音楽は生きていた。少なくとも音楽が生まれた当初は。その生に満ち溢れた存在に防腐処置を施してピンで止める方法を人類が生み出して以降、音楽の楽しみ方は多様化し、音楽をめぐる価値観も多様化してきた。
「生きた音楽」は音楽の本来の形であり、最も純粋であり、最も再現性の低いものである。リズムやメロディーは人間が感情の赴くまま表現し、あるいは退屈の中から生み出される。人類の歴史で音楽は言葉を生んだ存在かもしれないし、言葉から音楽が生まれたのかもしれない。人類に深く根ざした音楽はそれほどまでに、時代とともにカタチを変えてきた。
それでも音楽は常に生きた存在だった。そこに録音技術が登場し、音楽を標本化することを可能にするまでは。レコードやカセット、ビデオ、LD、CD 、MD、DVD。またはただのコンピュータ上のデータとして数えきれないフォーマットで標本にされた音楽は、部分的な再現性の高さを得た代わりに失ったものも多い。この「死んだ音楽」はさまざまなものが欠けているのだ。その音楽が生まれる瞬間の演奏者の表情、汗、さまざまな観客のみせる感動、その場の匂い、雰囲気、脈動感、演奏者と観客との一体感とコミュニケーション...そういったものがすべて欠けている。これらの死んだ音楽は、生きた音楽と比べれば博物館に置いてある展示品のようなものともいえるかもしれない。
ここで断っておくと、私は自ら演奏する場合を除けば生きた音楽よりも、死んだ音楽を聴くことが好きだ。これはどちらが良い、悪いという話ではなく好みの違いの話だ。「音楽」と言ったときにどの部分を切り取るかといった価値観の話である。
そして、価値観は時に衝突する。
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The Crash: 音楽的価値観の衝突
夏。魚は飛び跳ね、コットンは背高く伸び、数々の音楽フェスティバルが室内外で行なわれる季節。日の光に乏しい長い冬を耐え忍んだあとの夏、緑溢れる白夜の夏は、ここフィンランドでは全身で楽しむべき季節だ。そして、友達からフェスティバルに行かないかと誘われる季節でもある。毎年同じ友達から誘われることもあれば、別の友達から誘われることもある。しかしそこで行なわれる会話は大体そう変わらない。
友達:なあ、音楽フェスティバルに行こうじゃないか! 音楽を楽しもう!私:いやだよ、フェスティバルなんて。小規模なライブだって好きじゃないのに。友達:でも音楽は好きっていったじゃないか。アーティストと観客とが一緒になる音楽の楽しみを味わわないで、音楽好きを気取るのか?
こういった具合だ。それ以降展開される友達の論点と私の反対意見を書き出すとこんな感じだ。
でも最高の演奏はすでに録音されていることが多いし、ライブでは下手なバンドも多い
体が震える大音量を近所迷惑にならずに楽しむことは、たしかにライブ以外ではできないだろうが、逆にいえば大抵音が大きすぎる。室内ライブではどうせ音量が大きすぎるから耳栓するんだろうし
有名人をそれ以外の人と分け隔てるのは、特定の人を見下すこととなんら変わらない。人はみな平等だ。それに、きっとアーティストは君から遠くに居たり、前の人の身長が高かったりして、結局会場のスクリーンでその姿を見ることになるんだろうね
つまり君は音楽を聴きに行くのではなくショーを観に行くのだ。私は音楽を聴きたい
コミュニケーションなら今こうやってとっているではないか、私の肩書きだってアーティストだ。それに、自ら音楽を作らずに本当に自分が音楽の一部になれると思うのかい?
アルコールとか、周りの人が吸っている大麻の受動喫煙では? 警察を呼んだほうが良いかもしれないぞ(フィンランドでも大麻は違法)
でもうざったい観客がいれば集中できないだろう。ずっと立っていれば足が疲れて集中できないだろうし、天気が悪くても同じだ。そんなにリスクを冒してまで行きたくはないね。好きなときに好きな場所で聴いたほうが集中できるに決まってる
もちろん、オーケストラの生演奏や室内管弦楽とか、アコギのライブなら細かい部分は違うだろう。
私があまのじゃくになっている部分は、どうしても行きたくないことの意思表明として目をつぶってほしいが、毎年このような議論が繰り返されることで最近考えついたのが、冒頭の「生きた音楽」「死んだ音楽」という考え方だ。
The Music:共有される音楽は生きている
果たしてそれは一体何を意味しているのだろうか?そして、我々の聴いている 「音楽」とはなんだろうか? 「音楽」という言葉からすれば、「音」すなわち空気の振動によるものであるという部分も少なくない。しかし本来「音楽」が包括するのはより広い出来事のはずだ。
何が空気の振動を引き起こすのだろうか? それは「演奏」である。その言葉からもわかるように、パフォーマンスである演奏なくして空気の振動は生まれない。演奏者の体の動き、声を出すために空気を吐く様子、それらがあってこそ空気が揺らぎ、私たちの耳にその振動が入るのだ。すなわち演奏もまた音楽の欠かすことのできない一部分であるといえる。
そこから空気の振動だけを切り出したものを「音楽」と呼べるのであるならば、逆に生演奏から空気の振動を取り払ったとしても、演奏家たちの動きが織りなすのは、同じく音楽であるともいえるはずだ。演奏は言い方を変えれば、即興音楽を別にすれば楽譜という記号化された音楽を具現化する行為でもあり、その点で楽譜も音楽の一部といえるかもしれない。
こうしてできた聴覚のみならず、さまざまな感覚が生み出す総合的な存在が「音楽」である。そのため「音楽」が「音の振動」でしかないという認識は、「魚の切り身が海を泳ぐ」という認識とさして変わらないものである。とはいえ「生の音楽」は海の中を泳ぐ「生きた魚」というよりかは「新鮮な魚の切り身」に近い。それは生もので「開封後はすぐにお食べください」であり、保存して後で食すことのできない代物である。
空気の振動は耳に届くのみに留まらず、時に体の奥深くへと届く。また、音楽が生きるその空間で、鑑賞者たちは音楽を共有する。この生きた状態の音楽の共有は、演奏者と観客との間で双方向である。しかしこれはネット記事の共有とは異なり、共有される存在である音楽そのものは生きており、可変的であり、共有の反応によってその動きを変える。観客のノリが悪く、反応が薄かったり騒がしかったりすれば奏者の心理状態に影響し、音楽の演奏という繊細なアートにも大小の影響を与える。観客のノリがいいときにも同じことが言えるし、逆にアーティストのノリが悪いために観客が盛り上がらないことだってある。
サイモン&ガーファンクルが1981年にセントラルパークで行なったコンサートでは『The Late Great Johnny Ace』の演奏中、「ジョン・レノンが死んだ~」という歌詞の直後「はなしがある、はなしがある」といいながら男がステージに上がってくる。ポール・サイモンは曲を中断することなくその後も平静を保ち演奏を続けるが、その出来事がその場に居た誰もに影響を与え、そのとき演奏されていた音楽にも影響を与えたことは言うまでもないだろう。このコンサートの曲を収録したアルバム『セントラル・パーク・コンサート』には、この曲は収録されていない。
Death is Essential: 音楽の偏在性と利便性
対して死んだ音楽はその一部が切り取られたものだ。「音楽」という存在の、ある意味最終形態である「空気の振動」を取り出して保管している。「死んだ音楽」がもたらしたのは音楽の再現と時間や場所からの解放であり、そして何よりも音楽が「空気の振動」に集約されているという価値観である。
時間と場所の制約から音楽を解放し、それを再現することを可能にしたという点で、死んだ音楽の誕生は画期的だったはずだ。演奏者も楽器も空間も必要なく、必要なのは録音と再生装置だけ。聴きに行くことが難しいすでに死んだアーティストの最高の演奏だって、いつでもどこでも聴くことができる。偏在性の点は年月とともに進化していて、ウォークマンやiPod、Spotifyなどによりさらに推し進められた。今では、あなたの手のひらよりも薄っぺらいスマートフォンに、目に見えない電波となって無限の死んだ音楽が届き、名曲の数々を聴かせてくれる。
だが死んだ音楽ばかり聴くことは、音楽のコアとなる一部分であるはずの「演奏」を目の当たりにしないことでもある。どれだけ複雑で高度な技をもってなされた演奏であっても、それが空気の振動としか伝わらず、演奏家の持つ技術へのありがたみも減るだろう。なぜなら死んだ音楽しか知らない人からすれば、その音楽が人間による演奏であってもプログラムされ生み出された曲であっても、どちらも振動板の揺れの出す音でしかないからだ。
空気の振動だけ聴いていれば、ジミ・ヘンドリックスがどんな変態プレイ(褒め言葉)をしていても、あなたは無関心でいられる。
もちろん上の動画のように、ライブの音楽を空気の振動のみならず映像とともに記録したものであれば、音楽を演奏する様子を視覚的にも味わうこともできる。しかしそれでも死んだ音楽は生きた音楽とは違うものだ。その大きな違いは、「生きているか死んでいるか」という言葉に集約できる。生きている音楽にはインタラクティブ性があるが、死んでいる音楽にはない。この文章では「音楽」を「人」に置き換えて考えてもいいだろう。
博物館の展示品にもインタラクティブ性はない。それでもなお、死んだ音楽は博物館の中の展示品とは違ったものである。博物館に閉じ込められたストラディヴァリウスは、音楽を奏でるという本来生み出された目的を失った状態で観客の前に提示され、それ以上をなさないただの生命の抜け殻状態にある。このように鎖で繋がれ、ただ置かれているだけの博物館の展示物とは違い、死んだ音楽は空気の振動によって、その音楽の生きていたときの様子を限定的にではあれど私たちに伝え、私たちの体を動かし、心を躍らせることができる。そして観客の間には一体感も生まれる。気に入った曲が流れてきたらその場で歌い出したり踊り出したりする人が居ることからもわかるだろうし、それがわからなければナイトクラブに行って、サビが盛り上がる人気の曲を待てばいい。逆に曲をかけることで場の雰囲気が盛り下がる『Gloomy Sunday』とか、Portishead(ポーティスヘッド)の音楽とかもある。
ここで感じられる一体感は、演奏家を半ば無視した一体感ともいえるかもしれない。なぜなら、死んだ音楽を前にいくら騒いでも盛り上がっても、いくらブーイングを飛ばしても、それは無機質に再生される死んだ音楽には影響を与えることができないからだ。この感覚は、大量生産、大量消費の価値観に近いのではないか。ブランドとしてのアーティストは有名だが、同品質の生産品としてのデータ化された音楽がいつでもどこでも手に入り、それをどのように扱ってもそれは生産者には伝わらないから、曲をサビまで飛ばしたり、スキップしたり、イコライザを使ったりといった、聴いている途中に何食わぬ顔でトイレに行ったりといった、生の音楽では考えられないぞんざいな扱い方がされている。死んだ音楽を楽しむのにもちろん演奏を目にすることのない場合には、生産者の苦労を知らないという面でも似ているのではないだろうか。
すなわち死んだ音楽が生み出した音楽の偏在性と利便性は、音楽の素晴らしさを広く伝えることに成功したいっぽうで、音楽の本当の価値を知らない鑑賞者たちをも生み出したのではないだろうか。
Death Is Not the End: 今も「彼ら」の音楽を聴くことができるのは「死んだ音楽」のおかげ
まるで生きている音楽こそが音楽で、死んでいる音楽は悪いものだ、とでもいっているように聞こえるかもしれないが、そんなつもりはない。「死んだ音楽」と私が形容するものは、「生きた音楽」への対比としての形容であって、それでも音楽の一形態である。そこに善し悪しを持ち込もうというのはナンセンスだ。
もし「死」という形容を使うことで記録媒体に収録された音楽が悪いものに見えるというのであれば、多くのポップカルチャーで「生」を美化し「死」を悪と捉える価値観が蔓延しているのが原因かもしれない。小見出しの曲にもあるようにボブ・ディランやNick Cave(ニック・ケイヴ)も歌っているではないか。
あなたが生きている間に生で聴くことのできなかった名演奏を、あたかもその場にいたかのように聴くことが可能になるのが「死んだ音楽」だ。もちろん空気の振動と映像以外の情報は欠けているかもしれない。だが素晴らしいことに、この音楽標本はいつでも好きなときにその音楽を聴くことができるのだ。あなたがどんなに体や心を病み、動けないときだって、死んだ音楽はあなたの心に温かい光を灯してくれる。
1997年に死去した「IZ」ことIsrael Kamakawiwo'ole(イズラエル・カマカヴィヴォオレ)はあなたのもとに来て歌ってくれはしないが、彼の歌う「Somewhere Over the Rainbow」をこうしていつでも聴けるということはなんと幸福なことだろうか。
生きた音楽は、先に友達への反論として述べたような生きているからこそのさまざまな特性に縛られながらも、音楽演奏者と観客が一つの場を共有し、そこで音楽を通じたコミュニケーションをとるという面、そして単なる聴覚・視覚情報を超えた音楽が体験できるという面で、音楽の持つ本来の性質をすべて含んでいる。
だが、誰しもそれが好きなわけではない。それは音楽を演奏する側にも同じことだ。ライブでの嫌な経験からライブに行かなくなった人がいるのと同じように、自らの経験からライブに背を向けたNick Drake(ニック・ドレイク)などのアーティストもいる。アデルやマライア・キャリーなどはライブをするが舞台恐怖症などがあるそうだし、恐怖症が原因となってライブをしないアーティストや、そもそもスタジオでしか曲を作らないグループや、ライブ予定があったがメンバーが死亡して存続できないまま消えていったグループだってある。フィンランドの超有名バンドLeevi and the Leavings(レーヴィ・アンド・ザ・リーヴィングス)も人前に出るのが好きではなく、インタビューもほとんど許可しておらず、ライブも一度しかしたことがない。そんなアーティストたちの音楽を生きた状態で聴くことはそもそも非常に難しかったはずだ。それでも彼らが音楽を作り続けることができ、我々が今も彼らの音楽を聴くことができるのは、ほかでもない「死んだ音楽」のおかげだ。
死んだ音楽が悪く見られることがあるとすれば、そこに音楽の特性の一部しか含まれておらず、そのため「生きた音楽」を味わったことのない鑑賞者が「音楽」の概念を狭く見てしまうことにより「生きた音楽」愛好家と意見が噛み合わなくなるからだろう。
本当はここで、「生きた音楽、死んだ音楽、どちらの形態の音楽を愛するものも、互いの特性を理解して、互いの価値観に理解を示し、音楽を愛する者同士、互いに共存していこう」というような終わり方をしたかったのだが、この単純に二極化された音楽の「生死」からはみ出た音楽の形態ももう少しだけ考えていこうと思う。
Closer to Life: 生に近づいていく「死んだ音楽」
The Vergeによれば、すでに終了してしまったが2013年にTurntable.fmがインタラクティブな音楽ライブストリーミングサービスを企画していた。これはチャットなどを通じてライブをストリームするアーティストとコミュニケーションがとれるというものであった。
また、昨年Samsungが公開していたSamsung Galaxy S7、Gear 360カメラとGear VRヘッドセットを紹介した広告動画では「病気でライブコンサートに行けなかった娘に代わって父親がGear 360でライブを撮影し、娘がVRヘッドセットをつけてそれを体験する」というものだった。この動画はもう見ることができなくなっているが、参考までにAndroid Communityの記事を挙げよう。これは視界に限ればその場にいたかのような脈動感を感じられるものかもしれない。つけ加えると、この広告で出てくるGear 360はライブストリーミング機能がなかった。Gear 360の新しいモデルにはストリーミング機能があるので、それを用いれば音楽ライブをライブストリーミングしてVRでその場にいるかのように体験できるはずだ。だが、主催者側が行なうなら問題ないだろうが、一般観客がライブコンサートをライブ配信するとなると問題も出てくるだろう。
上記どちらの例でも、生の音楽の持つ場所・時間の制約や、視覚的要素を生きた音楽に近づけることで、生死の差を小さくしようとしている例だと思う。これらの例にくわえ、高音質でよりピュアな音、その場に居たかのような音響を追求する、ハイレゾとかサラウンドといった試みもまた、死んだ音楽を死んでいるなりに生に近づこうとしている行為だ。
Necromancer: 「生ける屍」としての音楽形態
生ける屍と化した音楽と、生ける屍として生み出された音楽についても考えてみよう。アーティスト本人たちに生で死んだ音楽を演奏するフリを強要するという作品の作り方や、そもそも楽器演奏パートが介在しないアーティストなど、その分け方はさまざまあるが、音楽の生死の観点からすると面白いかもしれない。
BBCの番組で、楽器はプレイバックでボーカルだけライブで歌わされたNirvana(ニルヴァーナ)は、かなり適当に演奏をしている。音楽を中途半端に半殺しにすることをアーティストに強要するならば、それなりの結果を覚悟しなくてはいけないだろう。
MUSE(ミューズ)はイタリアのテレビ番組であらかじめ用意された音楽を流しながら演奏するフリをするように言われたため、メンバーが演奏楽器を入れ替えた。このような状態に落とし込められたアーティストが反抗するのはよくあることで、Iron Maiden(アイアン・メイデン)や、Public Image LTD(パブリック・イメージ・リミテッド)、Van Halen(ヴァン・ヘイレン)などが同様な状況下でふざけたパフォーマンスをする動画をネット上で見ることができる。もちろん、そのような条件に反抗しないアーティストも少なくないのだろうし、そうすることで失敗するアーティスト(アシュリー・シンプソンとか)だっているが。
ドイツ80年代を代表するイタロディスコアーティストの一人、Fancy(ファンシー)による『Bolero』のライブ演奏風のライブパフォーマンス。こういった、あからさま過ぎる「生ける屍音楽」には、また別の楽しみ方があるかもしれない。
80時代のイタロディスコではこの『Tarzan Boy』で知られるBaltimora(バルティモラ)を始め、Den Harrow(デン・ハーロー)、Fun Fun(ファン・ファン)、など、フロントマンは見た目重視でリップシンクして、歌い手は別に存在するものも多かった。ちなみにリップシンクで有名なMilli Vanilli(ミリ・ヴァニリ)はドイツで作られたグループだ。彼らがライブでパフォーマンスした場合、それは「生きた音楽」と呼べるだろうか? もしかしたらこれらはフランケンシュタインのモンスターのように、「空気の振動」と「パフォーマンス」という別々の素材を縫い合わせた、「生ける屍」という音楽形態として生み出されたといえるのかもしれない。
Closing Time: 音楽の生と死の境界線に存在する無限のグラデーション
生まれ育った鳥取で、私が行ったことのあるライブコンサートは、なにがしかのクラシック音楽の演奏と、アート・ガーファンクル、海援隊、さだまさし、(あとは松平健とか杉良太郎の時代劇と歌のショーとか)くらいなものだ。だがライブに行かないから音楽が嫌いだろうというのは間違いで、iTunesには1万8000曲ほどは曲が入っているし、音楽は大好きだと断言できる。単に「生きた音楽」にそこまで親しんだことがないから好きにならなかったとも言えるかもしれないし、「死んだ音楽」で育ったとも言えるだろう。生きた音楽の面では先に述べたコンサート以外は、学校の音楽の授業でリコーダーや歌うことが一時期嫌いだったことを除けば、おばあちゃんが持っていた琴を少し弾かせてもらったり、キーが小さいカシオの電子キーボードを適当に弾いたりとか、自分主体の楽しみ方が主だった。
だが今回の記事を通して書いたようなことを考えるうちに、私自身の音楽に対する考え方は変わったように思う。しかし自分の音楽の好みが変わったわけではない。私は今でも音楽的ネクロフィリアだ。私からしてみれば、生きた音楽は人間のようなものだ。どんなにいい人間でも、良い面と悪い面をあわせ持つ。そして死者が生者に残す過去の思い出のように、実体こそ失っているが都合の良い部分だけ切り取られ、美化された「死んだ音楽」が私の好むところなのである。
これまでなら友達に誘われれば冒頭のようにムキになって「ライブのどこがそんなに良いわけ?」と反論していたのだが、この考えによって「そうか、君は音楽をもっとフルに楽しみたいんだね。でも僕の音楽の楽しみ方は違うから断るよ。楽しんできてね」と言えるようになった。ライブに誘ってくれる生きた音楽愛好家たちにも音楽的ネクロフィリアの価値観をわかってもらいたいし、私も含めた音楽的ネクロフィリアたちもまた彼らの価値観を理解するために、そして音楽という存在をより深く理解するためにも、たまには思い切って誘いにイエスと言ってみるといいかもしれない。
音楽の生と死の間には、無限のグラデーションが見えてくるだろう。
この記事では音楽の打ち込みや打ち込みの生演奏、映画『陽のあたる教室』にあるような生の演奏にヴィジュアライザーをつけたものや、ショーと音楽の線引きについては触れていないし、リップシンクに関しても軽く触れたのみだ。演奏よりもショーであることを優先するため激しいダンスのある楽曲ではリップシンクするなどといった行為も省いている。スピーカーから音が出ているものは死んだ音楽により近いといったことや、テレビ生中継もVRストリーミングも「ライブに直接赴いて、生きている音楽をほかの観客と共有する」のとはまた違う「ライブの視点をほかの人々と同時共有する」一体感を持つ。
音楽フェスティバルに向かう旅の途中や、ストリーミングがバッファリング中のまま止まってしまった際は、いろいろと思考を巡らせてみてはいかがだろうか。
小見出しについて
The Crash:フィンランドのブリットポップバンドの名前、The Clashとは違う。
The Music:イングランドのオルタナティブロックバンド。
Death is Essential:ペルーのメロディックデスメタルバンドCrimson Deathのアルバムタイトル。
Death is Not the End:Bob Dylanによる曲。後にNick Caveらによりカバーされた。
Closer to Life:ノルウェーのダンスアクトAtella x Frøderの曲。
Necromancer:Gnarls Barkleyの曲。
Closing Time:Leonard Cohenの曲。
皆さんにとっての「音楽の敵」または「音楽の味方」を教えてください。はっきりと決まっているなら、TwitterもしくはInstagramで「#音楽の敵」または「#音楽の味方」を付けて、どちらとも言いかねない場合は「#音楽の敵音楽の味方」で、ハッシュタグ付きで投稿してください。特集期間中、FUZEがピックアップして定期的に再投稿していきます。
目的と価値消失
#カルチャーはお金システムの奴隷か?
日本人が知らないカルチャー経済革命を起こすプロフェッショナルたち