19世紀フランスにおいては、海は急速に一般の人々にとっても身近な存在となります。それ以前は漁業の港の住民や限られた港湾都市及びそこから出帆・入帆する船の乗客たちにとっての海だったものが、植民地拡大による影響、鉄道網の発達による距離間隔の接近、社会構造の変化による海のレジャー化等様々な要因が重なって、海が人々の身近な存在になって来たのです。
例えば、何年か前に、ココ・シャネル(1883~1971)の映画を見ましたが、シャネルが若かりし日に、ノルマンデー海岸にあるドーヴィルにブティックを出店(hukkats注)したのです。そこには戦争を避けた多くの人達が各地から集まり、賑やかな街の風景が映っていました。
ドーヴィルは第一次大戦以前、19世紀からリゾート地として整備が始まり、1860年代には皇帝ナポレオン3世が訪問した影響もあって、パリ・ブルジョワ階級がこぞって休暇を過ごす地となっていました。
先にピクチャレスクに魅力を感じて多くの風景画を描いていた画家達が、こうした保養地へ集散する富裕層の求めに応じて、海辺の風景画を描くようになるのです。
ブーダンは常にノルマンデーを中心とした絵を描き、特に浜辺に遊ぶ人々の絵により人気を博しました。
ブーダン『浜辺にて』
ブーダンの海辺の情景では、その空の描写がキャンバスの多くの部分を占め、生き生きとしたタッチで空を描いています。コローは彼の事を「空の王」と呼び、詩人のボードレールは「水と大気の魔術師」と表現しました。クールベも「あなたの他に空の事を知っている者はいないでしょう」とまで言って讃えています・
ブーダン『海岸の帆船』
ブーダン『ブレスト、停泊地』
(hukkats注)
・お針子から身を立てたシャネルは、その魅力に取り付かれた富裕な英国人の援助で1913年にドーヴィルに出店、三年で援助を受けた資金を返せるほどの繁盛ぶりだった。さらに1915年には、仏ビアリッツから西ビルバオまでのビスケー湾沿いの海岸線コスタ・バスカにあるビアリッツにも開店し、1910年に第1号店として開店していたパリ・バンドーム広場に近いカンボン通り店を合わせて3店舗を構えるが、パリに戦争のきな臭さが漂い始め冴えない状況になるのとは逆に、海沿いの街の営業は活発化した。
・シャネルは音楽家のストラビンスキーとの接点もあったことは有名。1920年に有名なバレエ団リュスの団長からストラビンスキーを紹介され、彼の一家がソ連から亡命して住居を探していると聞くと、パリ郊外の自分の新居に、新たな住居が見つかるまでの約8か月住まわせた。さらにシャネルは、ストラビンスキーの新作バレエ音楽『春の祭典』をバレエ団リュスが公演して赤字を出すと、それを資金援助し損失を補填するなど音楽事業にも大きな貢献をしている。