岸信介の功績?

自民党の歴代首相の中でも保守派の代表の岸信介がしたことが、国民皆保険、国民皆年金、最低賃金法。現在の「リベラル」政党のアメリカ民主党が国民皆保険を訴えているが、岸信介が随分と以前に行っていた。当時に岸信介がしたことが、どれだけのことであったのか、ネット左翼の知性では全く理解できない。その岸信介の孫の安倍晋三が、保守の代表と言われる中で打ち出したのが、最も現実的な経済リベラル政策。日本では、保守派であるほどに、経済リベラル政策をして、むしろ、日本の左翼がそれに反対する。

http://anond.hatelabo.jp/20130111002746

国民皆保険を岸信介の手柄として語っていますが、新国民健康保険法案が提出された1958年以前に既に国民皆保険の方針は決まっていました。

政府は1955年12月「経済自立5カ年計画」を策定し、「社会保障の強化」等を提唱した。また、翌1956(昭和31)年1月、「全国民を包含する総合的な医療保障を達成することを目標に計画を進めていく」という国民皆保険構想を政府の方針として初めて公式に明らかにした。

同年11月に発表された社会保障制度審議会「医療保障制度に関する勧告」等を契機として、政府は1957(昭和32)年4月、厚生省に国民皆保険推進本部を設置し、1957年度を初年度とする「国民健康保険全国普及4カ年計画」(以下「国民皆保険計画」という。)に着手することになった。健康保険の対象とならないすべての国民を国民健康保険に加入させることで、国民皆保険を実現しようとしたのである。

http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpax230301/b0027.html

年金もほぼ同じ流れで成立していますので、「保守派の代表の岸信介がしたこと」というより、その前の内閣を率いた鳩山一郎や石橋湛山らの功績を評価すべきでしょう。もっとも、皆保険、皆年金の制度そのものには、当時野党だった社会党も賛同していましたから、自民党の手柄とすること自体に疑問がありますが*1。

最低賃金法に関しては、以下のような事情があります。

1956 年に静岡県労働基準局長の指導のもとに静岡缶詰協会の会員事業所が缶詰調理工の初任給協定を締結したことから始まった。これは事業者団体による自主的な最低賃金に関する協定であり, 何ら法的な拘束力をもっていない。また労働組合がその決定に参加していないから, ドイツやイタリアなどの労働協約方式でもない。単なる業者間協定による最低賃金である。この最低賃金は旧労働省の積極的な推進により各地で締結され, 最低賃金法が制定される1959 年の4 月までに127 件になったとされる。
この業者間協定方式が法制化されることになった背景には, 当時, 輸出の急増によってアメリカを中心に諸外国からソーシャル・ダンピングとの批判が日本に向けられ, ガット加入への障害になっていたこと, 及び国内的には本格的な高度成長期の到来を前に繊維や金属・機械などの低賃金業種で若年者の初任給が上昇し, それをカルテルにより阻止しようとする意図があったとされる。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/12/pdf/004-015.pdf

要するに、低賃金による輸出が欧米からダンピングだとの非難*2を招きガット(GATT:関税および貿易に関する一般協定)加入に支障をきたしていたため、それを回避するために最低賃金を法制化する必要があったわけです。業界側の思惑としては、お互い賃金水準を合わせることで特定の企業が高賃金での労働者の抱え込むことを避けたいというものがありました。このため、労働者・使用者間での協定で最低賃金を定める方式ではなく、業界の使用者同士のカルテルで決められました。
この業者間協定方式が廃止されるまでにはさらに10年の月日を要し、1968年に審議会方式になります。しかし、この時の法改正も労働者支援を直接考えた結果ではなく、ILO条約を批准するための最低賃金の決定に労働者の代表を関与させる必要があったからです。

最低賃金の改善を訴え実現させてきたのは、安倍首相や岸首相あたりの支持者が蛇蝎のごとく嫌う労働組合です。

*1:争点となったのは、国庫負担割合など。

*2:似たようなことを、今は日本が韓国・中国などに対してやっていますね。