「カンボジアの地雷原の村から義援金8万円とお守り」がどれだけ有難いのかが解るツイート
カンボジアの地雷原の村から義援金8万円とお守り[アルファルファモザイク]を読んで、ふと、昔を思い出してしまったのでつらつらと。 http://t.co/kQf9REG
2011-04-16 20:13:41私がカンボジアに行ったのは大学2年の時。宣教師になる勉強のためにKGK(キリスト者学生会)でアジア宣教学習会みたいなのをやってた時でしたにゃ。
2011-04-16 20:15:23アジアにおける、キリスト教の布教の話とか、それぞれの国の様々な事情とかを勉強しつつ、タイの研修施設で1週間勉強して、それから1週間カンボジア入りして、色々と現地のことを見てきた、そんなことがありましたにゃ。
2011-04-16 20:17:22参加していたのは、日本と、マレーシアと、香港と、あとはインドネシアの大学生だったと思いましたにゃ。とりあえず、全員英語でなんとか会話していましたにゃ。
2011-04-16 20:19:27カンボジアに入って、最初から最後まで驚かされたのは子供のしたたかさと強さでしたにゃ。プノンペン国際空港について、入管から出たら、すぐに子どもたちがまとわりついてきて、親しげに話しかけてきましたにゃ。
2011-04-16 20:22:09てっきり出迎えの教会の子供かと思っていたら、外国人に物をせびったり、売ったりする子でしたにゃ。日本の戦後、ぎぶみーちょこれーととかやってたらしいですが、たぶんそれ。ただカンボジアの子どもたちは強かったですにゃ。
2011-04-16 20:22:56メコン川近くで子どもたちの群れが寄ってきたとき、その中に車椅子の子がいる。さらにはシルエットがおかしい子がいる。うん、足がなかったり、手がなかったりね。で、そういった子が、自分の不幸をしっかり商売道具にする。転んでもただで起きない。
2011-04-16 20:24:53そも、カンボジアがどうしてそうなったのか、その背景を語ると長くなるので、ネットで『ポル・ポト』でぐぐってもらえるとうれしいのですが、変な風に歪んだ共産主義思想のもと、国内を虐殺と内戦の嵐が吹き荒れて、ほんの10年に見たない間に国民が半分になるという悲劇がこの国を駆け抜けましたにゃ
2011-04-16 20:30:43小学校を改造して作った収容所をみてきましたにゃ。それから処刑場となった、通称キリング・フィールドにも行ってきましたにゃ。
2011-04-16 20:31:40オーストラリアの農園にあるような大きなゲートを開けたらそこがキリング・フィールド跡地でしたにゃ。車から草地に降りて、すぐに気づいたことがひとつ。
2011-04-16 20:33:34人の骨が足元にチラホラと。掘り返して埋葬などできない大量の骨が埋まっているその地面を土足で踏みつけて立っていることしかできない、そーゆー場所。
2011-04-16 20:35:36仏教の塔みたいな4面がガラス張りの建物があったのでそこにいったら、中には棚みたいなのがある。で、その上に白い丸いものがいっぱい積み上げてある。うん、わかりますにゃね。頭蓋骨でしたにゃ。
2011-04-16 20:36:35ま、グロイ想像になると思想の左右が問われるようになるので、グロイ話はその辺で。色々思うところもあったし、その後の人生の道筋に多大な影響を受けた旅でしたけど、その時にめっちゃ印象に残ったことが4つほどあったので、この機会に吐き出しておきたいのですにゃ。
2011-04-16 20:38:181.その頃のカンボジアは首都プノンペンですら毎日毎日停電が繰り返されていましたにゃ。それも、いつ始まるかわからないタイミングで。
2011-04-16 20:39:13金持ちは、自分の家の周りに高い塀と深い堀を巡らせ、入り口だけ掘割の上に板を張って通れるようにして。んでもって塀には等間隔で煌々と輝く自家発電の電灯が。……そうやっておかないと強盗に入られるから、と聞きましたにゃ。
2011-04-16 20:40:49掘割の外側は停電。その上舗装すらされていない泥道。私が行った時期には毒性の強い蚊が例年より大量発生していて、病院には刺された子どもたちがたくさんいましたにゃ。そして薬が足りていなかった。
2011-04-16 20:43:102.郊外を車で走っていたら、兵士に小銃を向けられて停止を命じられましたにゃ。兵士曰く、ポト・ポト派の残党がいる地域なので検問を張っていたとのこと。ちなみに車を停められた時、私たちの方も一瞬、ポル・ポト派の残党にホールドアップされたのかと焦りましたにゃ。
2011-04-16 20:46:113.プノンペンの街角では大の大人がいたるところでゴロゴロと寝っ転がっていましたにゃ。タイ人の宣教師にどうしてあの人達がごろごろしているのかと尋ねたら「彼らは自分の農地が地雷原になってしまい、働けなくなった。だから都会であるプノンペンに職を探してやってきた。けれどもここでね……」
2011-04-16 20:50:074.宣教師はいいましたにゃ。こんな状況だからこそ、誰かが希望の言葉を語らなければならない。神とは最も苦しめられたものの隣にいて、共に苦しみ、共に嘆き、そして共に明日への歩みを始められる方だ、と。
2011-04-16 20:55:10その時に、決心してイザヤ書ばりに「ここに私がいます、私をお遣わしください」なーんて心のなかで誓って、一度は聖職者になったりもしたわけですが、人格面で至らず、結局還俗しちゃったりした、弱い私がいたりするのですが、それはそれとしておいておいて
2011-04-16 20:56:47ほんの17年ほど前に、そんな絶望のどん底にあったカンボジアの人々。でも、一生懸命がんばって、今、舗装もある程度行き届き、インフラも整備され、輸出産業などにも一生懸命力を入れて、まだ地雷が沢山あるけど地道に農土を広げていって
2011-04-16 21:00:18タグ: TRPG ボードゲーム アニメ 写真 カメラ 時代劇 電子音楽 猫 寺社仏閣 料理 テクノロジー 厚木 ※TV番組の実況やったりとかします。ご注意めされよ