「14歳」と向き合った澤地久枝さん 「あなたたちは何も知らない」
作家の澤地久枝さん(92)には「語りたくない人生体験」があった。現在の中国東北部にあたる旧満州で過ごした幼少期の出来事についてだ。
その体験を「14歳(フォーティーン)」というタイトルの著書に記した。当時の自身と同じぐらいの若い世代に対し、言っておきたいことがあったからだという。ただ、あとがきには「思いは伝わっただろうか」という自問の言葉も残した。出版から8年となる今年5月、澤地さんは長野県飯田市を訪れた。
10代を前に「語りたくなかった体験談」を話し始めた
東京の自宅からやってきたのは講演のためだ。市内の公民館には昭和史の第一人者の言葉を聞こうと110人ほどが集まっていた。前方には小中高生や大学生ら約20人が座った。澤地さんは話を始めた。
澤地さんは東京生まれ。4歳だった1935年、父親の仕事の関係で満州の新京に渡った。小学1年の途中で吉林省に移った。一家は赤れんがの社宅に住んでいた。
同じ社宅でも一戸建てや1棟が2戸に仕切ってある家など、格差があった。澤地さんの家は1棟に4戸。中国の人たちは離れたところで、灰色のれんがの平屋に住んでいた。
43年に4年制の吉林高等女学校に入学した。同級生に満州国高官の孫だという子がいた。白飯だった澤地さんの弁当に対し、その子の弁当には粉を練って焼いたようなものが入っていた。満州特産の大豆と、日本人の友達の砂糖とを交換していることもあった。
満州は日本のほかに朝鮮、漢族、満州族、蒙古族の「五族」が共に暮らす「五族協和」と言われた。だが、日本人とほかの民族の人たちとでは住む場所も配給の中身にも違いがあった。
記事後半では、澤地さんがかつて過ごした旧満州を同時代に経験した人との対話の様子を紹介します。
戦地に届くはずもない非常食作りを競い合った
43年5月の晴れた日、朝礼で戦況報告のため1人の男性教師が登壇した。ひそかに心ひかれていた少女は澤地さんだけではなかった。
その教師は「アッツ島で我が…
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