恩人
過去に自身が書いたコラムを読み返せば、同じ人物がこれでもかと何度も登場する。サッカーの川淵三郎さんや水沼貴史さん。野球の江夏豊さんや松井秀喜さん。ラグビーの北島忠治さんや大西鐵(てつ)之祐さん、高橋善幸さん。そしてボクシングのエディ・タウンゼント夫妻や、その教え子である多くの魅力的なチャンピオンたち。名を挙げればきりがないが、思い出深く、原稿で度々お世話になった彼ら恩人とは全て古巣の夕刊フジ時代に取材を通じて知己を得た。
忘れ難い言葉も多くある。例えば日本サッカー協会会長を退いて間もない長沼健さんには、担当記者を外れる際にあいさつに赴き、こう諭された。
「人に温かくあり続けてほしい。それが君の新聞の特長だと僕は思っている」
思えば夕刊フジでの諸先輩からの薫陶は「人を書くんだ」の一点張りだった。少なくとも、当時はそうだった。
詐欺師
夕刊フジを発行していたフジ新聞社には、昭和56年4月に入社した。
新聞社を受けてみようと考えてはいたが、新聞社の募集には当時、「色神異常不可」の条件があった。赤緑色弱の診断があり新聞社はだめかと求人票をながめていると、フジ新聞社にはその項目がない。情けないが、それが志望理由だった。
入社試験の出来は惨めなもので、「最近感動したこと」という緩い課題の作文には、54年夏の甲子園大会で延長18回を戦い抜いた箕島―星稜戦を、感想抜きで、ひたすら18回分の攻防を再現した。人に頼まれてスコアブックをつけていたので、詳細な記憶があった。
面接では当時のフジ新聞社社長、山路昭平に「野球記者になる気はあるか」と聞かれ、「はい」と即答した。
そんなありさまで入社はしたのだが、短い研修期間中に事件取材に興味がわいた。若気の至りか、社内の廊下で山路を捕まえ、実は運動部に行きたくないのだと訴えた。
「貴様、詐欺師か」
大音量で怒鳴られた。面接の「はい」が一拍でも遅れていれば入社はなかった。それほど試験の出来は悪かったらしい。それでもなぜか、希望は半ば受け入れられた。平日は事件担当、週末はスポーツの、よくいえば二刀流、実態はどちらつかずの記者生活がこうして始まり、そのまま現在に至る。
ちなみに、なぜフジ新聞社だけ「色神異常不可」の記載がなかったのか。入社後に聞くと、「忘れていた」のだという。人のその後を左右する偶然や運なんて、まあそんなものだ。
「色神異常」や「赤緑色弱」は今や死語である。呼称は「色覚異常」から「色覚多様性」へと改められた。厚生労働省は平成13年、雇用採用時の色覚検査を原則廃止すると通達した。
題字という四畳半
フジ新聞社は昭和62年、産経新聞社に吸収された。同時に自身も産経新聞の社会部に異動となり、以後は東西社会部と夕刊フジの往復を繰り返した。
古巣を離れて長くなる現在も事件やスポーツの「主張」やコラムを書き続けている。「お前の原稿は、手口が夕刊フジのまんまなんだよな」とOBから評されたこともある。それは、うれしい賛辞と受け止めた。
夕刊フジは、1月末をもって休刊する。昭和44年2月25日の創刊で、55年余の歴史に一旦、幕を引くことになる。大先輩記者、雪山隆弘による「オレンジ色の憎い奴」のキャッチコピーが懐かしい。
駆け出し当時は、編集局の隅にあった壊れかけたソファで乾きものの宴席に夜な夜な付き合わされた。カップ酒片手の大ベテランから「俺らはな、この題字というオレンジの四畳半に命を賭けてきたんや」とすごまれた関西弁が耳に残る。
時代とともに、オレンジに白抜きの題字の四畳半は、やせ細っていった。
平成28年には「夕刊フジ」の題字をデザインしたグラフィックデザイナーの杉山高子さんが亡くなった。産経新聞と夕刊フジに掲載した訃報には、創刊当時の四角い題字を添えた。
ただ、かつて使用された「特練り」のオレンジは再現が難しく、「マゼンタ60イエロー70」の配合で代用した。色ひとつとっても、往時をそのまま取り戻すことは難しかった。
夕刊フジの休刊は、なんだかふるさとが遠ざかるようで、何より、たまらなく寂しい。(べっぷ いくろう)