解消の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:54 UTC 版)
薩摩が土佐との盟約解消に踏み切った理由としては、一般的には後藤の大幅な遅滞と、約束していた兵力を引率してこなかったことに求められることが多い。しかし西郷はイカルス号事件で後藤が遅滞することはすでに予想済みであった。また容堂の反対により兵を引率できなかったのは確かであるが、先述のごとく容堂は将来的な出兵の可能性を否定しておらず、薩土盟約の基本方針(大政奉還建白→幕府の拒否→武力発動)そのものは変わっていないため、これも決定的理由とは言い難く、盟約解消の理由はむしろ薩摩藩側の事情にあったと考えるのが自然である。 井上勲はこれについて、当時武力倒幕を行うための好機が到来したことと、大政奉還が実現しそうな気配が高まり、それによって倒幕挙兵が不可能となってしまうことをおそれたためだとした。 家近良樹は井上説を批判的に検討し、盟約解消の理由を長州藩や中岡慎太郎ら討幕派による突き上げや、挙兵をめぐる薩摩藩内の意見対立の先鋭化により建白後の幕府の回答を待つ時間的余裕がなくなったためであると主張する。 また佐々木克は、土佐藩が用意した大政奉還建白書の草案(後に実際に土佐藩から徳川慶喜へ建白されたもの)には、薩土盟約約定書の第4条にあたる慶喜の将軍職辞任(ないし将軍職の廃止)が欠落している(容堂の意図を汲んで削除したものと思われる)ことを重視し、将軍職は朝廷の摂関職とともに廃止すべき対象と考えていた薩摩藩のどうしても譲れない一線であり、また9月3日には島津珍彦(久光三男。重富島津家当主)が兵を率いて上京を開始している状況で、今更盟約の最重視部分を削除されては受け入れられなかったためであったとする。 高橋秀直は家近説を敷衍しつつ、討幕派公卿(中御門経之・正親町三条実愛)と大久保との情報のやりとりから、幕府が天皇を彦根に移し、外国を利用して反幕派を牽制しようとする計画(真偽は不明)の情報を入手した8月後半に西郷・小松・大久保らが最終的に倒幕路線を確定し、そのための戦力として土佐藩兵を期待していたのに対して、後藤が兵を引率せずに帰京したことで失望したとの見解をとった。 このように薩摩側の解消理由は諸説あり、いまだ確定しているとは言い難い。
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