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【報告】2015年度キックオフシンポジウム「A New Phase of Politics 共生を問いなおす」

2015.05.19 梶谷真司, 中島隆博, 石原孝二, 石井剛, 武田将明, 林少陽, 桑田光平, 村松真理子, 馬場紀寿, 川村覚文, 筒井晴香, 佐藤空, 神戸和佳子, 井芹真紀子, 阿部ふく子, 安部高太朗

2015年5月9日、東京大学駒場キャンパスにおいて、2015年度UTCP上廣共生哲学寄附研究部門のキックオフシンポジウムが開催されました。今年度は、センター長が小林康夫氏から梶谷真司氏へと代わり、また新たに桑田光平、武田将明、馬場紀寿、村松真理子、林少陽の各氏が新しくメンバーとして加わり、新たな体制での出発となりました。まず最初に、新センター長の梶谷氏から挨拶があった後、各Lプロジェクト(L1東西哲学の対話的実践、L2共生のための障がいの哲学、L3 Philsoophy for Everyone)の発表がありました。以下、各プロジェクトからの発表の概要について、報告いたします。

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第一部:L1 東西哲学の対話的実践

第一部は、広州中山大学哲学系の廖欽彬氏による「悪としての国家存在とは何か―京都学派の哲学を手がかりに―」という題の講演であった。廖欽彬氏は、海峡両岸サービス貿易協定をめぐる2014年3月18日の台湾の大規模な学生運動から話を始めた。続いて、柄谷行人のアナーキー論と、台湾の運動家たちとの間の相違(温度差)について、さらに西田幾太郎と田辺元の国家論へと議論は進んだ。柄谷の場合には、国家は超越されるべきものだから、いかなる国家のあるべき姿が描かれてもほとんど意味がない。それに対して、西田や田辺の国家哲学は、現にある国家や政治の革新に興味がある人々にとっては依然として興味深いものであり続けるに違いない。国家はいかにして理性的でありうるのか、という問いに対して、西田は「場所的論理と宗教的世界観」という論文のなかで、逆対応という宗教哲学の論理によって国家のあるべき姿を模索しようとした。西田によれば、国家が成り立つには、国家間の相互限定だけではなく、国家と絶対者との相互否定がなければならない。そのような国家と絶対者との逆対応の関係においてしか、理性的国家が生まれない。しかし、このような議論は田辺元によって徹底的に批判された。田辺は一連の「種の論理」論文よって、自らの社会哲学、国家哲学を構築した。西田とのもっとも大きな相違は、国家と絶対者との間に、媒介者を入れるかどうかという点であった。

いかなるアナーキーの思想にも賛同しない者にとっても、アナーキーの観点は依然として、国家と政治をめぐる様々な問題を考える上での良い出発点となり、これと対置することによって西田や田辺の思想も良く理解することができる。私の理解では、廖欽彬氏はこのような立場を取っているように思われた。その一方で、廖氏は西田哲学と田辺哲学の東洋的 (日本的)な特色やその国家哲学の普遍性を賛美しようとしているわけでも全くないと主張されていた。だからといって、逆に、西田と田辺の国家論が、20世紀のある特異な政治・社会状況から生まれたもので、現代とは関係がないと切り捨てることもしない。西田や田辺の哲学・国家論を分析しながら、台湾を含めた東アジアの政治的状況との接点を探りたい、というのが氏の立場であるように思われる。また、講演は結局のところ、国家とは何か、どのような制度のもとで人はどのように生きることができるのかという根源的な問いを投げかけるものでもあった。

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文責:佐藤空(UTCP)

第二部:L2 共生のための障がいの哲学

第二セッション「共生のための障害の哲学」では、ゲストスピーカーとして松嶋健氏(日本学術振興会特別研究員PD/国立民族学博物館)をお迎えし、「地域を耕す―精神障害と精神医療をめぐるイタリア的アプローチ」と題してご講演頂いた。松嶋氏には昨年11月開催の「ロベルト・メッツィーナ講演会」(/events/2014/11/coorganized_event_lecture_by_r/)にて通訳を務めて頂いたご縁で、今回の講演が実現した。上記講演会と同様、今回もイタリアの精神医療・精神保健がテーマとなっている。

19世紀の成立以降、精神医療の名のもとに患者の強制的拘束や非人間的扱いが許されてきたイタリアの精神病院は、医師フランコ・バザーリアらの尽力によってそのあり方が問い直されてきた。そして1978年の法律180号を契機に、現在に至るまでにイタリア全土の公立精神病院閉鎖が実現した。

その過程で行われてきたのは、非人間化・モノ化されてきた患者に対し、生の歴史を持ち他者との関係性の中で生きる人間としての生を返すことであった。これは単によい治療の実現ということに留まらず、社会にとって不都合な者たちを管理・統制する「施設化の政治」への闘いに他ならない。

施設での精神医療から地域での精神保健へというイタリアの取り組みを通して見えてくるのは、関係性の中で生きる存在としての人間のありようである。松嶋氏はこれをシンポジウムのテーマである「共生」に結びつけて講演を締めくくった。

討議では「施設化」をめぐり、第三セッションのテーマとなる学校教育との共通性、また社会全体の体制順応的なあり方を打破しうる知のありよう等が話題となった。

L2プロジェクトの主要なテーマの一つである精神疾患の話題を通し、関係性の中で生きるという人間の生の基本的な条件が具体性を持って示された、刺激的なセッションとなった。

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文責:筒井晴香(UTCP)

第三部:Philosophy for Everyone

第三セッションでは、L3プロジェクトの「Philosophy for Everyone(哲学をすべての人に)」というテーマの下、「哲学する場としての学校」と題して土屋陽介氏(立教大学)と神戸和佳子氏(東京大学)によるクロス討論がおこなわれた。

土屋氏の報告は、開智中学校・高校で担当している「哲学対話」の授業実践の豊富な経験を踏まえて、哲学対話の基本的立場や意義を力強く提言するものであった。哲学対話の特徴は、カリキュラムに沿ってたえず多くの知識を習得してゆかなければならない通常の学校の授業とは違って、毎日を生きるなかで「あれ?」「おかしいな?」「なんでだろう?」と感じている素朴な「問い」の次元に立ちとどまり、みんなで自由に率直に語り合いながらゆっくりと考えを深めてゆくところにある。

土屋氏によれば、対話を進める上でのコツは、話すことよりも考えることに目的をおくこと、「沈黙があったり、わからないと言ってもOK」、「発言している人の話をよく聞こう」といったルールを設けてみんなが安心して自分の考えを話せるようにすること、また意見よりも質問を大切にする、ということにある。生徒から寄せられた授業の感想のなかには、道徳の授業との根本的な違いを実感したり、自分たちでテーマを考え自由に疑問を出し合って共有してゆくことの新鮮さ、各自の意見を尊重することの大切さを学ぶことができたというものがあった。

神戸氏は、都立杉並総合高校で「児童心理」の授業を担当したこと、またハワイ大学のセミナーに参加した経験が、自身のP4C(Philosophy for Children)研究と哲学対話の実践の出発点になっていると述べた。授業を実践する上で神戸氏が大切にした動機は、子どもの気持ちを「感じる」練習をしたいというもので、これは発達心理学などの研究を通じて児童心理を学問的知識として知る作業とは異なる。また、京北高校で担当する「倫理」の授業では、学習指導要領という制度に沿った既定の内容を扱うなかでも、そのつど「美しいって何?」「〈よい〉って何?」といった哲学の根源的問いを投げかけることに重きをおき、カリキュラムよりも高校生なりの探求の道筋に寄り添った切り口で問いを展開してゆくこと、なおかつそのための手法を掘り下げてゆく必要があることを説いた。

フロアも含めた全体の議論では、学校という場を支配する制度や定まった慣習のなかで、哲学対話がどのような役割を果たしうるかということが主な話題となった。自分の考えを自由に表現する場である哲学対話では、たとえば「普通の」考え方から「外れた」ことを言っても構わない。教師は誰かが「外れた」考えを言ったとしても、その場で一緒に「外れて」みる。また、ともすれば誰かを黙らせてしまう「知識に頼った話」も皆が極力控え、学ぶ主体が自分の考えを「自分の言葉で」表現する場を、教師が、また生徒が互いにサポートする。プラトンの「洞窟の比喩」で言うならば、哲学対話における教師の役割として重要なのは、洞窟から囚人を引っ張り出すことではなく、足枷を外してやることなのである。

L3プロジェクトとしては、学校というひとつの共生の場を、哲学対話を通じて「自由に考える楽しさを学ぶ場」として問い直す、貴重な討論の機会となった。

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文責:阿部ふく子(UTCP) 

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