碑学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 07:25 UTC 版)
宋の欧陽脩の『集古録跋尾』と趙明誠の『金石録』によって金石資料が集録されたが、元・明ではこの研究は衰退した。しかし、清代の学問が実証的になって考証学が興起し、その資料として金石文が注目された。金石学を興したのは清初の顧炎武であるが、これに刺激されて鄧石如・朱彝尊・鄭燮・金農らが漢碑を習うようになった。金石学に造詣の深い阮元は、『南北書派論』・『北碑南帖論』を発表し、「法帖の書は翻刻が繰り返されて真意を失っている。これに対し、碑刻の書は真跡に近い。よって書法の正統は北碑であり、北碑に学ぶべきだ。(趣意)」と主張した。帖学派の包世臣も阮元の説に同調し、『芸舟双楫』を著して碑学が興り、その理論を実践して漢碑や北碑を学ぶ人たちが現れた。この人たちを碑学派と呼び、清末には康有為の『広芸舟双楫』によってますます碑学派に気勢を加えた。碑学派の人々はみな帖学の素養を持ち、さらに篆刻にも造詣が深い。他に碑学派の書論として、楊守敬の『平碑記』などがある。
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