くろいぬの矛盾メモ

旧・はてなダイアリーから移行しました。現在は「モフモフ社長の矛盾メモ」 をたまーに更新しています。

新しくブログをはじめました

今日から、新しくはてなブログを始めました!
 
 モフモフ社長の矛盾メモ
 http://okayasu.hatenablog.jp/

 
このブログは今後は更新の予定は無いので、こちらに移行を!
 
ソーシャルメディアやらインターフェースやらの話から、
ネット界隈の話題に乗っかったり、果てはゲーム論や物語論まで、
気まぐれに書く予定。
今後ともよろしくお願いします。

訃報を知らせるtwitter bot、追悼(ついっとー)をリリース

  
本日付けの訃報をいちはやくお知らせするtwitter bot、
追悼(ついっとー)@tsuitou をリリースしました。
 

http://twitter.com/tsuitou
 
皆様のご冥福を心よりお祈りいたします。

「恋の拡張子」の詞に曲をつけて歌ってもらった.flv

 
はてなハイクの「ぼくの考えた拡張子」キーワードに書き込んだネタ、
拡張子をモチーフにアイドル歌謡風に書いてみた「恋の拡張子」という詞。
 

「恋の拡張子」
 
夏の日の.html 集合写真 .jpg
二人だけ残して .psd 切り抜いた
あなたに送る .txt 計算しすぎて .xls
気持ちこめた .ppt 届けたいから .pdf
 
ああ恋は .exe 動き出したらとまらない .bat 
あなたとの思い出が .mpg
今も胸に残る .zip

 
この歌詞に、なんと立派な曲をつけてもらいました!!
 
作曲編曲・演奏・動画制作していただいたのは、はてな界隈のネタを題材にした
楽曲制作で知られ、あまりの仕事の速さゆえに「ジェバンニ」との異名を持つ、
増田P(id:mazzo)さんです。
 
その動画が、こちら!!
D
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6994301

  
曲を付けることを考えずに勢いで作ってしまった詞に、こんなに綺麗なメロディを
つけていただけるとは!!
メインボーカルは初音ミク、拡張子バックコーラスは巡音ルカとのことです。
.htmlなどの発音が格好いい。拡張子をコーラスにするのは、まさにイメージ通りでした!!
そして最後のリフレインの余韻が効いてます。綺麗なバラードだなあ。

もともとあの歌詞を作ったのは、「恋の○○○」のようなアイドル歌謡などに良くある、
特定のテーマに関する恋の隠喩(メタファー)をつめ込んだ歌詞が大好きだからです。
元祖は、小林旭の「恋の山手線」(モダンチョキチョキズもカバーしてた)あたりかなあ。
おニャン子クラブからモーニング娘。まで、この手のテーマの曲は星の数ほどあります。
 
隠れた名曲としては、隠喩(メタファー)の天才・猫沢エミの「コンコルド」、「ロボット」。
どちらも、恋愛を飛行機やロボットにたとえて歌いきった名曲です(以下で聴けます)。
D
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1932140
 
この手の恋のメタファーを集めた曲で、オススメがあったら教えて下さいねー。
 
ともあれ、自分の書いた「恋の拡張子」が曲になるとは!!!
いやあ予想以上に嬉しいな、これ!
増田Pさん、本当にありがとうございます!

実名明かしはブロガー発達段階における「黄門期」の典型例

 
人気ブログ「ハックルベリーに会いに行く」の著者が、売れっ子放送作家としての
正体を明かし、話題を呼んでいます。
 

ぼくの名前
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090508/1241790828

 
彼の場合は、現実世界でも一線で働く放送作家として成功をおさめており、
ブログの世界でも短期間で大きな成功をおさめていると言えます。
 
世の中には、現実世界とネット世界での人格にギャップがありすぎて、
アイデンティティ・クライシスに陥る人もいますが、今回はその逆です。
どちらでも成功をおさめたことで、同化(フュージョン!)してさらに
パワーアップ(岩クル夏ベリー)したい気持ちが起こってしまったわけです。
 
このように正体を明かしたい「水戸黄門欲」が抑えきれなくなった末、
今回のような突発的な行動に出たものと思われます。
417件と言う、わりと現実感のあるブックマーク数を公開のトリガーにしたのも、
格さん、助さん、もうそれくらいでいいでしょう。と言いたいがためです。
  
 
これをブログ心理学用語では、ブロガー発達段階における「黄門期」と呼びます。
 
■更新期(更新が楽しくてしょうがない)
 
 ↓ 
 
■黄門期(自己顕示欲が抑えられない)
 
 をたどり、多くのブロガーは

■アディオス期(もう飽きたごめん)
 
へ至ります。
 
 
承認欲求や自己顕示欲を抑えて、その先のブロガー完成人格に至るマッチョな例は少ないと言えます。
その意味も含めて、岩クル夏ベリーさんがアディオス期を乗り切れるか、今後のさらなる活躍に期待しております。
 
 
P.S.
元ネタのフロイト精神分析については、こちら(wikipedia)。
 
リアル肛門期のブロガーさんもいたみたいですね。なにこれひどい。

このエントリが1000ブクマいったらぼくの肛門をアップします。
http://d.hatena.ne.jp/murashit/20090425#1240649272

脂肪フラグが立った!

 
■「俺、今日の飲み会が終わったらラーメン食うんだ…」
 
■「地下室か…(ガサッ)ん、なんだお徳用ポテチの袋か。驚かせやがって」
 
■「俺、ちょっと先に行って食っとくよ」
 
■「精進料理なんか食ってられるか!俺は部屋で一人で食う!」
 
■「もしもし。ん、こんな時間にクール宅急便が届いたようだ」
 
■「ん? なにかいい香りがしたな……ちょっと見てくるよ」
 
■「食べ疲れたな……少しの間眠らせてくれ……」
 
 
 
※参考ページ(死亡フラグ関係)
 
死亡フラグとは 〜 はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%bb%e0%cb%b4%a5%d5%a5%e9%a5%b0

死亡フラグが立つセリフ 〜 ライトノベル作法研究室
http://www.raitonoveru.jp/howto/h/267a.html

痩せると死亡リスクが高まり、太っても死亡リスクはあまり変わらない
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090423_dead_risk/

少女マンガ家は、なぜディテールを無視するのか?

マンガについて雑感。
(途中で眠くなって文章がおかしくなってるので、それも含めてお楽しみください)
 
女性作家、特に少女マンガ家って、あまりディテールを気にせずに、雰囲気だけで
好みの(例えば映画的な)シチュエーションを描こうとする傾向がある気がする。
 
それが、「そのキレイな顔をフッ飛ばしてやる!」的なトンデモ描写につながるんだと思う。
岡崎京子から安野モヨ子につらなる系統の漫画家も、少ない線と言葉で空気感を
作り出す力量は凄いが、だいたいそんな感じ。
萩尾望都とか高河ゆんとかCLAMPとかの大御所でも、そうだと思う。
(最近の少女漫画家、知らないんだよね……)
 
少女漫画って、特殊な能力を持った主人公(探偵とか医者とか)が色んな依頼人と絡む、
1話完結の人情ものみたいな作りのストーリーってあるよね。
はっきり言えば、手塚治虫のブラックジャックみたいな作りの話。
少年漫画では、幽遊白書の初期とかもそんな感じだし、シティハンターとかもそれに近い。
こういうストーリー構造のマンガは、なぜか女性ファンに受けている気がする。
 
ちょっと古くてマイナーだけど、かずはじめの「マインドアサシン」も、
まさにそういうスタイルだった。
あれはまさに前述したような、女性作家による雰囲気でシチュエーションを
描く連作人情ものマンガの典型だったが、それがジャンプに載っていたという
のが面白い。
 
 
多くの男性作家の場合って、下調べしてディテールまで描ける自信がないと、
そもそも描こうとしないんじゃないのかなあ。
どっちがいいかじゃなくて、そういう傾向があるんじゃないかと言うお話。
ある意味、ディテールに縛られずに自由にストーリーを描けるというメリットも大きい。
 
 
その意味で、山田玲司(Bバージン、絶望に効く薬の人)は男性なのに
非常に女性漫画家的だと思う。
今連載中の環境マンガ、ココナッツ・ピリオドなんて、武器や科学的な考証がひどい。
ディテール好きな男性なら、絶対に描こうとしないタイプのマンガだ。
男性的なフェティッシュとは無縁な人なんだと思う。
 
余談だが、この作者の唯一の傑作は「アガペイズ」。これは素晴らしい。
作者の特異な作風が奇跡的にハマった唯一の作品。ゲイが風水で甲子園を目指す話だ。
  
 
さて。
ここで今回のエントリの表題についての回答が出る。
 
少女マンガ家がディテールにこだわらないのは、フェティシズムとは無縁だからだ。
逆に男性の漫画家でディテールへの異常なこだわりを見せる典型は、「ザ・ワールド・イズ・マイン」、
「キーチ」、「シュガー」などの新井英樹だろう。少女マンガとは対極にいるマンガ家だ。
登場するモブ(通行人など)の一人ひとりの言動にもリアリティを追求するので、マンガの密度が異常である。
 
それにしても女性には、本当の意味でのフェティシストがほとんどいないのは何故だろう。
もちろん、男性のメガネやスーツなどの衣装や、手の甲に浮き出る血管などのパーツを
好む女性は多いが、それはコスチューム萌え、パーツ萌えのレベルでしかない。
 
 
来週で最終回を迎えるネウロの作者の場合も(男性だよね?)、ディテールよりも
シチュエーション重視と言う感じがするが、あれは単に書きたいストーリーの内容に、
まだ画力が付いて来てない感じだ。
 
独特のフェティシズム、奇妙な作風は、初期作品「魔少年ビーティー」の頃の荒木を思い出す。
猛烈に絵がうまくなったら一気に化けそうなんだけどなあ。
 
 
猛烈に絵がうまくなった漫画家と言えば、古谷実なわけだが。
ここんとこ数作品で、執拗に同じテーマの作品を描き続けているのが凄い。
 
要は、「日常と狂気は薄皮一枚で隔てられているだけなんだよ」ということなんだと思う。
しかも、平和な人たちから見て狂気に見える方も、それはそれで日常なんだよ、と。
同じ街、同じ場所にいる人々は、それぞれの都合でそれぞれの日常を生きているわけだ。
 
同じ場所を歩いていても、目的が違えば、街の見え方はまるで変わって来る。
これからデートに向かう人と、これから人を殺しに行く人とが、同じ街を歩いている。
自分以外の目的の人間がいるってこととか、その人からの街の見え方とか、
意外と想像できないもんなんだよね。
自分は、普段良く遊びに行く街を、店舗営業の立場として歩いた時に、その感覚の
違いにびっくりしたことがある。
 
その意味で、池袋のナムコナンジャタウンは、街と言うものの特性を見事に表した稀有なテーマパークだ。
狭い立地を最大限に生かすように作られているため、異なるアトラクションを楽しむ人々が、
同じ街角を交錯して行くのだ。
鍵となるアイテムを持っていなければ、単なる背景にしか見えない扉が、あるアトラクションに
参加することで、出入り可能な重要地点になる。
爆弾処理をするレンジャーと、妖精の卵を育てる少女と、街の謎を解く探偵が、まったく同じ街角を通る。
さらに言えば、プリンを買いに来た人や、占い師を探す人も、そこを通る。

RPGで言えば、さまさまな依頼を受けて報酬を得る、クエスト制のゲームの仕組みに近い。 
こんなテーマパークは他に無い。ディズニーランドも凄いが、ナンジャタウンもスゴい。
ぜひ、一度体験して欲しいテーマパークだ。 
 
 
話がどんどん飛んで行くが、ここで再び戻そう。
ストーリーと、ディテールの話に、である。
つまり、このナンジャタウンの街の例と同じじゃないかと思うのだ。
 
通行人やアイテムにもツジツマをあわせることで、重層的なリアリティが生まれる。
つまり、彼らは主人公のドラマの背景や小道具ではなく、独自のドラマを持っているということだ。
 
ディテールやサブのドラマがメインストーリーの犠牲になる例があるように、
ストーリーやキャラクターがテーマの犠牲になることも、良くある。
いわゆる、神話的なご都合主義(デウス・エクス・マキナ=機械仕掛けの神)と言うやつだ。
 
 
このエントリも、もともと放談の予定だったが、予想以上に話が拡散しすぎて終わらなくなって来た。
ブログの神様が降りて来て、終わらせてくれないかなあ……。
 

インターネットは必ずしも「生の声」のメディアではない

1年前に書いたエントリ「新聞社で読者投稿欄の原稿修正をしてた者ですが」は、反響が大きかった。
「生の声 VS 編集権」と言う、「ネット VS マスコミ」という新旧メディアの対立にも似た構図が、そこにあったからだろう。
 
久々にこの記事がid:y_arim氏の書いた「ネット文化が編集者を失業させる?」で引用されてたので、
ちょっと反論というか反応してみた。
反応の要点は、y_arim氏のエントリのはてなブックマークにも書いた以下の3点。
 
■他人のエントリやコメントから自分のブログへの「引用」も、恣意的に「編集」されている。
■「編集の時代→生の声の時代」という単純な変化や進化ではなく、両者が並存する「多様化」だと思う。
■雑誌の読者投稿欄(ジャンプ放送局/ファンロード/ゲーム帝国/バカサイなど)のニーズが低下したのは確か。

 
ということで、語って行きます。
 
  
■ブロガーも「編集者」である
 
今回、y_arim氏のエントリで引用された部分は以下の通り。
というか、俺の書いた本文自体はまったく引用されてなくて、趣旨を大雑把にまとめられている。

1年以上前にこんな記事が話題になった。
新聞社で読者投稿欄の原稿修正をしてた者ですが - くろいぬの矛盾メモ

 大雑把にまとめると、文章書きの素人ばかりの読者投稿なんて、そのまま載せていたら文意不明確すぎて読めたものではないから編集者が適宜修正するのだ――という話。これに対して、コメント欄やブックマークコメントではけっこうな反発が起こっていた。読者は文字通り、読者の「生の声」を期待しているのだから無編集で載せろ、手を入れるくらいならそんなコーナー作るなとか、なるほど素人の文章は売り物にはならないので、編集されたくないならブログに書けばいいとか。

 ぼくがキモだと思ったのは、以下のコメント。投稿順に「編集」してみた。

hamasta TrashBox そうか、だから時代が変わったことに気づかないんだ。 今のネットユーザーは、ありえないくらい大量の「生の声」を毎日読んでいるんだ。だから生の声が当たり前なんだ。編集されたものを奇妙に感じてしまう。 2008/02/17

ore_de_work 編集されること極端に嫌うようになった それは 時代の流れであり必然だと思う。GPLがみんなを駆逐していったように。 2008/02/18

Sinner media ブログやネットで生の声に慣れると、こういう編集方針は不可思議に思えてくる。文体の編集は当然と思うけど、中身の補強などは本当に必要なのかなあ。 2008/02/18

 b:id:hamasta氏のコメントがあらかた言い尽くしてしまっている。プロの書き物にばかり接してきた世代、あるいは接している職業人には読めたものではない素人の文章に、ネットユーザはすっかり「慣れて」しまっているのだ。

※引用元: ネット文化が編集者を失業させる?
 
ここでy_arimさんの言いたいことって、要は「編集の時代→生の声の時代になってるんだよ!」ということですよね! 
というように、恣意的に引用元の主張を「編集」し、断定してしまうことは、良くあることだ。
「編集されるのって嫌でしょ?」ってメッセージか「釣り」として、意図的にやったようにも見えるが、どうなんでしょ。
>id:y_arimさん
※この引用部分の内容についての反論は、後ほどやるので、まずは「引用と編集」という行為そのものについて述べる。
 
 
でも、ブロガー同士なら、今回自分がやったように、新しいエントリを立てて反論すればいい。
でもマスメディアには、記事に対するコメントやトラックバック機能が無い。
そのメディアを読んだ不特定多数の読者に対して、違うよ!こういう意図だよ!と反論を示す方法が無い。
そう見えてしまうことこそが、「読者投稿内容の編集」が問題になった根本なんじゃないだろうか。
 
とは言え、根本的には同じ構図なんじゃないかとも思える。
例えば、超有名ブロガーが書いた人気エントリに比べ、無名ブロガーが立てた反論エントリは、
どれだけ読まれているのだろうか。
膨大なコメントやトラックバックに埋もれて、多くの読者にはほとんど気付かれないのではないか?
さらに言えば、ブログにはコメントやトラックバックの削除権限もあるし(削除すると荒れる、という抑止力はあるが)。
自分が担当していた新聞の読者投稿欄の場合、掲載前に編集済みの原稿の本人確認を必ず
していた(そこで投稿者が拒否されたら載らない)。
逆にブログでは、引用元エントリのブロガーに原稿確認をしたなんて、聞いたことがない。
 
 
この「読者投稿 VS マスメディアの読者投稿欄」と「無名ブロガーの反論 VS 有名ブロガーの元記事」って、
単なる程度問題なのでは? と思えるのだ。
 
 
■マスコミの責任って、そんなのあるの? 
 
ここまで話を進めると、必ず立ち上がって来るのが「マスメディアの責任」という論点。
1年前のエントリへのコメントでも頻出した、「天下の新聞社がそんなことしていいのか?」みたいな。
要は「マスコミなんだから、もっとしっかりしろよ!」ってやつだ。
 
でも、これってマスメディアに対するツンデレ的な愛情というか信頼感の裏返しなのでは?
まるでアイドルに対する、「○○さんがそんなこと言うなんて、失望しました。もうファン辞めます!」
的なメッセージに見えてしまう。
 
まあ、NHKはテレビ持ってる人から勝手に受信料徴収して運営してるから、責任を追及されてもしょうがない。
あと民放各局は電波法で守られてて新規参入を阻止している既得権益者だから、叩かれるのも多少わかる。
でも新聞も雑誌も、別に国が税金で発行してるわけでもないから、売れなければ廃れて行くんだよね。
 
「報道の責任」なんて言葉を真に受けて、本当にマスコミの威信を信じてるマジメな人たちなんだなあ、と思う。
(大手が叩かれて嬉しい単純なメシウマ感覚は別として)、新聞報道や編集のあり方をマジメに叩いてる人を見て
思うのは、「いまだにマスコミの良心みたいなものを信じてるんだなあ」という驚きだ。
 
自分は、学生時代に新聞社で記事を直すバイトをしてただけで、今はマスコミ側にいる人間ではないのだが、
マスコミなんてそんな大したもんじゃねえよ、と思う。
(まともなマスコミなら、事実関係の確認だけはかなり徹底しているとは思うが、それくらい)
 
もしくは、規模の大きいメディアに対する単なるやっかみだよね。
そんなに読者多いんだから、影響力もデカいだろ! もっとしっかりしろよ! 的な。
こっちの方が、感覚的には良くわかる。を
でも、そういうのって結局は読者が判断して、嫌われるメディアは市場から淘汰されて行くものだと思う。
それでも残ってるってことは、大多数の人はいまだに「編集されたコンテンツ」も好きなんだろうな、ってこと。
 
 
■生の声か、編集コンテンツか
 
元エントリにもあった、「編集の時代から生の時代へ」的な意見には、ひとこと言いたい。
だって、ネット上にも編集コンテンツは山ほどあるじゃん。
 

2ちゃんねるがあれば、2ちゃんねるまとめサイトは要らないか?
掲示板やチャットがあれば、ブログやニュースサイトは要らないか?
共同通信や時事通信な速報があれば、ニュースサイト、ニュース番組、新聞は要らないか?
生放送のレポート中継さえあれば、ドキュメンタリー番組は要らないか?
生放送のバラエティ番組があれば、台本どおりに進むバラエティ番組は要らないか?
 
ってことだと思う。
 
で、答えとしては、
たぶん両方必要だと思う。
 
だって生の一次情報ばっかり見てたら、時間がいくらあっても足りないから。
さらに、生の情報ってそれだけで刺激的だけど、当然ながら玉石混交だし事実確認も怪しいし掘り下げも浅いから。
 
「ネットの生の声が一番」って言ってる人って、時間に余裕がある人か、ネットに費やせる時間が長い人なのでは?
 
 
■読者投稿欄がメインコンテンツに
 
ネット上では生の声の影響力が大きく、編集コンテンツがメインで生の声がサブという
従来のマスメディアの構図が逆転しているのは確かだ。
それは時代の変化というより、技術的に「生の声メディア」が安価かつリアルタイムで作れるようになった、というだけ。
マスコミや大手のサイトでは、技術的に可能でもスポンサーや株主の影響下にあり、生の声をそのまま
掲載することが出来ないが、ネットの掲示板やブログならほぼ匿名で書き捨てられる。
過激な企業批判や差別発言、放送禁止用語も書き込める。発言の事実関係を確認する必要も無い。
2ちゃんねるなどのアングラな生の声メディアの気楽な面白さは、このあたりにあるとも言える。
 
今までは読者投稿欄やラジオのハガキ職人としてしか発揮できなかった面白パワーが、ネットに一気に流れ込んで来ている。
そういう地殻変動はすごく感じる。
学校のクラスごとに2,3人いる面白いこと言う(書ける)奴が、2ちゃんねるのVIP板とかに集まってるんだなあ、って感じ。
 
ちなみに、文章や言葉のコンテンツにおいては、編集コンテンツの「お題」化現象が起きていると思う。
要は、写真を見てひとこと! みたいな感じのサービスが増えているということだ。
 
※メディアの 「お題」 と 「投稿」 の例

  • 雑誌の 編集記事 と 読者投稿欄
  • ラジオの パーソナリティの語り と リスナーのハガキ
  • 2ちゃんねるの >>1 と >>2-1000
  • ニコニコ動画の 動画 と コメント
  • ブログの エントリ と コメント・トラックバック
  • ニュースサイトの ニュース と コメント
  • はてなハイクの キーワード と コメント
  • Twitterの 人 と つぶやき

 
ちなみにニコニコ動画やPixivでは、編集コンテンツ(動画やイラスト)の方がメインで、コメントがサブになっている。
ユーザーコンテンツを集めたデータベースを、コミュニティ化して盛り上げる、という構造になっているからだ。
 
かつての雑誌で、巻末の読者投稿コーナーとしてひとまとめに隔離されていた部分が、
お題(コンテンツ)ひとつひとつにコメントが付く構造に変わって来ているとも言える。 
読者投稿欄が廃れたというより、お題(コンテンツ)単位で分割され、掲載順もランキング表示されるので、
編集の必要が無くなった、というのが正しいのかもしれない。
Twitterなどでは、個人の人自身がお題になってる、というのも近年の面白い傾向だ。
 
 
■最後にまとめっぽいこと
 
生の声の面白さと、編集されたコンテンツの面白さは、別モノだ。
それは、「ネット=生の声」 VS 「マスコミ=編集コンテンツ」のような単純な対立項ではなく、
どんなメディアにも共通のテーマである。
そして、それらはどっちか片方が優れているのではなく共存しうるし、それぞれを盛り上げるものだと思う。
 
ネットの普及で技術やコストの問題がクリアされ、一般人の生の声やニュースの一次情報に触れる機会が一気に拡大している。
それらの生の情報についてブログやwikiなどで言及する時、自分もいち編集者になっているということは、自覚すべきだと思う。
 
 
P.S.
ここまで読んでいただいてありがとうございます。正直、あまり編集というか推敲してないため冗長ですみません。
今回の趣旨に合わせて意図的に編集しなかったわけではないけど、尺が決まっている媒体で原稿料をもらうなら、
もっと内容を簡潔にしたはず。
プロに書かれた編集コンテンツの存在意義って、こういうところにもあるんじゃないかと思います。