ナラティヴの現在、最果ての共同体―『最果てのイマ』試論


もし、「現実に生きられた歴史の記憶と主体性の有する非連続的なエネルギー」にふさわしいナラティヴをあたえることができるならば、ネイションを解釈する現世内的な言葉によって、その水平で批判的な眼差しは克服されていくことになろう。私たちが必要としてるのは、エクリチュールがもたらすもうひとつ別の時間なのだ。
――ホミ・バーバ「散種するネイション」――

1
ロラン・バルトが「作者の死」を宣告してから40年以上経過した現在、「作家論」は括弧付のものでしかありえないだろう。それを「作品論」といいかえても、あるいは出来事(歴史)を語ること一般に敷衍したとしても、事情は変わらない。あらゆる言葉は事物や出来事に着陸することなく、どこまでも上滑りしていくように思われる。だが、作者という概念を完全に手放したとき、作品を語ることは出来ても、誰かと「同じ」作品を語ることは出来なくなる。作者とは、作品を読む人々が互いに差異を抱えながら、まさにそのことによって共約性を持つという矛盾に満ちた概念なのだ。柄谷行人が言うように「かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される「作家」が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである」(*1)。
ということは、これはスピヴァクが言うように戦略の問題なのである。唯一利用可能な概念を用いながら、しかもその前提には同意しないという戦略、あるいは作者という概念を用いることで不断に生産される差異を安易に同一性へと還元せず、差異として生き抜くという戦略である。かといって、その差異のなかに安住するのでもない。作品を語ることから作者が生成されるように、言葉が出来事へと生成していくようなナラティヴの現場へと降り立っていくのだ。さもなくば、文学や歴史は現実と何の接点ももたない、「現実の代替物」でしかありえないことになるだろう。
注意すべきは、テクストの読解において我々が互いに差異を抱えているということを、テクストの多義性という一般論として解釈するべきではない、ということだ。例えばジャック・デリダの脱構築は、テクストの決定不能性を定式化したものと考えられがちであるが、デリダ自身が強調しているように(*2)、脱構築は言語の一般理論としてあるのではない。それはむしろ、テクストの正しい意味を追求していくと必然的に挫折せざるを得ないというテーゼのくり返しなのである。思想ではなく、戦略の問題なのだ。それはどこか人間関係にも似ている。私はあなたを理解したいと願っているが、理解したと思った瞬間にわからなくなってしまう。それが本質なのだ。我々は互いに他者である以上、理解し合おうとする試みはくり返し失敗するだろう。
しかし、だからといって「所詮他人のことは理解できない」などと言うべきではない。それもまた権力作用のひとつなのだ(スチュアート・ホールらが言うように、現実世界のなかで、人はある特権的な立場に同化し、まさにそのような立場から他者(差異)と自己との関係性を定め、自己画定を行う。それが分節化という言葉の意味である)。むしろ、こう言うべきなのだ。「私はあなたのことが理解できない。だからこそあなたと話したい」と。我々の使用することのできる言語は確かに差異を生産しつづけるRepresentationではあるが、同時に、言語使用者の意味論的な意図を越えて、現実に作動している「力」すなわちナラティヴでもある。ヘーゲルならばこう言うだろう。「理性的なものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(*3)と。ミネルヴァの梟が飛び立つのを待つまでもなく、言語はつねに・すでに他者へと働きかけ、われわれの現実を構成しているのだ。そのことを忘れ、放った言葉の無力を嘆くことに終始するとき、人は他者を思いやりながら、自らの言葉に責任をとることのないナルシストへと堕落することになるだろう。
前置きが長くなったが、本題に入ろう。
本稿が取り上げる田中ロミオは「他者性」を描く作家である、と言われている。しかし、一般的な理解とは異なり、彼は他者性を好ましく、かくあるべきものとしてのみ描いているわけではない。代表作の『CROSS†CHANNEL』(*4)においても、共依存を徹底的に否定する主人公に対し、登場人物のひとりである支倉曜子はこう反駁している。「相手から何も与えられない……寂しくはならない?」。この問いに対する主人公の返答(「キレイなものを見るのが、好きなんだよ」)は相当苦しい。趣味の問題であり、一般論として語ることは出来ない。だからこそ「寂しさを、どう誤魔化すかは大切なこと」なのだ。そしてもうひとつの代表作『最果てのイマ』(*5)はこのテーマの延長線上にある、と言えるのではないだろうか。


【沙也加】「私たちは互いに他者になれない」
【忍】「……どうして?」
あまりに低く機械的な声調を、忍は自分のものとは信じられない。
【沙也加】「求めて近づけば、結局は一体になるしかない。自分の延長。そして離れれば他者であるが故に、遠く届かず満ち足りない。理想の距離がどこにあるのか、私たちは知らない。今までの、誰も知らない。」
――本堂沙也加編「デート(仮)〜甘酸っぱい何かのために〜」――

主人公たちは他者の存在を欲しながら、それを果たすことができない。つまり、疎外からも疎外されてしまっている。それは確かに、「イマ」という時代を的確に表現したものであると言えるだろう。他者は他者であるがゆえに理解できないず、家族や国家といった同一性は、その本質的な差異を覆い隠すための擬制でしかない。しかし、だからといって安易にそれを否定するべきでもないだろう。他者性が人間の本質ならば、共同性はその本質に基づく、人間の根源的な欲望なのだ。
では、田中ロミオはその共同性をどこに求めるのか。結論を先に言うと、日々のナラティヴの現場にそれが求められることになる。私は言葉を使うことによって他者と、そして私自身とも差異を抱えることになる。それにも関わらず「私たち」という言葉が使えるとすれば、完全な同一性に回収されない、差異を基にした共同性というものを構想することが可能になるだろう。それはナラティヴのパフォーマティブな作用によってのみ垣間見られる、しかし決して現前することのない共同性である。だが、この結論にたどり着くまでにはいくつかの段階を経る必要がある。焦らず、順番にたどっていくことにしよう。

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田中ロミオの描く「イマ」とは、いったいどのような時代なのだろうか。相互扶助計画『家族計画』(*6)――何らかの形で挫折を経験した人々が集まり、再出発を果たすまでを描くこの作品では、しかし、計画そのものは失敗する。また、5つの物語を読み終えたとき、それぞれのヒロインが抱える問題は、半分程度しか解決していない場合もある。マフィア、売春、借金、虐待といったものに関連するエピソードは、読者に「現実は厳しい」という以上の印象を与えることはないだろう。『CROSS†CHANNEL』――この作品の舞台である「群青学院」には、国民国家の振るう統治権力の歪みが集約されているように思う。社会不適合者を隔離し、まさにそのことによって隔離されたものに烙印を押す。心を数値化し、正常と異常の境界線を恣意的に引こうとする。しかし、物語にとってそれはあくまでも背景であり、主題となることはない。諦念をもって悲惨な社会が描かれているようにも見える。
そして『最果てのイマ』。


かつて個人の繋がりが重い時代があった。家族が大切だった時代があった。
互いに報い合う結束が何よりも素晴らしいと断定できた時代があった。
そして今、ひとりひとりが自らの領土を手に入れるようになると……それらの繋がり方は次第に外延に遠ざけられるようになった。
行きすぎた友情は侵略と変わりない。そう叫ばれるようになったからだ。
どこからが侵害で、どこからが絆なのか、判断基準は明らかにはされていない。
自分以外の誰にもわからない。
人が育てた最初の虚無の花は核だが、次に栽培することになったのは自殺の権利である。その萌芽は豊かに狂える世代を土壌として確かに生まれ始めていた。
――伊吹笛子編「白紙委任」――

希望はすべて過去のものになってしまった。核兵器の発明は戦争と破滅をイコールで結び、「希望は戦争」などという甘えを許さない。権利意識の拡大は、個々人の連帯を通した社会変革の可能性を奪った。端的に言えば、それは革命の起こらない世界であると言えるだろう。事実、『最果てのイマ』で描かれる「革命」は失敗し、それ以外の政治に関するエピソードも一様に精彩を欠く。端的にいって、田中ロミオ作品において政治は主題になり得ない。暴力的な革命の可能性がすべて潰えてしまったところから、彼は物語を紡ぎだそうとするのである。「政治の季節」が完全に過去のものとなった現在においては、そのような感覚は多くの作家が少なからず持っていることであろう。
批判することは容易い。この世界は理不尽で満ちていて、制度的な暴力や差別は至るところで行われている。それを「他者は他者であるがゆえに理解できない」という一般論に押し込め、現実的なものとしてあるはずの暴力を「フリークス」として戯画化し、「歴史の終わり」などという冗談を真に受け、世界を変革の可能性などないかのように描く「非政治的」な作品である、と。だが、そのような批判は適切ではない。たしかに革命は全面的な解決になりうるが、それは人々を「国民」という均質性のなかに回収するものでもある。彼が描こうとするのはその反対、異種混淆性の経験なのだ。それは均質性を脱臼させる共同性である。つまり、田中ロミオの議論は、制度的な変革の可能性を追求するのではなく、「私」と「他者」を相容れないもののように描く二項対立的思考を脱構築することで、人間と社会そのものの変容をゆっくりと、何気ない日常のナラティヴの中で推し進めていくものであるとみるべきなのだ。
このように日常を読み替えようとする背景には、物理的な意味で自分たちの置かれた状況の「外部」に立つことがほとんど不可能であるという、ある意味では冷めた認識があるように思われる。そのような認識について考えるうえで、ひとつの館のなかで迷い続ける人々を描いた『神樹の館』(*7)は重要な作品であるといえるだろう。


【紫織】「行き先を求めて辿たどりついた人でも、そのままそこに落ち着いていることなんて、あるものじゃない。また行き先を求め、迷いながら歩きだす。――そう 思えば人の一生は、ずっと迷い続けているようなものではありませんか?それならば、どうせ迷い続けているのなら。本当に好きなところで迷い続けていたいと願うのは、いけないことなのでしょうか」
――『神樹の館』知里紫織編――

むろん、現代において革命について考えることの必要性がなくなったわけではない。しかしここでは、革命の可能性が潰え、現実の外部が消失した状況において人はどのように他者と生き抜いていくのか、田中ロミオの論理とその可能性を追求してみたいと思う。
そのために、なぜ私は他者とともに生きなければならないのか、そもそも他者とは誰のことなのだろうか、という基礎的な疑問に答えることから、考察を始めてみたい。

3
他者とは誰のことか。この場合、私ではない誰か、という定義では不十分である。『CROSS†CHANNEL』においても語られているように、それは共依存、抑圧、投射といった関係から区別されなくてはならない。かといって、私と精神的な繋がりを持たないのが他者、というわけでもない。主人公たちがくり返し述べているように、他者との接触だけが私の心を育ててくれる。つまり、他者を所有することはできないが、他者を享受することはできるのである。逆に言えば、私は他者に対して受動的な存在とされている。
他者とは決して所有できないがゆえに、無限の渇き、癒されない渇望として追い求められると言ったのはレヴィナス(*8)である。他者をもとめる渇望は「友情」として、たとえば握手のような言葉を用いない動作の中で表されるが、握手は意味のない動作であるがゆえに、表現することのできない無限の渇望を表現するという逆説的な意味を帯びることになる。私と他者の関係は、つねに「それだけではないはずだ」という否定のなかで捉えられる。


【忍】「こんなものじゃ、ないはずなんだ。探した、調べた。隅から隅まで。見えた瞬間に。心や絆は、まだこんなものじゃない。もの凄いシステムなんだよ、これは。何か……何かあるはずなんだ。だって人間なんだから。だって魂なんだから。絶対にメスを入れてはいけない、人の手が触れてはいけない領域じゃないか。……沙也加や章二たちに抱く気持ちが、こんな……こんな乾燥したものであるはずがない……」
――本堂沙也加編「デート(仮)〜甘酸っぱい何かのために〜」――

他者は無限であり、正確に捉えることができない。もしそれができたとすれば、その瞬間に他者は他者でなくなってしまう。先の引用部で沙也加が述べたとおり、他者を求めることは一個の矛盾であるとしか言いようがない。
レヴィナスは愛撫を食事の比喩で捉え、愛撫とは他者を決して食べつくせない(理解しきれない)ことを知りながら、それでも渇望する切なさがあらわれる行為だと考えた。さまざまなモード(制度)に基づいた衣服は、私とあなたが何物かを共有していることを示している。愛撫はまず衣服を脱がせることから始まる。それは、汲み尽くせない他者を渇望しているから、ではないだろうか。多くの作品が「愛の完成」の象徴としてセックスシーンを描くのに対し、『CROSS†CHANNEL』以降の田中ロミオはむしろ、挫折を予感させるような台詞をその中に折り込もうとする(*9)。
なぜ所有できないとわかっていながら、他者を求めるのだろうか。『家族計画』のころからその答えは変わっていない。まだ心が成長していない者同士が協力し、心を養うためである。だが、なぜ心を養うのに他者が必要なのだろうか。ここで、これまでの問いは反転されなくてはならない。自己とはどのような存在なのか。自己を構築するうえで、他者はどのような役割を果たすのだろうか。


【沙也加】「もし世界で自分一人だけだったら、忍はどうするの?」
【忍】「難しいね。でも僕だったら……歩くかな」
(中略)
【忍】「今の回答は、自己規定しているだけのものなんだ。僕の内面を観察して、そういう資質が立ち現れてくるわけじゃない。別に自賛しているわけでもないし、性質の問題でもないんだ。僕は、プロープ(調査機)のようなものだ」
――本堂沙也加編「ブチとマルの墓参り」――

ここで忍は、自分は自己の性質を自己規定している、と述べている。だが、このやり取りは物語の序盤に登場するものであり、我々はそれを最終的な結論として鵜呑みにするべきではない。また、『CROSS†CHANNEL』の主人公も、自らの凶暴性を抑えるために普段の人格を「自己規定」していたが、それが最終的には克服されるべきものと考えられていたのは明らかである。
自らの人格を「自己規定」する、という言明には、意識的なものかどうかはともかく、その立脚地となる「人格の外部」とでもいうべきものが想定されることになるだろう。しかし、フーコーが晩年の著作で強調しているように、「自己とは誰か」という問いを発する私自身が権力構造のなかで構築されている以上、自己を自由に規定できる超越的な外部にたつことはできないのである(*10)。
では、何が自らを規定するのか。このような問題を考える上で、酒井直樹(*11)が「日本人」の戦後責任について論じた以下の文章がきわめて示唆に富んでいる。


例えば、韓国からやってきた年老いた女性から、従軍慰安婦制度について詰問されたとき、私は自分が日本人であり男であることを無視できない。私の国民的、性的同一性は、私に問いかけてくる「あなた」が韓国人であり女性であることと相関して限定されてくる。……なぜなら、私と「あなた」との関係は歴史があるからであり、現在する差別は歴史に根をもっているからだ。
――酒井直樹『日本/映像/米国』青土社、2007年、294頁――

唯心論のように私が他者を構成するのではなく、他者が私を構成するのである。私が私であるのは、私が他者との関係のうちにあり、その中で逃れようもなく私であるからだ。他者を所有することによって他者性を奪わないかぎり、私は無限としての他者に呼応しつづけなければならない。そして、その呼びかけと反応のなかでのみ、私は私でいることが可能になるのである。
他者が私の目の前に現れることによって、私が構成され、私と他者は倫理的関係を取り結ぶことができる。しかし、『イマ』を論じるうえで重要な点は、レヴィナスに対してデリダが批判したように(*12)、他者が現れることは、他者に対する私の暴力が開始されるきっかけにもなる、という点ではないだろうか。
『イマ』の主人公は他者を渇望しているにも関わらず、彼の有する絶大な権力によって、他者の現前は即座に暴力の契機へと変化してしまう。むろん、それは主人公ひとりにのみ当てはまる特殊な設定のためではあるのだが、先にも述べたように分節化がつねに権力的な作用であることを考えると、他者を論じるうえで重要な問題を提起しているように思われる。では、いかなる方法によって私は特権的な立場を放棄し、他者と出会うことが可能になるのだろうか。そのような問題を、デリダの「歓待」論を通して考えてみたい。

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「歓待」とは何だろうか。それは、全くの無条件で他者を受け入れることである。言葉が通じなくても、宗教が異なっても、思考様式が異なっても、生き方が異なっても、である。極端な話、テロリストでさえも。確かにそれは極端な話ではあるのだが、真の意味での他者とは、原理的に理解不能な存在ではないだろうか。他者とは理解不能であり、異邦人であり、狂気である。それを受け入れることが「歓待」である、とデリダは言う。そんなことが可能なのだろうか。
現実において不可能である、ということはデリダも認めている。警察がテロリストを逮捕することを非難することはできないだろう。政治もまた、議論を成り立たせる一定のルールを共有するものの間でのみ可能となる。あるいは、他者を求めた『イマ』の主人公が、心を失った「フリークス」を他者のカテゴリから除外し、単なる敵とみなしていたことを思い出してもよいだろう。他者の歓待は、実際には条件付きのものにならざるを得ない。だが、無条件の歓待という理念を放棄してはならない、「無条件の歓待」という概念なしには、他者の他性を理解することはできないとデリダは言うのである(*13)。何故だろうか。
先に「他者とは理解不能であり、異邦人であり、狂気である」と書いたが、その異邦人を歓待することは、我々に翻訳の実践を強いることになる。ちょうど外国語を自国語へと、微妙なニュアンスのずれが生じることを承知しながら翻訳するように、狂気に満ちた他者の言葉は翻訳されなくてはならない。逆に言えば、ある人間を他者として遇するということは、その人間を理解不能な、意味のない言葉を話すものとして捉えるというである。そして、その意味のない言葉を批判的に検討し、自分の言葉で補い、意味のある言説へと仕立て上げてゆくことが他者を歓待するということなのである。
『イマ』の話に戻ろう。この作品は執拗に「無条件の歓待」の不可能性を描き出す。先述したように、「フリークス」はもはや他者ではない。また、他者の現前は暴力の開始でもあることを実証するかのように、主人公から全人類へ、あるいはヒロインから主人公へと暴力が振るわれる。


【沙也加】「見て忍。私、仇討ちをしたわ」
【忍】「……」
【沙也加】「約束を反故にしたことになるわね。名実ともに危険人物。掛け値のないあなたの――敵」
――本堂沙也加編「沙也加・反故」――

デリダの言うように他者を「歓待」することが、他者を言語の通じない異邦人、狂人とみなすことから出発するのだとすれば、そこにはコミュニケーションの断絶が前提とされなくてはならない。それでもなお、「歓待」は成り立つのだろうか?
だが、性急に結論を出す前に、我々はまずコミュニケーションの断絶が認知されるよりも以前に生じる現象について考察を行う必要があるだろう。つまり言語の「呼びかけ」的側面であり、言語が意味であるよりもむしろ出来事であるような局面である。『CROSS†CHANNEL』の終盤、主人公の太一は単独でラジオ放送用のアンテナを組み上げ、全世界に向けて呼びかけを行う。しかし、その放送が実際に誰かに聞かれたかを確認する手段は存在せず、また、太一は確認できなくても良い、と思っている。何故だろうか。『イマ』を通して、まずはこの問題について考えてみたい。


【忍】「相手とは話さないとだめなんだ」
【沙也加】「話してどうしたいの?わかりたいの?」
【忍】「話せば、わかるというものでもないけど。ただ」
【沙也加】「……」
忍はフェンスから、格子縞に区切られた空を見上げた。
【忍】「そこに誰かいるって、わかるから」
――本堂沙也加編「笑顔・2」――

言葉は通じないかもしれないが、それでも他者に対して「呼びかけ」を行うことができる。いや、どのような論述的なナラティヴであっても必然的に「私の話を聞け」という「呼びかけ」的性質を持ってしまう、という方が正確だろう。しかし、言葉のやり取りを「意味の伝達」として捉えることに慣れた我々は、この「呼びかけ」的性質を閑却しがちである。『CROSS†CHANNEL』における放送部という舞台設定、『イマ』における時系列シャッフルは、それを強調するための装置として考えるべきではないか。
もう少し深く考えてみよう。「一人では会話も成立しないのだ」と忍は言う。先述したように、他者の呼びかけに対する応答としてのみ「私」が構成され、主体となる。つまり、私が誰かから呼びかけられているという条件のもとでのみ、私は言語を使うことができるのだ。このことに不思議はない。しかしここで問題となっているのは、他者に対して「私」が呼びかけを行う場合ではなかったか。他者の呼びかけに先立って、私が呼びかけを行う、というのは、先述した「他者の呼びかけによって『私』が構成される」という命題に対して矛盾しているのではないか。矛盾しているなら、呼びかけのはじまりはどこにあるのだろうか。
おそらく、次のように考える他ないだろう。はじまりは存在しない。私が他者に呼びかけるのであれば、それに先立って、私は他者から呼びかけられているのだ、と。つまり他者に対する呼びかけは、そこに他者がいることに対する応答であると考えるべきなのだ。それはまた、哲学者の熊野純彦がレヴィナスに依拠しながら述べているように、「他者との関係であるような、向かい合う時間、<倫理>的であるような時間にあっては、現在であることはつねに・すでに過去であること、過去へと送り戻されることである。しかも、けっして記憶されえない、<私>のなりたちのてまえにある過去、すでに存在しない他者にたいして「借り」が生じてしまっている過去……へと追放されてしまうことなのだ」(*14)。次のように言い換えることもできるだろう。他者との関係は、つねに「取り返しがつかない」ものだ、と。
話が観念的になりすぎているように思われるので、作品内容に即しながらもう少し考えてみよう。『CROSS†CHANNEL』の終盤、仲間をすべて失いただひとりとなった太一は、自分の内面世界へと潜っていく。そのなかで太一はある少女と出会い、それをきっかけとして、心の平衡を取り戻す。この「内面への没入」「無意識との邂逅」「自我の回復」というパターンは『イマ』(と、それ以前では『家族計画』の一部)でも踏襲されているわけだが、ここで重要な点は、主人公が出会う無意識は主人公自身の過去の記憶によって形成されながら、同時に他者性を備えた人格的存在である、という点だろう。
記憶が他者であるということ、それを典型的に示すのがトラウマ(心的外傷)という現象だが、日常の経験に照らし合わせてもそのように感じることは多いのではないだろうか。私は私自身の記憶をコントロールできない。さらに都合の悪いことに、思い出してしまったことは、既に過ぎ去ってしまった出来事であるがゆえに、いまさらどうすることもできない。この「記憶の他者性」は、私と他者との関係を考える上で重要な柱となるだろう。
私は他者からの呼びかけによって「私」となる。その意味で、アイデンティティは自分自身によって選び取られるものというより、自己に対する他者の責めのようなものであると言えるだろう。そして、『イマ』における他者のモデルとは、自分自身によってコントロールすることのできない記憶であり、無意識である。この場合、重要な点は、記憶とは過ぎ去ったものの痕跡であるがゆえに、記憶の呼びかけに応えたとしても、その応答を受け止める主体が存在するとは限らないということではないだろうか。『イマ』のエピローグで語られる、主人公の「罪に償いはできない。が、責任を取ることはできるのだ。取り続けることでのみ、それは成立する」という一見謎めいた言葉や、この先に提起した『CROSS†CHANNEL』の太一が誰も聞いていない(かもしれない)ラジオ放送を通して呼びかけを行う理由も、「私を規定する他者はすでに存在しないかもしれない」という可能性を念頭において初めて理解することが可能となる。


歴史的責任を負うということは罪を引き受けるということではなく、何よりも、個人としての応答義務を引き受けることであり、応答の発話主体としてそれらの集団への自己確定を行うことなのである。……「応答」には相手によって語り手の発話の表現やメッセージが受理されることは含意されていない。「応答」は「語り掛け」の一種であって、「語り掛け」には伝達の不確実性が前提されている。「応答」には伝達が保証されていないから、「応え」が相手に伝わることも伝わらないこともある。したがって、人は現前しない人に向かって応えようとすることもできるのである。
――酒井直樹「倒錯した国民主義と普遍主義の問題」『現代思想』 2006年9月号、209−210頁――

酒井が言うように、応答責任を果たすということは、その応答が相手に受け取られることを含意しているわけではない。呼びかけの不確実性がそこでは前提とされている。だから、人は現前しない他者に向けて応答することもできるのである。


【忍】(……章二、章二!)
【忍】(いつだっておまえが正しかったんだ!)
――戦争編「人類結合」――

上に引用したのは『イマ』の終盤、死んだ親友がかつて発した呼びかけに、ようやく主人公が応えるシーンである。人間はその場にいない他者に向かって応答することができる、ということは、逆説的ではあるが、他者と倫理的な関係を持つということのなかには、コミュニケーションの断絶の可能性がつねに・すでに含まれているということでもある。それを他者の両義性と、とりあえず定義しておこう。他者とはトラウマのようなものであり、私のコントロールできない領域からやってくる。それに向き合うことで私は主体化を成し遂げることができるが、しかし、他者は記憶のように脆く、傷つきやすいものである。主人公が親友の問いかけに答えるまで、長い時間がかかったのは何故か?主人公の叫びが、すでに存在しない相手へと向けられたのは何故か?それは、私と他者をめぐる何かが、記憶のように「あやうい」から、ではないだろうか。

5
これまで述べてきたように、私が私自身になることに先立って、他者は私のなかに入り込んでしまっている。それを私が無視し得ないのであるならば、デリダの言う「歓待」はつねに・すでに達成されているのではないか、と考えることもできるだろう。しかし、私の応答がしばしば対象を見失い、すでに存在しない人に向けられたり、あるいは他者の否定(それは同時に自己喪失でもあるだろう)という形を取ることがあることも事実である。「歓待」はつねに条件つきのものでしかありえない。何故だろうか。
これを主体の「あやうさ(=可傷性)」(*15)の問題として考えてみよう。人間は自分自身の内部に、記憶や無意識といった他者を含んでいる。それとの対峙が主体を形成する第一歩であるとはいえ、それがクリステヴァ(*16)の言う「親密なものに内在する見知らぬ存在」としての「不気味」なものであることに変わりはない。『最果てのイマ』という物語が繰り返し描こうとしたものは、仲間たちの身体的な傷つきやすさ、大切な人をも裏切りうるエゴイズム、不安定さを補うために行われる他者への依存、気持ちの移ろいやすさといったものであったが、主人公にとっての問題は、主体が自他の境界において生起するがゆえの、主体の受動性であったと言えるだろう。


【忍】(なんだ……これ……?)
門倉正道と塚本斎、そして葉子。/ただ三人だけの世界だった。/他に人気はない。
【忍】(僕が…………いない?)
【門倉】「斎か」
門倉が語りかけてくる。
【忍】(……斎の……視点を……見ていた?/なら僕は/どこにいるんだ―――?)
――塚本葉子編「粛清の日」――

夏目漱石が『こころ』の「先生」に「私は自分自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです」と語らせているように、私は私自身をコントロールできない存在であり、私自身の内部や他者との関係に「余白」を抱えざるを得ない。この余白にさえぎられるように、私は他者からの呼びかけに応え損なってしまう。さらに、感受された他者の呼びかけを認識へと高めていくなかで、それを認識する「私」が立ち上げられていくわけだが、その際には必然的に私自身の内部や他者との間で余白を生み出してしまう(デリダの用語を使えば「代補」)。他者の呼びかけによって主体が生まれるとしても、その主体はつねに・すでに傷つきはじめている。
むろん、傷つきやすいのは私だけではない。同じように他者もまた可傷性へと曝されている。他者の存在に対して私が遅れてしまっていることを考えると、他者の傷はつねに「取り返しがつかないこと」に属しており(その最も顕著な例が死である)、私自身の可傷性よりもいっそう深刻な問題であると言える(*17)。
「可傷性」についての考察なしに、我々の共同性について考えることは不可能であるように思われる。我々は傷つきやすく、それゆえに互いの呼びかけを受け取り損なってしまう。しかし、我々が互いに可傷性を抱えているということ、それ自体が我々の最も根源的な共同性であるとも言えるのではないだろうか。互いの可傷性を反省的に捉えなおすことで、新たな絆が生まれるのではないか。最後に、そのような可能性について検討してみたい。

ï¼–
「私」は傷つきやすく、他者とのコミュニケーションの主体として成立しようとした瞬間に、ほころび始めてしまう。私にとっての他者もまた、つねに・すでに傷ついており、私はそれをどうすることもできない。この可傷性を我々が互いに抱えているということこそが、人間の共同性について、主体として自立した個人から出発し、個人を越える何らかの実体として構想することを断念させるのである。
可傷性が人と人の間に隔たりをもたらしている。しかし、次のように考えることもできるだろう。私たちは互いを隔てる「間」によって切り離されているのではなく、むしろ、何の関係性も持たなかったかもしれない人々が、「間」の存在によって繋がったのかもしれない、と。私たちが可傷性によって隔てられているのと同時に、それでも「私たち」という言い方ができるのは、私たちのすべてが可傷性を有しているためである、と言えるのではないだろうか。


【忍】「やっぱり、笛子は欠けてるね」
【笛子】「かけてる……わたしが?」
【忍】「だから気になったんだ/僕らはみんな欠けている。気付かなかった?」
【笛子】「同じ、においがする」
【忍】「そうだ。だから集まった/輪っかになって、生きるんだ」
――伊吹笛子編「はじめて笛子と知り合った―B」――

人間の共同性は、どこか性行為に似たところがあるように思われる。自らのもっとも敏感で脆い部分を他者に曝し、傷つける。その傷つきやすい部分によって私たちは隔てられると同時に、結び付けられるのだ。
こう考えてもいいだろう。暗闇のなかに立っていると自分自身の輪郭があいまいになっていくように、他者と接触し、あるいは他者との距離を測り、可傷性を備えた他者を意識することで初めて、私の存在が確かなものになる。他者との接触に先立って私が存在しているわけではない。他者との接触によって、可傷性を備えていることによって、私が存在し始めるのである。それは、ジャン=リュック・ナンシー(*18)の言う「分有」の思考を想起させる。


哲学的友情というのはとりわけ現代では、次のようなことになるでしょう。つまり、ただひとつの哲学的言説というのはありえず、哲学的言説は必然的に分有されるということです。哲学はその全歴史において、声の散逸から、声の分割から出発して真理を求めてきました。この分割は近しさと対立とを帯びていますが、それが思考を構成するものなのです。それがプラトンにとって哲学の大いなる母胎であった対話というものを構成するものだったのと同じです。
――ジャン=リュック・ナンシー『侵入者』2000年(西谷修訳、以文社、2000年、50頁)――

ナンシーはこの「分有」の概念を、ファシズム・共産主義という共同体信仰のなかで考えた。おそらく田中ロミオもナンシーと同じように、共同体が要請されながらそれが挫折していくような情況を念頭におきながら、実体的な共同体へと回収されない共同性について構想したのではないだろうか。人間の身体は傷つきやすさを帯びながら他者へと開かれている、私が語ることは同時に私が語られる対象になることでもある。このような両義性を人間の可傷性が持っているのであれば、その両義性の隙間から、可傷性を反省的に捉えなおす契機が必要になるだろう。そう、「隙間」の思考なのだ。私と他者、過去と未来、個と集団といった二項対立を無効化する場(それを「メシア的な時間」と言っても間違いではないだろう)が、田中ロミオ作品において特別な位置を占めるのである。


【主人】「君が目の当たりにしてきた古い座敷や蔵の数々、あれらはいずれも真珠邸の過去の姿。……時代に応じて姿を変えてきた。その過去の姿が失われずに積み重なっている――それが真珠邸の在りようだ。」
――『神樹の館』竜胆編――

『家族計画』『神樹の館』そして『最果てのイマ』に登場する「戦後」というモチーフもまた、「私」の存在が歴史的なものであり、他者との関係性のなかで成り立っていることを思い出させてくれる。また、そのような時間と空間のなかで、私たちは他者に対する、そして自分自身に対する戸惑いの感覚を絆とした共同性を模索することになるのである。
共同体と呼ばれる同一性に基づいた絆は、要請されながらも挫折する。このような現状分析から出発する以上、田中ロミオが模索する共同性はそのようなものではなく、決して同一性に回収されることのない、異質性を絆とするものであると言えるだろう。むろん、共同性を模索すること自体が行為遂行的に共同体の構築をもたらす以上、ロミオが求める共同性もやがては同一性へと回収されることは避けられない。その同一性を崩し、再び共同性を模索する。そのような終わりのない反復のなかでのみ、共同性が垣間見られる。その意味で、異質性を絆とした共同性とは、決して現前することのない共同性である。
この共同性が決して現前しないものである以上、その理念によりかかるのではなく、可傷性を備えた私と他者との具体的な交渉の場においてどのように振舞うかが問われているのだろう。「隙間」は特別な場所ではあっても、権力関係から無関係な特権的な場所ではない。逃れられない関係性を引き受けた上で、なお自己と他者、現在と過去の「隙間」から語り続けること、共同性を模索し続けることが求められているのだ。


人間は捨てたものではなかった。理解が遅れたけれど、ようやく確認できた。
聖域の外にも、無数の聖域がある。無数の聖域が集まって、大きな界をなしている。
それこそ世界だ。今までの世界である。
抵抗力のない弱い群れではあるが、闇雲に他者に罪を背負わせるシステムではあるが、
交換の仕組みに過ぎないものではあるが、
(好きになれそうな気がするよ、みんな)
好きであれば、殺せると思う。好きだからこそ、奪えると思う。
見ず知らずの誰かに対し、背負う罪悪は苦しいものだ。
だが今、責任をもって、命を預かることができそうだった。
返せる見込みはない。
忍は心いっぱいの賛辞を、滅びる者たちに捧げた。
――戦争編「姉弟」――

共同体という最終的な帰属の場が崩れてしまった後で、自らの居心地の悪さを引き受けながら、なお共同性が模索されなくてはならない。差異と同一性の隙間から語ること、他者に対する潜在的な加害者でありながら、他者との共同性を模索しなければならないという、解決のつかない葛藤を語り続けることが必要となる。
われわれは、それでも他者と向き合い続けることができるのだろうか。先に『イマ』に登場する「フリークス」について触れたが、田中ロミオはおそらく、なんでもありの排除なき多元主義と捉えられがちなポストモダニズムとは異なり、自らの理論が他者の排除を伴うものであることを、むしろ自覚的に認めるだろう。


【友貴】「まだ熱血甲子園君だっていっぱいいるんだよ」
【太一】「あ、彼らはポストモダンとか言ってる連中のなかでは観察価値のある人間って見なされていないから」
――『CROSS†CHANNEL』――

他者とともに生きることの困難は、シャンタル・ムフやウィリアム・コノリーらによって、政治制度の問題として考察されつつある。関係性をもつこと自体を拒む他者に直面することを余儀なくされる現在において、生のあやうさはさらに深まり、「異質性を絆とした共同性」というわれわれのプログラムにはくり返し疑念が突きつけられることになるだろう。
しかし、酒井直樹が言うように、「「われわれ」がバラバラであることを教えてくれる伝達の失敗は、だから、「われわれ」のもっとも根本的な社会性を告知してもいる」(*19)のもまた事実なのだ。「われわれ」の間でさえ、正しく意味を伝達することは出来ない。しかし、それにも関らず、われわれは会話をすることが出来る。語り掛けることができるのである。そのささやかな「普遍性」(この反時代的な言葉をあえて使ってみたい)を希望としつつ、ジャン=リュック・ナンシーの言葉をふたたび引用することで、この小論を閉じることにしよう(*20)。


社会はあたうかぎり共同的ではないのかもしれないが、社会という砂漠の中には、たとえ微小で捉えがたいほどだとしても、共同的なものがいささかもないということはありえない。私たちは共−現せずにいるわけにはいかないのだ。ただファシズムの群衆だけが、具現された合一の狂気の中に共同体を無化してしまう傾向を示す。そしてそれと対をなすように、強制収容所はその本質において共同体を破壊する意思を示している。しかしおそらくそうした収容所の中にあってさえ、共同体はけっしてこの破壊への意志への抵抗を完全に止めてしまうことはないだろう。
――ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』――

注
(*1)柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年(講談社学術文庫、1990年、89頁)。
(*2)ジャック・デリダ「<解体構築>DECONSTRUCTIONとは何か」1983年(丸山圭三郎訳、『思想』1984年4月号)など。
(*3)G.W.F.ヘーゲル『法の哲学』1821年(藤野渉・赤沢正敏訳、中央公論新社、2001年、24頁)。
(*4)FlyingShine制作『CROSS†CHANNEL』2003年。
(*5)ザウス【純米】制作『最果てのイマ』2005年(フルボイス版が2007年に発売され、その際に一部テキストが変更されているが、ここでは触れない)。
(*6)D.O制作『家族計画』2001年。
(*7)Meteor制作『神樹の館』2004年。
(*8)エマニュエル・レヴィナス。フランスのユダヤ人哲学者。主著に『全体性と無限』『存在の彼方へ』。
(*9)例えば以下のようなもの。「接触。密着。人は一つになりたいのか。否である。/他者を感じたいが故に、それを渇望するのである。/誰かと融合したいと考える者はむしろ少数派だ。自己を保持したまま他者を感受する。/表層と下層、二つの領域を持つ人類は……そういう心の機構を構築しなければ、とうてい他者の暗部を認めることはできない」(塚本葉子編「葉子に触れる−続き」)
(*10)ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』1988年(岩波現代文庫、2004年)を参照。権力の外部の存在を否定するフーコーの主体性論はしばしばペシミスティックなものと捉えられているが、「自己のテクノロジー」の分析によって権力の布置が変化すれば主体のあり方を変容させ、変容した主体によって、以前とは異なった形で「自己のテクノロジー」を再生産することの可能性は否定されていない。。
(*11)酒井直樹。コーネル大学教授。日本におけるポストコロニアリズムの代表的論者。主著に『死産される日本語・日本人』『日本思想という問題』。
(*12)ジャック・デリダ「暴力と形而上学―レヴィナスの思考に関する試論」1964年『エクリチュールと差異』所収。
(*13)ユルゲン・ハーバーマス、ジョヴァンナ・ボッラドリ、ジャック・デリダ『テロルの時代と哲学の使命』2003年(藤本一勇・沢里岳史訳、岩波書店、 2004年)参照。
(*14)熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』岩波書店、1999年、251頁。
(*15)以下の可傷性に関する議論はジュディス・バトラー『生のあやうさ』2004年(本橋哲也訳、以文社、2007年)に負うところが大きい。ただ、バトラーがこの「可傷性」を身体的なものに限定して用いているのに対して、本稿ではそれよりも広く、主体の危うさ全般を扱う概念として敷衍して用いることを試みている。
(*16)ジュリア・クリステヴァ。フランスの言語学者、小説家、精神分析家。主著に『恐怖の権力』。
(*17)原一男監督『ゆきゆきて、神軍』(1987年公開)は、このような問題を考える上できわめて示唆に富んだ作品である。この映画が取り上げる奥崎という人物は、かつての上官が犯した戦争犯罪を追求するのだが、最終的に奥崎は、その上官ではなく息子の方を殺そうとしてしまう。それはおそらく「勢い余って」という問題ではなく、過去の声に応えようとすると必然的にアドレスがずれてしまうということなのだ。
(*18)ジャン=リュック・ナンシー。フランスの哲学者。異質性と共同性の両義的な関係についての考察を行う彼が、心臓移植を受けて身体のレベルで脱構築を行ったという事実に不思議なものを感じる、というのは余談。
(*19)酒井直樹『日本思想という問題』岩波書店、1997年、13頁。
(*20)この小論は筆者のウェブログ(http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/)に2010年2月10日から3月9日まで6回にわたって掲載した記事をもとにしている。今回それに大幅な加筆・修正を加えたが、論旨に大きな変更はない。掲載を快諾していただいたthen-d氏および掲載に至るきっかけを与えていただいた辺見九郎氏に感謝の意を捧げたい。