人にやさしく

 先日、上野駅前のマルイでとある人と待ち合わせをしていたところ、隣で笑いながらゆで卵を剥いているアメリカ人観光客らしき人たちを見かけた。ゆで卵を笑いながら剥いている理由は分からないが、「この人たちなんだろう。近寄らないでほしい。」と思って、私は存在感を小さくしていた。

 ささやかな願いは空しく、ゆで卵を剥いているアメリカ人観光客が英語で「東京国立博物館はどこですか?」と話しかけてきた。

 普段、外国人に道を尋ねられたら案内をする方だと思う。しかし、笑いながらゆで卵を剥く人たちにどうやって案内をすればいいのか分からない。ちょっと悩んだがいつものように道案内をすることにした。

 道中、どう話しかければいいのか分からず、ずっと悩んでいた。相手は笑いながらゆで卵を剥いているような人たちだ。とりあえず「Do you know Bando Eiji?」って聞けばいいのか?多分、甲子園に興味を持っている外国人はほんの僅かだと思う。今、書いていて気づいたのだが、彼はキン肉マンのファンだったのか。そうすれば、「ゆでたまご」を笑いながら剥く理由は分かる。だとしたら、なぜ、東京国立博物館なのか。私の知る限り、東京国立博物館にキン消しはない。頭の中で色々と考えている内に、道案内のミッションを終えていた。こうやって外国人観光客の道案内をしたことはかなりあるのだが、ここまでする理由は留学時代の体験があるからだ。

 釜山に留学していたとき、休みになると必ず大学の外に飛び出して、韓国の様々な史跡を巡る旅をしていた。

 韓国の古都として知られている慶州へ旅をしたとき、私は旅の締めくくりに「五陵」と呼ばれる遺跡に行った。私がちょうど、その場所に着いたのは17時30分だった。韓国の公共施設は18時00分に閉まるので早めに観ようと思ったのだが、思いのほか観るものがたくさんあって、気づいたときには時計の針が18時15分を指していた。

 「空けてくれているよな」と思って、出口の門に近づいたところ、門が閉まっている。だが、私は不安にならなかった。理由は簡単で、遺跡にあるような古い門は内側から閉めることを知っていたからだ。見た限り、内側から閉めていなかったので、きっと開いているだろうと思い、門を開けようとしたが開かない。外側から門が閉められていたのだ。

 人間、絶望的な状況になると、体育座りをする。

そこで思い浮かんだ選択肢は

① 塀を乗り越えて脱出する

② 古墳で一泊する

③ 助けを呼んで出してもらう

の3つだ。
 ①をやろうとしたのだが、監視カメラがある。もし、監視カメラに撮られたら確実に強制送還だ。②も考えたが、これももし、この遺跡の管理局の人に泥棒と勘違いされたら強制送還だなと思って、私は助けを呼ぶことにした。

 門を思いっきり叩きながら日本語で「助けてー。」と叫んだ。人は窮地に追いやられるととっさに出てくるのは自分の普段遣いの母語だ。大学で韓国語を教えてくれる語学堂では「外に行ったら韓国語を話しましょう。」なんて言っているけど、そんなことをいちいち守っていられない。
 叫び続けていると、外から韓国語で「どうした?」というおじさんの声が聞こえてきた。私は日本語で「閉じ込められたんですー。」と情けない声で話すと「分かった。ちょっと待ってろ。」と言って、助けを呼んでもらった。

 「なんとかなった」と思って、遺跡の管理事務所の人を待っていたのだが、遠くからサイレンの音がする。「あれっ?どっかで火事でもあったのかな?」と思っていたところ、サイレンの音が近づいてきて、「ああ、これは自分のために来たのか。」と気づいたときにははしご車で助けられていた。

 はしご車を呼んでくれたおじさんはどうやら地元の人だったらしく、家族で夕方の散歩をしに来ていたそうだ。私は「ありがとうございます」って韓国語で言っておいた。

 そのときから日本に来たどんな外国人観光客にも優しくなったと思う。

 最近、電車で見かける外国語表記に意見を言う人たちが居るらしい。外国人観光客にとって、いざとなったときに飛び出してくる言葉は自分が普段喋っている母語だけだ。パニックになって外国語で喋れる人なんて滅多に居ない。
日本は観光立国を目指しているらしいけれど、こうした思いやりがおもてなしなんかよりも大切だと思う。