野火(小説)、野火(映画)

私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである。

むかし文庫を読んだのですが、時間がたって同じ作者の『レイテ戦記』と混同している部分があったので、映画をみる前にKindleで再読しました。こんなすごい小説が300円くらいで読めるなんてラッキーですね。

野火(新潮文庫)

野火(新潮文庫)

原作から少し引用します。

比島の林中の小径を再び通らないのが奇怪と感じられたのも、やはりこの時私が死を予感していたためであろう。我々はどんな辺鄙な日本の地方を行く時も、決してこういう観念には襲われない。好む時にまた来る可能性が、意識下に仮定されているためであろうか。してみれば我々の所謂生命感とは、今行うところを無限に繰り返し得る予感にあるのではなかろうか。

物語の序盤、主人公の田村一等兵は、山道を歩きながら突然「この道を自分は二度と通ることがない」と感じ、そう感じた自分を「奇怪」に感じます。そして、死の予感に因果をもとめます。

もしその時私が考えたように、そういう当然なことに私が注意したのは、私が死を予感していたためであり、日常生活における一般の生活感情が、今行うことを無限に繰り返し得る可能性に根ざしているという仮定に、何等かの真実があるとすれば、私が現在行うことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行いたいという願望の倒錯したものではあるまいか。未来に繰り返す希望のない状態におかれた生命が、その可能性を過去に投射するのではあるまいか。

また中盤、夜明けの野を歩きながら田村は「前にもこういうふうに歩いたことがある」と感じ、そう感じたこと自体にふたたび引っかかります。彼はそれを、生きてもう一度なにごとかを行いたいという自分の願いが見せた妄想だと考えました。

そんなふうに死の予感とそれでも生き延びたいという願いの回りを、まさに島の山中をさすらうのと同じようにぐるぐると歩きながら彼は思考し、どんどんおかしくなっていきます。そして、野に咲いた艶かしい花を見ながら、冒頭に引用した啓示を得るに至ります。

映画は予算が少なかったと聞きました。たしかにほぼすべての戦闘シーンが光と爆音で誤魔化されていて、限りある予算はグロ描写に費やされた感があります。が、べつにスペクタクルを消費したくて見に行ったわけではないので、その点はあまり気にしません。

原作での田村は、極限状態に陥ると常にだれかに「見られている」と感じ、教会に救いをもとめ(しかし得られず)、やがては僚友を食べようとしながらも、そうさせなかった偶然に神様を見出すのですが、映画ではそのあたりは描かれません。これは少し残念なところです。

そういった描写がなかったために、映画を見終わった直後は、主人公が最後までわりとしっかりしていたなあという感想でした。台詞の少ない一人称の小説で語られる狂気の過程を映像化するのはやはり難しいのかな、と考えたのですが、いやいや待てよと。終盤に味方を撃つのはどう考えても頭がおかしくなっているわけで、むしろ正気と狂気がシームレスで分からないと思わされた展開こそが、原作を精確に踏襲していたのではないか、という気がしてきました。正気、狂気と簡単に書きましたが、やはりそれらは理解できないものを手軽に分類するための名前に過ぎないんだなと、この作品に触れた後は改めて感じます。

怖い描写が多い作品ですが、原作でも映画でも兵士が島の人に銃を向けて脅すことを躊躇うような素振りの描写は一切なく、そこが一番怖いです。

映画の最後に、撮影協力としてフィリピンの戦争記録団体がいくつもクレジットされています。お互いに悲しいことがたくさんあっただろうに、このような映画を作るにあたり協力しあえる関係性が現在築かれているのは、先人の努力や強さの賜物であり、本当にありがたいことだと思います。

偶然の系列、つまり永遠に堪えるほど我々の精神は強くない。出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とかわが生涯とか呼んで自ら慰めている。ほかに考えようがないからだ。

取るに足りない生しか持たないわれわれと変わらない人たちが、この映画で鮮烈に描写された島の雄大な自然の中で、わざわざ殺し合い、あるいは飢えて死ななければならなかった不合理さには言葉もありません。