努力型主人公から情報型主人公へ

ストーリーからゲームへ

ロリコンファル - IDEAS NOTE −浅田彰と、天才神話と、演出−

努力の没落を、大きな夢(世界征服や人類滅亡)を失って没落した悪役と結びつけて考えているところが、オタキング(岡田斗司夫さん)は流石ですね。

それはまさに、大きな物語が凋落する、という図式ですね。特定の価値を正当化する(メタ)言説が消失すると、欲望を未来に先送りしてまで努力する動機が失われるわけです。これは、虚構の中だけではなくて、現実の(格差)社会でも、似たようなことが起こっていて、虚構作品もそのような世相の変化を反映しているでしょう。

そういう変化を整理して、「ストーリーからゲームへ」という図式で捉えています。ストーリーは始めがあり終わりがありますが、ゲームは筋書きがありません。それに対応して努力型(成長型)主人公から、情報型主人公へ移行していると考えます。情報型主人公は規範意識を欠き、他者は操るための盤上の駒でしかない。セカイ系から決断主義への流れとも言えるでしょう。悩むシンジから悩まないライトへという流れ。

「デスノート」や「ライアーゲーム」は、典型的な情報型のタイプですが、最後の努力型とされたドラゴンボールも、連載後期には「スカウター」や「スーパーサイヤ人X」や「界王拳X倍」が出たことで、情報化(ゲーム化・シミュレーション化)に向かったと思います。クリリンが努力しても簡単にパワーアップするサイヤ人には追いつけません。

イデオロギーからコミュニケーションへ

努力型から情報型へ、という変化は、イデオロギー型からコミュニケーション型へという変化と、同じ構造をしています。イデオロギーに同一化するための努力であり、コミュニケーションするための情報と捉えれば、分かりやすいでしょう。コミュニケーションという風に言い換えると、バトルがないタイプの作品にも適用しやすくなります。

美少女ゲームで言えば、ハーレム型ギャルゲ・エロゲの主人公が、コミュニケーション型でしょう。基本的に努力しなくても女の子が集まってくるんだけど、その一方で女の子たちの争いを調停するという側面が出てきます。昔なら、主人公が浮気しない変わりに女の子は応援するという構図だったのですが、特に「うる星」あたりをメルクマールに、ハーレム型ラブコメが隆盛してきます。

そうなると、努力するのはむしろ女の子で、主人公が応援するという形が見られるようになります。ギャルゲ「サクラ大戦」辺りは、まだ主人公自身も闘うしリーダーとしての面目を保っていますが、「ときメモ」も「シスプリ」も、無個性な主人公が個性的なヒロインたちを理解していく、という形態になっています。他にもギャルゲや純愛系エロゲには応援型主人公が多いです。

そうして、「イデオロギーの善悪」の代わりに、「コミュニケーションの成否」という要素が、物語の重心になっています。これは「デスノート」や「コードギアス」のような野望型主人公はもちろんそうですし、「Fate」の士郎とセイバーや、「ひぐらし」の圭一とレナも、理解不足のせいで、死にそうな(死ぬ)ハメになっているでしょう。さらに、この(ディス)コミュニケーションを重視する流れは「ハルヒ」から「らき☆すた」に至る流れを特徴付けています。

蛇足

東浩紀先生も思想史的にはこの系譜(若き天才)なんですが、東先生は…その…ルックスが…

う〜ん、若い頃は「圧倒的にカッコいい美しき若い天才*1」だったんじゃないでしょうか。よく知らないですけど、『存在論的、郵便的』の写真を見ると、この頃は痩せていますね。

*1:何となく「光速の異名を持ち重力を自在に操る高貴なる女性騎士」のような響きが感じられる