公共性の名の下に行使されるムラ社会的暴力

 id:raheim氏の「メンタルヘルス系サイトに「無断リンク禁止」が多い件について」という文章を批判する、id:rir6氏の「『リンクは絶対に自由だ』のもとで迫害される人々」を読んだ。これを読む限り、私はrir6氏の意見にほぼ全面的に同意できるように思った。
 その後、よんひゃん氏の「視線を分類する方法」を読んだ。こちらは、一読したところ、raheim氏に対して「比較的好意的な意見*1」と見える(必ずしもそうではないと思うのだが)意見。rir6氏からよんひゃん氏へのレスポンスはまだないようだが、rir6氏とよんひゃん氏の二つの文章を読んで少し考えたことを書いてみたい(raheim氏の文章はまだほとんど読んでいないので申し訳ないがさしあたり二人の文章のみを対象としたい)。

視線を分類する方法がない以上、オープンな場所にファイルを置いて、自分の望む人に閲覧してもらいたい、自分の望まない人には閲覧してもらいたくない、というのは、身勝手という以上に不可能な望みである、ということは知っておくべきだろう。「無断リンク」を禁止することによって、その望みがかなえられる、というのは、幻想にすぎない。(よんひゃん氏)

 少しすれ違いがあるように思う。rir6氏の文章のテーマは、「技術的な問題」にはないと思う。氏の文章の主旨は、無断リンク禁止が有効であるかどうか、というようなところにはない。
 彼の文章の主たるテーマはraheim氏の批判である。rir6氏は、

「無断リンク禁止」「ホームページからの引用禁止」などはナンセンスである。

というraheim氏が、「法」や、「言論の自由」「学問の自由」を根拠に、無断リンク禁止の訴えを「無条件に無視してもいい」かのような言い方をしている点を批判している。
 逆に言うと、rir6氏は、無断リンクが禁止されるべきと言っているわけではもちろんないし、さらには、断った上で許可されなかった場合のリンク、無許可リンクでさえ、「無条件で禁止されるべき」だと考えているわけではない。

例えばその行おうとする研究がそのコミュニティの閉鎖性などを批判するものであり、そしてそれ故にそのコミュニティから研究に引用することが断られてしまう場合には、限定的に無許可でのリンク・引用は認められるべきな場合もあるでしょう。(rir6氏)

 ただし、rir6氏は、「それは極めて微妙なラインに属することなんです」と言う。つまり、「無断リンク」「無許可リンク」という行為をするかどうか、ということは、その都度自分で「考え」なければならない、ということだと思う。しかし、それは、「法的に許可されているかどうか考える」というようなことではもちろんない。「なぜ」その(無断リンクという)行為をするのか、ということ、つまり行為の目的を考えるということである。つまり、それは倫理的な問題である。繰り返しになるが、rir6氏が問題にしているのは、「いかにして」無断リンクを防ぐか、とか、「いかにして」悪意からメンヘル系サイトを守るか、というような技術的な問題ではない。
 raheim氏であれば、おそらく、無断リンクの目的は「研究のため、学問のためだ」と答えるのであろうが、rir6氏はそれに対して「ではなぜその研究をするのか」と問うのである。rir6氏はさらに、「なぜその行為をするのか」という問いを欠いた「研究」「学問」は、そもそも学問として成立しえないのではないか、とまっとうな問いかけをしているのである。
 もう一つ、rir6氏の文章のポイントとなるのは「公共性」という言葉の解釈である。氏はこう言う。

気に入った人にだけ見てもらいたい、というのは公共意識の欠如ではないだろうか?

はっきり言うと僕にはあなたの言う公共意識とやらがどんなものなのか全く分かりません。そもそもメンヘル系の人々の多くはその「公共」とやらのせいで苦しむことになったのですから、その公共が更にメンヘル系の人々に「公共意識を守れ!」なんて言うのは、僕には悪い冗談にしか思えないのです。(rir6氏)

 「公共」という言葉は、「ムラ社会」と対立するものとしてとらえられる。したがって、「公共性」を唱える主張を批判するものは、短絡的に「ムラ社会」の擁護者、としてとらえらえかねない。rir6氏の主張もたしかにそのように捉えられてしまうかもしれない。が、氏は、ムラ社会を擁護しようとしているわけではない。氏は、むしろ公共性という名の下に行使されるムラ社会的暴力を激しく批判しているのである。

さて、しかし何でこういう「法律(勧告)で決められているんだからそれに従ってさえいれば良い」なんて人、つまりモヒカン族が増えてしまったのでしょう。彼らは言います。「今までの日本はムラ社会によって『言わなくても察せ』という圧力によって言葉を抑圧してきた。だがインターネット社会によってそのような言葉を軽視するようなムラ社会は消えて、文言のみで判断する時代がやってきたのだ。これは好ましい変化であり、決して避けることは出来ないのだ!」と。確かに今までの日本のムラ社会というのはかなりそれに適応できない人間にとっては辛いものであったのは事実でしょうし、それに対する指さし機能としてならば、「モヒカン族」とか「リンクは絶対に自由」という様な言説は意味があったでしょう。しかし一旦この様に支配的な位置に立ったならば、その様な文言単独主義はちょうど昔のソビエトの共産主義や現在のアメリカのアメリカ式自由主義の様に、人々を抑圧し始めるのです。(rir6氏)

 上を見てもわかるように、rir6氏は、「リンクは自由」という主張そのものを批判しているわけではない。氏が批判するのは、「リンクは自由」という主張を、状況と遊離させて絶対視することである。また、そうした絶対視がムラ社会的抑圧と通底しているのだ、と氏は主張するのである。

本当にこれは全く当たり前のことなのですが、文言というのはそれを使用する社会・文化を無視して成り立つことは出来ません。例えば既存のリンクの自由を擁護する言説というのは、主として例えば新聞社などの既存の大勢力に対し対抗する為に編み出された言説であり、その頃はメンヘル系のホームページなどは出来てさえ居なかったというようなことを、文言を操る際には絶対に注意しなければならないのです。しかし文言単独主義ではそのようなことは考慮されず、文言のみで絶対的な定義があるかのように文言を扱います。モヒカン族は良く「言葉の定義をきっちりしろ!」と言いますが、しかし時代背景・文化・社会状況などから遊離した定義を作るなんて不可能な訳で、使われる毎に文言というのは新しい定義が生みだされていくと考えるべきなのです。もしそれを無視するならば、それは文化などの様々な多様性を否定すると言うことなのですから、文言単独主義は、ムラ社会の最も悪しき特徴の一つである単一化圧力をも生みだしかねないのです。