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2014.03.25

その問題で思った、もう一つのこと

 昨日の記事に含めようとしたものの、話がいつにもましてごちゃごちゃするといけないから避けていたことがある。この問題、黒子のバスケ脅迫事件で考えさせられた、もう一つのことだ。結論から書くこともできるのだけど、あえて、これを考えたきっかけ話からだらっと書いてみたい。
 きっかけは、ドミニオンである。
 ドミニオンというのは、カードゲームだ。自著にも書いたが、私はけっこうカードゲームをする。
 ドミニオンがどういうゲームなのかというのを、まったく知らない人に伝えるのは難しい。多分、ウィキペディアには解説があるだろうと覗いて見ると案の定あるのだが、まったく知らない人がこれで理解することはできないのではないだろうか。しかし、難しいゲームではない。小学生でもできる。これが、けっこう面白いのだ。
 ドミニオンをあえてごく簡単に言えば、トランプゲームのようなものだが、日本のトランプゲームにありがちなストップ系(早く上がった人が勝ち)ではなく、一種のお買い物ゲームである。領土に関するお買い物でもっとも得点の高い人が勝ちになる。
 つまり、富を最大に得た人が勝ちである。国家間の争いにも似ているが、同時に資本主義社会にも似ている。
 つまり、ゲームの目的は、富を最大限にすること、だ。
 いや、そのはず、だ。
 実際、このゲームを基本セットという基本の枠組みでやると、「富を最大限にすること」だけに専念した方針のプレイヤーがけっこう強い。ドミニオンを知っている人向けに言うと、地味に高価な貨幣カードを増やし手繰りをよくすれば、けっこう勝てる。これはある意味、ドミニオンの常勝公式だとも言える。ついでにいうと、資本主義社会の常勝公式の一つでもあり、華僑など本能的ともいえるように実践しているものだ、しかも二代をかけて。
 だが、ドミニオンというゲーム自体の面白さは、その戦略性にある。そこで、アクションとして、富の獲得の手順に別の多彩な手法を織り込むことができるようになる。
 当然問題になるのは、つまりドミニオンの基本の枠組みでまず問題になるのは、その常勝公式とアクションを駆使したプレイのどちらが優位かということになる。
 これもまた当然だが、常勝公式はつまらない。手が最適化されていてプレイの妙味がないからだ。必然的に、ゲームもまたそうした常勝公式をいかに崩せるかという問題意識が仕組まれている。アクションをどう巧妙に組み合わせるか。これを仮に常勝公式に対してアクションプレイとしよう。
 アクションプレイもまたしかしマンネリ化する。そこでドミニオンは基本の枠組みをどんどん拡大したり、崩したりして、アクションプレイを多彩にする方向に進化する。ゲームの枠組みが進化するのがモダンゲームの特徴でもある。
 当初の進化は、ゆえにバリエーションの影響を深くする「陰謀」、世界の拡大として「海辺」といった方向だった。
 が、これもある飽和点に達し、まあ、ドミニオンも飽きたなあという感じがしてきていたのだが、「暗黒時代」「異郷」あたりから、一段とアクションプレイが深くなった。
 ちょっと驚いたのだが、基本の枠組みである「富を最大化する」に対して、それまでは富を蓄積するというのが常だったのだが、アクションだけでも、結果的に富が達成できるようになった。
 ゲームの進化の要因は、先にも述べたマンネリ化があるが、もう一つは、ハラスというプレイである。ハラスメントの俗語だ。邪魔をすること。他のプレーヤーが富を蓄積するのを邪魔するということである。
 ちょっとドミニオン話に突っ込みすぎたが、いずれにせよ、ここまでは、こういう世界観がドミニオンにはあるということだ。
 ここまでは最大命題はゲームの目的性から「富を蓄積せよ」ということだった。次に「そのために戦略を駆使せよ」であり、「戦略には、他者の富蓄積を妨害せよが含まれる」ということである。
 私は先日までそう理解していたのだが、ぎょっとするような事態が起きた。
 ドミニオンは通常四人のプレイヤーで行うのだが、中盤から一人のプレイヤーに異変が起きた。ハラスだけに特化してきたのである。つまり、「自分はこのゲームに負けることは必然だから、他のプレーヤーの目的、それ自体を破壊させてしまえ」とするのである。具体的にどうやるかはさらにドミニオンに特化した話なんで、そういうことが可能になるとだけ理解してほしい。
 当初、私はその意図が見抜けなかった。
 通常のハラスが暴走しただけだと思っていたのだ。つまり、そのプレイヤーもいくらハラスをしても最終的には「富の蓄積」という目的を基本的な枠組みに置いているはずだと思っていた。一位ではなくて二位でもいいじゃないですかみたいな考えを採ると思っていたのだ。
 違った。
 彼はもはやただゲームの破壊だけがプレイ目的になっていった。
 そのことに気がついたのは、もはやゲームが破壊されたことを認めざるをえない時点になってからだ。私はある種呆然とした。そしてちょっと怒った。これじゃない!と思ったのだ。
 いや、これもプレイでしょと彼は言う。
 え?と思って、他のプレイヤーに発言を促すと(本来はそういうことをしてはいけないのだけどね)、いや、これもプレイでしょと言う。実際、もう一人の負けが決まったプレイヤーも報復的に破壊プレイに実際参加すらしていた。
 私の呆然には拍車がかかった。
 そこで私は、れいの黒子のバスケ脅迫事件の被告陳述を思い出したのだ。
 ああ、これだ。
 資本主義経済というのは、プレイヤー側からはゲームとして見れば富を最大限にするという目的が設定されていると言ってよい。もちろん、実際にはそれだけではなく、国家を作り、富を再配分するといったゲームも仕組まれてはいるし、それも本質的な枠組みだが、それはどちらかというえば、富を最大限する現実のゲームに必要なことだからだ。
 そのため経済学では、合理人を想定する。このゲームに合理的に参加するプレイヤーを仮定するわけだ。
 しかし、実際の人間の経済活動では、合理人は存在しない。
 そこで、合理人ではない非合理人も想定したらどうなるかという経済学も存在する。だがその場合でも、基本的に非合理人も合理人の補完なり、局所的な問題となる。もちろん、局所が重要なこともあるが。
 非合理人があってそれは、各プレイヤーが「富を最大限にする」という目的自体を破壊することが目的だとする異質なゲームを並行的に存在させる、というものではないはずだ。というか、どうなんすか?
 そのドミニオンについていえば、私は「富を最大限にする」というゲームをしていたが、二人のプレイヤーはもはや「ゲームを破壊すること」が目的のゲームをしていた。
 どうしたらよいのだろうか。
 どうしたらこれに防戦できるのだろうか。私はできるかぎりの智略を尽くして惨敗した。といっても破壊者より負けるわけでもない。
 ゲームが終わってみると、勝者はいた。当然、勝者が生まれる。一番巧妙なプレイヤーである。彼に聞いてみた。どう、これ?
 いわく、「読んでました(李牧の声で)」。
 僕が必死に防戦に切り替えるとき、こいつは、「ああ、このプレイヤーゲームを破壊しているな」と読んでその対応をしていたというのだ。
 どう防戦したの?
 いや、防戦じゃないっすよ。
 え?
 というわけで解説を聞くと、そのプレイヤーがゲームを破壊することで生じる利得が存在するから、それに賭ければいいということだった。
 私の言葉で翻案すると、ゲームの破壊者は破壊者として合理的にプレイしているから、読みやすい、というのだ。
 絶句した。
 その通りだ。
 ゲームが二人の対戦であれば、自滅を目的にすることはただのナンセンスである。三人であれば、自滅者と巻き添え二人だが、相対的に一人は勝者になる。その場合、巻き添えを避けるという防戦より、もう一方の巻き添えをゲームの破壊にたたき込めば、自分が勝利できる。これが四人だと、より戦略的に組みやすくなる。
 私が何をここで考えたかはもうおわかりだろう。
 この世の中もそうできているに違いないのだ。
 現実の社会は、合理人だけが存在しているのでなく非合理人も存在していて、それが補完している、なーんてもんじゃない。
 現実の社会は、その社会を破壊させることが目的のゲームのプレイヤーとして参加している人が存在し、そのやっかいに見える存在と活動が「富を最大限にする」ゲームの目的になるように結果的に支配されているのだ。
 簡単にいうと、この社会は、社会を破壊することが目的のプレイヤーが「富を最大限にする」ゲームの道具として組み込まれている。
 テーゼ的に言うなら、テロリストこそ社会勝者の道具なのだ。
 社会の破壊を目的として合理的に参加しているプレイヤーは、まさに社会に実際は認可されて存在している。
 黒子のバスケ脅迫事件で言うなら、ああいう嫉妬から破壊を求めるプレイヤーは、特異な存在でも事象でもなく、この社会のシステムの普通の顕現なのだ。
 だとすれば少数の勝者以外の参加者、市民の利得を全体的に向上するには、(1)破壊者を徹底的に粉砕する(自由主義を越えて)、(2)破壊者のプレイで利得を上げる勝者の存在を構造的に排除する、ということが求められる。
 そうしてみると、実際に現在の社会で実施されているのは、(1)破壊者を徹底的に粉砕する、という方策と、それでも破壊者を使って利得を上げる結果的な操作、の二つの均衡から成り立っていると言えるだろう。
 しかしそうではなく、(2)破壊者のプレイで利得を上げる勝者の存在を構造的に排除する、が正解でなくては、多数の利得は得られない。その正解を求めるべきではないのか。
 じゃあ、具体的にどうしたらいいかとなると、まあ、よくわからない。
 もっとも私が今頃気がつくようなことは、もっと頭のいい人が考えているだろうから、そういう人の研究を探して参考にするかなと思っている。それでも、いわゆる経済学やそれを補完する行動経済学でもダメだろうし、そもそもこういうのをモデルにしたゲーム理論(目的の違うプレイヤーが参加してゲームの破壊によって利得を得るゲーム)も知らない。
 ただ、こうは言えるだろう。
 この世界には「破壊者のプレイで利得を上げる勝者」が存在するということだ。破壊者は実際にはその勝者に間接的に操作されているということでもある。
 端折って言うなら、それは人々の感情をかき立て騒ぎのなかで破壊の熱狂(嫉妬)に巻き込むことで利得を得る人々であり(なぜならその情念で彼らは合理的に破壊活動をするようになるから操作しやすい)、さらに言うなら、「正義」の旗を掲げて実際には、破壊プレイの正統化を喧伝しそうした被操作者を結集させる人である。
 ニーチェは弱者の怨恨(ルサンチマン)・弱者正義を社会の善とすることに異を唱えた。だが、もう一歩進めるべきなのだ。嫉妬を含めた弱者のルサンチマンは勝者が弱者を操るための道具なのだ、と。この道具を無化しないかぎり、弱者の利得は実際にはない。
 
 

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コメント

私はあなたがいろんな攻撃に合ってきたのは知っているし、それでちょこちょこ愚痴ってたからそれについていろいろ考え

た上でコメントしているんだろうなあと思って一読者としては薄い毒を飲まされている気分で読んでいた。しかし、今回の

エントリーがわりと本音であると仮定して読むと、混乱してしまった。

罵倒コメントを向けてくる人間こそ、このエントリで言う破壊者そのものじゃあないか。あんたを罵倒する合理的な理由は

何?コメント自由のときに執拗にあなた(のブログや日記)を攻撃してきた人たちにとって、破壊以外の意味は何かといえ

ば、その行動に関して言えばないだろうに。ではなぜそのような行動をとっているかといえば、嫉妬しかないだろうに。

あなたは凡庸な人間ではないだろう。あなたは幼少から学もあり、分析力もあり、視野も広い。ただ、熱意と行動力がない

。だから、バカみたいに熱狂できない。あなたは、自分は教養があり、常識もあり、能力が高く、人を導くべき存在なのだ

とわりと本気で思っている馬鹿な自己顕示欲の塊であるF.Nakajimaやマスコミのような存在を非難し、挑発してきた。

それ、自覚なしにやってたのか?と思うと愕然とした。私には文学だの反語だのはほとんどわからないし学もないが、最初

から鼻持ちならねえ文章書く奴だなと思ったし、今も思ってる。尊敬もしているけどね。あんたが、自分が凡庸な人間であ

り私なんて才能のかけらもございませんぜへへーんという思考を本気でとり続ける限り、罵倒の原因である嫉妬がどんなも

のはわからんわなと思うと今までの罵倒がどうこうとかいう愚痴も、わからんで書いとったんかいという混乱が悩ませてく

れている。

もちろん、半分ぐらい、んなわけねーよなと思ってる。今回もそーいう芸風なんだろうなと思うが、ただ、本音だったらど

うしようという気持ちがでっかい。そういう意味で面白いエントリーだったと思う。

投稿: rabi | 2014.03.25 16:28

以前から、何かしら心のセンサーが働いて何となく同じような感じ方を得ていました。
あぁやっぱりなぁ。と思うと同時にだったら尚更死ぬまで足掻き切ってやろうと云う気持ちを改めて自覚しました。
いつも考える足掛かりをありがとうございます。

投稿: tatui | 2014.03.26 01:41

ルサンチマンは必ず現れるから、それをスパイを入れたり資金提供したりしてコントロールしよう利用しようというプレイヤーが働きかけるのは自然だと思うけど。倫理的に問題があるからといって禁じていたら、それはそれでコントロールできないリスクを育てる事になると思う、テロであれCDSであれ。問題は寧ろその規模や透明性でしょう。それは暴露されるべきだと思うし、拗らせるより声高に主張させる場がまぁ黙認というか保障されるべきだと思う。

投稿: ト | 2014.03.26 05:09

韓国のことかと思ったのは私だけ?

投稿: ななし | 2014.03.29 15:42

まず私はfinalventさんの『考える生き方』を
拝読しました。
で、
こちらの記事の感想は
「マジかよ、爺。なんちゅう存在を生み出してくれてんねん。」 です。
finalventさん自身が合理的にプレイされてるからこそ次の事象として このようなプレイが表面化したんでしょうが、

率直に申し上げて私はその『李牧』氏が大変恐ろしいです。自覚的にプレイされてるので悪だとは思いませんが、

投稿: 773 | 2014.03.29 19:15

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