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24年間日本語を教えたモントリオール大学を2012年6月に退官した際、ちょうどいい潮時かと思って「日本語ものがたり」を連載77回目で終わらせて頂きました。ところが先月故小畑精和明治大学教授のお悔やみ記事を書きましたら、「日本語ものがたり」の再開を友人数人から強く勧められてしまいました。退職以来、以前より時間の余裕が出来ましたので、「それでは忘れた頃に時々…ということで」、という条件でお引き受けました。恐らくは数か月に一回といったペースで、のんびりと行きますので、どうぞ今後ともよろしくお付き合いください。 休んでいた間にこれという名案が浮かんだという訳でもないのですが、面白いと思ったことは何回かメモしておきました。今回はそんな中から一つ取り上げてみようと思います。日本語を教えていて、学生から幾度となく言われたのが次の言葉でした。 「日本語って、話すのは思っていたよりずっと簡単ですね。でも読み
春があけぼの (ルウム) 2011-08-29 21:25:50 「は」は係助詞であって、主格を表す格助詞「が」のようには文法関係を表すことなく、主題を表すのだということで、その例として下記の文がよく挙げられています。 (1)春は、あけぼの。 (2)ぼくは、ウナギだ。 それでは、「が」が「は」のような振る舞いをしないかといえば、そうでもないようです。上の例文を下敷きにして、「が」を使った次のような例文を作ってみました。 (3)春があけぼのなら、夏は夜だ。 (4)ぼくがウナギで、君が鯛だ。 このような「が」の用法については、どのように考えればよろしいでしょうか? 返信する 春があけぼの その2 (ルウム) 2011-09-09 22:27:43 例文(1)(2)を下敷きにして例文(3)(4)ができていますが、このあたりの事情について以下のように考えてみました。 (1)春は、あけぼの。 (2)
今回の話題は「和子・和夫(和男)」という名前についてです。あるとき「和子・和夫(和男)という名前の人はみんな長女・長男だよ」と主張する人がいて、それが全く初耳だった私はとても驚きました。ましてや、その直後にバンクーバーで会社を経営されている上田(こうだ)和男さんとお会いする機会があり、そのことをお話したら「確かに、私は長男です。それに妻の名前は和子で、やはり長女です」とおっしゃるのではありませんか。そう言えば、最近ちょっと話題になっている「鶴見和子を語る:長女の社会学」(2008年:藤原書店)という本がありますが、この題なども上記の主張にぴたり当てはまりそうです。 あまりに気になったので、インターネットで調べてみました。すると、「和子・和夫という名前の人に長女・長男が多い」というのはあくまで傾向で、そうでない場合もあることが分かりました。例えば、著名なマルクス主義思想家、経済学者で、一時は
この連載の第4回で日本語における外来語(といっても漢語には触れず、いわゆるカタカナ語)の話をし、その最後に、ケベック州におけるフランス語を守る言語法にも触れた。そうした背景もあって、ケベックの学生は日本人が英語起源のカタカナ語をかくも多用するのに一様に驚く。そしてニヤリと「先生、日本語は外来語に寛容すぎませんか?」と言ってくる。毎年のことだ。今回は「言語の外来語に対する寛容度」を取り上げてみよう。かくして外来語シリーズ、2回目である。 続きは以下で読めます。 http://shugohairanai.com/2017/10/20/7-japanese-too-open-to-adopted-words/
前回「赤ちゃんの名前」で、女の子の名前には、平成の今に至るまで、依然として花に関する言葉が好んで使われることに注目した。例えば「花、萌、凛、咲、菜」などの字である。今回はそれを受けて「シクラメンのかほり」という題でひとときのおつき合いを。ただし今回は謎解きである。 シンガーソングライターにして現役の銀行員でもあった小椋佳が作詞・作曲。本人よりもむしろ布施明の声で大ヒットした「シクラメンのかほり」だから、読者にもお馴染みの歌であろう。だが、この曲は題名に謎が隠されていることは御存知だろうか。先ず初めにその謎をご紹介し、それから謎解きを試みよう。 「シクラメンのかほり」という題名は二重の意味で間違っているという指摘が以前からあった。それは次の2点である。 (1)「かおり(香り・薫り)」の旧かなは、「かをり」で「かほり」ではない。 (2)シクラメンはそもそも匂わない。つまりシクラメンに香りはない
Unknown (かめど) 2007-12-04 01:56:49 長かったけど、思い当たる事多くって最後まで読んじゃいました~ 主語・目的語をはっきりさせたがる日本語で思い出すのは、契約書や法律書ですね 甲が乙を、で甲に代入するのは、、、なんて方程式は日常会話では使いたくないですもんね 初めて来たんですが、またちょこちょこ寄らせてもらうかも よろしくです~ m(_ _)m ちなみに http://blog.livedoor.jp/fairypot/archives/51359903.html#comments の2007年11月27日のコメント39から飛んで参りました^^ 返信する 日本語版愛の告白 (たき) 2007-12-07 14:45:04 歳顔まで読んで下さって恐縮です。またお気軽にいらして下さい。 時々新しい記事を載せています。 かめどさんには興味深いサイトをご教示賜り、感謝
和語の魅力をさらに追いかけていこう。あるとき、小説を読んでいたのだが「愁子がふらりとやって来たのは、日曜日であった」という文に目が止まって、先に進めなくなった。「日曜日であった」か。ここは「日曜日だった」とも言えるな、と思い始めたら、そこからどんどん和語の面白さが頭の中に広がっていったのである。 そう言えば、明治期の言文一致運動の過程で、例えば「我輩は猫である」のような文の終わりが「猫である」=>「猫であ」=>「猫だ」と変化したと、どこかで読んだ気がする。もしそうなら「であ(dea)」が「だ(da)」になるのは、上の例で「日曜日であった」と「日曜日だった」の違いと並行している。 つまり連続する二母音のうち一つが落ちて単母音になったのだ。「千曲川旅情の歌」(1905)で島崎藤村は「小諸なる古城のほとり」と美しく詠んだが、この「小諸なる」の元は明らかに「小諸にある」で、ここでも同様に「nia」
外国語としての日本語を教えていて、ときどきふと立ち止まる。それは、いままで気付かなかったことが急に意外性を帯びて立ち現れた時だ。あれ、どうしてこうなんだろう、と自問していろいろ調べ、答えが見つかることもあるし、疑問が疑問のまま、何年たっても分からないこともある。いずれの場合にしても、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせること自体が刺激的で、とても楽しい。答えが分かった場合の多くをこれまでこのエッセーで述べてきた。今回もそうした新発見、と言うよりはむしろ再発見の例である。 それは「日本語の基本語彙は2モーラ単語が圧倒的に多い」ということだ。モーラ(mora)とは何だろう。広辞苑を引くとこう書いてある。「音韻論上の単位。1子音音素と1短母音音素を合わせたものと等しい長さの音素結合。拍」。これではよく分からないが、早い話、俳句や短歌を考えてみるとよいのだ。5-7-5というのは、モーラを数えて
いくら勤勉な学生と言えどもやはり人間。誰だって「最小努力の法則」を可能な限り実践している訳だ。果たして日本語のクラスでも「先生、今学期は単位を多く取りすぎて、あまり時間がないんです。集中的に効果を上げるにはどう勉強すればいいですか」などと聞いてくる学生がいる。考えてみればいい質問だ。日本語をマスターする為の最大ポイントは一体何だろうか。 この続きは以下に引っ越しました。 http://shugohairanai.com/2017/12/01/10_the-key-to-improve-the-japanese-proficiency-level/
日本語をよく観察すると、日本人がいかに「対話の場」を大切にする民族かということに驚く。話し手である自分がいて、自分の前に聞き手がいる。聞き手は2人以上のこともあるが多くは1人だ。ここで大切なのは、この「対話の場」に<我>と<汝>が一体となって溶け込むということだ。この点が日本文化の基本であるように思えてならない。日本語における<我>は、決して「対話の場」から我が身を引き離して、上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視線をもたない。<我>の視点は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である。 これに対して、西洋の考え方は自己を世界から切り取る所に特徴があるように思える。自分に地球の外の一点を与えよ、地球を動かしてみせると豪語したのはアルキメデスだった。自分を「我思う、ゆえに我あり」と、思考する<我>を世界と対峙させることで<我>の存在証明にしようと試みたのはデカルト(「方法序説
日本語の母音は「ア・イ・ウ・エ・オ」の5つということになっている。でも果たして大昔からそうだったのだろうか。いや、そうではなくて、奈良時代には「イ・エ・オ」がそれぞれ2種類(甲類と乙類)に分かれており、母音は合計8つあったのだ、というのが国語学界の定説である。その8母音の甲乙の差がなくなって5つになり、そのまま現在に至るとされる。 その端緒となったのは江戸時代の国学者、本居宣長とその門弟石塚龍麿の研究。二人は単語によって万葉仮名が書き分けられる事実に注目したのである。万葉集は、まだ平仮名の発明されていなかった奈良時代に編集されたから、平仮名の代わりに漢字が(表音文字としても)使われているのは当然だ。ところが、単語によって使われる漢字が決まっている。例えば、同じ「き」でも、「きみ(君)」の「き」と「つき(月)」の「き」では、漢字が常に異なる。それから遥かに時代が下った大正時代、国語学者橋本進
目次:クリックすると該当ページに飛びます プロフィール プロフィール 日本語ものがたり はじめに 第87回 「60年かけて果たせた約束」 第86回 「子供たち」と「友達ども」 第85回 「居酒屋」は、「ISAKAYA」か「IZAKAYA」か 第84回 「ひらがな革命と国風文化」 第83回 「黒帯の教え子をもつと」 第82回 「消えたミスター・残ったミスター」 武田鉄矢さんの「今朝の三枚おろし」トントントン♪ 第81回 「シルエット、サンドイッチ、レントゲン:これら3語の共通点は?」 志村建世さんのブログ:意見をつなぐ、世界がかわる BLOGOSより 第80回 「場所から物の名前になった例」 新刊出ました! 第79回 「書かれた通りに発音すればいいんですね」 第78回 「故小畑精和先生を偲んで」 小飼 弾さんのブログ:404 Blog Not Found">小飼 弾さんのブログ:404
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先ずは前回の宿題、「英語で、Aが使われる最初の数字は?」の解答を。仏語、イタリア語、スペイン語は4(quAtre/quAttro/cuAtro)、日本語では漢数字が3(sAn)で和数字が7(nAnA)、ドイツ語は8(Acht)など、1桁の数字が多い。「あばば・パパ・ママ」など、幼児の言語獲得でも最も早く現れるとされる母音「A」は、基本語彙である数字にも早々と登場するのだ。ところが一体どうした訳か、英語だけは桁外れに遅いのである。外れた桁も何と3桁で、驚くなかれ、最初に現れる数字は1000(thousAnd) なのであります。 母音の話をさらに続けると、せっかく5つあるのに、自分の名前に母音をたった1つしか使わない日本人もいる。1969年5月、当地モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルで夫のジョン・レノンと平和キャンペーン「Bed-in」を行ったオノ・ヨーコ(小野洋子)さんもその一人だ
第11回「先生、ジュテームは日本語でどう言いますか」にも書いたけれど、日本語と英仏語の発想の違いを表す典型的な文は「好きだよ・好きよ」だと思う。手を握られてこう言われたら、「そう、さっきの映画、そんなに気に入ったの」と答える日本人は先ずいない。 当然、英仏語なら「I love you」「Je t'aime」と、双方「誰かさんと誰かさん」が人称代名詞で登場する場面である。ここで重要なのはこれらが英仏語では不可欠であるということだ。つまりこの二人が出て来ないと文にならない。一方、日本語の「わたしはあなたを愛しています」は、翻訳機械が吐き出したような悪文だ。実際にはあまり使われないのがその何よりの証拠である。 何故悪文かと言えば。日本語の「基本文」には、国語の時間にはそう教えられるが、実は、「主語」や「目的語」が不要だからだ。 そもそも日本語には「人称代名詞」という品詞は不要であって、日本語では
(1)発音が簡単(2)英仏語のような動詞活用がない(3)動詞が文末に来る(4)形容詞は文である、とこれまで日本語の特徴を並べてきた。今回もさらに2点、加えてみよう。 (5)修飾語が被修飾語に先行する。つまり、形容詞は名詞の前に来るし、副詞は動詞の前に来るのが原則だ。何だ当たり前じゃないか、と思われるかも知れない。ところがモントリオール大学の大半の学生の母語であるフランス語では、これが2つとも逆なのだ。「丸いテーブル」は「une table ronde」だし、「早く食べる」も「(Je) mange rapidement」としか言えない。 ははーん、日本語の修飾語は英語と同じ語順なんだな、と学生がよく勘を働かせるが、実はそれは早合点である。確かに英語でも形容詞は名詞の前に来る。一方、副詞はしばしば動詞の後におかれる。そしてさらに決定的に違うのは、修飾部分が文(学校文法では「節」という)である場
「食べます」という日本語の文の意味は「Je mange. Tu manges. Il mange. Elle mange. Nous mangeons. Vous mangez. Ils mangent. Elles mangent. On mange.」のどれかだが、そのどれかはこの文からだけでは分からず、それを決定するのは文脈だ、ということを前回述べた。 これを聞いた学生が一様に驚くので、2つの言語の間に1対1に完全に対応する文はあまりないのだと説明する。共通点の多い英語とフランス語の間にだってそれは言えるのだ。例えば、ある英語の小説の中に「You are kind」という文があったとしよう。こんな簡単な文ですら、文脈を無視したらとても仏訳は出来ない。様々な可能性があるからだ。全ては「You」がどんな人物かにかかっている。男性か女性か。親しい人か親しくない人か。さらに、一人か二人以上か
夏の3か月を名古屋で過ごしたこともあって、しばらく書き込みを怠ってしまった。これをいい機会にここいらで一度初心に帰り、「日本語の特徴」という大きなテーマで数回話してみたい。 9月からまた新学期が始まった。一度やったら好評だったのに気をよくして、日本語一年生の最初のクラスの冒頭に「日本語の特徴」を話すことにしている。日本語に関心は持っているものの、一体どんな言葉なのか全く知らない学生がほとんどなので、学生の母語である仏語や英語と比較してどういう点で日本語は違っているのかを10点ほど挙げ説明する。大掛かりな旅行に出る前に地図を見せながら見所を話す様なものだから、学生は目を輝かせて聞いてくれる。相手は子供ではないのだし、この導入部分は直接法(Direct method)でいきなり日本語を使うよりも学生の母語で説明した方が遥かに効果的だ。日本語話者の皆さんにも、日本語の性質が改めて理解出来たり、英
夏の3か月を名古屋で過ごしたこともあって、しばらく書き込みを怠ってしまった。これをいい機会にここいらで一度初心に帰り、「日本語の特徴」という大きなテーマで数回話してみたい。 9月からまた新学期が始まった。一度やったら好評だったのに気をよくして、日本語一年生の最初のクラスの冒頭に「日本語の特徴」を話すことにしている。日本語に関心は持っているものの、一体どんな言葉なのか全く知らない学生がほとんど . . . 本文を読む
当地ケベック州には言語法というのがあって、両親が英語話者でない移民の子供は(公立学校なら)仏語の学校に行かないとならないとか、商店の看板に使う文字も仏語を英語よりも大きく書かなければいけないとか、色々な規制がなされている。最初に当地に来たころは、「おいおい、この州には表現の自由がないのか」と驚きあきれたものだったが、それはケベック州民の言語的、文化的危機意識のなせるわざであることに次第に気がつくようになった。 陸続きである広大な2国、カナダとアメリカ合衆国の言語状況を考えてみよう。すると、数億の英語人口の中で僅か2%にすぎない600万人ほどの仏語話者がほぼ一箇所に集まっているという状況が見えてくる。言葉を失えば文化を失ってしまうという仏語話者の危機意識はそうした状況に根ざしているのだ。その危機管理を目指して制定されたのがケベック州の言語法なのであって、制定以来、州民と政党の違いを越えた為政
・・でございますウーー !? (上戸 万弥) 2006-10-19 14:55:33 第一回「三階でございま~す」を読ませてもらいました。 確かに、語尾が高くなる(上ずる)のは、恐・畏・怖・懼のオソレを基礎にした敬意表現だと、私も思います。語の感じ=語感にそのオソレを感じることは、エレベーター嬢のあの高い声からは感じられませんが、言われてみれば成る程と思うのです。むしろ、私の場合は、女性特有の(男にはない)あの甘い?高い声は、耳障り(耳触り?)良く聞こえてきます。オスがメスを感じる声だとも、思います。 話が飛びますが、・・・でございまアーす ではなくて、・・・でございますウーー と、ございますのすを上げて話す地域があります。私が単身赴任で大阪に行き、兵庫県を担当した時、京都弁(京言葉?)とは少し違う話し方に接し、戸惑いはなかったものの、のったり?しているなアーという感じを受けました。京都
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