『花束みたいな恋をした』のレビューにおいて、押井守とショーシャンクの話ばかりするのは極めて恣意的で不公平なジャッジ。なぜならふたりの主戦場は映画ではなく文学だから。

書いたな!俺の前で!『花恋』の話を!

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レンタル解禁の余波なのかなんなのか、2021年最強邦画『花束みたいな恋をした』の話題がにわかに再燃してきているようだ。私はこの映画を劇場で6回観た。死ぬほど好きな作品である。

この映画に対する論評としてよく語られるものに「サブカルクソ野郎を描いた作品」というものがある。例えば↑にリンクしたコラムにおいて、ロマン優光氏は以下のように書いている。

『花束みたいな恋をした』を見て:ロマン優光連載200 - ブッチNEWS(ブッチニュース)

劇中、二人が付き合うきっかけになったのはアニメ・映画監督の押井守氏(そのシーンのためだけに本人が出演している)なのだけど、まずその人物が押井守なのが絶妙なセレクトだ。大メジャーではないがそれなりに世間的知名度がありマニアックすぎず、二人の趣味嗜好をわかりやすく伝えるのにぴったりの人物だ。そして、押井守を見たあとの二人の発言の微妙さや浅さもまた絶妙なのだ。

あの喫茶店のシーンは本当によくできている。初対面の人と行う会話の中で「神」というネットの言葉を使う事の痛々しさ。作品名ではなく犬と立ち食いそばが好きな人という説明をしてしまうズレた感じ。その説明のネットに書いてあったことをそのまま言ってるだけのような薄っぺらい感じ。それなのに『ショーシャンクの空に』が好きな人間や実写版『魔女の宅急便』を見に行く人物に対して侮蔑心を露にする勘違いした特権意識。麦くんがどういう若者なのかを伝える上で重要なシーンだ。「マニアック」な趣味を持った会話でのコミュニケーションが苦手な若者。そこは観る人が共通して得る印象だろう。

そのとおりだと思う。この映画に「押井守を知らず、ショーシャンクの空にをマニアックな映画と語る「一般人」に対するサブカルクソ野郎の歪んだ優越感」を描いた映画としての一側面があるという話は非常によくわかる。

そんな選民思想なサブカル自意識を持っている割に、ふたりが愛好している作品が実はたいしてマニアックなものではなく、それゆえふたりが「作品が好きなのではなく作品を好きな自分が好き」といういわゆる「ファッションサブカル」「サブカルクソ野郎」のように見えてしまうという指摘もそのとおりだろう。

ロマン優光氏や「邦キチ!映子さん」が言及している押井守や天竺鼠はその代表だけれども、作中で語られ本棚に小道具として登場する作家についても、松本大洋/大友克洋/魚喃キリコ/望月峰太郎/ほしよりこなど「大メジャーではないがそれなりに世間的知名度がありマニアックすぎない」作家ばかりだ。なんか00年代のヴィレバンぽい。

やはりこのふたりは心からカルチャーを愛するガチサブカルではなく、鼻持ちならないナルシストのファッションサブカルであり、サブカルクソ野郎なのである…


…というように見える。


「…というように見える」と書いたのは、私のこの判断が極めて一面的なものであり、甚だ不公平なものだということを、私自身が自覚しているからだ。


ふたりの「主戦場」はマンガでも映画でもお笑いでもなく、文学である。

気付いた方もおられると思うが、先に私が言及した作家はすべてマンガ作品の作家である。ロマン氏のコラムや邦キチで言及されたジャンルも、映画とお笑いだ。

しかし本作を鑑賞すれば誰もが気付くように、麦くんと絹ちゃんが最も沼っている「主戦場」はマンガでも映画でもお笑いでもない。文学なのである。↓は劇中に登場する麦くんのアパートの本棚だが、マンガ作品より文芸作品の文庫本が圧倒的に多いことがおわかりいただけるだろう*1。

すべてのジャンルを同じ深度で掘り下げている人間など、この世の中に誰ひとりとして存在しない。たとえどんなに偉大な趣味人であってもだ。であれば麦くんと絹ちゃんの「浅さ」を、マンガや映画やお笑いといった「不得意ジャンル」で測定することは、まったくもって不公平な話ではないだろうか*2。


ふたりが初めて出会った夜、居酒屋で酔っ払った麦くんから好きな作家を尋ねられた絹ちゃんは、幸せそうにこうリストを挙げる。

穂村弘/長嶋有/いしいしんじ/堀江敏幸/柴崎友香/小山田浩子/今村夏子/小川洋子/多和田葉子/舞城王太郎/佐藤亜紀

「好きな作家リスト」はサブカル愛好家の経歴を雄弁に物語る。「鳥山明/井上雄彦/冨樫義博」とくれば黄金期の週刊少年ジャンプだし、先に挙げた漫画家リストであれば00年代ヴィレバンだ。「デリック・メイ/ホアン・アトキンス/ケビン・サンダーソン」といわれればデトロイト・テクノであるし、「矢川忍/井内ひろし/池田恒基」なら近代アーケードSTGだろう*3。


私には絹ちゃんの挙げたリストが持つ「意味」がわからない。私は小説をまったく読まない人間だから、作家名からして初めて聞く名前ばかりだ。このリストはなんの意味も持たないただの文字列の羅列のように私の目には映る。ゆえに絹ちゃんが「ガチオタ」なのか「にわか」なのか、私にはまったく判断することができない。

しかし、小説ファンはそうではないだろう。絹ちゃんのリストや麦くんの本棚から文化的文脈を読み取り、作家名の裏に潜む「意味」を拾い上げることが可能だろう。麦くん絹ちゃんは、実は真にカルチャーを愛するガチの小説オタなのか?それとも世間の論評どおり、鼻持ちならないサブカルクソ野郎なのか?すべてを一刀両断して見抜くことが出来るだろう。

残念ながら、私はこれまでこうした「文学ファン視点からの『花恋』レビュー」を読んだことがない*4。私に書くこともできない。代わりに語られるのはいつだって押井守かヴィレバンに置かれているようなマンガかショーシャンクの空にか実写版魔女の宅急便の話ばかりだ。

他力本願となってしまい甚だ恐縮ではあるが「文学ファン視点からの『花恋』レビュー」を書くことができる文学ファンの方がおられるのであれば、その方のレビューをぜひとも読ませていただきたいものである。もし麦くん絹ちゃんが実はガチの文学オタであるにも関わらず、鑑賞者の恣意的なジャッジにより「サブカルクソ野郎」呼ばわりされているのだとするならば、『花恋』いちファンとしてふたりがあまりに不憫でならないからだ。


以下余談(ネタバレあり)

数多のサブカル作品が登場する『花恋』だが、中でも最も深く言及される作品のひとつに小説『ピクニック』(今村夏子)がある。私は今村夏子という作家自体『花恋』で初めて知ったのだが、興味本位で読んでみたところ本当にもの凄い作品で度肝を抜かれた*5。

「今村夏子のピクニックを読んでもなにも感じない人間」とは劇中2回リフレインされる重要な台詞だが、『ピクニック』自体が叙述トリックによって読者を煙に巻き「なにも感じない人間」にしてしまう可能性を孕んだ極めて独創的な構造を持つ作品であり、引用作品をただの小道具として使い捨てない『花恋』の重層性がここにある。

ブラック企業に勤めた麦くんが『茄子の輝き』(滝口悠生)を捨ててしまうシーンも同様だ。『茄子の輝き』は中小企業の平和な毎日をのんびりしたトーンで描く日常系の作品だが*6、ブラック労働の渦中にいた麦くんにとってはその世界が虚しい絵空事に見えてしまったのだろう。


『花束みたいな恋をした』は作品自体の素晴らしさにプラスし、様々な未体験の作品に触れるキッカケを私に与えてくれました。坂元裕二氏はじめスタッフのみなさんに心からの感謝を。本当にありがとうございました。

*1:ちなみに単行本ではなく文庫で買っているのはお金がないからだと、作中で麦くん本人から言及がある。

*2:小西康晴氏の文化的感度を、ビデオゲームに対する造詣の深さで測ろうとする人間などいない。

*3:デトロイト・テクノと近代アーケードSTGの間に並木学を挟み、別の文脈を見い出す者もいるかも知れない。

*4:これは小説愛好家自体が現代サブカルの中で超マイノリティであるためここに言及できるレビュアーがほとんどおらず、いたとしても読者がついてこれないことが原因だろう。文学を主戦場として嗜んでいるその時点ですでに「濃い」サブカル愛好家だと、現代社会においては言うこともできるかも知れない。

*5:近年映画化予定の『こちらあみ子』も凄まじい。

*6:特に前半部。