Re(PLACE)01 | Rhoikos&Theodrosの展示のつくりかたとニュートラルさについて
text by Tezzo NISHIZAWA
まず、PLACE by methodの会場はとても変だ。入って正面の壁の裏はキッチンで、すぐ右に折れる形でギャラリーがある。ギャラリーは、とても大きな黄色いテーブルのある打ち合わせスペースとポリカの簡単な衝立で仕切られている。その奥が事務所スペースになっていて、事務所は観客からは白い壁で隠されているがキッチンは丸見えになっている。打ち合わせスペースの陳列棚にはいくつかのオブジェが置かれていて、打ち合わせスペースとギャラリーの中間には額に入ったドローイングが展示されている。ギャラリーの中腹には中途半端なサイズのガラス間仕切りがあり、壁際にはコンクリートの車止めのような立ち上がりがあって、床には小さな段差もある。直天井で、ダクトや蛍光灯もむき出しだ。ギャラリー最奥には隙間があって事務所が丸見えになっている。振り返ればガラス張りの室内から他のテナントや通行人が見える。つまりギャラリーとしてはノイズが多すぎるのだ。にもかかわらず心地よいのは、それぞれのスペース、設え、モノ、光、働くスタッフ、段差、などがどれも強く主張していながら、ここへ何かが加わってもすぐ他の何かが場所を空けて距離感を取り合いそうなバランスがあるからだ。だから空間としてなにか一つのコンセプトを示すことができない。空間とその中にある要素間に主従の関係がなく、互いに均衡を保っている。整頓するということはこういうことを言うのかもしれない。そしてこれは実はとてもニュートラルな状態なのではないだろうか。そうすると、一般にニュートラルと言われる、無機質で、無彩色で、無個性であることは、実はかなり特殊な性質なのだと思えてくる。このような空間は、ノイズを常にキャンセルし続けた結果であり、何にも与しないという態度を維持しつつ一歩もそこを動かないような頑固さを持っている。背景としての絶大な効果があるから、新たに置かれる展示物との間に対立を生み出すことで展示物だけをフォーカスさせる機能を持つ。だから例えばホワイトキューブはどんな作品でも置くだけで成立するシステムであり、外界から切り離された時間と空間は、自動的に作品を自律して完結したものにする。
したがって、外界と地続きなPLACE by methodへ介入(作品を展示すること)する際にRhoikos&Theodrosが取った戦略は、この空間のニュートラルさを壊さずに引き継いでしまう、というものだった。先行する空間との間に対立をつくるのではなく、何か強いコンセプトを際立たせようというのでもなく、展示物だけにフォーカスさせようというのでもない方法。だから彼らは空間と展示物をひとつひとつ摺り合わせていくように配置していく。例えば、アルミと真鍮のパイプは新しく持ち込まれた素材なのに、執拗に用いることでもともとここにあったかのように振る舞う。パイプはモビロンゴムで結束されて布を掛けたり照明を仕込んだりしてあるから、ギャラリーに備え付けの支持体か配管の一部のようにも見える。真鍮のゴミ箱に取り急ぎ立て掛けてかあったアルミパイプをハンガー代わりに使っているだけに見える。ギャラリーと事務所の隙間を塞いでいるブランドの梱包用ダンボールは出荷待ちなのかも知れない。真鍮パイプと板が載ったポリカの衝立は展示前に片付けるのを忘れられたのかも知れない。こうしてすべての展示物が、絶対にそうでなくてはならないような置き方をされていない。全体として奇妙な均衡を保ってはいるが、なにかを追加してもまた新しい均衡を探しだしそうな気配を持っている。動的で、終わっていないような展示。ちょうどPLACE by methodが予めそうであったように。
日常を生きていくということは本来、ぼくたちに先行して現に存在するこの複雑な世界への何らかの介入・干渉という形でしかありえない。材料や道具を扱う行為も、コンセプトや計画を打ち立てる行為も、エクセルで書類を作成したり机の上を整理したりする行為も、服を買って着るという行為であってさえも。だからその結果としてつくりだされたモノや状況が、再びモノよりも関係性が主題となったこの世界へ回収されるという循環のなかに、ぼくたちの生活や文化活動や社会活動がある。それは日々何かをつくりだし続けることとイコールなのだ。そうであるならば、先行する世界(過去)とあり得るかもしれない世界(未来)をニュートラルに架橋するアンチコンセプトな手つきこそが、日常をよりよく生きるためのヒントになりうるのではないか。それは、つくられたものが結果として突出して美しい造形であるとか、コンセプトが新しいということとは関係がない(事実ここで展示されたもののアイデアはとても美しい)。そうではなく、動的な均衡を新しいニュートラルさとして見出すこと、あるいは先行する世界をニュートラルな状態に整えつつ介入すること、が、どんなモノや状況がその場に加わっても許される空間、どれも(誰も)がその存在を認め合えることができる日常をつくることになるのではないか。「つくる」ということを決して特権的な作業としてみるのではなく、日常を生きることそのものだと敷衍することができるならば、Rhoikos&Theodrosの手つきが示すことの可能性が見えてくる。
Profile: 西澤徹夫 (建築家)
1974年 京都府生まれ
1998年 東京藝術大学美術学部建築学科卒業
2000年 東京藝術大学美術研究科建築専攻修了
2000-05年 青木淳建築計画事務所
2007年 西澤徹夫建築事務所設立
現在、東京藝術大学非常勤講師、日本女子大学非常勤講師
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