こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。また凶悪な通り魔事件が起きました。この手の事件に際していつも腹立たしく思うのは、テレビがドラマを勝手に作り上げることです。事実を報道する姿勢から逸脱して、すぐに主観的な想像を盛ったドラマを作りたがるのは、ホントに悪いクセ。
この手の事件で「なぜ?」という問いは無意味です。加害者と被害者になんの接点もない場合、理由などないのですから。
「何の罪もないひとが、なぜ犠牲者に……」などといいますけども、じゃあ、罪のあるひとなら犠牲になってもかまわないのですか? 万引きの常習犯や陰湿なイジメをしていた子が犠牲者だったら天罰だとでもいうつもりですか。
被害者の人間性は、事件とは一切関係ありません。仮に被害者が悪い人間だったとしても、被害に遭った事実に変わりはありません。犯人の罪が軽くなるわけでもありません。
被害者は運が悪かった、としかいいようがないんです。誰の身にも起こりうることが、たまたまそのひとに起きたというだけです。なのにテレビは、被害者がいいひとだったことを不必要に強調し、あたかもそれが事件と関係してたかのように、ありもしないドラマを作りはじめるのです。
次のシナリオは、加害者のモンスター化。被害者の善人ぶりを強調すると今度は、加害者がいかに異常なモンスターだったかのイメージをふくらませる作業にかかります。
小学校や中学校時代のクラスメートを探し出し、話を聞くのですが、当時からいままでずっと犯人とつきあいのあったひとなら、聞く価値がありますよ。でも、中学時代に同じクラスにいたというだけで、何十年も会ってなかったひとは、犯人のことなどたぶんおぼえてないはずです。凶悪殺人を犯したという今回の事実に引きずられ、「あいつは中学のときも何考えてるかわかんないヤツだった」みたいに記憶を悪い方向に捏造し、マスコミが喜びそうな証言をする可能性が高いので、信用できません。
もしも、ノーベル賞受賞者について同級生に聞けば、「あいつは中学のときからいいヤツだったよ」と記憶をいい方向に捏造するんです。中学のときとんでもないワルだったやつが、いまやまともになって、会社の社長をやってます、なんて例もたくさんあります。そういう場合は、過去の罪を不問に付して、ちやほやするんですよね。
加害者がモンスター化されるのは、視聴者がそれを期待してるからです。加害者の性格や育った家庭環境などを自分と比較し、オレはあんなモンスターとは違う。やっぱオレはまともな人間だ、ああよかった、と安心できるからです。そうすれば安心して、犯人とその家族をネットなどでぶっ叩くことができますからね。なにしろ相手はモンスターとその家族であり、叩いてる自分はまともな人間だと信じてるのだから、良心の呵責など感じるはずもありません。
ひょっとしたら、被害に遭ったひとやこどもたち、そして学校の危機管理意識が低かったのでは、などと根拠もなしに難癖をつけるひとが出てくるかもしれません。
昨年読んだ大原瞠さんの著書に、最近住みたい町として人気のある地域の犯罪発生率を比較するイジワルな
(しかしとても重要な)章がありました。それによると、川崎は非常に犯罪発生率が低い安全な町でした。
そんな町では、犯罪を過度に警戒せず他人を信用して暮らすのが当然。しかも事件が起きた町では、防犯パトロールや見守り活動を他の町と同じくらい熱心にやっていたようです。
これまで凶悪事件が起きた町は、防犯パトロールをしてなかったのですか? いいえ、みんな熱心にやってた町ばかりです。防犯パトロールや見守りで凶悪犯罪を防ぐことは不可能だという事実から目を背けないでください。せいぜい、軽犯罪を少し減らすくらいの効果しかないのです。
だからこれ以上警戒レベルを上げる必要はないし、上げたところで効果はなく徒労に終わるだけ。過去の事例から見ても、度を超した市民の自警活動は疑心暗鬼と相互不信を生んでるので逆効果です。
こどもも親も学校も、これまでのやりかたを変える必要はありません。凶悪犯罪を実行するのはごく一部の人間にすぎず、ほとんどの人間はまともです。ひと見たら殺人鬼と思え、などと教育方針を転換したら、逆にこどもたちの人間観や社会観をねじ曲げるおそれがあります。
ドラマチックで扇情的な報道に惑わされず、事実を冷静に見て普通に生きる勇気を持ち続けましょう。
なお、4年前から私の考えは変わってません。以下のブログ記事も参照してください。
何度でも言う。地域の絆と犯罪にはなんの関係もない