独島(竹島)に対する1877年時点における日本政府の認識

島根県地籍編製係宛照会

1876年10月5日、国土地理院の前身である内務省地理寮から島根県地籍編製係にあてて、隠岐国沖にある「竹島」と呼ばれる孤島に関する照会文書が送られました*1。
地理寮としては旧鳥取藩の商船が往復していたなどと伝え聞いていたものの、隠岐を管轄する島根県に旧記・古図を調べて内務省に伺いを出すように求めたわけです。

「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」

島根県は、この内務省地理寮発、島根県地籍編製係宛の文書を乙第28号文書とし、10月9日に検討した上で10月16日に内務省にあてて、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出しています。
この時、島根県(県令・佐藤信寛)は短時日しかなかったため、大谷九右衛門と村川市兵衛の伝記について調べ竹島関連の略図を付けたのみで、詳細な調査は追って行うと報告していますが*2、添付した略図よりも詳細な地図がなく、本来なら島を実検した上で詳細を付記すべきながら、島根県管轄と確定しているわけでもなく、また数百キロの海を隔て航路も不明瞭で通常の帆舞船等で往復できる場所でもないとも報告しています*3。
その上で、隠岐の北西にあり山陰西部の所属になるかと思うので島根県の国図に記載し地籍に編入してよいか、内務省に判断を請うているのが、この10月16日付文書です。
さて、この「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」(1876年10月16日)に添付された資料が、磯竹島略図*4と、磯竹島(竹島(現・鬱陵島))と松島(現・独島(竹島))の説明です。

磯竹島略図で磯竹島と松島の位置関係と島の形状を見ると、磯竹島が現在の鬱陵島、松島が現在の独島(竹島)を表していることは一目瞭然です。それに加えて、文書での説明にある磯竹島と松島の説明でも、それが裏付けられています。

磯竹島(別名・竹島)=現在の鬱陵島

磯竹島(別名・竹島)は、隠岐から乾(北西)の方角へ120里ばかりの位置にあり、周囲は約10里あり、峻険な山が多く平地が少ない。川が3本あり、滝もある。と文書には書かれています*5。
1里は約4kmですので、隠岐からの距離については大きな誤差があります*6が、近代化以前の時代、海上で長距離を図ることは困難でした*7ので、この誤差を持って、磯竹島(別名・竹島)=現在の鬱陵島、を否定することはできませんし、そういう論者も見かけません。

松島=現在の独島(竹島)

松島は、隠岐から竹島(鬱陵島)までの直線上に存在し、周囲は30町ばかり、隠岐からは約80里の位置にある。樹木・竹は少ないが、鳥や海獣は多い。とあります*8。さらに磯竹島略図には、磯竹島から松島まで40里とありますので、隠岐から磯竹島までの行程の3分の2の場所に松島があることがわかります。
これは、80里や40里を機械的に320km、160kmとしてしまうと誤読・誤解をしてしまいます。隠岐から磯竹島までの行程の3分の2というのを重視すべきで、そうすると、その位置にあるのは、現在の独島(竹島)以外にはありません。

島根県が「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」で所属を確認した二島

上記から、島根県が「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」で所属を確認したのは、現在の鬱陵島と独島(竹島)の二島と解釈するのが妥当です。

内務権大書記官西村捨三発外務書記官宛照会

島根県から1876年10月16日付の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を受け取った内務省ですが、その後半年ばかりかけて調査した結果、竹島(現・鬱陵島)について元禄5年(1692年)に朝鮮人が入島して以来、元禄9年(1696年)から元禄12年(1699年)まで朝鮮と書面でのやり取りを行った結果、竹島(現・鬱陵島)について日本の領土ではないことを双方で確認した、との調査結果を出しています。しかし、領土の問題は大事だから念のため右大臣にも確認を求める、という趣旨で1877年3月17日に内務省から外務書記官宛に文書が出されています。

この時点で内務省は領土の問題としてその重要性を認識していたにも関わらず、「竹島外一島」すなわち、鬱陵島と独島(竹島)を一まとめに扱い、太政官に判断を委ねています。もし仮に、鬱陵島は朝鮮領だが独島(竹島)は日本領と認識していたなら、太政官への伺いにそう書かなければ太政官には伝わりません。国の最高決定にかけるのに、是か非か、以外の回答を求めたのなら、それは内務省がとてつもなく無能であるとしか言いようがありません。多大な政務をこなす太政官に、膨大な添付資料を読んで判断しろというのは、組織としてありえないでしょう。
従って、この1877年3月17日時点で、内務省は「竹島外一島(外一島ハ松島ナリ)」すなわち、鬱陵島と独島(竹島)を一体として、その所属を判断するつもりだったと言えます。

太政官指令 1877年3月29日

「竹島外一島」の所属の判断を内務省から求められた右大臣ですが、約10日後の1877年3月29日に回答を出しています。

指令
 伺之趣竹島外一島ノ義本邦関係無之義ト可相心得事
  明治十年三月廿九日

こうして、太政官は「竹島外一島(外一島ハ松島ナリ)」すなわち、鬱陵島と独島(竹島)に対して、日本と関係ない島であることを明示し、日本の地籍には加えないことになりました。

内務省から島根県への回答

太政官の判断が下ってから約10日後の1877年4月9日、内務省から島根県へと回答が送られます。

竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事
     内務卿大久保利通代理
明治十年四月九日 内務少輔前島密

正式な回答により鬱陵島と独島(竹島)が島根県に編入されることもなくなり、島根県にとっては調査の必要もなくなりました。

まとめ

内務省地理寮→島根県→内務省→太政官→内務省→島根県
という一連の行政処理の流れにおいて、竹島=鬱陵島、松島=独島(竹島)、と一貫して扱われており、誤解の生じる余地はありませんが、現在の島根県はかなり無理やりなこじつけで否定しています。これについては別途指摘するとして、本エントリで大事なのは、1877年当時、日本政府は独島(竹島)を日本領とみなしていなかった、という事実が公文書で明らかになっているということです。

つまり、日本政府の公文書上からも現・竹島が古来からの日本固有の領土などではなく、明治以降の日露戦争中、日本が韓国を軍事占領している状況下で領有化を宣言してからの領土でしかないことを示しています。

*1:御管轄内隠岐国某方ニ当テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞固ヨリ旧鳥取藩商船往復シ線路モ有之赴右は口演ヲ以調査方及御協議置候義モ有之加ルニ地籍編製地方官心得書第五条ノ旨モ有之候得共尚為念及御協議候条右五条ニ照準而テ旧記古図等御取調本省ヘ御伺相成度此段及御照会候也

*2:右大谷某村川某カ伝記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候

*3:今回全島実検ノ上委曲ヲ具ヘ記載可致之処固ヨリ本県管轄ニ確定致候ニモ無之且北海百余里ヲ懸隔シ線路モ不分明尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ

*4:http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g08.html、http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf

*5:磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三条アリ又瀑布アリ

*6:実際には240km程度の距離ですが、120里=480kmとしています。

*7:http://karano.exblog.jp/15304195/

*8:次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦鳥獣ヲ産ス