2019年 4月7日 宮城県大崎市の長久寺のマルミガヤ,宮沢遺跡,斗蛍稲荷神社

2019年09月05日
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宮城県 大崎圏
転勤で新任地に赴任しての1週間
新任地と言っても,実は2012年の3月まで18年間奉職していたところで,7年ぶりに戻ったところでもあります。
ただ7年の歳月は思っていたよりも変化が激しく,まさに新任地と言った心境です。
私は元来,どちらかと言えば人見知りな方なので,息抜きが必要です。
ということで,地元の史跡巡りをしてきました。

長久寺のマルミガヤ
JR東日本のHPからのコピペです。

県の天然記念物に指定された樹齢650年の大きな樹木。大前氏3代詮持の時代に長久寺を開山した日幡上人がカヤの実を植えたと伝えられ、現在も多くの実をたたえる神秘と生命力に満ちた存在で町を見守っている。カヤの実が丸みをおびているので、「マルミガヤ」と呼ばれており、境内に子育ての神である鬼子母神が祀られていることから鬼子母神のマルミガヤとも呼ばれている。

大前氏とありますが,これは大崎氏の誤植ですね。
ここから数キロほど離れた場所に名生館という場所があり,古くは官衙でした。
室町時代になって大崎氏が奥州探題となり,居城を名生館に構え,名生城としたようです。
長久寺はその時に開山したのですね。
もちろん境内や鬼子母神様もご立派で有名なのですが,マルミガヤがやはり素晴らしいです。
まるでトトロが乗っているかのような立派な姿でした。
周囲に柵が巡らされており,直接触れることはできませんが,室町時代から生きている生命のパワーをいただきました。
地面に落ちていたマルミガヤもしっかり観察してきましたよ。
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宮沢遺跡
先にもご紹介しましたが,大崎市の古代の遺跡の中では規模が大きく,また謎に包まれた場所でもあります。
築地塀など強固な防護策がとられていたので,軍隊の駐屯地だったのかもしれません。
恐らく関東周辺から移住させられた開拓民か玉造軍団と呼ばれていた兵士集団だったのではと・・・
もしかしたら中央政府から移住させられた住民と地元民との対立があったのかもしれません。
近くに官衙の遺跡や廃寺跡,窯の跡など多賀城と関連した多くの史跡があるので,解明が待たれるところです。
この近くには古代の里といって,竪穴式住居などの復元があったのですが,震災以降すっかり取り払われてしまい,ゴッドハンド事件の影響もあってか,調査がなかなか進展していません。
大崎地域は比較的早くから朝廷側にくみしていたので,前線基地のような役割もしていました。
蝦夷と朝廷との境にどんなドラマがあったのでしょうね。
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遺跡から築地塀がこんなふうにあったのだろうという,透明な看板です。
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遺跡からこんな住居があったのだろうという,透明な看板です。
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この辺はまだふきのとうがまだ美味そうに・・・元気そうに芽を出していました。
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斗蛍稲荷神社
HPからのコピペです。

 宮城県は古川市荒谷に鎮座する斗瑩稲荷神社(とけいいなりじんじゃ)の御祭神は、宇迦之御魂大神、豊受比売大神、武甕槌命 三柱をお祀りしております。
  御神徳の広大なると共にその御名も種々称し、古くから稲荷信仰の霊山として、又正一位稲荷大明神として崇敬されてきました。
 社伝によりますと、文治3年(1187年)後鳥羽帝の御代、源義経は頼朝の勘気を受け奥州平泉へ下向の際、北陸路を通り鳴子を経て荒谷は斗瑩山に到着しました。 吉野の山によく似た斗瑩山に立ち寄り、静御前遺愛の鼓の調べに聞き入っていた時どこからともなく白狐が現れ”鼓は自分の亡き母の皮でつくったもの。ぜひ返して頂きたい。そうしてくだされば、義経公の守護に当たり、難を救ってあげます。”と、涙ながらに申し出ました。そうしているうちに白狐は斗瑩山の岩穴に入り込んだので義経は弁慶に命じ祭壇を築かせ鼓を捧げ、一向の武運長久を祈願致しました。 この白狐こそが左衛門尉四郎忠信に姿を変じ、義経公東下りの先達を務めた狐忠信であり、「義経千本桜」の歌舞伎で有名です。 
  先年社務所新築の折発見した古い巻物を読んだところ、その内容は「義経千本桜」と同じ内容でありました。村人はこれを伝え聞いて当時の傑僧良雲法師に頼み、一宇を建立して「左衛門四郎稲荷大明神」と崇敬しました。ここ云う静御前の鼓こそ世に云う「初音の鼓」です。(近年発見された当社古巻物との内容との違いを見比べてみてください)
  その後、村人達の手によって崇敬されて来ましたが、応永30年(1423年)大崎左京大夫持栓が社殿を造営し小野城の守護とし、永正13年(1516年)野火により焼失致しました。永禄5年(1562年)光明寺開基である異庵全秀大和尚が伏見の稲荷山より勧誘し再建致しました。寛永年間正一位の称号を賜わり、依頼遠近の信仰を集めています。明治43年3月、鹿島神社を合祀致しました。
  当社は信仰の神社として「とっけさま」の名で知られており、家内安全・商売繁盛・交通安全・海上安全・大漁満足・五穀豊穣・安産祈願・籤(くじ)當の神様として参拝者が絶えません。特に石巻方面の漁業家の信仰が厚く、江戸後期に金華山沖で発見され約400年前の古い錨が奉納されています。

大崎市は鳴子峡をはじめ,平泉への義経落人伝説が数多く残されています。
義経が通ったとされる岩出山地区の上街道から5kmほど東寄りですが,この程度なら許容範囲?
意外に思われる方もいると思いますが,岩出山地区はかの徳川家康公が陣を張った地でもあるのです。
義経落人伝説も虚飾とは思えない・・・これこそ判官贔屓でしょうか?
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地元の歴史はそこに住む人の思いもあって,想像をかき立てられます。
大崎市のじみ~な歴史ではありますが,興味深いですよ (*^o^*)
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Snufkin
Posted by Snufkin
ご訪問ありがとうございます。
気に入ったところは何度でも行っちゃうんです。
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