日銀法を改正するとしたら

先日ここのコメント欄で紹介した「日銀総裁は大学入試で落第か?」を読んでつくづく思ったのだけど、いづれ日銀法を再改正するとしたら、日本も米国と同様、金融政策を決定する機関と日々の金融調節オペレーションを行う機関を分離すると良いんじゃなかろうか。

周知のように米国では金融政策を決定しているのは連邦準備制度理事会(FRB、the Fed)による連邦公開市場委員会(FOMC)だけれども、ここで決定された金利の誘導目標を公開市場操作により日々実現しているのは、FRB本体ではなくその12ある地区銀行のひとつ、ニューヨーク連邦準備銀行(NY Fed)だ。ついでに言うとNY Fedは為替介入のオペレーションも担当している。詳細はNY FedのWhat We Doなどご参照。

で、どうも日銀とかその周りの方々の発言を見聞きしていると、日銀は自身の本来の役割を物凄く矮小化して理解しているんじゃないか、と思うことが多々ある。例の「日銀理論」や量的緩和末期の「札割れ」、そして今回のセンター試験の設問をめぐる話にしても、なんでこんな話が出てくるのかというと、なんというか日銀は、その責務であり存在意義であるところの「物価の安定」という概念を、「日々のコールレートの安定」とかなんとかに置き換えて理解しているんじゃないだろうか、とつい考えてしまうのだ。

もちろん日々のコールレートの安定は大事だろうとは思う。しかしながら、少々その変動幅が大きくてもマクロへの影響は大したことないんじゃないの、と僕などは思うわけだ。例えば良い例として本石町日記さんのこんな話がある。日銀のオペはFedから見て「超人的」な技量を発揮しているそうだけれども、残念ながらその努力はマクロの経済運営にはまったく反映されていないと考えざるを得ない。

むしろ一方で、先に挙げた例のように、現場のオペレーションの困難がマクロの経済政策決定を左右しているように見える事例が散見されるように思う。これは言ってみれば尻尾が犬を振るような、まさに本末転倒の見本のような話に僕には思える。またその視野の狭さは、まるで針の穴から天を覗く小人が金融政策を決定しているようにさえ思えてならない。

だから、いっそのこと日銀もFRBとNY Fedのように、金融政策決定とそれを実現するオペレーションを各々別の機関が担当するようにした方が、日銀にとっても日本国民にとっても幸せなんじゃないかと思えてならないわけだ。

そうすれば、オペレーションの現場の人々は自分たちの努力が正等に評価される機会を得るだろうし、政策決定に関わる人々は日々のオペレーションが彼らが決定した金融政策にとって大きな意味を持たないことをよりはっきり人々に示すことができるだろう。そしてこれらのことは日本国民全員にとって大きなプラスの意味を持つはずだ。

ここで日本の旧陸海軍の話を持ってくると大げさな気が自分でもするけれども、現場や中堅層に引っ張られる上層部って図式は今の日銀にもそのまま当てはまってしまうんじゃないかと思うとぞっとするものがある。いや上層部は引っ張られているのではなく本気で良かれと思っているのだとすると以下略。考えすぎですかそうですか。なんかやっぱり暗くなってきたのでもうお酒飲んで寝ます。ではごきげんよう。