昭和を駆けた稀代の名司会者 大橋巨泉

大橋巨泉氏の訃報を受け<『日本の企画者たち』(宣伝会議)岡田芳郎・著>に収録されている同氏の記事を特別に公開いたします。

民放クイズ番組歴代1位を記録

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大橋巨泉さんのWebサイト

大橋巨泉(1934年~)は、強い個性を持ったマルチタレントである。放送作家としてキャリアを積み、数多くのテレビ番組の司会者として人気を集めた。陽性のエネルギッシュなキャラクターと、相手を自分のペースに巻き込む押しの強さと才覚で、それまでにない存在感を発揮した。

『11PM』(日本テレビ)は、1966年4月から巨泉がはじめてテレビ司会者として活躍した番組である。マージャン、競馬、釣り、ボウリング、ドライブなど趣味の楽しさを伝える、巨泉のテイストにピッタリの遊び心にあふれた番組で、たちまち番組の顔ともいえる存在になった。「野球は巨人、司会は巨泉」というキャッチフレーズを使い、朝丘雪路との名コンビがユーモラスで楽しい雰囲気を醸し出した。

巨泉は記している。「『11PM』は僕をタレントにし、僕の生活の一部になってしまっている。忘れられないのは、1968年3月31日に、米国のジョンソン大統領によって北爆停止命令が突然出された時、その晩急遽プログラムを変更してナマの強みを見せた」。これは『11PM』が単なる遊びの番組ではなく、〝夜のニュースショー〟の性格を持っていることの証だった。

この成功で〝巨泉・考えるシリーズ〟が始まり、性教育や社会福祉などのテーマが取り上げられた。エンターテインメントだけでなく時に社会性・政治性のある硬い話題も取り上げる幅の広い番組になっていき、「政治からストリップまで」がスローガンになった。

『11PM』の司会が軌道に乗った1969年、巨泉の大ヒットCM[ハッパフミフミ]が生まれている。この年、「大学・ 高校生から見た司会者ベストテン」で大橋巨泉は1位になっていた。2位芥川也寸志、3位三橋達也、4位玉置宏、前田武彦と続く。パイロット萬年筆は当時経営不振で800人に上る解雇が予定され、会社と組合は対立していた。そういう切羽詰まった状況でのCM制作だった。

当初予定していた台本を見て巨泉は、「これで会社立て直せるの?」と広告会社担当者に聞き、俺のアドリブでやらせてくれと提案した。スタジオにはセットも何もなく、ホリゾントに譜面台とスツールだけがあり、そこで撮影をはじめた。

「みじかびの、きゃぷりてぃとれば、すぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ」と言ってその後に「解るね」と付け加えた。みんなキツネにつままれたようだったが、結局、このナンセンスな言葉遊びのCMが採用された。パイロットは賭けに出たのである。

「はっぱふみふみ」は話題になり、万年筆「パイロットエリートS」は爆発的に売れ、業績は回復し、800人の首はつながった。数ヵ月後のパイロット社の「感謝パーティ」で社長から巨泉は感謝状と記念品を受け取ったが、そのあと組合委員長からも感謝の辞が贈られたのにはさすがの巨泉も驚いたという。

1本のCMが企業を立ち直らせた稀有の例であり、新聞、雑誌などの記事に取り上げられたもっともパブリシティ効果のあったコマーシャルだった。常識的な広告のセオリーを覆した、大橋巨泉の個性と機知が大衆の心を動かしたのだ。

『クイズダービー』(TBS)は1976年1月3日からスタートした巨泉の代表作の一つだ。巨泉が毎夏滞在するカナダで見たテレビ番組「セレブリティ・スウイープステークス(有名人競馬レース)」をヒントに発想した。

カナダの番組は6人の解答者が学者、スポーツマン、コメディアン、グラマー女優などとキャラクターが決まっていた。問題が出ると倍率が出て、学術問題だと学者が2倍で女優は60倍と出る。だが意外にもその女優が正解で大穴になったりするのである。しかし番組最後に(解答のうちのいくつかは、前もって出場者に教えてあります)と書いてあり、ヤラセをしてもいいという仕組みがわかった。

巨泉はその仕組みを逆手に取って、絶対に八百長のないクイズ番組をつくろうと考えた。

番組がスタートして最初はあまりの低視聴率にTBSは中止も考えたが、スポンサーのロート製薬が継続を希望し、テコ入れして構成を単純にした。巨泉は勝敗よりも番組をおもしろくすることに集中した。解答者には、問題が解らなかったら、ただ「解りません」と書かず、何かおもしろい答えを書いてほしいといった。

「宇宙人・はらたいら」「大学教授・篠沢秀夫」「三択の女王・竹下景子」などのレギュラーの魅力と、後に直木賞作家となる景山民夫をはじめ10人の優秀な作家がつくるクイズ問題のおもしろさ、そして司会の巨泉のリードで勝負し、やがて視聴率平均30%を超える茶の間の話題になる人気番組になった。

1979年6月30日放送は40・8%と民放クイズ番組歴代1位を記録し、まだこの記録は破られていない。『世界まるごとHOWマッチ』(TBS・毎日放送制作)は、1983年4月7日から放映した番組だが、巨泉は最初持ち込まれたこの企画に乗り気ではなかった。

まずタイトルが漢字、ひらがな、英語、カタカナと入り交じっているのが気に入らない。巨泉は学生時代俳句に凝っていたほど言葉や文字には気を使う。世界中から問題を集めるプライス・クイズだが、解答者の枠の考え方も陳腐だった。そこで巨泉は徹底的に注文を出し、レギュラー解答者に芸能界随一のインテリで雑学博士の石坂浩二と、お笑い芸人だが教養のあるビートたけしの2人を起用することを条件に司会を承諾した。

巨泉は、クイズの形式を借りたトークショーにするつもりだった。だから喋りの上手い2人が出れば話はいくらでも膨らむと考えたのだ。

まずオープニング・ ジョークで番組をはじめることにして、作家にも協力を依頼した。クイズ問題におもしろいストーリーやトリックを作ることを大事にしたのである。この時49歳、巨泉は50歳でリタイアすることを考えていたため1年契約で番組をはじめたのだが、結局6年間も継続させたのはビートたけしに会ってあまりに楽しかったからだと後に語っている。そしておもしろさという点では手がけた番組の中で一番だったかもしれないという。

巨泉のテレビタレントとしての集大成は、1987年10月から2年間放送した『巨泉のこんなモノいらない!?』(日本テレビ)である。第1回のテーマは「NHK」。これは刺激が強すぎると日本テレビ内でもめたが、巨泉が押し通した。

55歳で引退を決めていたため、恐れるものはなかった。「国境」「憲法」「首都」などの大きいテーマから「血液型性格診断」のような生活に近いテーマも含め、さまざまな事柄が綿密なデータをもとに主張された。

日本の高校入試問題を現役アメリカ高校生が解いたら、ほとんど50点以下しか取れなかった事実を基に問題提起した「英語教育」は、社会的な反響を巻き起こした。2年間で100本制作し、1989年9月に終了した。

巨泉は自身の代表作を1本選ぶとしたら『こんなモノいらない!?』だと語っている。

結局、1990年3月、大橋巨泉は赤坂プリンスホテルで記者会見を行い、「56歳になったし、司会業はいつまでもやるものではないので身をひくことにしました」とセミリタイア宣言をした。『ギミア・ぶれいく』以外のラジオ・テレビのすべてのレギュラー番組を降板すると公言したのである。

「これから何をするのですか?」という記者の質問に、巨泉は「ゴルフ」と答え、「シニア選手権とエイジシュートを目標にする」と言った。「YOU CAN’T HAVE EVERYTHING.(すべてを手にすることはできない)」という考え方、ある時期が来たら後進に道を譲りリタイアする米国人の生き方に巨泉は共感し、この道を選んだという。

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