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心のドナーカード昨日付のブログで「友の死」について書いたけれど、その後で偶然、13年前のある友との別れについて書いた記事の原稿を見つけた。『カトリック生活』に連載している「カトリック・サプリ」のために書いたものだ。 思えば、私の旧サイトはこの友が2005年に作成してくれたもので、その後2008年から闘病生活に入られたので、彼女の負担にならないように私はこのブログを立ちあげたのだった。2010年に亡くなられてから今の新サイトに移った。この友は、私の紹介で、今月亡くなった友のパリのアパルトマンに泊まられたことがある。そのことで検索していて偶然この原稿を見つけて読み返した。年齢も状況も全く違うお二人だが、彼女らに感謝する私の気持ちの向かう先が一貫していることに自分でも驚いた。ここに記録しておくことにする。 私にできる限り、多くの人の善意を伝え、つないでいきたい。 カトサブ46 心のドナーカード
モントリオールのジーザス 一九八九年のカナダ映画に『モントリオールのジーザス』(ドゥニ・アルカン)というのがあった。ヒッピー風の若者たちがイエスの受難劇を上演する話だ。ようやく上演にこぎつけたのに、クライマックスの十字架のシーンで事故が起きてイエス役の若者が死んでしまう。悲劇的な結末のはずなのだが、最後に、若くて死んだ彼の臓器が、臓器移植を待っている多くの患者のところに届けられて人々に新しい命の可能性を開く結末になっている。その思いがけない「希望」の輝きに照らされて、復活とか永遠の命とか自分を捧げるということの歓びが理屈抜きにせまってくる。 受難劇は挫折したのだけれど、若者の命は別のかたちでつながれていったのだ。イエスが残した聖餐という儀式も、臓器ならぬイエスの血と肉を人々が同化して、連帯して命をつなげていくという希望のメッセージを確かに担っている。 世の中には病気や障害に苦しみ、臓器移植にだけ治癒の可能性をかけている人たちがいる。その人たちを個人的に知ることなく、ただ、自分が死んだ時にリサイクル可能な臓器を提供するという意思を記したのがドナーカードと呼ばれるものだ。事故死などでは臓器は傷ついていない場合も少なくないから、『モントリオールのジーザス』のように、各地に散らばる多くの人を助けることもあり得る。場合によっては、生きている時には思いもよらないような広がりで、生前の意思が見知らぬ人々の救いにつながるのだ。それは決して「偶然」ではなく、与える意思と求める気持ちとが出会い、結びあわされる次元がどこかにきっとあるからなのだろう。
薔薇の雨 思えば、カトリックにおける聖人崇敬における人々の祈願と期待にも同じような出会いの次元が存在する。近代フランスの生んだ人気聖女であるリジューの聖女テレーズは、少女のころから地元のカルメル会に入って、外の世界で活動することなく二四歳で夭逝した。そのローカルな聖女は、神へのとりなしを願って祈る人々に数々の「奇跡」をもたらすことで世界的に有名だ。もともと利発で信仰深い娘だったが、病弱で早逝したくらいだから、生前に大きな力を発揮したわけではない。そんな彼女がどうして死後に人々から頼られるようになったかというと、それは、彼女自身が、死んでから役に立つことを誓い、約束したからである。テレーズは、ある聖人が病の回復を求めて祈った僧に応えて、恩寵が与えられる徴にベッドの上に薔薇の花を雨のように降らせたという話に感動した。 「私も死んだ後で薔薇の雨を降らせるわ」と姉に語り、死の二週間前に修道院の庭の薔薇の花びらを指して、これが後で役に立つからとっておいてください、と言い残した。死ぬ前に神への祈りや取次を約束しておけば、みんなに祈ってもらえる。呼び出してもらえさえすれば、神の国にいる自分は、きっと役に立てるに違いない。テレーズはそう考えたのだ。実際、修道院内では不思議なことがたくさん起こった。テレーズの死後一年経って、『ある魂の物語』という自伝が叔父の手で出版され、多くの人が若くして亡くなった修道女の意思を読み取り、神への取り次ぎを祈った。奇跡の治癒を得たという証言が世界中からカルメル会に寄せられた。これらの奇跡の記録は『薔薇の雨』というタイトルで、テレーズの列聖までに、三千ページ以上に及ぶ七巻が次々と出版されたのである。 言ってみれば、神のもとに召された後で、より自由になって人の役に立ちたいというテレーズの意思は、心のドナーカードのようなものだった。それは彼女自身の意志であり希望であり、恩寵を必要としている多くの人々への招きだった。障害のある子供をテレーズの墓に連れてきて奇跡の治癒を得た人もいた。リジューには大聖堂が建てられ、二一世紀の今も多くの巡礼者が訪れる。心のドナーカードは救いを求める人がいる限り有効で、奇跡のあるなしにかかわらずリジューでは多くの人が巡礼者の世話をし続け、助け合う心でつながっている。
ある友の死 一月の末、インタネット上で私のサイトを作り管理してくださっていた女性が亡くなった。まだ若かったし、治療法によっては助かったかもしれないという病気でもあり、手術を回避した彼女の選択に納得できなかった人も少なくなかったと思う。病や苦しみは人を孤独に追いやる。多くの人が彼女のために祈ったし、その心は通じていたとは思うが、無力感や絶望が少しずつ関係性を蝕んでいったのも事実である。二年半の闘病の後で、彼女はようやく痛みや苦しみから解放された。同時に、遠くにいて彼女の苦しみを分ち得ないという罪悪感から解放された私もいた。お通夜や葬儀には多くの方が集まり、彼女を悼む心と供養する心を共有できて、魂の響き合いの中に一種の安らぎさえ感じたということだった。 縁あってサイトを運営していただいたが、私は彼女と個人的につきあいが長かったわけではない。実際にお会いしたのも数えるほどであり、インタネットを通じたヴァーチャルな関係がほとんどだった。けれども、ブログで彼女の逝去を伝えると、サイトやメールを通じて、何人もの方が名も知らない彼女の冥福を祈り、感謝の言葉を表明してくださった。実際、彼女の運営してくれたそのサイトを通じてご縁ができたり、リアルでもヴァーチャルでも友達になったりした方たちもいる。彼女の闘病中も、彼女の生んでくれたささやかな場は生きていたのだ。 彼女が亡くなってから、その意味があらためて迫ってくる。私と彼女の最後のメールは、彼女が全快したら、今よりももっと人の役に立てるようなネットワークをいっしょに作ろうね、という内容だった。彼女はこの世の意味では「全快」しなかったけれど、私は彼女の「心のドナーカード」を受け取った一人である。人が、生きて、愛して、つながるというあり方は多様であることを教えてもらった。 彼女とは、生前は友人というにはあまりにも短く浅いつきあいだった。でも、今はたいせつな友人となった。友情も、信頼も、連帯も、希望も、死を超えて育むことができるのだ。ものを書いて発信することを続ける私にとって、私の書くものがすべて、心のドナーカードになって、見知らぬ人々を見知らぬままで結びつけるようなものであればどんなにすばらしいだろう。臓器提供者としては年齢からいっても性能からいっても役に立たないだろうが、心のドナーカードだけは、しっかりと携えて、生きていきたい。
by mariastella
| 2023-02-16 00:05
| 宗教
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