くろいぬの矛盾メモ

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少女マンガ家は、なぜディテールを無視するのか?

マンガについて雑感。
(途中で眠くなって文章がおかしくなってるので、それも含めてお楽しみください)
 
女性作家、特に少女マンガ家って、あまりディテールを気にせずに、雰囲気だけで
好みの(例えば映画的な)シチュエーションを描こうとする傾向がある気がする。
 
それが、「そのキレイな顔をフッ飛ばしてやる!」的なトンデモ描写につながるんだと思う。
岡崎京子から安野モヨ子につらなる系統の漫画家も、少ない線と言葉で空気感を
作り出す力量は凄いが、だいたいそんな感じ。
萩尾望都とか高河ゆんとかCLAMPとかの大御所でも、そうだと思う。
(最近の少女漫画家、知らないんだよね……)
 
少女漫画って、特殊な能力を持った主人公(探偵とか医者とか)が色んな依頼人と絡む、
1話完結の人情ものみたいな作りのストーリーってあるよね。
はっきり言えば、手塚治虫のブラックジャックみたいな作りの話。
少年漫画では、幽遊白書の初期とかもそんな感じだし、シティハンターとかもそれに近い。
こういうストーリー構造のマンガは、なぜか女性ファンに受けている気がする。
 
ちょっと古くてマイナーだけど、かずはじめの「マインドアサシン」も、
まさにそういうスタイルだった。
あれはまさに前述したような、女性作家による雰囲気でシチュエーションを
描く連作人情ものマンガの典型だったが、それがジャンプに載っていたという
のが面白い。
 
 
多くの男性作家の場合って、下調べしてディテールまで描ける自信がないと、
そもそも描こうとしないんじゃないのかなあ。
どっちがいいかじゃなくて、そういう傾向があるんじゃないかと言うお話。
ある意味、ディテールに縛られずに自由にストーリーを描けるというメリットも大きい。
 
 
その意味で、山田玲司(Bバージン、絶望に効く薬の人)は男性なのに
非常に女性漫画家的だと思う。
今連載中の環境マンガ、ココナッツ・ピリオドなんて、武器や科学的な考証がひどい。
ディテール好きな男性なら、絶対に描こうとしないタイプのマンガだ。
男性的なフェティッシュとは無縁な人なんだと思う。
 
余談だが、この作者の唯一の傑作は「アガペイズ」。これは素晴らしい。
作者の特異な作風が奇跡的にハマった唯一の作品。ゲイが風水で甲子園を目指す話だ。
  
 
さて。
ここで今回のエントリの表題についての回答が出る。
 
少女マンガ家がディテールにこだわらないのは、フェティシズムとは無縁だからだ。
逆に男性の漫画家でディテールへの異常なこだわりを見せる典型は、「ザ・ワールド・イズ・マイン」、
「キーチ」、「シュガー」などの新井英樹だろう。少女マンガとは対極にいるマンガ家だ。
登場するモブ(通行人など)の一人ひとりの言動にもリアリティを追求するので、マンガの密度が異常である。
 
それにしても女性には、本当の意味でのフェティシストがほとんどいないのは何故だろう。
もちろん、男性のメガネやスーツなどの衣装や、手の甲に浮き出る血管などのパーツを
好む女性は多いが、それはコスチューム萌え、パーツ萌えのレベルでしかない。
 
 
来週で最終回を迎えるネウロの作者の場合も(男性だよね?)、ディテールよりも
シチュエーション重視と言う感じがするが、あれは単に書きたいストーリーの内容に、
まだ画力が付いて来てない感じだ。
 
独特のフェティシズム、奇妙な作風は、初期作品「魔少年ビーティー」の頃の荒木を思い出す。
猛烈に絵がうまくなったら一気に化けそうなんだけどなあ。
 
 
猛烈に絵がうまくなった漫画家と言えば、古谷実なわけだが。
ここんとこ数作品で、執拗に同じテーマの作品を描き続けているのが凄い。
 
要は、「日常と狂気は薄皮一枚で隔てられているだけなんだよ」ということなんだと思う。
しかも、平和な人たちから見て狂気に見える方も、それはそれで日常なんだよ、と。
同じ街、同じ場所にいる人々は、それぞれの都合でそれぞれの日常を生きているわけだ。
 
同じ場所を歩いていても、目的が違えば、街の見え方はまるで変わって来る。
これからデートに向かう人と、これから人を殺しに行く人とが、同じ街を歩いている。
自分以外の目的の人間がいるってこととか、その人からの街の見え方とか、
意外と想像できないもんなんだよね。
自分は、普段良く遊びに行く街を、店舗営業の立場として歩いた時に、その感覚の
違いにびっくりしたことがある。
 
その意味で、池袋のナムコナンジャタウンは、街と言うものの特性を見事に表した稀有なテーマパークだ。
狭い立地を最大限に生かすように作られているため、異なるアトラクションを楽しむ人々が、
同じ街角を交錯して行くのだ。
鍵となるアイテムを持っていなければ、単なる背景にしか見えない扉が、あるアトラクションに
参加することで、出入り可能な重要地点になる。
爆弾処理をするレンジャーと、妖精の卵を育てる少女と、街の謎を解く探偵が、まったく同じ街角を通る。
さらに言えば、プリンを買いに来た人や、占い師を探す人も、そこを通る。

RPGで言えば、さまさまな依頼を受けて報酬を得る、クエスト制のゲームの仕組みに近い。 
こんなテーマパークは他に無い。ディズニーランドも凄いが、ナンジャタウンもスゴい。
ぜひ、一度体験して欲しいテーマパークだ。 
 
 
話がどんどん飛んで行くが、ここで再び戻そう。
ストーリーと、ディテールの話に、である。
つまり、このナンジャタウンの街の例と同じじゃないかと思うのだ。
 
通行人やアイテムにもツジツマをあわせることで、重層的なリアリティが生まれる。
つまり、彼らは主人公のドラマの背景や小道具ではなく、独自のドラマを持っているということだ。
 
ディテールやサブのドラマがメインストーリーの犠牲になる例があるように、
ストーリーやキャラクターがテーマの犠牲になることも、良くある。
いわゆる、神話的なご都合主義(デウス・エクス・マキナ=機械仕掛けの神)と言うやつだ。
 
 
このエントリも、もともと放談の予定だったが、予想以上に話が拡散しすぎて終わらなくなって来た。
ブログの神様が降りて来て、終わらせてくれないかなあ……。