The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

創造主、汝の名は女 メアリーの総て

 そして今ふたたび、幸運を祈りつつわたしは醜いわが子を世におくりだす。この子供にわたしは愛着を持っている。幸福だった日々が生みだしたものだから。あのころ、死や悲しみはわたしの心に真実のこだまを持たないただの言葉にすぎなかった。いくつかのページには、わたしがひとりぼっちでなかったころの、散歩や馬車の旅や会話の数々が語られている。伴侶であったあの人に、二度とこの世で会うことはない。でもそれはわたしのひとりごと。こうした連想に読者のみなさんには何のかかわりもないのだから。(創元推理文庫メアリ・シェリー作、森下弓子訳「フランケンシュタイン1831年版のまえがきより)

 多少なりとも読書をする人なら「生涯で一番夢中になった本」というのが存在すると思うのだが、僕の場合、それがメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス」だ。1818年に当時若干18歳の女性によって書かれたこの小説はこの200年間の間に様々な影響を文学史だけでなく映画史や演劇史、そして科学史にまで影響を与えてきた。今年は刊行200周年。そんな僕の最も大好きな小説の作家、メアリー・シェリーの伝記映画「メアリーの総て」を観賞。

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物語

 メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィンは著名な思想家の両親の元に生まれる。しかし女権運動家のメアリー・ウルストンクラフトはメアリーを産んだ際に産褥熱で死亡。父親であるウィリアム・ゴドウィンは再婚したが、連れ子のクレアとは仲が良かったものの、継母との折り合いは悪い。そんな、メアリーがスコットランドバクスター家で出会ったのは売り出し中の詩人パーシー・ビッシュ・シェリー。情熱的なシェリーとメアリーは惹かれ合う。

 スコットランドから戻ったメアリー。シェリーも追うようにゴドウィン家に現れ、ウィリアムの弟子として授業料を払い通うようになる。再び燃え上がる恋の炎。しかしシェリーには結婚して5年になる妻と子供がいた。それでも交際を続ける二人に父親が反対。二人は駆け落ちをするのだった。そこにはクレアもいた。

 しかし理想の生活は上手くいかずすぐに生活に困窮するようになる。そんな中メアリーはクララという子供を産むがシェリーの借金取りから逃亡する無理の末クララは死亡。悲しむメアリーにクレアがバイロン卿のスイスの屋敷に招待されたという。クレアはバイロン卿の愛人となっていた。3人はバイロン卿の元を訪ねディオダディ荘を訪れる。メアリーとシェリー、クレア、そしてバイロン卿とその主治医ポリドリの奇妙な生活が始まった…

  僕が「フランケンシュタイン」を読んだのは高校生の時。当時フランシス・コッポラ監督による「ブラム・ストーカーの原作に忠実に映像化した」という謳い文句で作られた「ドラキュラ」があって、その流れで様々なクラシックモンスターを現代の最新技術で特にホラーという形を取らず文芸作品として映画化する、というムーヴがあった。コッポラ製作、ケネス・ブラナー監督の「フランケンシュタイン(1994)」もその1つ。怪物役をロバート・デ・ニーロが演じたのも話題となった。「ドラキュラ」にしてもこの「フランケンシュタイン」にしても真に原作に忠実というわけではなかったが、それまでのボリス・カーロフフランケンシュタインの怪物のイメージから離れ、きちんと原作通り知的な存在として登場したのは画期的なことであった。

 で、この時に映画にあわせたカバーで出版された角川文庫の「フランケンシュタイン」が僕の読んだ最初*1。以来何度も愛読する作品となっている(以降、原作からの引用は創元推理文庫の森下弓子訳からのものとなります。またメアリー・シェリーの表記は「メアリ・シェリー」が多いですが映画に合わせ「メアリー」表記にします)。

 今回の映画を「フランケンシュタイン」創作秘話としてみた場合メインとなるのはバイロン邸における「ディオダィ荘の怪談会議」*2なのであるが、この映画でも確かに重要なパートではあるが、より重要視されているのはそこに至る経緯であるといえる。まずはメアリーの両親について述べなければならない。

 メアリーの父ウィリアム・ゴドウィンは当時としては急進的な無政府主義者で「政治的正義」などの著作で知られる。婚姻という制度にも反対する立場を採ったが、恋人のメアリー・ウルストンクラフトが妊娠したため子供を私生児にしないため結婚することとなる。これまでの主張を違え教会での結婚を選択したことは多くの支持者を失望させた。しかしメアリーは娘を産んだ11日後産褥熱で死亡する。この娘がメアリー・シェリーである。

 メアリー・ウルストンクラフトは社会思想家で特に女権運動家として知られる。その著作は「女性の権利と擁護」として知られる。娘と違い恋多き人物であったが、最後に結婚し子供を産んで亡くなる。メアリー・シェリーにはその生まれながらにして母親の死がセットとなっていて、そのことはおそらく彼女の人生観にも大きな影響を与えているだろう。また両親の著作にも影響を受けていて父ウィリアム・ゴドウィンのゴシック小説「ケイレブ・ウィリアムス」は「自分の育てたものに追われる」という「追うものと追われるもの」の関係は「フランケンシュタイン」にも強く影響を与えているだろう。事実「フランケンシュタイン」は「政治的正義」「ケイレブ・ウィリアムス」の書名を掲げてウィリム・ゴドウィンに捧げられている。

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 そんな両親のもとに生まれたわけだからメアリー・シェリー(と書いているがこの名前は匿名で出版された「フランケンシュタイン」が第二版でメアリーの名前を出した時にシェリーと結婚していたからでこの映画の中、そして実際に「フランケンシュタイン」を執筆、出版した時は一貫して「メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン」である)も文学的素養豊かだったのは間違いなく、パーシー・シェリーとの出会いがなくても何らかの形で世に出た可能性は高い。この時期のイギリスの女性作家というと「高慢と偏見」のジェーン・オースティンが有名で、「ジェーン・エア」や「嵐が丘」などのブロンテ姉妹が生まれたのはちょうどメアリーが「フランケンシュタイン」を執筆している時期だったりする。彼女たちに比べると今日、作家としてのメアリー・シェリーの名声は劣るが(実質「フランケンシュタイン」だけの人ではある)、その影響は彼女らに勝るとも劣らない。「クリムゾン・ピーク」では主人公の女性がメアリー・シェリーが好きだと公言することで変人扱いされている、という描写がありましたね。

 映画でメアリーを演じているのはエル・ファニング。現在残っているメアリ・シェリーの肖像画やその残された作品を見るとエル・ファニングはあまりに幼いようにも思えるが、実際に18歳の少女が書いたことを思えばほぼ同年代の役柄を演じた事となる。今の感覚だとおかしくなるが、パーシーも当時19歳で結婚して5年目とかだったし、医者であるジョン・ポリドリはディオダディ荘の怪談会議当時21歳だった。バイロン卿だけは少し年長だがそれでも28歳と皆若い才能の集まりだったのだ。映画は伝記映画の例に漏れず、必ずしも史実に忠実というわけではないが、それでも当時のメアリーの周囲に起きた「死と出産」はほぼその通りである。特にメアリー自身の生誕とそれによる母の死亡は始まりでもある。映画ではメアリーの最初の娘とその死亡がシェリーの借金取りからの逃亡が原因のように描かれているが実際は不明。そして映画では描かれないがディオダディ荘に向かう前に、1816年の1月には息子を出産している(ウィリアム。1819年に死亡)。シェリーとの正式な結婚の後(「フランケンシュタイン」出版前(執筆中?))には娘クレアラを出産しているがこのクレアラは翌年、1818年「フランケンシュタイン」出版後に生後一年で死亡している。結局二人の間の子供ので成人まで成長したのはウィリアム死亡後に生まれたパーシー・フローレンスだけであり、いくら当時は出産がまだまだ危険な行為で、子供の死亡率も高かったとはいえ、この時期の多くの「死と出産」がメアリーに強い影響を与えたことは想像に難くない。ここにシェリーの妻ハリエットや異父姉ファニーの自殺なども関わってくる。そして僕は、今回の映画を観るまで知らなかったのであるが、この時期の彼ら(父親のゴドウィンやシェリー)らは名こそ売れていたが経済的には困窮していたらしい。バイロン卿こそヨーロッパでも有数の金持ちであったが。

 映画で重要な役割を果たすのは血の繋がらない姉妹(年齢的には同年)であるクレアである。父ゴドウィンの後妻の連れ子であるクレアは故に文学的才能を受け継ぐことはなかったが、彼女がバイロン卿の愛人となったことでメアリーたちとバイロン卿の間に接点が生まれる。どちらかというと他の4人(メアリー、、パーシー、バイロン、ポリドリ)と比べて教養のない女性という扱いで一段下に見られているが、どちらかと言えばクレアの方が当時の(中流階級の)女性の平均像でもあるのだろう。ここではベル・パウリーが演じている。ちなみにクレアはフルネームをクレア・クレアモントというのだが、この名前を聞くと80年代から90年代にかけて「X-MEN」の原作を担当し、一番に人気の作品に押し上げたライター、クリス・クレアモントを連想するのです。

 そしてパーシー・ビッシュ・シェリー!この映画だけ観ると相当なダメ男だが実際はどうだったんだろう?自由恋愛を標榜しているが、どちらかというと今、恋愛工学などと言っているクズに近い気がする。ただ、妻子がありながらメアリーと交際、駆け落ちし妻ハリエットが自殺したその直後にメアリーと結婚しているところからもかなり男女関係にルーズな男だったのは間違いなさそうだ。映画ではそんなプロフィールから想像できる異常にダメな男をダグラス・ブースが演じている。彼は「高慢と偏見とゾンビ」にも出ていましたね(といって何の役だったのか思い出せない)。

  • ディダディ荘の怪談会議

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 映画の中盤でメアリーとパーシー、クレアはディオダディ荘にやってくる。出迎えるバイロン卿。ここでバイロンは唐突にパーシーにキスをする。単なる挨拶のようにも思えるが、これはバイロンバイセクシャル両性愛者といわれていることにもよるのだろう。映画では特にその辺説明はされないが、ポリドリも主治医というよりは同性の恋人だった。ポリドリについては後述するが、ポリドリを演じているのが「ボヘミアン・ラプソディ」ではロジャー・テイラーを演じていたベン・テイラーだったので、バイロンがまるでフレディ・マーキュリーのように思えてしまった。とはいえ「ボヘミアン・ラプソディ」でもポールがフレディにキスするシーン、この「メアリーの総て」でのバイロンがパーシーにキスするシーンは劇中では唐突でありそれなりに重要だが、特に男性同士によるキスをセンセーショナルに描こう、という感じはしなかった。登場人物のセクシャリティがそういうものであればこれが自然でしょ、という感じ。

 バイロンはこれまた強烈な人物で、この人はこの人で伝記映画が何本作られても足りないほどである。男性も女性も同等に見下している感じでそれ故に才能だけには忠実に、男女関係なく賞賛できる器の大きさも持つ人物。

 そしてこのディダディ荘において長期に渡り雨が降り続いたことで、暇つぶしにそれぞれ怪談話をつくろうじゃないか!とバイロン卿が持ちかけたことが「フランケンシュタイン」誕生のきっかけとなる。この経緯は「フランケンシュタイン」の1831年の第3版のまえがきで書かれていて、ある夜メアリーはある科学者が自分の創造した者の前にひざまずく姿を夢に見る。科学者はその横たわる創造物に命の火花を注ぐ。創造物はぎこちない半生命的な動きを見せる。己の行動に恐怖した科学者はしかし、放っておけば命の火花はすぐに枯れ動かなくなるだろう、と信じて眠りにつくが目を覚ますとあの創造物がベッドの脇に立ち物思わしげな目でこちらを見ている・・・

 そんな風景を夢に見たメアリーはイメージが途切れぬ内に書き始める。「11月のとあるわびしい夜のこと・・・」

 映画はあくまでメアリー・シェリーの伝記映画であり「フランケンシュタイン」創作秘話ではあるものの、「フランケンシュタイン」そのものの映像は出てこない。唯一、このメアリーが悪夢に見たという科学者が創造物を誕生させるシーンだけが映像化されている。「フランケンシュタイン」は北極探検のさなかにある青年ウォルトンの姉への手紙から始まり、その手紙の中でウォルトンが見つけたヴィクター・フランケンシュタインなる男性の告白、更にその告白の中でビクターが怪物から打ち明けられる独白、という入れ子構造をとっている。メアリーが最初に書き始めたという「11月のとあるわびしい夜のこと・・・」という一節はその中のビクターの告白に入ってからの5章目、まさにビクターが怪物に命を吹き込もうとしたその章の冒頭部分であり、メアリーがこの悪夢に見たヴィジョンを形にするところからこの小説が創造されたのがよく分かる。ちなみに「フランケンシュタイン」における怪物の創造というとそのきっかけとして電気が使用されることが多く1931年の「フランケンシュタイン」では雷、1994年の「フランケンシュタイン」では電気ウナギをその電気パワーの源として使用しているが実は原作劇中には電気によって怪物に命が宿った、という直接的な描写は無い。生命の火花を吹き込む「生命の機械」とあるだけ。SF小説の元祖ともされる「フランケンシュタイン」ではあるが実はその具体的な描写はほとんどないのだった。ただやはりヒントは「まえがき」にあって、バイロンとパーシーがガルヴァーニ電流について、それによって死者の蘇りも可能だろう、ということを話していたと書いている。これがヒントになっているのだろう。

  • メアリーとポリドリ

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 僕が個人的にこの映画で良かったのはジョン・ポリドリの描写。ポリドリはこの「ディオダディ荘の怪談会議」に置いてメアリーとともにきちんと作品を形にした。結局詩人であったシェリーとバイロンは小説という形には出来なかったのだ。ポリドリの「吸血鬼」はアイデアバイロンによるものともされ、実際最初はバイロンの著書として出版されたのだが、紛れも無くポリドリのもの。そこで出てくる吸血鬼ルスヴン卿は明らかにバイロンをモデルとして描いているが、この作品によって東欧の醜い化け物だったヴァンパイアは貴族的な美男子というイメージに生まれ変わった。このポリドリの「吸血鬼」を発端として通俗的な「吸血鬼ヴァーニー或いは血の饗宴」やレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を産み、決定版としてブラム・ストーカーの「ドラキュラ」に至るのだ。正直文学作品としては「カーミラ」や「ドラキュラ」と比べると相当劣るようだが、それでも吸血鬼という一大ジャンルの祖であることは間違いない。

 そんな偉大な作品の著者ポリドリであるが、彼は前述の通りバイロン卿の同性の恋人か、少なくとも彼自身がバイロン卿に同性愛的な好意を向けていたことは間違いないようで、それゆえに才能の部分でバイロンに認められているシェリーに対し嫉妬していた、と語られることが多い。映画ではバイロンシェリーというわがままな詩人に翻弄される立場としてメアリーと自分を同じ立場の人間として共感しているような描写が大きい。彼はある意味でシェリー以上にメアリーの「フランケンシュタイン」の理解者であるのだ。ポリドリだけではない。クレアもそうだ。彼女も結局バイロンからは真剣には想われていないことを知るが「フランケンシュタイン」の怪物に共感を示す。バイロンの評こそ無いが、シェリーは最初感心するも頓珍漢なことを言う。虐げられた者の共感はそうでないものには分かりにくい。しかし世の中の圧倒的多数は虐げられたことのある、或いは今まさに虐げられている人たちなのだ。

 ポリドリがその著書「吸血鬼」をバイロンの著書として出版されてしまったように、「フランケンシュタイン」も最初は匿名で出版された。詩人として有名だったシェリーの「序」が付き、ウィリアム・ゴドウィンに捧げられたことで最初はパーシー・シェリーがその著者と噂されたという。当時は女性作家は一般的ではなく有名な思想家や詩人がいてもその娘や妻に作品を作れるとは思われなかったのだ。結局著者名が明かされるのは1823年の第二版から。現在底本として流通しているのは第三版を元にしている。第二版までとは序盤に文体の改変があるようだが、物語面などでは大きな変更はない、としている。

 そしてメアリーがいざ「フランケンシュタイン」を執筆するシーンは何度観ても涙が出てくる。これらは全てちゃんと小説「フランケンシュタイン」作中に出てくる文章である。

おれは死ぬ。今この身をさいなむ苦悩を二度と味わうこともなく、満たされず、かといって消すこともかなわぬ感情の餌食になることもなくなるのだ。おれを世におくりだした男は死んだ。これで自分がいなくなれば、われわれふたりの記憶さえすみやかに消えてゆくだろう。太陽も星ももはや見えず、頬に遊ぶ風を感じることもない。光も知覚も意識も失せた、その状態に自分は幸せを見いだすのだ。

 「フランケンシュタイン」を物語として知っている人は多いだろう。一昔前と違ってヴィクター・フランケンシュタインとその被造物をごっちゃにしてフランケンシュタインと呼んでいる人も、フランケンシュタインの怪物を物言わぬ怪力だけの存在と思っている人も少なくなったと思う。とはいえ、この執筆シーンの表現の美しさは原作小説「フランケンシュタイン」を読んでこそ。映画化された作品だけを観ていては「メアリーの総て」におけるここのシーンの良さは分からない。映画の後でもいいからぜひ小説を読んで欲しい。


Mary Shelley Official Trailer

 それにしても「フランケンシュタイン」に惹かれる人は女性が多い。原作者メアリー・シェリーが女性なのは当然として、この映画は監督のハイファ・アル=マンスールも脚本のエマ・ジェンセンもそれぞれ女性だ(プロデューサーや音楽も女性)。マンスール自身女性の活動が制限されているサウジアラビアで初の女性映画監督である。なるほどメアリーと通じるところも大きいだろう。日本に目を向けてもその翻訳を担当するのは皆女性だ(僕が最初に読んだ角川文庫版は訳者は男性だったが、現在主に入手しやすい創元推理文庫版、新潮文庫版、角川文庫版は全部女性訳者によるもの)。物語自体は深く物語に関わってくる女性はヴィクターの婚約者エリザベスぐらいしか登場しないにも関わらず、やはり女性はこの「死と誕生」の物語に何か心惹かれる物があるのだろう。

  ジェームズ・ホエール監督の「フランケンシュタイン」とその続編「フランケンシュタインの花嫁」。ボリス・カーロフのいわゆる首にボルトが刺さってて言葉も喋れない怪力の怪物、というイメージを広く定着させた「戦犯」でもあるのだが、それでも実はどの映像化よりも原作の精神を受け継いでいるようにも思う。作品評価は続編の「フランケンシュタインの花嫁」の方が高い。「~花嫁」冒頭はディオダディ荘からはじまりメアリー・シェリーその人が「物語には続きがある」と導入する役割を果たす。演じるのは本編で怪物の花嫁も演じるエルザ・ランチェスター

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  ケン・ラッセル監督のディオダディ荘の怪談会議そのものを映画化した作品。ただコチラはあくまでホラー映画として作られている。全体的に今回や、実際の史実に比べると登場人物(というか俳優)の年齢が高い。

 原作のその後を描いたという設定のコミックスの映画化である「アイ・フランケンシュタイン」感想記事。多少今回書いたことと重複しているとは思いますが。

 

「だがすぐに」と彼は悲しくもおごそかな情熱をこめて叫びました。「自分は死に、今感じることももう感じはしなくなる。燃えるようなこの苦悩ももうすぐ終わる。自分は意気揚々と火葬の山に登ってゆき、劫火の苦しみに凱歌をあげよう。大火の明かりはうすれゆき、自分の灰は風に乗り海へとさらわれてゆくだろう。わが魂は安らかに眠る、よしたとえものを思うとも、今のように思いはすまい。さらばだ」

 そう言うと彼は船室の窓から身をおどらせ。船のすぐそばに浮かぶ氷の塊におりたちました。そうしてやがて波に運ばれ、はるかな闇の中へ消えていってしまいました。 

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

 

 

 

*1:現在角川から出版されている「フランケンシュタイン」はこの時のものとは訳者が異なる別のもののようです

*2:Wikipediaでは「ディダディ荘の怪奇談義」とあり、「ディオダディ館の幽霊会議」「ディオダディ館の夜」などとも呼ばれる、とあるが僕はどこかで読んだ「怪談会議」という呼称が馴染んでいて好きなので正式かどうかは分からないがそう呼んでいる