読解力の決定的な差

インターネットの未来とやらも、ネット人口が頭打ちになってる各種調査を見るまでもなく、ネット企業の惨憺たる株価を見れば一目瞭然なわけで、そんなネットの周辺についてだけ書いていれば毒にもクスリにもならないものを、そうでないからつい毒づきたくなってくるのだ。


今日は、久しぶりに我が目を疑うという言葉がピッタリするような出来事に出会った。
ちょっと前にある書評(http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080221)を目にして、ああやっとこういう地に足のついたことを言ってくれる本やそれについての書評が支持を集めるようになったんだなあ、と嬉しくもなってブクマしたのだが、我が目を疑ったのはそのことではない。
その同じ本について、その本が否定的に捉えているとしか思えないことを常日頃披露なさってる方が、つまりその本に恐らくやんわりとDISられてる(と私には思える)人が、好意的ともとれる書評をしている(「非集中化した私」と「自分探Sier」の葛藤 - アンカテ)のである。
えっ???である。


私のなかではessa氏というのはポジティブシンキングの権化とでも形容すべき人であり、やたら威勢の良いことを言って背中を押す人。例えばついその前のエントリでも、彼はRSSリーダーという数年前からすでに存在しつつたいして普及していないのだから、常識的には悲観的に捉えてしかるべきものを、マインドだとか世界観だとか感性だとか宗教めいた用語をちりばめ、積極的に擁護している。ポジティブなのだ。
いっぽう深町氏はポジティブシンキングに若者が浸らされてきた状況に怒り、背中を押されても立ち止まってみようという事を言っている本として『自分探しが止まらない』という本を紹介している。一歩間違えば、深町氏はessa氏を爆撃してもおかしくない位置に立っているのではないか。


というふうに、同じ本がまったく正反対のところから評価されているように思えるのだが、この私の理解は正しいのだろうか。
答えをうるべく、essa氏が『自分探し〜』について、どう書いているのか再読してみたが、氏にとって重要なのはむしろこの本の著述のスタイルであるらしく、そこから出てくる"主観と客観の混合"だの"非集中化した私"だのといった話は言葉遊びとしか思えず、肝心の「自分探し」についてはそういうモメンタムを利用しているのは搾取をする企業だけであるかの如しなのだ。
しかし深町さんは、もっと射程を広くとっているように私には思える。彼は書いている。
「同じ団塊ジュニア世代の「お金よりもっと大切なものがあるじゃないか……」というとっぽい思想にほとほとうんざりさせられた」
(http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080221の後半部分より)
むろん、企業の言説は企業の経営者のみが広めるのではない。それを支える非常に多くの人間の言葉があってはじめてそういう言説は支えられ流通するのだ。だから、個人個人の言葉が、自分探しの後押しという罪から除外されていい理由などない。
というか、企業はそういう個人個人の言葉を後ろから付いていって敏感にピックアップして商売につなげていくだけであって、責任はむしろ個人の方に強くある、と考えるべきだろう。
(ちょっとこれは文脈からはずれるが、企業という顔の見えないものに責任を押し付けてしまうかのような安易な無責任感覚からも遠くありたいと私は思う。例えば水俣病はチッソのみが悪いのだろうか、あの時代の驚異的な経済成長の恩恵を受け取った私たちは責任を逃れうるか、といったように。)


これらのことを頭に置きながら、essa氏が少し前に書いたエントリ(暇人は社会のインフラ - アンカテ)を読むとなかなか興味深い。
つけられたブコメを読むと、このエントリを一種のニート賛歌、フリーター賛美と読んだ人が多いようだが、ここに書かれた次のような言葉を聞くと、そのような解釈は正しいとしか思えないのだ。essa氏曰く、
「一国の経済にとって労働人口より暇人の総数が重要になり、それによって国力が左右されるようになる」
「現代の経済における価値というものをよく見てみれば、そこに必ず暇人が重要な要素となっている」
「ベーシックインカムは、暇人を増やすという目的には非常に有効な政策だと思います。それだけで食っていくフルタイムの暇人も増えるし、」
「失業しても最低限の生活が保証されているということから、ある程度のリスクを冒して暇人にはげむ人も相当数いるでしょう」


これらをフリーターやニートの人が読めばどれほど勇気付けられることか。なぜならまとめて言えば、『あなたたちは素晴らしい可能性があるのだ。だからそのままでいいんだよ。だってそう遠くない未来にはあなたたちの時代が来るのだから。それはすぐそこに見えてるんだよ。だからそのままそのまま。』と言ってるように聞こえるのだから。
私には、こういう言説は、深町氏や彼が書評した速水氏が告発する「自分探し」を後押しする類型のひとつとしか思えない。


またこういうエントリもすぐ探すことができる。ポータル的な外食産業は消えてブログ的な「街の喫茶店」が復活する - アンカテ
ここで謳われているのは個人賛美であり、個性賛歌だ。個人とか個性とかの言葉が肯定的であるのを見て欲しい。
「激減している街の喫茶店や個人経営の定食屋が復活してくるかも」
「値段やサイドメニューの味の均一さは現在のチェーン店並みだけど、雰囲気やコーヒーの味はそれぞれ個性的な「街の喫茶店」が増えてくるのです」
「全体的な店のデザインや核となるコーヒーの味については、店主個人が持っている独自のノウハウやセンスで勝負」


一方深町氏はこう言っている。
「「やりたいことを目指せ!」「人生はお金じゃない」おりしも84年の中曽根内閣が打ち出した個性尊重の教育政策もいよいよ花開こうという時代だ。「これからは個性が大事」と。でも本当の暗黒時代はそれからだった。」
いったいどちらの言ってることが後なのか前なのか分からなくなってしまう。また個性の時代が来るのかね?


なんのまとめもなく、最後に私もここで自分の感性にしたがって無責任に言ってしまえば、いま私が決定的にかつ救いようも無く古くさいと思うのは、何か目新しいことを言ったり目指したりしなければならないというような類のマインド、そしてそこから垂れ流される言説である。
新しい!と感じるような言説は、もうそれだけで疑ってかかっても良いとすら思える。