ゴールデンボンバーがWikipediaをパクったことのすごさを詳しく解説しよう

ゴールデンボンバーの公式サイトが完全にWikipediaのパクリとして話題になっている。

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本人たちは笑わせようとしてるだけかもしれないが、私は大いに感心してしまった。

Webでアーティストのことを調べる時、私は公式サイトではなく、Wikipediaを見ることの方が圧倒的に多い。Wikipediaの方が見やすいし、満足いく量の情報が得られるからだ。

多くの公式サイトは、文字は小さく、情報量は極めて少ない。プロフィールもメディア向けの無機質なものだ。時には最新アルバムの世界観に合わせて派手な演出が施されていることもあるが、単に使いにくくなってるだけで、満足いく情報が得られることはない。

アーティストのことが知りたくなったのに、彼らの音楽的なルーツも、初めて買ったCDも、他のミュージシャンとの繋がりも、人と成りも、生まれ育った環境も、好きな食べ物も、好きなファッションも、公式サイトは教えてくれない。ただアルバムを買ってくれ、ライブに来てくれと、お金の話ばかりする。

その前にアーティストのことをもう少し詳しく知って、できることならもう少し好きになりたいだけなのに、公式サイトはそれには応えてくれない。

だから私は検索結果の1番目に表示される公式サイトではなく、3番目や4番目に表示されるWikipediaを選択する。たまに気まぐれで公式サイトに訪問しても、ファーストビューでいつもの空気感が漂ってるだけでめんどくさくなり、メニューもクリックせず、早々に立ち去ってしまう。

公式サイトでは最新PVや新曲をプッシュしてくることも多い。しかしPVはYoutubeやFacebookで観るので、公式サイトには必要ない。音楽が聴きたいときはYoutubeかストリーミングサービスを使う。公式サイトにはテキストリンクだけ貼っておいてくれればいい。あとは観たいときに観るし、聴きたいときに聴く。

自分がしたい体験に合わせて最適なUIを持つ最適なプラットフォームを使い分けるのが、今の音楽ファンを含めた消費者行動の主流ではないだろうか。

そもそも、PCでもスマホでも、ネット検索してるときは音が出せない状況が多い。しかも多くの場合、検索より先に音楽には出会っている。その上でさらに音楽以外の情報を求めて検索している。にも関わらず、公式サイトで映像や音楽を真っ先に体験させようとする。検索行動の根底にあるユーザニーズは無視されている。

公式サイトの一つのウリは、公式の最新情報が得られることだ。Facebookで本件について投稿したところ「Wikipediaは過去のアーカイブ、公式サイトだけが未来を扱える」といった趣旨のコメントをいただいた。鋭い。

そのアーティストのファンになったら、確かに最新情報がほしくなる。

しかし、ここでもう少し突っ込んで考えてみると、実は公式サイトで最新情報を知る必要はそれほどない。なぜなら今はFacebookページやTwitterの公式アカウントがある。これらをフォローしておけば最新情報は手に入る。公式サイトのブックマークという面倒なことをするユーザがどの程度いるのだろうか。ちなみに私はしない。

ようするに、多くのアーティストの公式サイトはUX(ユーザ体験)が考えられていないのである。訪問者の環境や動機などを考慮すると、公式サイトに求められるのはPVでも、新曲でも、派手な演出でも、アートワークと連動した世界観でもない。

公式サイトには、量・鮮度・信頼性などでWikipediaを凌駕する情報(コンテンツ)が掲載されていなければ、訪問する価値がない。それができないのなら公式サイトなど不要で、Wikipediaがあればいいのではないか。

新しいゴールデンボンバーの公式サイトは、そういうリスナーの心理を見透かしたような作りだ。Yahoo!でも、Googleでも、Facebookでも、Twitterでもなく、Wikipediaをパクったというのが象徴的だ。

見た目はお馴染みのWikipediaなので、簡素だがとても見やすい。内容はWikipediaの情報を元に、加筆したものが多い。わざわざ公式サイトを訪れた人に、Wikipediaとは異なる体験をしてもらい、ちゃんと楽しんでもらおうという意図を感じる。

情報を提供する側と情報を受ける側でのスレ違いは、音楽に限った話ではない。発信者になった途端、受け手の気持ちが分からなくなる。その世界の常識やセオリーに疑問を持たず、安易に判断してしまう。自分の発信欲が中心になり、受け手が求めることが見えなくなる。

私にも思い当たるところがあるが、成功したミュージシャンはより高い確率でこの罠に陥るのではないだろうか。なぜなら、何をやっても絶賛し、ついてきてくれる熱烈なファンが目の前にいるからである。そして市場感覚を失っていく。

しかしゴールデンボンバー(およびその仕掛け人)はそうではないようだ。彼らは成功したアーティストなのに、未だリスナー側の素朴な感覚を持ち続け、それを実行する勇気がある。これは誰もができることではない。

アートやクリエイティブには、固定観念の破壊という一面がある。その原動力になるのは深い洞察力と現状への素朴な疑問だ。

思えば、ゴールデンボンバーというアーティスト自体が、すでに固定観念の破壊者である。「ロックバンドには演奏者が必要」という常識に対する疑問がなければ、ビジュアル系エアバンドなどというコンセプトで活動しなかっただろう。

実のところ、ライブで演奏者がいない音楽は珍しくはない。アイドルやダンスグループは演奏者がいないことが多い。演歌や歌謡曲もそうだ。彼らがこういった常識に囚われていたなら、自分たちは演奏ができない→ダンスグループか歌謡曲かコミック音楽、という発想になったはずである。

しかし彼らは違った。自らをビジュアル系バンドと言い放ち、そこにポジション取りをした。エアギターが話題になったトレンドを掴み、「エアバンド」というラベルを自らに付与した。努力家の緻密な戦略なのか、天才的な嗅覚なのかわからないが、このポジショニングやブランディングの妙が、彼らを特異な存在にした。ポップミュージックにおけるオルタナティブとして強い存在感を示すことができた。

かつて彼らがV系フェスに出場が決まった時、ネットでは彼らを批判するV系ファンの声を多く聴いた。あんなのはビジュアル系ではない、お笑い芸人だ、演奏しないなんてありえない、という声だ。しかし賛否両論が激しく渦巻くのは、アーティストには強い追い風となる。音楽が音楽性だけで売れない時代に、トーカビリティが高い(話題性に富む)というのは、最大の武器になりえる。

今回の公式サイトの件も、こういったゴールデンボンバーのキャラクターから考えれば自然な選択だ。「ロックバンドって演奏しなくてもいいんじゃないの?」という疑問と同じように「公式サイトってWikipediaでもいいんじゃないの?」という疑問がその根底にある。

彼らの姿勢は一貫している。相変わらず固定観念の破壊者である。音楽性こそ違うが、その精神性は黎明期のパンクに近い。

そして彼らは、こういった知性的な一面をこれみよがしには表さず、常に明るい笑いで覆い隠している。なんて奥床しく品のあるアーティストなのだろう。

しかし、ここまでゴールデンボンバーを絶賛しておきながら、一つ大きな問題がある。彼らに対する好意的なイメージを最大限に抱きながらも、おそらく私は彼らの音楽を自ら聴くこともないし、ライブに行くこともない。なぜなら、私が好きなタイプの音楽ではないからだ。あるいは彼らの側から言えば、私はターゲットではないのだ。

音楽を聴くハードルはどんどん下がり、お金を払わずとも、スマホを触っていれば指先一つですぐに聴ける環境になっている。それなのに、こんなに彼らのことが好きになったのに、私はその音楽を聴かないでメタリカの新曲をSpotifyで聴いている。

やはり音楽ビジネスは難しい。彼らのように頭が良く、逞しい人たちでなければ生きていけない世界なのだとつくづく思う。