描写の哲学における二視覚システム理論

まえおき

描写の哲学(絵・画像の哲学)における二視覚システム理論について調べたのでまとめる。最近 id:Aizilo さんが近年の描写の哲学の論点を紹介していたので、まあこれも最近のトピックということで。

描写の哲学、再訪:触図からディープフェイクまで - #EBF6F7

まず前提として知っておいてほしいのだが、人間を含む哺乳類には、二種類の視覚システムがそなわっている。網膜から脳にいたる神経経路が二種類存在し、それぞれが異なる機能を担っている。腹側経路は主に物体の形状認識に貢献し、背側経路は、動作の視覚的ガイドや位置の把握に関わる。なお、田中、鈴木、太田による『意識と目的の科学哲学』では、二つの視覚システムについて詳しく紹介されている他、哺乳類は、一度視覚が退化したあと、再び視覚が進化するという特異な進化を経験しているため、二つの視覚システムが存在するという興味深い仮説が紹介されていた。

ベンス・ナナイなどをはじめとする哲学者は近年、この二視覚システムの存在を画像知覚と結びつける議論を展開している。

マッセンと存在感

  • Matthen, Mohan (2010). Two Visual Systems and the Feeling of Presence. In Nivedita Gangopadhyay, Michael Madary & Finn Spicer (eds.), Perception, action, and consciousness: sensorimotor dynamics and two visual systems. New York: Oxford University Press USA. pp. 107.

近年の議論の端緒となったのはモハン・マッセンの2010年の論文である*1。マッセンがそこで問題にしたのは、視覚に伴う物体の存在感feel of presenceだ。実を言えば、その後の描写の哲学の議論では、あまり存在感を巡る論点は触れられていない印象があるが、一応紹介しておこう。この意味での存在感について理解するには、VR(バーチャル・リアリティ)と通常の二次元画像の経験を比較してみるとわかりやすい。以下の三つの経験について考えてみよう。(VRを体験したことがないとイメージしづらいかもしれないが)

  • 対面で、目の前にオレンジが見える
  • VRで、目の前にオレンジが見える
  • オレンジの写真を見る

対面およびVRの場合、オレンジを見る経験には、〈右側の方にある〉〈手を伸ばせば掴める〉といった感覚が伴っている。VR経験の場合、実際にはオレンジはそこには存在しないわけだから、この感覚は錯覚ないし幻覚であるわけだが、にもかかわらず、感覚があること自体は否定しがたいだろう。むしろ、その種の錯覚を与えることこそがVR体験のキモである。VRは、物が目の前に存在する感じ(フィール・オブ・プレゼンス)を擬似的に作り出すのだ。

もう少し一般的に言うと、対面知覚やVRの場合、対象は、自己を中心とする空間の中に位置づけられ(「前にある」「右にある」など)、行為可能性を付与される(「掴める」「持ち上げられる」など)。

ところが、普通の意味での二次元画像には、この存在感が欠如している。対面でも、画像でも、オレンジはオレンジとして認識できるにもかかわらず、オレンジの写真を見ても、私たちは、「手を伸ばせば掴める」とは感じない。絵の中のオレンジは、そもそも自分と同じ空間の中にあるように見えないのだ。他方、VR内のオブジェクトは、自分と同じ空間の中にあるように見える。これは普通の画像とVRの大きな違いである。また、これはいわゆる「絵のうまさ」「本物らしさ」みたいなものとは違う話である。というのは、VR上で提示されるオレンジ風オブジェクトがどれだけ拙かったとしても、依然として〈右側の方にある〉〈手を伸ばせば掴める〉という感じが伴うからだ*2。

マッセンは、対面知覚に伴う物体の存在感を、背側経路を通じた背側視覚(運動視覚)と結びつけている。一般に、画像に描かれた対象は、腹側視覚(形状視覚)によって表象される一方、背側視覚には反応しない。それゆえ対面知覚・VRの場合とは違って、絵の中のオレンジには存在感が欠けているのだ。

ナナイと画像の二重性

  • Nanay, Bence (2011). Perceiving pictures. Phenomenology and the Cognitive Sciences 10 (4):461-480.
  • Nanay, Bence (2015). Trompe l’oeil and the Dorsal/Ventral Account of Picture Perception. Review of Philosophy and Psychology 6 (1):181-197.
  • Ferretti, Gabriele (2016). Pictures, action properties and motor related effects. Synthese 193 (12):3787-3817.

ベンス・ナナイは、マッセンの議論を発展させ、二視覚システムを、画像知覚における「画像の二面性」と結びつけている。画像の二面性は、哲学者ウォルハイムに由来する議論であり、大雑把に言えば、画像を見るとき、私たちは、画像表面(キャンバス、絵具)を知覚するとともに、画像内容(描かれたオレンジ)の両方を知覚するという立場である。

ナナイが最初にこの問題を扱ったNanay(2011)では、以下の四点が主張されている。

  • (a) 描写された光景は、腹側知覚によって表象される
  • (b) 描写された光景は、背側知覚されない
  • (c) 画像表面は、背側知覚によって表象される
  • (d) 画像表面は、必ずしも腹側知覚によって表象されるわけではない

表にすると以下のようになる。

腹側知覚(形状知覚) 背側知覚(運動知覚)
描写内容 ○ ×
画像表面 △ ○

これが言えると何がうれしいかと言うと、画像の二面性に関する神経科学的基盤があると言えるからである。つまり、描写内容の知覚と、画像表面の知覚に、それぞれ二種類の視覚システムが異なった仕方で対応していることになるのだ。

また、詳しくは紹介しないが、ナナイはこの議論を応用し、いくつか画像知覚を巡る現象に説明を与えている。

なお、その後ナナイは、Nanay(2015)で微妙に立場を変更しており、いわゆる「だまし絵」の場合、描写内容が背側知覚されることを認めている。つまり、この2015年の方の立場では、(b)が緩められており、描写対象が背側知覚(運動知覚)される可能性が認められている。簡単に言えば、だまし絵にだまされている場合、絵に描かれた対象は、鑑賞者にとって、自分と同じ空間に位置するように見えるのだ。

なお、描写対象が背側知覚(運動知覚)される場合があるというのは、実験などでも確認されているらしく、Ferreti(2016)でその辺りが詳しく紹介されていた。その辺を踏まえると(b)は以下のように変更すべきなのかもしれない。

  • (b) 描写された光景は、背側知覚されない
  • (b') 描写された光景は、必ずしも背側知覚されない

なお、画像が運動知覚されないというのは、VRとの比較ではわかりやすい反面、身体性を強く感じさせるような画像の場合は、むしろ運動知覚が重要そうな気もするので、その辺どうなってるのかなというのはぼんやり気になっている。

*1:追記: 2010年の論文が端緒と書いてしまったが、マッセンは2005年の著作でも同様の議論をしているようなので、「マッセンが端緒である」くらいの言い方にすべきだったかもしれない。

*2:ひょっとすると「立体感」と混同する人もいるかもしれないが、ここで問題にしているのは単なる「立体感」のことでもない。おそらく、存在感が生じるためには、目の位置を変えたときに別の角度から見えるといった条件もかなり重要であるように思われる。

『「ふつうの暮らし」を美学する』の手前で

青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』という本が光文社新書から出ました。日常美学という美学の一分野の入門書で、著者はこの分野の第一人者(おそらく日本にひとりしかいない)です。詳しい目次がAmazonから見れるので、興味のある人は見てみるとよいでしょう。

私が宣伝するまでもなく売れてそうだし、内容紹介は著者がすでに書いているため、私はこの本を読む上で知っておくと役立つかもしれないことを書いておこうと思います。

以下、本の要約や感想からかけ離れたことをしばらく書くので、そのつもりで読んでください。日常美学という分野と関係があり、美学者は知っているけれど、この本を読む人はひょっとすると知らないかもしれないことを書きます。

さて、書きたいことは以下です。

  1. 美学者のあいだでは、美(美的判断、美的特徴、美的価値、美的経験)に関して、広く合意された定義はない。
  2. そのため、美に関する複数の捉え方が流通しており、どの規定を採用するかで、美に含まれる範囲が微妙に異なる(以下「規定」と呼ぶ)。
  3. 一部の規定からすると日常生活における美的判断は美の一種に含まれるが、一部の規定ではそうではない。

これが「日常美学」という分野の環境の一部を形成している事情です。以下もう少し詳しく解説していきます。

1について。「分野の根幹にある概念に合意がなくても大丈夫か」と思われるかもしれないですが、これは哲学分野では普通です。なぜそうなるかというと、基礎概念の定義に関して合意が得られることは、哲学分野(の少なくとも一部)では、研究のスタート地点ではなくゴール地点だからです。みんなが基礎概念の定義に合意すると、やることがなくなってしまうので、分野ごとなくなります。これはこれで興味深い話ですが、本書と直接関係ないので深入りするのはやめましょう。

2について。美に関しても当然互いに対立しうる複数の規定があり、諸派あります。諸派の地図を描く部分は、中立的にやるのはちょっと難しいですが、さわりだけ書いてみましょう*1。

規定A: 感性

感性による規定: 美的判断は、感性を使った判断だよ。

とりあえずこれがメジャーな規定ですね*2。本書の中にも登場しています(二章)。

よくある説明はこんな感じです——私たちはものを見て「優美」「派手」「バランス良い」といった述語を使うことがありますね(銭さんによるもっと網羅的なリスト)。こういう述語を適用するときは、ルールや基準みたいなものを杓子定規に当てはめるのではなく、感性やセンスをはたらかせる必要がありますね。美的判断というのは、このように感性を使った判断なんですよ。

規定B: 無関心性

無関心性による規定: 美的経験は、日常の実践的関心から離れた特殊な知覚のあり方だよ。

「無関心性」という用語はカントに由来します。この規定にはあまりまとまりがなく、むしろ複数の規定の集合体と捉えたいのですが、とりあえず、〈美術鑑賞のような特殊な知覚のあり方を美の典型例と捉える立場〉としておきたいと思います*3。

私たちは日常生活において、「ものをじっくり見る」ということをあまりしないのですが、絵画を鑑賞するときは、じっくり見ます。じっくり見るだけではなく、何か特殊なことをいろいろやっているかもしれません。このような、〈絵画鑑賞に見られるような特殊な知覚のあり方〉を「美的経験」と捉えるという派閥があります。芸術鑑賞の特殊性をどう特徴づけるかに関しては深入りすると、さらに派閥が分かれていきますが、とりあえずざっくりリスト化すると、以下のような特徴がよく挙げられると思います。

  • 実践的関心から離れている(無関心性)
  • 対象の鑑賞それ自体が目的になっている
  • 注意の向け方が特殊である(「対象に関して集中し、性質に関して分散している」(ナナイ)など)

脱線

脱線です。

規定Aと規定Bはどちらも哲学史的にはカント『判断力批判』の影響下にあります(カントが最初とは言っていない)。

しかしカントが美の典型例をどう考えたのかは謎です。『判断力批判』は悪名高くも、芸術美をほとんど扱っていません。むしろ芸術美をマイナーリーグに追いやっています。「自由美」(美の典型)と「依存美」をわけた上で、芸術美の大半は自由美ではなく依存美であるという風に述べているからです(ただしカント解釈も諸説あり)。

一方、カント以降の哲学者は、もっぱら芸術美を典型例として扱う傾向にあったとは言えると思います。

規定Aと規定Bの対立点

ここでようやく最初にあげた3の話になります。日常美学の話をしたいので、「部屋が片づけられていて、すっきりしている」という日常の判断を考えてみましょう。

これは規定Aだと美的判断の一種になりますが、規定Bだとおそらく違います。規定Aにのっとると、「部屋がすっきりしている」というのは当然感性に基づく判断でしょうし、「すっきり」というのは「優美」という語と同じカテゴリーに見えますね。

一方、規定Bだとあやしいです。片づけ状況に関する判断は、実践的関心から離れていませんし、絵画鑑賞とはあまり似ていません。いくら片づけられた部屋がうれしいからといって、絵画を見るようにじっくり部屋を鑑賞する人はあまり存在しないでしょう。

「じゃあ日常美学というのは規定Aに基づく美学なのか?」と思う人がいるかもしれません。それはそれでちょっと違います。むしろ規定Aだけを取ると、上記のような判断が美的判断の一種なのはあまりにも当たり前で、逆に何も「新しい」ところがなくなってしまいます。

この辺は著者もよくわかっており、本書の冒頭でも日常美学は何が「新しい」ものなのかという問題に触れています。日常美学という分野は、「新しい」という形容詞をつけられがちな分野なのですが、いったい何が「新しい」のかは結構微妙な問題なんですね。

日常美学が「新しい」のは、規定Bに見られるような、芸術鑑賞を美の典型とする立場と突き合せた場合です。そのように考えると、日常美学にとって重要なのはむしろ規定Bであると言えるのではないかと思います。別の言い方をすると、〈芸術鑑賞を美の典型とする世界観〉をある程度真剣に受け止めた上で、それとは異なる世界観として〈日常の美〉の捉えられないかというスタンスですね。

つまり規定Bは、日常美学にとって批判の対象であるとともに、重要な存在でもあるという緊張があるわけです。この辺は突き詰めて考えていくと難しいですし、ここで結論じみたことを述べたいわけではないので、この辺でやめます。個人的には、この辺の緊張関係がわかっていると、日常美学の話が楽しく読めるのではないかと思います。

感想

以上で終わってもいいんですが、あまりにも本文に触れていないので最後にちょっとした感想を書いておきます。個人的に一番楽しく読めたのは、第四章の「親しみと新奇さ」でした。私自身は日常美学の議論を読むとき、文学用語でいう「異化」(見慣れた日常の事物を非日常的なものに変える)の楽しみを見出している部分があります。つまり、自分の中であまりにも当たり前になっていて、見慣れているがゆえに「不可視」になっているものが改めて可視化され、意外な部分が浮かび上がってくるという感覚ですね。もっと言うと私は「当たり前すぎて見えないもの」が急に見えるようになる瞬間が好きなんです(哲学の議論というのは一般にそういう作用をもつことがあります)。

四章の議論は、「見慣れた場所」「新奇な場所」という対比を扱っており、見慣れた場所がまさに見慣れているがゆえに、それ自体としては注意を向けられなくなっているという事実に目を向けています。一方、では見慣れた場所は「無」なのかというと、それも違っていて、私たちはさまざまな仕方で、見慣れた風景を新奇なものに変えていっている。

こうした議論を考えること自体が、見慣れた場所を異化してくれるような作用をもつ。これが楽しい部分です。

*1:一般論として、地図を描くのはきわめて政治的な営みで、「ここはどっちの領土に属するのか」という問題がたくさん登場します。私自身はそれほど強いこだわりはないつもりですが、完全に中立というのは無理でしょう。

*2:専門家向けの注釈。この規定の代表例はフランク・シブリーです。ちなみになぜさっきから「定義」ではなく「規定」と書いているかというと、これが定義かどうか微妙だからです。この規定を定義として洗練させるには「感性とは何か」について説明しなければならなさそうですが、それは大変なので普通はスキップして、美的述語の代表例をあげていくというアプローチが主流になっています。

*3:専門家向けの注釈。規定Bを重要視した人の例としてベンス・ナナイ、ジェラルド・レヴィンソン、モンロー・ビアズリーなどをあげておきます。

ダントーの「アートワールド」について

ダントーの「アートワールド」は芸術制度のことではないというのを、人に説明しようと思って、ダントーのテキストについてまとめていた。

実際ダントーの立場を説明しようと思うと、いろいろ大変なのだが、ダントーの「アートワールド」が制度ではないというのは、簡単に言える。本人が『ありふれたものの変容』の序文で否定しているからだ。そこで、ダントーは「アートワールド」という論文から芸術の制度説という立場が生まれたことについて、以下のようにコメントしている。

くわえて、「アートワールド」の分析の土台のうえに、芸術の制度説と呼ばれるものを打ち立てた人びとにも感謝している。たとえその説自体は私の考えとかけ離れたものであろうとも。viii

ダントーによれば、人々は「アートワールド」論文を元に、芸術の制度説を考案したが、それは「私の考えとかけ離れたもの」だった。これを見ればわかるようにダントーを制度説と見るのは、英語圏でもありふれた誤解なのだが、本人がはっきりと否定しているので、この解釈を支持する余地はないと思う。芸術の定義に関する制度説にヒントを与えたとは言える。

ダントーの立場は?

ではダントーの立場は何だったのか。実はここがかなり難しい。ダントーが何を言っているのかよくわからなかったために多くの人はそれを制度説と誤解したのである。以下邦訳を参照しつつ、ダントーの「アートワールド」について説明しよう。本当はダントーの立場を知るには、『ありふれたものの変容』にも触れた方が良いと思われるが、そこまでやると長くなりすぎるので、いったん「アートワールド」だけをまとめる。

もっとテキストに即したまとめとしては、neteneteさんによる以下のエントリを参照してほしい。私はかなりざっくりと自分の解釈を混じえて説明する。

ダントー「アートワールド」の要約——分析美学基本論文集① - netenete.

ダントーの「アートワールド」が難しい理由のひとつは、まず、問題設定がよくわからないという部分にある。この論文でダントーは、芸術の定義について正面から問うているわけではなく、「芸術的同定のis」という(よくわからない)ものについて論じている。

詳しい検討は避け、私の解釈を書くと、ダントーのいう「芸術的同定のis」とは「見立て」のことである。「芸術的同定のis」についてダントーは詳しく説明しておらず、例をあげているだけだが、あげられている事例は、「リンゴの絵をリンゴと見る」、「俳優をリア王と見る」というものである。これを日本語で一語であらわすなら「見立て」だろう*1。

ダントーの論文では、はっきり述べられていないが、「見立てが芸術の核にある」という立場を念頭においており、この立場を、現代芸術と突き合わせて検討しようとしているように見える。

なぜ、これを現代芸術と突き合わせる必要があるかというと、現代芸術においては、見立てがあるのかないのかよくわからないからである。ラウシェンバーグとオルデンバーグは本物のベッドを芸術作品として提示しており、ウォーホルは「ブリロ」の包装箱を芸術作品として提示する。純粋抽象画家は単色で塗ったキャンバスを芸術作品として提示している。ここにおいて、何が何に見立てられているのか?

だが、ダントーによれば、そこにもまた見立ては存在するのである。

〈芸術を知らず、単に絵具しか見ることができない人〉と、〈純粋抽象画家〉について考えよう。この両者はどちらも、白と黒の絵具が塗られたキャンバスを見て、「これは白と黒の絵具であり、それ以上のものではない」と言う。だが、前者と後者は違う、とダントーは主張する。後者の人々は、「絵具を他のものとして見る」という段階を通過したあと、「絵具を絵具として見る」という見立てを行なっているのだ。

何だか禅問答のようだが、実はこれは本当の禅問答で、ダントーはこの箇所である禅僧のテキストを引いている。

わたしがこの三〇年間の禅の修行にはいるまえには 、わたしは山を山と見 、水を水と見ていた。わたしがいっそう内密な知識にいたったとき、わたしは、いままで見ていた山が山ではなく、水は水ではないと見る地点に立ちいたった。しかしいまやわたしは、まさにことの実体を体得したのであるから、わたしは安んじていられる。というのもわたしはいまやふたたび、ただただ山を山と見、水を水と見るのであるから。 邦訳p. 22

禅の修行のおかげで、一周まわって山が山に見えるようになったというのである。日本の読者は中島敦の「名人伝」を参照すると良いかもしれない。「名人伝」では、弓の達人が弓をきわめたあげく、弓矢なしで射を行なう。いわゆる「不射之射」である。これにならって言えば、ダントーは「不見立ての見立て」について述べているのである。

ダントーが持ち出す「アートワールド」は、実はこの箇所で出てくる。この「不見立ての見立て」を可能にするものがアートワールドである。

あるものを芸術と見ることは、眼が見分けることのできないあるものを要求する——それは、芸術理論のある雰囲気であり、芸術の歴史についてのある知識であり、つまりは、あるアートワールドである。 邦訳pp. 22-23

正直に言うと、わたしはダントーの言っていることがただの妄言なのか、それとも深い何かなのか判断しかねており、まじめに解説するのも若干ためらわれるのだが、ダントーは次のように言っている。

抽象画家は一周回って「絵具を絵具として見る」境地に到達した。それは禅僧の修行のようなものであり、普通の〈絵具を絵具として見る〉とは違うのである。では抽象画家の〈絵具を絵具として見る〉の何が違うかというと、「芸術理論のある雰囲気(atmosphere)」だと言っているのである。ダントーが「アートワールド」と呼ぶのはこの「芸術理論のある雰囲気(atmosphere)」のことである。ちなみにダントーは、この「芸術理論のある雰囲気」についてこれ以上何も説明しようとはしない。

制度説との違い

ダントーの「アートワールド」が何なのかをひとことでいうと「芸術理論のある雰囲気であり、芸術の歴史についてのある知識」である。これは少なくとも「業界」とか「慣習」のことではない。ここはまず、制度説と明確に違う。

また、ダントーは「アートワールド」の中で、芸術を直接定義しようとしているわけではない。そうではなく、「普通の〈絵具を絵具として見る〉」と「抽象画家の〈絵具を絵具として見る〉」は何が違うのかという問題に答えている。言い換えれば、「何が「芸術的同定のis」を可能にしているのか?」という問題を考えたのである。

悪意をもってまとめるなら「ダントーは芸術の制度説について論じたわけではなく、もっとずっとばかばかしいことを論じたのである」ということも可能かもしれない。正直に言うと、私はダントーが何をしたかったのか、心の底からはピンときていない。何か奇妙な問いを立てて、奇妙な仕方でそれに答えたということがわかるだけだ。しかし、少なくとも「制度によって芸術を定義した」わけではないのは確かであり、ひょっとするとそこでは何か重要な問題が論じられているのかもしれない。私は単に「制度によって芸術を定義する」よりもずっと奇妙なことが行なわれているのだという事実に注意を向けたいだけである。

なお本エントリで説明したのは、「アートワールド」の3節までの話であり、「アートワールド」の後半では(少なくとも直接的には関係ない)別の話が展開されていたりする。

ダントーの「アートワールド」は後半が面白い - 9bit

*1:もっと正確に言うと「この部分がリンゴです」「あの人がリア王です」と言う場合の「…が…です(is)」を「芸術的同定のis」と呼んでいる

ピピンのフィルム・ノワール論2

前回はこちら。

前回説明したように、Fatalism in American Film Noirでは、フィルム・ノワールを宿命論の映画と捉えている。宿命論の映画とは、主人公の不適格な行為により──だまされたり、誘惑されたり、知らなかったり、運が悪かったりして──自らの選択によって、不可避的に破滅へとはまり込む映画という感じだ。ピピンはこれを行為論の問題として──反省に基づく合理的行為によって主体が状況を変えていくという近代的行為者観への懐疑の表現として──捉える。個人的には、最近も何作かフィルム・ノワールを見る機会があったが、確かにピピンのいう「宿命論」テーマを扱っている作品が多く、ピピンの議論の説得力を改めて感じることになった。

二章ではオーソン・ウェルズ監督の『上海から来た女』、三章はフリッツ・ラング監督の『緋色の街/スカーレット・ストリート』が扱われている。

どちらも個人的に超好きな映画なのだが、ひとまず『上海から来た女』の方から紹介しよう。『上海から来た女』の魅力は幻想的かつサイケデリックな部分にある。終盤で主人公が迷いこむ、遊園地のミラーハウスの場面はあまりにも有名だろう。

ピピンはこの映画が多くの場面で「ショー」や「舞台」のように見える演劇的な世界を描いていることを指摘している。これはもちろんひとつには見た目の話であるわけだが、一方、ほぼすべての登場人物が相手をだまし、筋書を書いて操ろうとしているという点でも「演劇的」だ。そうした演劇的世界において、主人公のマイケルはどちらかといえば操られる側なわけだが、この映画自体が、作家志望であるマイケルの回顧的回想として語られるという点で実はマイケルが特権的な作者の地位を占めるという構造にもなっている(そもそもマイケルを演じているのは監督であるオーソン・ウェルズである)。登場人物たちがお互いを操作することで、特権的な作者の地位を狙うという争いになっている。

ピピンによれば、この入り組んだ陰謀の構造を象徴的に示すのが終盤のミラーハウスだ。鏡の中で、幾人にも分裂した登場人物、どれが本当の姿なのか……と。他者への信頼が失なわれることで、世界が鏡の迷宮のようになっていく、それはある種近代消費社会の象徴的な姿なのかもしれないといった示唆も行なわれている。

『緋色の街/スカーレット・ストリート』のおすすめポイントは、主人公が冴えない中年男性で、まあ今の感覚でも普通に共感して見れそうなストーリーになっているところだ。平凡な会社員であり、趣味の絵を描くことが唯一の楽しみ(それすら妻に嫌がられている)である中年男性クリス・クロスが、暴漢に襲われた美女キティを助ける。ところが暴漢は実はキティのヒモであり、ふたりはクロスを有名画家と勘違いした上で、だまして一儲けしようとする。現代のドラマやマンガでも普通に使えそうな冒頭だ。

宿命論テーマの変奏としておもしろいのは、終盤で、主人公が自らの犯罪を警察に告白し、罰してもらおうとするが警察に信じてもらえないという場面がある。普通よくあるのは「身に覚えのない罪で疑われる」という展開だが、本作の場合「自分の罪さえ自分のものにならない」「自分の罪すら自分の行為として認めてもらえない」という展開になっている。

ピピンのフィルム・ノワール論

ロバート・B・ピピンという哲学者がいる。ヘーゲル研究で有名だが、実は映画の本をたくさん書いている。私はフィルム・ノワールが好きなので、ピピンがフィルム・ノワール論を書いているのを知り、さっそく読んでみた。とりあえず一章まで読んだので紹介する。

ピピンの基本的なアプローチは映画を哲学の実践として読むというもので、『他の手段による哲学Philosophy by Other Means』という方法論の本も書いている。要するに映画は映画という「他の手段」を用いた哲学であるということらしい。雰囲気としてはカヴェルの映画論などに近いかもしれない。哲学的に作品を読むというのは、なかなか難しい試みだと思うのだけど、ピピンのやつは今のところ読んだ感じでは結構おもしろい。

フィルム・ノワールを扱う本書の場合はタイトルにある「宿命論fatalism」が重要なキーワードになる。おそらくだが、フィルム・ノワールのキャラクター類型である「宿命の女(ファム・ファタル)」の「ファタル」から取っていると思われる。

この場合における「宿命論」とは何か。ざっくり言えば、〈自分の力ではどうにも変えられないアリ地獄的状況に巻き込まれること〉と言い換えられるだろう。フィルム・ノワール作品の多くでは、主人公は不可避的に破滅に巻き込まれていく。

ピピンの表現を引用すれば「キャラクターは熟慮し、さまざまなことをしようとするけれど、その哀れな姿はまるで、自身を乗せている乗り物の上で、必死にワイヤを引いたり、ボタンを押したりしているのに、ワイヤもボタンも乗り物につながっておらず、キャラクターにはまったく無関係なコースを進んでいくという風に見える」(p.26)

また別の言葉としてピピンは「ショーを仕掛ける側running the show」というフレーズを引用している。フィルム・ノワールの主人公は「ショーを仕掛ける側」に回ることができず、他人のショーに踊らされる存在である。

ピピンはこれを行為論の問題として見る。つまり、自由、自律、合理性といった理想的行為者の条件からの逸脱を描くジャンルがフィルム・ノワールなのである。フィルム・ノワールの主人公たちは、自身が何をやっているのか、どうしてそんな状況になっているかもわからないまま、破滅に突き進んでいく。それは「決して状況は変えられない」という同時代のアメリカの絶望的な感覚を描いたものでもある。

一章では、ジャック・ターナー監督の『過去を逃れて』が扱われる。『過去を逃れて』は──フィルム・ノワールではよくあることだが──おそろしくプロットが複雑で要約しづらいのだけど、基本的には「過去から逃れられない」という話である。ものすごくざっくり言うと、ジェフという探偵が、キャシーという女にだまされ、犯罪に巻き込まれ、そこから逃げようとするが逃げきれなかったという話である。

まさにピピンのいう宿命論の映画である。ピピンが引用している通り、作中には「他にどうしようもなかった/選択肢がなかったI had no choice」というセリフが登場する。その言葉を口にするのはキャシーであり、キャシーは嘘をついているのだが、主人公であるジェフはどんどん「選択肢がない」状況に巻き込まれていく。

これはピピンというより私の感想だが、『過去を逃れて』という映画の魅力は、キャシーという特異なヒロインが真の姿を現わす後半の展開にあると思う。キャシーにだまされていたことを知ったジェフは、マフィアのボスに彼女を突き出す。だが、キャシーはあっさりマフィアのボスを返り討ちにして殺してしまうのだ。

ここの展開はすごいと思う。そもそもジェフは、彼女をマフィアのボスから助けようとしていたのだが、キャシーはいっさい助けを必要としていなかったことがわかるのだ。この場面についてピピンは次のように書いている*1。

つい先ほどまでひどくグラマーで美しく媚態に富んだ姿を見せていたのに、今や彼女(キャシー)は性的なものから脱しかけているように見える。まるで、今や、ありとあらゆる本当の権力のカードを手にして、「ショーを仕掛ける」側のハイパー行為者であり、もはや性的媚態(愛されるという受動的権力)に頼ることを必要とせず、それを喜んでいるかのようである。p.47

つまり「選択肢をもたずhad no choice」「過去から逃がれられない」のはジェフだけであり、キャシーは自身の力で状況を変えられるハイパー行為者だったのである。

よく言われるように、ファム・ファタルの描写は現代の目から見ると気になる点がないわけではない。よくあるパターンでは「悪い女にだまされてフラフラ悪事に巻き込まれてしまう」主人公が描かれるのだが、どうしても女に責任を押しつけているように見えるし、それが女性嫌悪的と言われることもある*2。

だが、『過去を逃れて』のキャシーは少し違っている。これは「悪い女にだまされたけど、悪い女は罰されました。めでたしめでたし」という話ではないのだ。キャシーは、悪の側に突き抜けることで、超サイヤ人ならぬ超ファム・ファタルになるのである。

*1:「性的なものから脱して」の部分は最初何を言っているのかよくわからなかったけれど、どうも、この場面のキャシーの服装が地味なものに変わっているという指摘のようである。

*2:ちなみにフェミニズム批評の観点からフィルム・ノワールを扱った論文集としてE.アン カプラン編水田宗子訳『フィルム・ノワールの女たち』というのがある。これは翻訳も出ていておもしろいのでおすすめ。

ポール・ケリー『リベラリズム』

ポール・ケリー『リベラリズム』(佐藤正志, 山岡龍一, 隠岐理貴, 石川涼子, 田中将人, 森達也訳)を読んだ。

英語のKey Conceptシリーズの「リベラリズム」の巻の翻訳。

政治哲学は素人なので読めるかなあと思ったが、実際読むと「この話めちゃくちゃ既視感あるな」と思う話題が多かった。著者は社会契約論をベースに話を組み立てており、私は契約論系の倫理学の文献をよく読んでいるので、相性が良かったと思う。ここで契約論系の倫理学とは、具体的には、主にT. M. スキャンロンを指している。スキャンロンは本書にも何度か登場している。また本書には出てこないが、読書会で読んでいるR. Jay Wallaceとも共通する話題が多かったように思う(Wallaceはスキャンロンに影響を受けている)。

本書におけるリベラリズムは、方法論としては正当化の手続きを重視し、規範の内容としては自由と平等を重視する立場と特徴づけられる。手続きの重視の部分は、著者が重視する社会契約論の伝統で、本書でいえば2章3章の内容がそれに相当する。また、自由と平等に関してはそれぞれ4章、5章で論じられる。

手続きに関して、もう少し説明するとすれば、リベラリズムが重んじるのは「不偏的な正当化」(「普遍」ではなく偏りがないという意味の「不偏」)だ。これは、意見の対立があるときに「中立」を貫くという意味ではない。中立は存在しないが、だからといって選り好みが許されるわけではなく、特定の立場をえこひいきすることなく、万人に対して正当化ができなければならないという要求だ。これを具体化したもののひとつがロールズの「無知のヴェール」だが、本書では、「ロールズの部分をスキャンロンに変える」というB. バリーの立場などが紹介されていた。ざっくり言うと、スキャンロンの立場は「賛成派と反対派の最善の意見を戦わせてどっちが理にかなっているか考えよう」というものである(ざっくり言いすぎだが)。

自由の章と平等の章では、それぞれリベラリズムの立場から、自由と平等に関して、具体的にどんな内容が要請されるかが論じられる。本書の副題に「リベラルな平等主義を擁護して」とある通り、ポール・ケリー自身はどちらかといえば平等をより重視する立場のようだ。

また6章以降はリベラリズムへの批判に答える内容になっている。「寛容のパラドックス」に近い内容(要するに「リベラリストは非リベラリズムを排除してしまう」的な話)を検討した7章が個人的にはおもしろかったし、この辺りは多くの人の興味をひくところではないかと思う。まあ正直前半の内容は大変地味なので、7章にたどりつく前に脱落してしまう人も多いのではないかという気もするが……。一方で、7章での批判に答えるためには、前半の「不偏性」の話が重要になるので、7章だけ先に読むわけにもいかないのが難しいところだ。

リベラリズムというのは良くも悪くも人の感情に訴えかける部分のある立場だが、この本はそういう部分がほとんどない地味な本であり、そこが良いところだとは思う。

カントの天才論

『判断力批判』の一部で、カントは「天才論」というかたちで芸術作品の創造について論じている。それは『判断力批判』全体のプロジェクトの中では、決してメインのテーマではないのだが、それなりにおもしろい主題となっている。

まず、カントが芸術作品の創造について、どのような問題を見出していたか説明しよう。

芸術の産物について意識されていなければならないのは、それが技術であって、自然ではないということがらである。とはいえ、それでも芸術の産物が有する形式における合目的性は、選択意志を拘束する規則によるいっさいの強制から、それがあたかもたんなる自然の産物であるかのように、自由なものと見えなければならない。

イマヌエル・カント『判断力批判』熊野純彦(訳)(2015)、作品社、p.277

カントは芸術作品の制作に、一種のパラドックスやジレンマを見出していた。上の引用箇所にあるように、芸術作品は一方で「技術であって、自然ではない」と意識されていなければならない。また一方で「あたかもたんなる自然の産物であるかのように」見えなければならない。ジレンマがわかりやすくなるように、ふたつの要請をはっきり書き出してみよう。

  1. 技術条件: 芸術作品は技術であると意識されていなければならない。
  2. 自然条件: 芸術作品はあたかも自然のように見えなければならない。

前者は芸術作品を芸術作品として鑑賞するための前提である。技術を技術として評価するためには、それが人工物であり、芸術作品であり、絵画などであることが理解されていなければならない。

後者は、(良い)芸術作品が美的判断・趣味判断の対象であるために成り立たなければならない条件である。規則に従って機械のように作られたものであれば、もはやそれを美的に見る余地はない。

よりパラドックスらしく言えば、芸術作品は「規則に従うと同時に従わず」「目的を持つと同時に持たず」「自然でないと同時に自然である」ものとして見られなければならない。

あるいはもう少し直観的な言い方をすれば、作品は自然物のように見られてもいけないし、技術的な面で「ヘタ」であってはいけない。しかし、その一方で、あまりカッチリして教科書的であってもよくない。カントの言葉でいえば「苦渋の跡」が見られることがなく、「学校風の形式を窺わせるところがない」ものでなければならない(翻訳p. 278)。

一方この矛盾を解くために導入されるのが天才の概念だ。カントのいう天才は、「規則に従うと同時に従わない」ものを作る能力である。

どういうことか。自然条件の方から説明すると、天才の作る作品には、普通の意味での規則(学ばれたり、言葉で説明することができる規則)は適用できず、むしろいっさいの規則から自由に見える。

だが、一方で(技術条件の面から言えば)、そこには何らかの統一性や形式が感じられる。それは単なるめちゃくちゃ(「ナンセンスな独創」)ではなく、ほかの人々の模範となるという意味で規則的である(邦訳p.280)。

これはブラックボックス的な能力であり、天才自身であっても、自分がどうやって作品を作っているかは説明できないものとされる。

美的理念

さらに、カントは天才の概念を肉付けするために美的理念(or感性的理念)というものを導入する。美的理念とは、想像力によって作られたイメージではあるが、「およそいかなる一定の思想も、すなわち概念も適合することができ」ず、「多くのことを思考させる」ものであるとされる(p.289)。もっとざっくりとした現代風の言葉に置き換えると、「いかなる解釈もピッタリとは当てはまらないが、さまざまな解釈が当てはまりそうで当てはまらないために、きわめて多くの解釈を誘うような表現」となる。いろんなことを言いたくなる表現と言ってもいい。天才の能力は言い換えれば、美的理念を作る能力であるとされる。

美的理念の箇所はとても難しく、解釈もわかれるので説明しづらいが、一応がんばって図を描いてみた*1。

美的理念

カントは基本的に、知覚や想像から入力されたデータ(直観)が、概念操作能力(悟性)によって、特定の概念に分類されるというモデルで考えている。図の一番左側は、これが正常にはたらいているところだ。想像力の表現が概念にスッと適合する状態。解釈にまったく悩まないような表現が与えられ、特定の概念に分類される。

一番右側の方は、与えられた表現がめちゃくちゃで、何の概念も当てはまらない状態。カントが「ナンセンスな独創」と呼んでいるのはこういうものかもしれない。

両者のあいだに、想像力と概念(悟性)がちょうど釣り合うポイントがあり、美的理念、つまり「いかなる解釈もピッタリとは当てはまらないが、さまざまな解釈が当てはまりそうで当てはまらないために、きわめて多くの解釈を誘うような表現」はそこに位置する。ちょうどいいバランスでいろんな概念が当てはまりそうで当てはまらないために、さまざまな思考が誘発される。カントのことばで言えば、そこでは「能力(想像力と悟性)のつり合いと適合」が成立する(p.296)。

参考文献

勉強しようと思っていくつか読んだのだが、Christian Helmut WenzelのAn Introduction to Kant's Aestheticsと、AllisonのKant’s Theory of Tasteが良かった。後者はむずかしめなので、前者の方がおすすめ。

*1:カントは美的理念の構成要素として美的属性というものを考えているのだが、美的属性の話はうまく拾えなかった。