名もなきサラダ

 

 

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 我が家には謎のサラダがある。キャベツやにんじん、きゅうりの千切りが酸っぱいドレッシングで和えられていて、最後に粗く挽かれた唐辛子の粉を振りかける。暑いこの時期にはさっぱりしていて美味しい。
 小さいころからこのサラダを食べているのだが、どうやらこのサラダは焼肉屋をやっていたうちのばあさんが作り始めたものらしく、この頃から店に通うお客さんから評判が良かったようだ。現在、その味を私の父と母が引き継いでいて、我が家の味となっている。

 ところでこのサラダなのだが両親に聞いても名前が分からない。どんなに調べてもこのサラダの名前が分からないのだ。なので、私はこのサラダをただ単純に「サラダ」と呼んでいた。
 ところで、私の趣味はSNSでの「飯テロ」である。皆がお腹を減らしている時間に家飯の写真をアップロードする。写真をアップロードしているとき、YouTubeでルイ・アームストロングのWhat A Wounderful Worldを流す。こんなことをしているときは「グッドモーニング」と言う時間ではなくて、「こんばんはー。」と言う時間だ。(このネタの意味が分かった貴方は多分、映画ファン。)

 この日も我が家のサラダの写真をTwitterにアップロードしてたけれども、「どうせだったらこのサラダの名前を知っている人が居たら教えて欲しいなぁ。」と思って、写真とともに「うちの父方のばあさん(済州島出身)がお店で出してたサラダなんだけど名前が分からない。」と言葉を添えた。
 やっぱりSNSは凄い。言葉の波に嫌になってしまうことがあるけれども、すぐにこのサラダがどうやら「チョレギサラダ」と呼ぶということを知った。

そうか、私が小さなころから食べ続けているこの「サラダ」はチョレギサラダと言うのか。

そんなことを思ったけれども、それでも私は今でもただ「サラダ」と呼んでいる。
 外から言葉を与えられていると、とても安心する。それは自分が何者なのかを誰かが決めてくれるからだ。私みたいな在日はそんなことが多いかもしれない。「民族」とか「国家」とかそうした言葉は最初から自分が持っているものではなくて、外の誰かが与えてくれる言葉だ。いつの間にか、そうした言葉が自分のものだと思い始めて、自分自身も外の誰かに「民族」とか「国家」といった言葉を教えてしまっている。
 でも、ときには外の誰かから与えてくれた言葉じゃなくて、自分の言葉で自分を示す言葉を作っても良いんじゃないだろうか。
 自分でそうした作業をするというのはとても孤独で苦しい作業になる。誰かから言葉を与えてくれるときの「分かってくれた」と思う瞬間は味わえなくなるし、そうした言葉を与えられたことによって何か社会的な地位を得たような気持ちも味わえなくなる。でも、そうした孤独で苦しい作業を経ている瞬間が一番、豊かな瞬間なのではないか。私がなんだか分からないもやもやをどこにぶつけて良いのか分からなかったころ、あのときの私はなんでこんなに苦しいことをしているんだろうと思っていたけれども、今から思い返したら、あのときは良かったと思っている。結果として、そうした瞬間があったからこそ、自分の言葉を今でも作ろうとすることになったんだから。そういうときがあったから私は私の言葉を大切にしようと思った。
 多分、私はこの「サラダ」を「チョレギサラダ」と名前を変えて呼ぶことはないだろう。それは「サラダ」と呼ぶからこそ私はこの料理を私のものだと感じることができるし、この「サラダ」を大切にしていきたい。

  今日も「サラダ」を食べてみる。

うん。私にしか知らないいい味だ。