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校史余滴 第十七回「『新版 レミは生きている』(平野威馬雄)を読む」 | 逗子開成中学校・高等学校

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校史余滴 第十七回「『新版 レミは生きている』(平野威馬雄)を読む」

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校史余滴第十七回「『新版 レミは生きている』(平野威馬雄 筑摩書房)を読む」

著者の平野威馬雄さんは、明治33(1900)年生まれ、詩人・評論家として知られています。今回ご紹介する『レミは生きている』は、昭和34(1959)年に第六回産経児童出版文化賞に選ばれた自伝的小説です。

平野威馬雄さんの父は、フランス生まれのアメリカ人、母は日本人です。祖国はどこなのか?そんな思いを持ちながら生きてきたことを赤裸々に語られています。本書を読むことで、出自を理由とする壮絶ないじめや社会からの排除を感じながら生きてこられた平野威馬雄さんの人生を知ることができます。

「平野威馬雄」という名前にピンとこなかったとしても、シャンソン歌手であり、料理愛好家として有名な平野レミさんをご存知な方は多くいらっしゃるのではないかと思います。レミさんは、威馬雄さんの娘さんにあたります。

すでに校友会のホームページにその紹介がありますが、平野威馬雄さんは、逗子開成に通った時期がありました。2022年に「新版」がちくま学芸文庫で刊行されました。また、2024年2月12日に放送されたNHK総合「だから、私は平野レミ」という番組では、レミさんが威馬雄さんの日記を読み上げるシーンが登場していました。

今回の校史余滴では、『新版 レミは生きている』に登場する逗子開成について、本文を引用させていただきながら、平野威馬雄さんの視点でみた逗子開成イメージをご紹介したいと思います。今回二つのイメージをとりあげておこうと思います。まずは、引用から。

「そこで、とうとう、東京や横浜の学校ではいれてくれないというあきらめから、いなかの学校をえらぶことにした。それも、みすみす、五年生から一年損をして、逗子の開成中学の四年に、やっとのことで入れてもらったのであった。ちょうど、葉山の堀内海岸に別荘があったので、毎日、そこから、てくてく四キロメートルの道を歩いてかよった。この小さな中学校は、白い砂地の上にたっていた。岸べのあしをかりとるための平べったい小船が、ふかいみどりの水草の間に、ちらちらと見えかくれして、そのあたりは、ほんとにしずかな川口のながめだった。春から夏にかけては、がまの花がにおい、水ぜりの葉が、かわいいつゆを、きらきらと反射させていた。校舎ぜんたいが、まわりの田園風景とひとつにとけあって、まことにものさびしいところであった。質素な木造平家だての教室には、とても、東京の学校のような、しゃれたつくえや、まどかけなどのぞめなかったが、一日じゅうきこえてくる波の音は、からだじゅうから、都会のほこりや雑音をあらいおとしてくれた。まえにいたフランス学校のような、ゴシック式の講堂もなければ、つくえのひとつひとつにガスをとりつけた理化学の実験室もなかったが、校庭のまつ林をわたる潮風は、心をなごやかにしてくれた。浪子不動の岩間には、うろこがきらめき、なぎさには、赤や黄色の海そうがゆれていた。学校からほど近い田越川のあさせには、あの有名な、「ましろき富士のね、みどりの江の島」の歌でみんなの知っている、この学校のせんぱいたちがそうなんしたボートの破片が、白々とペンキのあとをとどめていた。すべてが、のびのびとしていて楽しかった。けれども、この学校は、もともと、海軍のえらい将軍が建てたのだそうで、いまでも、なんとなく、ぶこつな風俗がのこっていて、さかんに、すもうだの、剣術だのをしていた。」(154頁)

少々長くなってしまいました。小説の中での記述ですので、すべてが正しいわけではないでしょう。あくまで、これらの記述は平野威馬雄さんを通してみた「逗子開成イメージ」であり、小説の中の記述であることには注意が必要です。しかしながら、平野さんを通してみた大正時代当時の「逗子開成」の立地した景観についての記述は、大変貴重だと思われます。東京・横浜からみた、三浦半島に位置する、自然に恵まれた逗子開成の雰囲気を読み取ることができます。

一方で、小説には、もう一つ注目したい視点があります。それは、逗子開成が立地する「逗子」という土地が、「静養」する場所として描かれる点です。平野さんは、やんちゃだったからこその転校とご自身で記しているのですが(詳細は書籍を是非お読みください)、「静養」目的で逗子開成に来た生徒を物語の中で登場させています。

小説のなかで、加藤という人物を登場させ、その加藤について、「つきあえばつきあうほど、かれのよさが光ってくる。」と記した上で、加藤自身に次のような言葉を語らせています。

「ぼくはね、岐阜の山の中で生まれたんだ。そして、名古屋の中学にいたんだけれど、文学を勉強するのに、すこしでも東京の近いところに住みたいと思ってね。・・・・・それに、あまり、からだがじょうぶじゃないものだから、この、空気のいい海べの学校にきたのさ。まだ、きてから一年にしかならないんだよ。」(176頁)

また、平野の別荘があったという葉山において、逗子開成の生徒ではないものの、近藤くんという人物も登場させています。

「ところが幸運なことに、ぼくの住んでいた葉山の家の近くに、近藤くんという文学ずきの少年が住んでいた。からだが悪くて、東京の学校を休んで、静養にきていた。」(178頁)

逗子ではなく、葉山のイメージになってしまいますが、気候が良いからこそ「静養」する場であることが示されています。「静養地」としての逗子や葉山のイメージについては、『逗子市史』にもその紹介がありますし、徳冨蘆花の『不如帰』で描かれる逗子のイメージを考えていただいても良いかもしれません。自然環境の良い「静養地」としての逗子に、逗子開成は立地していたことがよく分かります。

以上、二つの視点を、平野さんの小説からご紹介しました。紹介させていただいたような記述を、当時の写真、絵画や日記などと比較検討していくとより豊かな校史や地域史が描けるのではないかと思います。

最後に別の史料から歴史的事実を確定しておきます。平野さんは、学校に残る資料より、大正6年10月2日~大正7年9月30日まで在籍していました。資料上は、「第三學年」に入学し、「第四學年」で退学したことになっています。(小説とは一学年ズレることになります。)また、大正7年12月4日に復校し、12月11日付で「私立名教中學校へ轉校願出」「許可」とあり、転校しています。このあたりについては、改めて別の機会にご紹介したいと思います。

最後になりますが、友だちとして登場する「加藤」は「加藤鐐造」にあたり、学内の資料には、「私立正則英語学校普通科四学年」を修業の後、大正7年4月6日に「第四學年」に入学し、翌年の大正8年5月1日に「第五學年」を退学しています。加藤鐐造は、後に岐阜県選挙区から出馬し、衆議院議員を戦前・戦後にわたり五期務めている方です。

校史編纂委員会では、今後も逗子開成の歴史の掘り起こしを進めていきたいと思います。資料や情報等をお持ちの方がいらっしゃいましたら、本校校史編纂委員会までお知らせください。


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