第2弾は2022年のベスト本です。日仏織り交ぜて選んでいます。冬休みの読書の参考になれば幸いです。
1. 岡田温司 『ネオ・レアリズモ――イタリアの戦後と映画』(みすず書房)
映画についても並外れた知識を持つ美術史家・岡田温司による、ネオ・レアリズモについての日本で最初の本格的な研究書である。実際、ロッセリーニに関する幾つかの書籍を別として、この時代のイタリア映画をここまで精緻に論じた研究書はこれまで存在していない。フェリーニやベルトルッチを論じた『イタリア芸術のプリズム――画家と作家と監督たち』(平凡社、2020)と併せ、本書からは岡田氏のイタリア映画全般に対する透徹した眼差しが窺える。
2. 國分功一郎 『スピノザ――読む人の肖像』(岩波書店)
國分功一郎氏と言えば一般読者向けの書籍で話題を呼んだ哲学者というイメージがあるが、彼が非常に精緻な研究を行う篤実な研究者であることを忘れてはならない。本書も17世紀オランダの哲学者スピノザの思想を綿密に読解しており、その細かさは新書の枠組みを大きく超えている。本書を最後まで読めば、氏のこれまでの著作とスピノザの関係性が明らかになり、氏が一貫してスピノザを基に思考を構築して来たことが明らかになる。このぶれない姿勢に、多くの読者は感銘を受けるのではないか。
3. 蓮実重彦 『ショットとは何か』(講談社)
すでに数十冊に亘る書籍を刊行した映画批評界・フランス文学界の大御所が、85歳を超えた現在においても現役で(それも最前線で)活躍しているというのは、それだけでも驚異的であろう。今年は畢生の大作『ジョン・フォード論』(文藝春秋)と並んで、本書が読者に送り届けられた。インタビュー本の体裁ではあるが、「ショット」という概念を中心テーマに、様々な映画理論が縦横無尽に語られ、その不完全性が槍玉に挙げられる。とりわけ、ドゥルーズの『シネマ』を批判する箇所は圧巻である。
4. 後藤美和子 『評伝ジャック・ヴァシェ』(水声社)
シュルレアリスムの時代、ブルトンに多大な影響を与えたことで知られるジャック・ヴァシェ(1895-1919)の評伝が日本語で読めることになるとは、恐らく誰も予想していなかったのではないか。著者である後藤氏は数冊の詩集を刊行した詩人であると同時に、ダダ、シュルレアリスム関係の重要な文献を翻訳刊行した仏文学者でもある。本書の刊行により、日本におけるシュルレアリスム研究は間違いなく新たな段階に入ったと言えるのではないか。
今年読んで印象に残っているのは、イ・サンクム 『半分のふるさと』(福音館文庫)、ミハイル・セバスチアン 『二千年前から』(フランス語訳、Stock)、島崎藤村 『夜明け前』(岩波文庫)ですが、いずれも古い本です。今年刊行された本のなかでは、次の3冊を挙げます。
・山上浩嗣 『モンテーニュ入門講義』(ちくま学芸文庫)
私がフランス文学史の授業で『エセー』を紹介するときに、とっておきの言葉として最後に読ませる箇所(”vivre à propos”)を、この本ではまず最初に持ってきていました。やはりここが読みどころなんだなと安心するとともに、私が読み飛ばしていた興味深い箇所にも目を開かれました。
・林志弦 『犠牲者意識ナショナリズム 国境を超える「記憶」の戦争』(澤田克己訳、東洋経済新報社)
愛国的ナショナリズムというと、つい勇ましいかけ声を想像しがちですが、犠牲者意識において国民の記憶を統合しようとする動きもあります。本書は韓国、ポーランド、イスラエルを中心に、犠牲者である側面を強調することで加害者でもあったことを相殺しようとする心理的操作を批判します。「犠牲者意識ナショナリズムが危険なのは、加害者を被害者にするだけでなく、被害者の内にある潜在的な加害者性を批判的に自覚する道を閉ざしてしまうからだ。」(p. 235) この考え方は、ロマン・ガリを思わせます。
・石井光太 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)
表現力のある子供とそうでない子供の格差が広がっていて、それがコミュニケーション能力を左右し、労働者としての能力に差をつけ、経済格差として固定し、拡大再生産される構造になっている、と著者は言います。「国語力」という言葉はあまり適切ではありませんが、言語表現の手段が足りないこと自体が、一つの暴力として作用するということに思い至り、あらためて文学(レトリック)の社会的な役割について考えさせられました。
高橋源一郎 『ぼくらの戦争なんだぜ』 朝日新書
ここで前年、半藤一利・加藤陽子・保坂正康『太平洋戦争への道 1931-1941』を紹介したのだが、2022年、「戦争」が世界中で現在進行形の出来事として報じられることになるとは、想像もできなかった。本書は、もちろんウクライナ戦争勃発以前から企画、連載されたものをまとめた本。その内容を少し詳しく紹介すると—
ナチスドイツがもたらした未曾有の戦禍に対して「その事実を忘れ去るということはまさしく犯罪である。」と書いた哲学者カール・ヤスパースの言葉を引用しているフランス・ドイツの共同編集の教科書と、日本政府の公式見解と相違する内容を書けない日本の教科書との比較。
高村光太郎をはじめとする、戦中の「オールスター詩人」たちを集め、国威発揚の目的で編まれた『詩集 大東亜』と、戦場で戦った兵士六人の詩作品を集めた『野戦詩集』との比較・検討。
戦前スタンダール研究家としても知られた大岡昇平の『野火』の再読。戦後文学の金字塔といってもよい同作品を再度検討し、高橋はこう書いている。「本当は、ぼくたちはみんな、大きなものに巻きこまれたいのかもしれない。/『野火』には、そのことの途方もなく大きな苦しみが描かれている。」
また、戦時という非日常の中で「日常を手放さないことの強さ」(p.308)を向田邦子、林芙美子、古山高麗雄の作品に読む。
そして最終章、戦前、戦中、戦後を通して作品を生み続けた太宰治もまた再読の対象となり、「太宰治は『戦場』の作家だった。」と再定義される。
日々、戦地ウクライナからのニュース映像に触れ、安全保障の専門家たちの言葉に耳を傾ける以上に、日本人だけでも三百万人以上の犠牲者を出した、昭和の戦争を生きた作家・詩人たちの残した言葉を読み、考えることの大切さを、今あらためて教えてくれる一冊。
梯久美子 『この父ありて 娘たちの歳月』 文藝春秋社
九人の著名な女性教育者、歌人、詩人、作家たちの評伝。日経新聞に週一回連載された文章をまとめたもの。一人の女性に当てられた文章は多くても紙面4、5回分で、評伝といっても大部なものではない。九人の中には、あの角川書店創設者、角川源義の娘で、今年話題になった映画「ラーゲリーより愛を込めて」の原作『収容所(ラーゲリー)からきた遺書』の作者辺見じゅん、つい先日訃報に触れた、近代史家渡辺京二がその創作を長年支えてきた石牟礼道子も含む。
梯がいう「近い目」で捉えられた、多くは明治・大正時代に生を受けた父親たちのそれぞれのエピソードも端的に面白いのだが、時に娘たちを愛し、時には娘たちにだらしなく支えられ、また憎まれる、ふた時代以上前の父なる存在の大きさが印象深い。
本書で明らかにされるのは、ある時代を生きた男たちの姿でだけではない。その父親たちの生き方を捉え直した、娘たちの愛すべき苦闘の跡が、著者によって慈しむように辿られている。「あとがきにかえて」から梯の言葉を引いておく。
「成熟した目と手をもつ彼女たちが父親を書くことは、歴史が生身の人間を通過していくときに残す傷についても書くことであった。この九人は、父という存在を通して、ひとつの時代精神を描き出した人たちだったとも言えるだろう。」(p.270)
Annie Erneau, L’écriture comme un couteau Entretien avec Pierre Yves-Jeannet, 2003, éd.Stock.
本来なら2022年出版の注目すべき書籍を紹介すべきなのだが、ここは、今秋フランスで初めて女性の書き手がノーベル文学賞の栄光に輝いた慶賀に免じてお許しいただきたい。
本書は今世紀初頭に、ニューヨーク在住の作家と交わした往復書簡(といっても電子メールだが)をまとめたもの。主にジャンネがアニ・エルノーの諸作品の創作の背景について問い、エルノーがそれにかなり率直に応えている。もちろん文学教員でもあったエルノーは、作者自らが作品を解説することの後付けの危うさ(la rationalisation à postériori)も十分自覚している。その健全な批評精神を前提として、作家自らが語る創作の舞台裏は十分に興味深い。
父親をテーマに据えた『場所』(堀茂樹訳、早川書房、1993)を境にして、従来の「小説」から距離を置き、ときに「臨床的」(ジャンネ)、「白い」(ロラン・バルト)、「平板な」などと称される文体によって「社会的な自伝」を綴るようになった経緯。また、彼女にとって書くとは、「世界のあり方や変化を暴いたり、逆に既存の社会的、精神的秩序を強化したりする政治的な行為なのです。」といった発言。そうした言葉に、まるで実際の作家の声がともなったような語りによって触れることができる。
エルノーが、階級移動が容易ではないフランス社会の庶民階層の出身であることは、その作品を通して明らかにされているが、その自身の出自と、作家として書くことの業の深さの関係も率直に語られている。「庶民階級から逃れてきたことによる罪悪感は決定的だったと思います。けれども、その罪悪感がわたしが書くことの根本にあった一方で、書くことこそが、その罪悪感から私を解放してくれたのです。」
またこんな言葉も。「わたしにとって物事を本当に生きるには、それを生き直すことが必要なのです。」つまり、一度実際に身に降りかかった経験を書き、再現前化することによってようやく、それは作家にとって「生きた経験」となると語られている。それこそが作家の、広く表現者の定めであろう。
高等教育において、イノベーションやデータサイエンスといったカタカナが大手を振っている今日、地道に文字を追う文学などに興味を覚える学生は極めて少数かもしれない。それでも、フランス文学に触れてみたいという、大学の二年生以上向けの教材として、本書は打ってつけでないかとも思う。
ルシア・ベルリン 『すべての月、すべての年 ルシア・ベルリン作品集』(講談社)
評価の高いルシア・ベルリンの短編集をようやく読みましたが、どの一編も強力で衝撃を受けました。波乱万丈の自身の生涯の断片を、感情に流されることなくハッとさせる形に切り取るその手腕は誰にも真似できないものだと思います。先に出た短編集に入りきらなかった作品を集めたものですが、まったくサブとは思えない秀作ぞろいでした。
今村夏子 『とんこつQ&A』(講談社)
待望の新作はさらにパワーアップした感があり、いつもながらの平易なことばで語られるのはこちらが予想もつかないような話ばかり。笑いもあれば、切なさも悲しみもあり、ホラーでもある。コミュニケーションの物語をいろんな形で伝える今村さん、やっぱり大好きです。
パトリック・モディアノ 『1941年。パリの尋ね人』(作品社)
(今年出た本ではありませんが‥)
それまで戦争を扱ったあいまいで謎のような物語を書く作家、というモディアノのイメージが大きく変わった作品。同じ時期、ほぼ同じ場所で生きた少女の行方をたどる記録ながら、推理小説のようでもあり、自身の回想録でもあって単なるノンフィクションとしてはおさまらず、最後の感動的な一文をもってすぐれた文学作品へと化していくさまは、読んでいて鳥肌が立ちました。読書会で読む機会を与えていただいたことに感謝です。
2020年、Twitterに新刊情報を流して反響のあったフランス関連本を紹介します。
『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』 シャルル・ペパン著
2022年最も反響の大きかったフランス本。フランスの人気哲学者が、プラトンからサルトルまでの西欧哲学者10人をコンパクトかつ通史的に紹介したベストセラー教科書。初心に帰りつつ、すらすら読めた。近所のブックカフェのスタッフに何かおすすめの本はないかと聞かれ、これを推薦したらすぐに棚に入っていた。1月発売。
『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』 坂本尚志著
坂本さんは『バカロレア幸福論』(星海社新書)の著者でもある。哲学を基礎に据えるフランスの教育制度を通して、フランス人は「思考の型」を身につけ、自ら考え、表現するが、それをモデルにした実践的哲学入門。「ビジネスや組織で考えることの重要性を痛感している人にお勧めの哲学書」(amazon)とあるが、哲学とビジネスを結びつける「山口周」的な目配りも。
『現代思想入門』 千葉雅也著(講談社現代新書)
現代思想のエッセンスをかつてない手法で書いた「入門書」の決定版も出た。デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカン、メイヤスー。千葉雅也による現代思想のパースペクティブ。上記の『10人の哲学者』と『現代思想入門』は高校生や大学生に贈るといいかもしれない。実際に4月から大学生になった息子に贈ってみたが、読んだ気配がない(笑)。
『異常 アノマリー』 エルヴェ ル・テリエ著
『夜の少年』 ローラン・プティマンジャン著
小説はこの2冊。前者はゴンクール賞受賞作にして、アメリカのミステリ界で年間ベストと評価されている。フランスで110万部突破。2月発売。後者は、フランスの書店員・司書の口コミで人気が広がり、「高校生が選ぶフェミナ賞」をはじめ、数多くの文学賞を受賞。5月発売。
『嫉妬/事件』 アニー・エルノー著 (ハヤカワepi文庫 )
今年のノーベル文学賞を受賞したエルノーの作品の文庫化。「事件」は中絶が違法だった時代のフランスで、妊娠してしまった大学生の苦悩と葛藤と、闇で行われていた危険な堕胎の実態を描く。『あのこと』として映画化され、今年日本でも公開された。10月発売。
『気狂いピエロ』 ライオネル・ホワイト著 (新潮文庫)
意外だが、ゴダール映画の原作とされる幻の小説が日本で初めて翻訳。4月発売。
『ワイン知らず、マンガ知らず』 エティエンヌ・ダヴォドー著(BD)
ワインを知らない漫画家(BD作家)とマンガを知らない醸造家の出会い。ワイン造りに興味を持った漫画家のダヴォドーは、有機農法によるワイン醸造家リシャール・ルロワに、一年間の密着取材を依頼することから始まる、ワイン造りのドキュメンタリー。7月発売。
ローレンツ・イェーガー『ハーケンクロイツの文化史』(青土社)
今年(2022年)は、いろんな分野で、~以前への関心を見聞きした。モダン以前のプレモダンなジャズ、ヘイズコード以前のプレコード時代の映画(初期のジョン・フォードもここに分類される)、そして、本書に扱われているナチス以前の鉤十字。とはいえ、本書は、歴史家による手堅い研究書でもなく、もう少しやわらかい。著者は、学位をもった文芸評論家で、アドルノやベンヤミンなど思想家の伝記を書くかたわら、本書を含め、特異なトピックにもとづくヨーロッパの精神史をいくつか書いていて、知日派でもあるが、さらに新右翼とも一定の接点があった人物で、その辺の注意点は、歴史学者の訳者による「解説」にくわしい。
鉤十字は、1870年代まで、簡潔に紹介される記号とその名称でしかなかったが、シュリーマンがギリシアで見つけた美術品のなかで多数用いられており、それについて彼が問い合わせたフリードリッヒ・マックス・ミュラーが、それはインド由来の「スヴァスティカ」であって太陽の象徴だと教える一方、フランスの考古学者ヴュルヌフはそれを、きりもみ式の火起こし器の象徴で、生殖行為を暗示すると考えるが、いずれにせよ、そこに当時の民族至上主義運動のバイアスが次第に加わって、「アーリア人のしるし」となってゆく。
本書は、文芸評論家の作品だけあって、神智学のようなオカルトから、美術や文学における鉤十字の取り扱いにも多くのページが割かれ、さらに知日派だけあって、谷崎潤一郎の『卍』にまるまる一章が割かれている。鉤十字をめぐって、いろんな文化事象がつながってゆくところに強い刺激を感じた。
ハスランガー、ジェンキンズ他『分析フェミニズム基本論文集』(慶應義塾大学出版会)
現在、フェミニズムは、SNSを用いたオンライン・アクティヴィズムが盛んな第四の波の時代だと言われる。フェミニストを名乗るツイッターアカウントがこれほど多く存在することは注目に値する一方で、そうしたアカウントとその敵対者が繰り広げるSNS上の言葉の応酬を見て、殺伐とした気持ちになる人も少なくあるまい。
個人的には、フェミニズム、さらにはジェンダー・スタディーズの成果をきちんと定着させるには、平明な言葉と堅実なロジックという意味で、(2022年に邦訳が出た『トランスジェンダー問題』での訳者・高いゆと里と解説者・清水晶子のタッグのように)社会学者だけでなく哲学者のコミットが必要であろうし、また心理実験など定量研究の蓄積によってバイアスの特定と解決策の検討を進めてゆくべきではないかと考えている。
その意味で、本書の刊行は意義深い。本書は、分析哲学の世界で重要な参照点となる「分析フェミニズム」の基本論文を、日本の編者が集めたアンソロジーである。ちなみに、『分析哲学基本論文集』や『分析美学基本論文集』は勁草書房から出ているが、本書は慶應義塾大学出版会から出ている。三部構成で、第一が「ジェンダーとは何か」、第二が「性的モノ化」、第三が「社会的権力と知識」で、かゆいところに手の届くセレクションである。
ジェラール・ジュネット『メタレプシス:文彩からフィクションへ』(人文書院)
訳者からご恵投いただいた本なので、最後に置くことにした。内容の点では三冊の並びは順不同である。
最近のフランス文学研究は、その堅実さゆえに弱点もある。作家研究は、時代を通じた作家や作品のつながりより、作家の生きた時代や社会とつながりが強い。19世紀後半に活動した作家の研究に従事すると、その作家周辺と19世紀後半にはくわしいが、それ以外の文学には疎くなりがちだ。大学での需要はたいていフランス(語圏)文化論なので、ますますそういう研究スタイルが強化されている。そして、こういうスタイルが、正直、文学の楽しみを伝えるにはあまり向いていないと考える筆者としては、ジュネットのようなジェネラリストが、縦横無尽に古今東西の作品を参照する本書の魅力には抗いがたい。
メタレプシス=転説法と聞くと、ナラトロジーを学んだ世代にとっては懐かしいのではないか。『物語のディスクール』が、文法書さながらに、語りを時間・叙法・態に分けて研究する中、態の一環である「語りの水準」の議論で、その違反として位置づけられたメタレプシス。ジュネットは、プルーストの語り口にメタレプシスを認めているが、それ以外にも、コミック版のデッドプールが、自分たちをコミックとして描いているはずの作家を殺しに行くのも、映画『バトルロワイヤル』で北野武や竹内力が役者名で登場するのも、『独裁者』で主人公を演じていたはずのチャップリンが、最後に本人として演説をするのもメタレプシスに含まれるだろう。いわゆるメタフィクションに類するこの技法に本書は特化して論じられている。
それだけでも面白いが、筆者にとっては、フィクションの哲学の見地からも興味深い。ジャン=マリー・シェフェールは、ジュネットによるフィクションとディクションの区別を踏まえつつ、フィクションの方に特化して理論を組み立てたわけだが、ジュネット自身は、「文彩からフィクションへ」という副題とメタレプシスという用語の選択そのものが示すとおり、ディクションとフィクションを(かなり粗雑な仕方によってだが)もう少し連続的に捉えている。この点については、フランソワーズ・ラヴォカのような研究者による批判もある一方で、シェフェールも(だいぶましだがウォルトンも)十分に汲み取っていない文彩とフィクション、さらには詩とフィクションの関係に触れているようでもあって、感慨深い。
なお、ジュネットの語りもたいへん面白いのだが、本書は、「訳者解説」も素晴らしい。ジュネットが事例に挙げる作品の説明があちこち間違っているところ(ジェネラリストらしい弱点)をていねいにファクトチェックしつつ、映画やマンガまで含めたメタレプシス研究の現在が素描されている(訳者自身はこれでもまだ論じ足りない様子だったが)。個人的には、ビデオゲームとメタレプシスなんかはかなり論じ甲斐のあるテーマだと思っている。余談だが、「遊刊エディスト」というウェブサイトで、松岡正剛の門下生らしき人がメタレプシスについての連載記事を始めたようだ。
【付記】
上で挙げたほかにも、冒頭で示唆したとおり『文学界』の「JAZZ×文学」特集の第二弾なんかも楽しく読んだし、一緒にワークショップをしたことのある訳者がノエル・キャロルの『ホラーの哲学』の邦訳を刊行したし、小熊英二が『日本社会のしくみ』を新書で出したし、『快楽の仏蘭西探偵小説』という大著も出たが、この辺りは自分のなかで消化しきれなかったのでまた別の機会に。
心動かされる本との出会いは今年もたくさんあった。思いつくまま3冊を上げてみる。
『看護師に「生活」は許されますかー東京のコロナ病床からの手記』木村映理(eleking books )
2020年1月から今に続くコロナウィルス感染症との日々について綴った一冊。作者は現役の看護師で、今第8波の只中にいる。激務の合間楽しく飲んだくれる日々を送ってきた作者の日常は、未知の感染症の流行により激変する。誰も「正解」がわからないまま押し寄せる患者を看護し刻々と変わる状況に翻弄され続ける自分の生活と内面を作者は冷静に見つめ、繊細な感覚でキャッチした微妙な細部を静謐な声で言葉にしてゆく。この本のおかげで、情報や細切れの映像としてしか知り得なかった「現場」とようやく繋がり、連呼された「逼迫」のリアルに肌感覚で近づくことができたように思う。
「一方的な賞賛」と「厄介もの扱い」という世間の医療従事者への真逆な態度についても「受け止めた側」の立場からクールに分析(「医療従事者に感謝!」というスローガンに感じてきた居心地の悪さの謎が解けた)。その一方で、作者を含む医療従事者から世間に対し発信された言葉の危うさについても踏み込んでゆく。
医療従事者も、そうでない人もみんな大変。それぞれに守るべき暮らしがあり、先も見通せない。だから細かいことに目をつぶり、互いを理解しあうことを放棄し、自分に都合のいい見方に乗っかってしまいがちだ。しかしそれでいいのだろうか?最前線でもみくちゃにされつつも自分の中に生じたざわめきや疑いに向き合わずにはいられない。作者のそんな真摯な姿勢がこの本に特別な力を与えている。パンデミックが過去となる頃には、様々な立場からあの頃を回想・考察した本が出版されるだろう。しかし、渦中の作者が時に自身の過去の痛みも晒しぎりぎりまで省察したこの本は特別な存在であり続けると思う。
『イリノイ遠景近景』藤本和子(ちくま文庫)
帯の惹句「どこを読んでも面白いエッセイの傑作!」の通り、個人的にはブルース・チャトウィンの『どうして僕はこんなところに』に比肩する一冊。アメリカはイリノイのど田舎のドーナツ屋やスポーツジムのジャグジの中、シェルターの事務室、ワシントンDCやベルリンの街角、インディアン居留地で作者が出会い、拾い集めた人々の言葉が散りばめられている。そしてどの言葉も、読者を未知なる世界へいざなう。へえーっ、ほおと一つ読み終えた時には何かを一つ深く学んでいた。そんな読書体験を約束してくれる一冊なのである。
語り口のたくみさ、さりげなく織り込まれた知識の分厚さに加え、作者その人の存在感もこの本の魅力。好奇心と物事を捉える確かな目、荒天をものともしないフットワーク、真面目さ。端々ににじみ出るそんなお人柄にも魅了されるが、何より動かされたのは直接的/間接的に出会った人について、自分が受け取ったそのままを余すところなく伝えたいという作者の情熱だ。だから書くことがためらわれるような事からも決して目を逸らさず書き綴る。一歩も引かない作者のそんな熱い思いが、30年前に書かれたこの本を今もみずみずしいものにしている。
『大邱の夜、ソウルの夜』ソン・アラム(ころから)
2022年に見た映画で印象に残ったのは、韓国の女性監督の作品『はちどり』だった。かの国で女子でいることのとてつもないしんどさと、私なりに生きようとする主人公とその周辺が繊細に描かれていた。その流れから、この韓国産のマンガを手に取った。
クリエイターの端くれとして生きてゆこうとあがく地方に住むヒロインと、彼女と共にソウルで夢を追う女友達。婚家とか実家の親とかこの国ならではの女性をめぐるしんどさなどに絡め取られ、思い描いた未来にはたどりつけない。二人のたどった年月がリアルな断片の積み重ねと丹念な描き込みで描かれる。「色々あって…」をサバイブした二人のたくましさにも救われる。生きてりゃいいさ、というよくあるフレーズも、一理あるのである。
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