・教員を巻き込み、台風の目玉のように全学を席捲したフェリス図書館の七年間。 大学図書館の機能というと、論文を書いたりすることの支援ということが中心となる。それは当然のこと。大学生は、勉強するために大学に行くのだから。高校までの勉強とは違って、自分でテーマを見つけて、自分で考えるのが本分だ。 とはいうものの、18歳から22歳、あるいはもう少し年が上になるかも知れないけれど、10代後半という
国立国会図書館のサイト、カレントアウェアネスによると、米国のOPEN ACCESS NEWSが「人文・社会科学の学術雑誌発行コストは自然科学よりも高い、という調査」を報告したという。その原因は、採択率が低いため、ピアレビューや査読に関わるコストが高いからだという。それに対して、投稿する著者が投稿についての経費を負担するという仕組みが提案されているらしい。 そのように著者が負担することで人文・社会科学の学術雑誌発行コストを下げようと主張する一方、理系の研究者が投稿する経費をサポートするファンドを持っているのに対して、人文・社会科学の研究者は、そういう基金、助成金を持っていないから、その部分を財政的補助する仕組みを考えるべきだという、ような論調だと思った、私の英語力で理解できる範囲によると。100パーセントの誤読かも知れません。 日本の学術振興会は、数年前に公開促進費を大幅に減らした。しかし、
出版学会の『白書出版産業 データとチャートで読む日本の出版』にのせるための原稿の素案 編集の根本は、新しい企画を作り出すことであり、そのことは基本的に全く変わっていない。印刷現場の技術の変遷と連動して、編集という仕事がどのように変わってきたのかということを述べる。 私が、編集の仕事を始めたのが、1986年である。その時期は、多くの出版社の編集現場ではもうほとんど電算写植で本文を組むという時代になっていたのではないだろうか。 精興社のHPの資料によると次の通り。 1979年(昭和54年)8月 青梅工場に初の平版印刷機を導入 1986年(昭和61年)12月 青梅工場第1期工事完成、組版電算化システム導入 1995年(平成7年)8月 活版印刷部門を整理 精興社は、活版組版に定評のある社であり、電算写植の導入は遅い方であったのではないだろうか。私の入社したおうふうは、日本の古典文学の研究書を刊行し
草稿 学術出版助成と学術出版 その1 大学出版部協会の機関誌に掲載する文章を書いております。その前半部分をアップします。 学術書を刊行している出版社のことを学術出版社といういい方をするわけだが、実際には総合的な学術出版社もあるが、多くの場合は、得意とする学術ジャンルがあると思われる。ひつじ書房は、言語学、日本語の研究、や英語や他の外国語の言語研究の書をもっぱら刊行しており、言語研究と関係して、言語政策、言語教育に関する研究書も刊行している。研究ジャンルによっても状況や条件も違っている。私の知っているジャンルの研究についての話しになりますことをお断りしておきたい。 それでも、まず学術出版というものはどういう現状にあるかということを概観しておきたい。そのためにおおざっぱに学術書という「商品」の市場規模を説明したい。たいていが、A5判サイズで、部数として少ない場合は250部、多い場合でも1500
学燈社「国文学」休刊とのこと。 私は、A5判雑誌の時代の終わりとか(『英語青年』は、B5だった)、教養の終わりであるとか、純文学の低迷とかいうが、そうではないと思う。20年前のラーメン屋さんと今のラーメン屋さんが違うように、生き残っているところは、時代が変わると味を変えるなどのことをしてきた。そういう商売の基本的なことが少し足りなかったのではないだろうか。それに朝日新聞によれば、部数は5000部でていた(最盛期の6分の1とのこと)というが、月刊誌で5000部あれば、生き残るすべはなくはなかったと思われる。 20年前の出版業と今の出版業はかなり異なっている。時代が違っている中で、当の出版社も読者もその変化を見ていなかったということではないのだろうか。 日本文学研究というものを、学術的なあり方と文学的なあり方のどのようなバランスの中で、生きていくのかという覚悟が十分でなかったのではないだろうか
イパネマの娘で、私なども知っているジョアン・ジルベルトは、João Gilbertoと綴る。L(エル)のことを、ラ行だと日本人は思っているので、ジルベルトと読むのが慣例なのだけれども、ポルトガル語のL(エル)は、ウと読むのが本当らしい。 とするとジウベルトと呼ぶのがポルトガル語的なのだろう。 こんなことを知ったのは、もうすぐ近刊で刊行されるリリアンさん著『マイノリティの名前はどのように扱われているのか』の中で、ブラジルから来た子どもたちの名前が、ローマ字を読むときに、英語読みになったり、日本語での英語のイメージで読まれてしまい、子どもたちが自分の名前を予想もしない呼び方で呼ばれてしまうことがよくあると指摘されているからだ。 私の名前はイサオだが、それがサオとかイザオとかヒサオとか、言われたら。人間は自分の名前で自分を認識しているということがあり、読み間違えられるだけで、自分の足下がぐらつい
人文学及び社会科学の振興について(報告) われわれ、ひつじ書房は、言語学の出版社ですが、個々の学術出版社に留まらず、今回の報告は、学術出版に関わるものにとってとても重要なものだと思います。 文部科学省の設置した審議会である「科学技術・学術審議会学術分科会では、平成19年5月より、科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会の下に「人文学及び社会科学の振興に関する委員会」を設置し、人文学及び社会科学の学問的特性、役割・機能等を踏まえた振興方策について検討を行って」きたということで、これまでの検討内容が報告書としてまとめられ、公開されました。 以下の報告書、ぜひとも、概要ではない方をご覧下さい。人文学及び社会科学の振興について、学術出版の必要性について詳しく述べています。概要の方では、かなりさっぱりとした記述だと思います。 「人文学及び社会科学の振興について(報告) −「対話」と「実証」を通
街の書店という業態において自分の経営努力で、立ち直るということは、私は不可能だと思う。 商売としてなりたたせるためには、坪面積が200坪以上は必要だろうし、本のことをよく分かる人が最低2人はいないと回らないと思うけれども、50坪クラスでは売上げが不足してしまうだろう。利幅の多い副業をするということもあるかもしれないが、それは個々の作戦の問題であって、書店業の救いの手ではない。 街の書店に助成金を出すということしかないと思うのだ。 中学校区(その地域に中学校が一校あるようなエリア)に一つは書店が、社会的なインフラとしてあるべきである。それは社会的なインフラであり、文化的な生活を営むのに必須の存在である。書店の無い生活を余儀なくされることは、その人間の人権侵害である、と考え、中学校区に1軒の書店を持続させるべきだ。 ここでの私の立場はコミュタリアン的だと思う。書籍には、エンターテインメントとい
書協のHPには、再販制度の必要な理由として次のように書いている。 念のため言っておくと再販制度とは、出版社の決めた値段で小売店も販売するという仕組みです。 なぜ出版物に再販制度が必要なのでしょうか? 出版物には一般商品と著しく異なる特性があります。 (1) 個々の出版物が他にとってかわることのできない内容をもち、 (2) 種類がきわめて多く(現在流通している書籍は約60万点)、 (3) 新刊発行点数も膨大(新刊書籍だけで、年間約65、000点)、などです。 このような特性をもつ出版物を読者の皆さんにお届けする最良の方法は、書店での陳列販売です。 書店での立ち読み 風景に見られるように、出版物は読者が手に取って見てから購入されることが多いのはご存知のとおりです。 再販制度によって価格が安定しているからこそこう したことが可能になるのです。 しかし、これは特性であって、理由にはなっていないと思
MSN産経ニュースの記事。 もし、文科省がその主張を通すのなら、これまでの関係者の議論や積み重ねが無であったことになる。財務省が指摘するのなら、ありえるかもしれないが… 岐阜県の就学支援策に“待った” 文科省「外国人学校への公金投入は違反」 (1/2ページ) 2009.1.19 23:30 メーカーの「派遣切り」や期間労働者解雇の影響を受ける在日外国人労働者たち。失業した親が学費を払えないため、子供たちが外国人学校を退学するケースが急増している。外国人労働者が多い岐阜県が、子供たちが通う学校に学費補助をする計画をまとめたところ、文部科学省が「私塾の外国人学校に公金投入するのは憲法違反」とストップをかけた。差し伸べようとした支援の手が届かない現状に、同様の問題を抱える各地の関係者は頭を悩ませている。 http://sankei.jp.msn.com/life/education/090119
日本語教育の父は、誰だろうか。私は、嘉納治五郎を候補として上げたい。他にも候補はあるだろう。上田万年であるとか、…。 ネットで検索しても、出てこないし、そういう呼び方を聞いたことがないので、たぶんそういう呼ばれ方をしている人はいないのではないだろうか。しかし、ものごとには創始者というものがいるはずである。それはだれなのだろう。 嘉納治五郎は、通常、柔道の父と呼ばれる。それは確かにそうなのだが、高等師範の校長でもあったということを考えると教育の父でもある。近代教育の父、と呼んでもいいのかも知れない。 何でこんな事をいうかというと、林屋三平の襲名披露の行事・イベントが目白押しだからである。何でこんな事をいうかというと、落語協会は、落語の復興のために、内部的リソースを活用しようとしはじめているからだ。何でこんなことをいうかというとこれは『苦悩する落語』で、小朝が提唱していたことと同じだからである
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