今年、描写の哲学に関わる執筆を二件行う機会があったが、この記事ではその活動記録ついでに、執筆の過程で伺えた描写の哲学の近年の動向を簡単に紹介したい。
「描写の哲学」で言われる「描写」とは、画像(絵や写真)に特有の意味作用を指す術語であり、描写の哲学とは、要するに絵や写真を主題とする哲学の一分野だ。
私は造形芸術にとりわけ関心があるため、研究を始めた当初はこの分野の文献を中心に読んでいた。
修士課程では画像における感情表現について研究していたが、それ以降は、描写よりも表現の概念に興味をもつようになり、描写の哲学には触れない時期が続いた(その辺の変化はこのブログにも反映されていると思う)。
ところが、今年に入って、描写の哲学に再訪する機会が二度あった。
一度目は美学仲間の銭清弘さんとともに行った、ドミニク・ロペス「芸術メディウムと感覚モダリティ:触図」の翻訳である。
これは『表象』最新号、特集「皮膚感覚と情動――表象から現前のテクノロジーへ」に掲載されている(銭さんの解題つき)。
原著は1997年に出版され、Google Scholarを確認すると、ロペスの論文としてはかなり多く引用されている部類のようだ。
この論文の内容は以前にも簡単にツイートしたことがあるが、ここで少し角度を変えてそのポイントを紹介してみよう。
ロペスの標的は画像の理論と視覚の理論である。
画像の理論では、画像をもっぱら視覚的な表象として捉えようとする動きが目立つが、視覚の理論では、視覚を画像とパラレルに捉えようとする動きが目立つ。
ロペスはその両方に批判を加える。
そこで参照されるのが、先天盲の人々(先天的に目の見えない人々)による画像認知と画像作成に関する心理学の研究だ。
触図(凸線で構成された、触覚でアクセスできる画像)や、触図を作成できるキットを用意した研究でわかったのは、先天盲の人々は画像を認知することも、作成することもできる、ということだ。
このことは目の見える人々のみならず、先天盲の人々にとっても驚きの事実であったという。
では、この事実を考慮したとき、画像の理論と視覚の理論はどのようなものでなければならないのか。
ロペスの議論の詳細については、ぜひ上掲誌を手に取って確認してみてほしい。
画像の理論と視覚の理論以外にも、この論文は複数の問題系を横断し、接続しており、さまざまな切り口から興味深く読めるようになっている。
たとえば、批評理論でおなじみのメディウム・スペシフィシティが重要な論点の一つとなっており、グリーンバーグやスタインバーグの議論が参照されている。
また、芸術と障害の関係について考えるための手がかりも豊富に含まれている。
この論点に関しては、ロペスの新刊『美的不正義』で新たな展開を見せているようだ。
翻訳を行っていた時点では、同名の書籍が刊行予定であることは把握していたが、翻訳中の論文と深い関係にあるとは知らなかったため、これは印象的な出来事だった。
さて、私が描写の哲学に再訪するもう一つのきっかけとなったのは、清塚邦彦『絵画の哲学』の書評の執筆である。
日本では、描写の哲学はあまり盛んに研究されているわけではなく、私の知るかぎり、書籍単位の研究は本書が初である。
著者である清塚は、日本でもっとも精力的に描写の哲学に取り組んできた論者であり、本書はこれまで発表されてきたその研究成果をまとめ、精緻化したものとなっている。
これに対する私の書評は『フィルカル』最新号に掲載されている。
本書の魅力を示しつつ、批判的検討を行っているので、適宜参照されたい。
『絵画の哲学』は、描写の哲学という比較的新しい分野の、古典と呼べるような議論の検討に力を注いでいる。
他方で、翻訳と書評の執筆の過程で、描写の哲学の文献のサーベイを久々に行っていたとき、私はこの分野が近年どのような発展を遂げてきたかを多少知ることができた。
ここでは、個人的におもしろく感じられた動向を二つほど伝えたい。
一つは言語哲学との交流である。
描写の哲学では、知覚や経験の観点から画像を理解しようとするアプローチが盛んで、言語哲学との交流はそれほど多くない(言語行為論を画像に応用する試みはそれなりの蓄積があるが)。
近年では、ジョン・カルヴィッキが言語哲学の道具立てを本格的に用いた描写の理論を提示しているが、孤軍奮闘しているように見えなくもなかった。
しかし、そのような認識に反して、今回わかったのは、描写の哲学と言語哲学の交流は少しずつ、しかし着実に進んでいるということだ。
その背景には、大先輩である言語哲学から知恵を借りて描写の哲学に取り組もうとする従来の動きに加えて、言語哲学において応用的な研究が増えてきている点が挙げられるだろう。
この点を印象的に示しているのは、今年出版された応用言語哲学の論文集に「言語と非言語的コミュニケーション」というパートが設けられ、地図やイコノグラフィーなどの現象が言語とともに扱われていることである。
前述のように、描写の哲学では、知覚や経験の観点から画像を理解しようとする研究が多く、近年は認知科学や心理学、そして(高度に自然化された)知覚の哲学との接続を図る動きが目立っている。
この動きは描写の哲学の発展を間違いなく加速させているが、自分にはそのような方法論はあまり馴染まないと感じる哲学者もいるだろう。
言語哲学と描写の哲学との交流が進むことは、その向きにとって好都合な展開と言えるかもしれない。
そして、言語哲学者に、自分にも画像について何か有意義なことが言えそうだと思ってもらえれば、この分野の発展はさらに加速されるに違いない。
このように、描写の哲学は言語哲学との交流を深めているが、これに加えて、興味深い交流が社会認識論とのあいだにも生まれている。
この交流は、具体的にはディープフェイクというトピックにおいて見られる。
一般的に、ディープフェイクとは機械学習を用いて捏造された映像や音声のことだが、これが認識的脅威をもたらすのではないかという懸念がしばしば表明される。
重要な論点として、ディープフェイクが流通することで、写真や録画の証拠としての地位が毀損され、私たちの認識実践が脅かされる可能性が指摘されている。
そして、ディープフェイクはどれくらい認識的に有害か、それは真の脅威なのか、それとも見せかけの脅威にすぎないのかについて、哲学者のあいだで論争が起きている。
興味深いのは、この論争で描写の哲学の文献が盛んに参照されている点だ。
実際、ディープフェイクに対して表明される上記のような懸念は、デジタル写真の普及後、写真に対して表明された懸念とよく似ている。
写真を簡単に加工できるようになったことで、何か認識的脅威が生じるのではないか。
そして、描写の哲学では、写真の認識的価値をめぐる議論にはそれなりの蓄積があり、このブログでも一度や二度取り上げたことがある。
ディープフェイクの登場を社会認識論の観点からどう受け止めるべきかという問題は、その蓄積を踏まえて論じられているようだ。
さらに、ディープフェイクに描かれる人物が誰かは何によって決定されるのかという、道徳的・法的に重要となりうる問題についても、画像には「正しさの基準」が備わっているという描写の哲学の議論が参照されている。
典型的に、絵画に何が描かれているかは作者の意図によって決定されるが、写真に何が描かれているかは因果関係によって決定されると考えられる。
そうだとして、ディープフェイクの場合はどうか、これはたしかに興味深い問題だ。
このように、描写の哲学は言語哲学や認識論のような他分野と結びつくことで、じつに生産的で刺激的なフィールドとして機能していることがわかる。