ロシアのウクライナ軍事侵攻によって、世界は今、米国が広島、長崎に原爆を投下して以降、初めて核兵器が実戦使用されるかもしれないという事態に直面している。
かつての冷戦時代、ソ連と米国は競って核兵器を増やした。1980年代後半、「核戦争に勝者はない」との認識で合意し、初の核軍縮と冷戦終結に導いたのが、ソ連書記長だったゴルバチョフ氏(91)と故・レーガン米大統領だった。
それから30年余りを経て起きた今回のウクライナ危機。大きな要因の一つが、旧ソ連に対抗する西側の軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大である。
冷戦終結後、ソ連と東欧諸国が加盟していたワルシャワ条約機構は91年に解体された。
一方、冷戦終結時に16カ国だったNATO加盟国は、90年に統一された東西ドイツのほか、99年に旧ワルシャワ条約機構加盟国のチェコ、ハンガリー、ポーランドが加わるなどし、現在は30カ国まで拡大した。
旧ソ連を構成していたウクライナもNATO加盟を希望し、NATO側は2008年に将来的な加盟を認めることで合意していた。
NATOの東方拡大を、ゴルバチョフ氏はどう見ていたのか。
ゴルバチョフ氏は18年に出版した回想録「ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で」(筆者訳、朝日新聞出版)で、「NATO拡大について」の項目を立てている。詳細は後に紹介するが、まずはNATO東方拡大の危険性を指摘していた米国の専門家たちの意見に触れておきたい。
生かされなかった「警告」
かつてソ連大使も務めたジョージ・ケナン氏は、98年5月のニューヨーク・タイムズ紙でこう述べた。「私はそれ(NATOの拡大)は、新たな冷戦の始まりであると思う。ロシア人は強く反発するだろうし、ロシアの政治にも影響を与えるだろう。それは悲劇的な過ちだ」
この発言を自著「核戦争の瀬戸際で」(松谷基和訳、東京堂出版)の第20章「途切れたロシアとの安全保障の絆」の中で引用しているのが、90年代のクリントン政権時代に国防長官を務め、NATO拡大に慎重な姿勢をとってきたウィリアム・ペリー氏だ。
ペリー氏は、「核兵器なき世界」を掲げたオバマ元大統領に影響を与えた「4賢人」の1人だ。共著「核のボタン」(田井中雅人訳、吉田文彦監修・解説、朝日新聞出版)の中でこう述べている。
「冷戦終結とソ連崩壊は米国にとってまれな機会をもたらした。核兵器の削減だけでなく、ロシアとの関係を敵対からよいものへと転換する機会だ。端的に言うと、我々はそれをつかみ損ねた。30年後、米ロ関係は史上最悪である」
米軍将校から歴史家に転じたアンドリュー・ベースビッチ氏は自著「幻影の時代 いかに米国は冷戦の勝利を乱費したか」(METROPOLITAN BOOKS)で、米国が冷戦の勝利を過信して道を誤ったと指摘している。
ベースビッチ氏は20年6月の朝日新聞のインタビューでこう述べた。
「ベルリンの壁崩壊を目の当たりにして、米国の政治家や知識人は古来、戦史で繰り返された『勝者の病』というべき傲慢(ごうまん)さに陥り、現実を見る目を失ったのです」
冷戦後の「米国の覇権」を支えたのがNATOの東方拡大だった。
シュルツ元国務長官ら、冷戦末期にソ連との核軍縮条約交渉の実務を担当した人々は、NATO拡大がセンシティブな要素をはらむことを理解していた。
だが、「お互いに敵とみなさない」との東西和解の合意にもかかわらず、クリントン政権はNATO拡大に舵(かじ)をきった。
ロシアのエリツィン大統領は難色を示したが、駆け引きの末、99年に東欧3カ国がNATOに加わった。
エリツィン氏は、退任後の00年に出した回想録「大統領のマラソン」(AST出版)の中ではこう記している。
「私は世界に向けてこう語った。これ(NATO東方拡大)は誤りだ。新たな東西対立へとおとしめることになるだろうと。残念ながら、その通りになった」
ロシアのウクライナ軍事侵攻という事態は、これらの警告が的中した現実だ。
NATO不拡大の「約束」あったか
NATO拡大をめぐって今でも論争になっているのが、統一ドイツのNATO加盟の交渉にあたり、ゴルバチョフ氏が「NATO不拡大を約束されたのか否か」である。
発端になっているのが、90年2月9日のゴルバチョフ氏とベーカー米国務長官(当時)との会談記録(日本語訳は筆者)だ。問題の箇所は、ベーカー氏の次の文言である。
「もし米国がNATOの枠組みでドイツでのプレゼンスを維持するなら、NATOの管轄権もしくは軍事的プレゼンスは1インチたりとも東方に拡大しない。そうした保証を得ることは、ソ連にとってだけでなく他のヨーロッパ諸国にとっても重要なことだ」
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