そういちコラム

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日本とアメリカの選挙・政治に影響を与える嫌悪感

10月の日本の衆議院選挙と先日のアメリカ大統領選挙を通じて、私は「今の政治を動かしている嫌悪感や憎しみは何だろうか」ということを考えました。

何かを嫌い・憎む感情が、今の政治には決定的な影響をあたえていると思うのです。現代の先進国のような、以前ほどの経済成長ができなくなった社会、つまり将来への期待を持ちにくい社会では、嫌悪感のような人間のネガティブな面が強い影響力を持つ、ということです。

そして、私のなかに浮かんできたのは、「教師」あるいは「教師的知性」という言葉です。ここで「教師」というのは、一般な意味合いとはやや異なる、私なりのものです。その「教師」「教師的知性」は今、日本でもアメリカでも、以前よりもさらに嫌われているのではないか。

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では、「教師的」とは、どういうことか。

それは、近代の知識人たちが歴史的に生み出した、「正統」とされる価値観や教義を、社会の現実的な問題解決とは距離を置いた立場で「正しい」ものとして説く姿勢のことです。

「“正統”とされる価値観」とは、たとえば、自由や平等といったことです。最近の政治的な争点にもなっている、妊娠中絶の自由や、ジェンダーの平等は、近代が生んだそのような価値観から派生した考え方です。

そして、「正統」な価値観から逸脱する者を、「教師」は「不適切」だと叱るのです。これは、「優等生」的だともいえます。

断っておきますが、そのような存在は社会に必要です。学校の先生は、まさに上記のような「教師」の立ち位置にあります。それは必要な役割です。

そして、現代においては、政治家や政治的発言をする知識人、あるいはそれを支持する人たちのかなりの部分が、これまで以上に(私に言わせれば必要以上に)「教師」的になっているように思います。これは、たとえば「平等」意識のような、近代的な価値観が圧倒的に優勢になった結果です。

「ポリコレ」とか「キャンセルカルチャー」といった、教師的な人たちが「正統」から逸脱した言動を非難・排斥することに関わる言葉が一般化したのは、社会のある部分における「教師」化をあらわしています。

そして、ここで「教師的知性」と呼ぶ「ある種の知性」に過ぎないものを、知性そのものや知性のすべてだと勘違いしている知識人もいるわけです。たとえば、「○○支持は反知性である」といった言い方。これは、傲慢になっているということです。

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ここで述べたような「教師」的な知性・言動に嫌悪感を抱く人は、当然多くいるはずです。

たとえば、「現実を見ないで格好いいことばかり言っている」といった嫌悪感があり得ます。「平等や人権の理念をふりかざして、真面目にやっている人間が割を食うことになっている」と思う人もいるでしょう。

「教師」やそれに追随する優等生に対して、好きになれないという感覚は、多くの人たちのあいだであるはずです。

社会のなかでかなりの割合を占める人たちは、リベラルといわれる政治勢力やそれを支持する知識人に、「教師」や「優等生」をみているのだと、私は思います。

そして、「教師」に真っ向から批判を浴びせる政治家や知識人に好意を抱くのです。また、その人たちは、万人にとって分かりやすい、届きやすいメッセージで、熱量をもって語りかけてくれる。

一方、「教師」たちのメッセージは、読みにくい教科書みたいなところがあります。かなりやわらかく述べてはいるのですが、頭に入れるのに一定の努力を要します(日本のリベラルや左派の政党のサイトをみてください)。そして、今や最も万人に届きやすいメディアであるインターネットの活用にも不熱心なところがある。つまり、本気で万人に語りかけていないということです。

そこには、自分たちが「正統」であると自負する人間特有の傲慢さがあるのではないでしょうか。「自分たちは正しいのだから、わかってもらえるはずだ」というわけです。

そして、「それほどはわかってもらえなかった」という選挙結果になると、「わからないのは、有権者がダメなんだ」という感じになる。あからさまには言わないにしても、その認識が言葉の端々からにじみ出てしまう。

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私自身は、近代が生んだ「正統」とされる価値観、たとえば人権、自由、平等、法の支配、民主主義を支持・信頼しています。このブログでも、ふつうの教科書よりは読みやすいつもりですが、「教師」みたいなことを述べているところがかなりあります。

そんな私ですが、「リベラル側の人たちは、自分たちに染みついた“教師”的なあり方を真剣に反省し、修正する必要がある」と思っています。

まずは、「万人に語りかける」ことを、きちんとやり直す必要がある。また、「現実の問題解決」ということも、これまでよりも真剣に取り組む必要があるでしょう。要は「現実に向き合おう」ということです。

そういう立て直しをしないと、悪いケースだと、「教師」化を是正できずに衰退するリベラルとともに、近代の偉大な成果であるさまざまな価値観まで支持や信頼を失ってしまうかもしれません。

「風呂の湯と一緒に赤子まで流す」という慣用句があります。「何かを改善するため、不要なものと一緒に大事なものも捨ててしまう」ということです。

汚れたお湯は捨てていいのです。しかし、そのお湯と一緒に、自由や平等や法の支配のような「赤子」まで捨ててしまうようなことは、絶対に避けるべきです。気をつけないと。

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