fc2ブログ

反社会学講座ブログ

パオロ・マッツァリーノ公式ブログ
反社会学講座ブログ TOP > 未分類

フジテレビの女性アナウンサーは25歳で定年だった?

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。先日フジテレビで放送された『昭和の99大ニュース』のなかで池上彰さんが、かつてフジテレビの女性アナウンサーは25歳で定年だったという話をぶっ込んできました。フジの番組で忖度なくフジの黒歴史を暴露してしまう池上さんに拍手。
 えーっ、25歳定年?! とにわかに信じられない人もいるでしょうから、この件について補足説明をしておきます。厳密にいえばこれは定年とはちょっと違います。80年代前半までフジテレビは、男性アナウンサーは正社員、女性アナウンサーは契約社員という、あからさまな差別待遇をしてました。20代後半になった女性アナの大半は、契約を更新されず、お払い箱にされてたわけで、それを事実上の定年だったと池上さんは表現したのです。85年に男女雇用機会均等法が成立したことをきっかけに、ようやくフジの女性アナも正社員になりました。

 こういう話をすると、これだからフジテレビは、だとか、マスゴミが、などとすぐに極論コメントをする人が出てくるので、フジをほめる話もしておきましょう。
 12月のはじめにフジテレビでタイマーズのドキュメンタリーが放送されました。タイマーズは忌野清志郎がやってた覆面バンドです。1989年、自分の曲がFM東京で放送禁止にされたことに激怒していた清志郎が、フジの深夜に生放送でやっていた『夜のヒットスタジオ』の深夜版に出演した際に、「FM東京腐ったラジオ!」などとディスりまくる曲を生放送本番でいきなり歌ったという話は、清志郎や日本のロックにあまり関心がなかった私でも知ってるくらいに、ロック魂あふれる伝説級のエピソード。
 先日のドキュメンタリーでは、関係者や元バンドメンバーが当時の模様を証言していたのですが、じつはあの番組は生放送ではなかったとの証言に驚きました。
 番組の初回は本当に深夜の生放送でしたが、古舘伊知郎さんと司会をしていた女性が未成年だったんです。未成年の深夜労働は違法だからダメと上層部からお達しがあったことで、翌週からは、当日の夕方に録画したものを一切編集なしでそのまま深夜に生放送の体で放送するカタチに変更したのだそうです。
 だからタイマーズのFM東京ディスり曲も、カットして放送することが可能だったはず。にもかかわらずスタッフはそのまま放送することを決断したのです。スタッフも清志郎の反骨精神、ロック魂に共感してたんでしょうね。局側にもそれを黙認するくらいの度量の広さがあったのです。
[ 2024/12/29 17:51 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

神社の参拝に正式な作法はない

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。もうすぐ新年ということで、オールドメディアのテレビワイドショーでも、ニューメディアのネット動画でも、「これが正しい神社の参拝作法」なんてのが盛んに流れることでしょう。
 私は無信心・無宗教な人間なので、どの宗教にも依らずに宗教を文化習俗として客観的に検証できます。正しい日本文化は、この記事の表題に掲げた通りです。神社の参拝に正式な作法なんてものは存在しません。

 平成世代のみなさんは、二礼二拍手一礼が正式な参拝作法だと信じてたりするのでしょうか。
 昭和40年代生まれの私は、神社で二礼二拍手一礼なんてやってる人を、長年見たことがありませんでした。私は首都圏でしか暮らしたことがないので他の地域の習俗は知りませんが、私がこどもの頃に教わったのは、柏手を二回打ったあと、そのまま合掌して祈る、というやりかたでしたし、老若男女を問わず、周囲の人は全員そうやってました。最初に二礼してる人なんて見たことないし、終わりの一礼も省略するか、せいぜい軽く頭を下げるくらいで、「礼」といえるほどの動作ではありませんでした。このやりかたに特別な名称はないので、ここでは仮に、二拍手合掌としておきます。

 二礼二拍手一礼が正しいとされるようになったのは、たぶんここ20年くらいのことだと思います。ヘンですよね。古来からの伝統であるはずの神道作法が、急に近年アップデートされたんです。昭和世代にとっては違和感しかありません。
 大宅文庫の雑誌記事検索をしてみると、そもそも神社参拝の正しい作法を教える記事なんてのは、昭和の雑誌には見当たりません。平成に入り、96年1月の『DIME』、99年1月の『ムー』あたりからようやくお目見えします。そして、2006年ごろから『ムー』のような特殊雑誌だけでなく、一般誌にも記事が載りはじめます。20年くらい前から広まったという私の感覚は間違ってなかったようです。

 それに加えて近頃では、
「神社に入る前に鳥居におじぎをする」
「参道の真ん中は神様が通るところなので人間は左右のはじを歩け」
 などという、昭和の頃には聞いたこともなかった怪しげな作法が続々登場しています。
「参拝をするときには自分の住所氏名を念じること。そうしないと神様があなたのところに来られないので願いがかないません」
 いまどきの神様は移動にナビ使ってるの? 住所をカーナビに入力しないと目的地にたどりつけないなんて、そんな新人タクシー運転手みたいな神様ばかりなの?
 これはおそらく、門松を置くのは年神様を迎えるための目印という民間信仰を、神社での祈願と混同したカン違いじゃないかと。だったら絵馬にも住所氏名を書かないと願いがかなわないことになりますが、個人情報を書いたものを境内にぶら下げてたら、神様じゃねえヤツが自宅に来ちゃいそうです。

 ある神社の宮司さんは、これらの怪しげな作法は近年作られた俗説だといってました。スピリチュアル系タレントが創作してテレビで広めたのではないかとのことでしたが、たしかにその手の番組が人気になったのも、2006年ごろのことでした。

 二礼二拍手一礼だけは、俗説ではありません。宗教学者・島田裕巳さんの『神社で拍手を打つな!』によると、明治時代に宮内庁の神職がやっていた作法だとのことですが、それはあくまで専門職の作法であり、宮内庁がそれを一般国民に奨励したことはありません。
 日本人の公衆マナーがヒドすぎるという声を受けて、文部省が昭和16年に発行した公式マナー本『礼法要項』では、二礼二拍手一礼が正式な作法とされました。でも一般国民の間にはまったく定着しませんでした。だから戦後も長らく、(少なくとも首都圏では)二拍手合掌が庶民のスタンダードとして通用していたのです。
 島田さんの著書では、戦前の映画『姿三四郎』に、拍手なしで合掌だけで静かに神社で祈るシーンがあると指摘されてます。これは私も映画を観て確認できました。それと、昭和に作られた向田邦子ドラマのなかで、父と娘が二拍手合掌で参拝してるシーンを見たような記憶があるのですが、確認してないので、私の記憶違いかもしれません。

 なお、二礼二拍手一礼の起源や歴史に関しては、ウィキペディアにとても詳細で秀逸な記事があります。徹底的に資料を調べて書かれたことがわかる記事なので信憑性は高いです。詳しく知りたいかたは参照してみてください。

 カン違いしないでほしいのですが、私は、そういったもろもろの参拝作法は間違い、邪道だからやめろといってるのではありません。神社参拝に正式な作法はないという、日本文化の正しい事実をお伝えしたいだけです。正式な作法がないってことはつまり、どんな作法でもかまわないってことなのです。二礼二拍手一礼は唯一絶対ではなく、数ある流儀のひとつにすぎません。二礼二拍手一礼でも二拍手合掌でも、拍手なしの合掌でもいい。鳥居におじぎしてもいいし、しなくてもいい。参道のはじを歩いても真ん中を歩いてもいい。自分の住所氏名を念じたいのなら、すればいい。

 神社の参拝作法はフリースタイルなのです。日本の神道は多様性を特徴とする宗教です。それぞれの地域で、山だの木だの石だのと、さまざまなものや人(おもに何か業績を残して死んだ人)を御神体や神として信仰してきました。
 それどころか、神道は他の宗教(仏教など)と同時に信仰することさえ認めてるのですよ。最近ではアニメやゲームのキャラとコラボイベントみたいなことをしてる神社もけっこうあります。伝統にこだわらず多様な要素を取り入れる寛容さが特徴の神道ですから、参拝の作法についても、多様なやりかたが尊重されて当然です。
 周囲に迷惑をかけず、常識の範囲内であれば、自分の好きなやりかたで参拝してかまいません。二礼二拍手一礼などの作法が掲示されてる神社もありますが、それはあくまでひとつの参考例として推奨してるだけです。あんたの参拝方法は間違ってるから、この神社にはもう来るな、なんていう神主や宮司はいないはずです。
 万が一そういうこころの狭い神社があったとしても、他の神社に行けばいいだけのことだし。なにしろ日本には神社がコンビニの3倍あるといわれてるくらいですから。
[ 2024/12/21 18:02 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

流行語大賞がふてほど? はぁ? って感じで秋ドラマの評価

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。流行語大賞が「ふてほど」と聞いて、日本中で「はぁ?」という声が上がったと思います。そもそもふてほどを知らない人も多いだろうし、ドラマを観てた人でも、いつどこで流行語になってたんだよ? って感じじゃないですか。もはや世相をまったく反映しておらず、文化的意義を失った流行語大賞に存在価値はありません。

 私は『ふてほど』を観てましたけど、さほど高く評価しませんでした。あのドラマを観てキャッキャと喜んでた人たちのことも、自分の価値観に合わせて物語を読みかえてしまう、うさん臭い連中だと思ってました。そういう人たちって、昭和世代のおじさんで、「昔はよかった」病患者の人だったのでしょうか。いや、でも若い人にも、美化された過去の話を真に受けてる人たちはいますからね。
 あのドラマは過去を美化して現代を批判するだけの単純な話ではありません。昔にもいいところはあったけど、ダメなところもたくさんあったね、いまのほうがよくなったところも、じつはたくさんあるんだよね、と、過去と現在を行き来したことで、それぞれの良し悪しを主人公が悟って精神的に成長する、ビルドゥングスロマン的な要素のある物語です。
 いまはコンプラがキツすぎると加害者ばかりが文句をいってますけども、コンプラがなかった昔は被害者が泣き寝入りを強いられる悪夢のような時代だったことも忘れてはいけません。
 クドカンさんの脚本はかなりバランスがとれていたけど、深掘りが不可欠なテーマだっただけに、ところどころで文化の雑な解釈や描写が目立ってしまう欠点もありました。

 さて話は変わりまして、すでに終盤に差し掛かってしまいましたが、放送中の秋ドラマ評。私が観続けてるのは、
『海に眠るダイヤモンド』
『若草物語』
『モンスター』
 の3本です。

 今期、私のなかで突出してるのは『海に眠るダイヤモンド』。初回はどういう方向に話が向かうのかちょっとわかりづらい印象があったので、視聴率が伸び悩んだのかもしれません。でも人間ドラマとしてのいろいろなおもしろさがたっぷり詰まった秀作であることは、回を重ねるごとにわかってきます。
 登場人物が多い群像劇なのですが、それぞれのキャラを的確に描き分けている野木さんの実力の高さにあらためて感服します。
 多くの物語で言及されてきた広島の原爆被害に対し、長崎の被爆者に関してはほぼスルーされてきたように思います。そういうテーマを拾い上げて、物語の一要素として自然に組み込み、しっかりとこころに刺さるようになってるあたりも、憎らしいくらいに上手い。

 これは野木亜紀子流『おしん』なのだろうと私は解釈しています。『おしん』は貧しいこども時代のエピソードだけが有名になってひとり歩きしてしまったけど、あの話は、奉公から身を起こして一代でスーパーマーケットチェーンを作り上げ、成功者となった老人のおしんから始まってます。経営を引き継いだ息子は会社の利益を拡大することしか眼中になく、家族は崩壊寸前。豊かさを無限に追い求めることを是とする社会の風潮(いまから思えばバブル前夜の頃でした)に疑問を抱いたおしんは、自分がやってきたことは本当に正しかったのだろうかと、人生を振り返る旅に出る……という話なんです。脚本の橋田壽賀子さんはエッセイで、過去だけを描くのでなく、現代のおしんが過去を振り返るという形式こそが重要だったと語ってます。

 現代と過去をつなぐ話という大枠は『海に眠る』も同じです。企業経営で成功したいづみが経営方針で子どもたちと対立し、過去の人生を振り返ります。それは単なるノスタルジーではないでしょう。ラストまで観ないとわかりませんけど、なんらかの意味、メッセージがあるはずです。野木さんが『おしん』の構成に影響を受けたかどうかは、ご本人に聞かないとわかりませんけどね。たまたまなのかもしれないし。
 過去を舞台としたドラマが優れたものになるかどうかは、現実に存在した歴史と、存在したかもしれないフィクションが破綻なく融合しているかどうかにかかってます。これまでのところ、『海に眠る』は完璧に近い出来だと太鼓判を押せます。

 今期観ているあとの2本もなかなかの秀作です。

 『若草物語』はタイトルと四姉妹が主人公という設定を有名な海外文学から借りてきただけで、完全なオリジナル。現代日本で生きる4人の若い女性たちがそれぞれ仕事や学業で直面する困難や、日々の喜び、恋愛模様、ときにぶつかりながらも姉妹が助け合う姿をとても丁寧に描いていて好感が持てる作品です。職場のセクハラなど、シビアな社会問題も絡めてるので、単なる恋愛ものに終わらないリアリティもあります。
 長女がつきあっている男は、一見、人がよさそうで、本性は小市民暴君。こういうヤツって無自覚に組織の腐敗に加担してるのに自分はいい人間だと思ってるから、やっかいなんですよね。
 四姉妹といいながら、三女は行方不明で、終盤まで回想シーンだけに登場するというひねりがあったりと、視聴者を飽きさせないよう構成も工夫してますし、あまり話題になってないのが惜しい作品です。たぶん観てる人の満足度は高いと思います。

 私は観るドラマを脚本家で選ぶことが多いです。この脚本家の新作ドラマは必ず観ると決めている人が何人かいまして、橋部敦子さんもその一人。
 手あかのついた弁護士ものを、橋部さんなりの切り口でどう料理するのか楽しみだった『モンスター』は、やはり期待を裏切りませんでした。
 モンスターとはまた、かなり皮肉の効いたタイトルにしたもんです。人間誰もがモンスターになりうる要素、素質を持っていて、ちょっとしたきっかけでモンスターになってしまうわけです。原告、被告、証言者、いったいどいつがモンスターなのか。
 趣里さんが演じる主役の弁護士もモンスター。どうやらずっと引きこもりで、独学で司法試験に受かったらしい。感情に流されない天才のようにふるまってるのに、裁判に負けて子どものように泣きじゃくる姿には笑いました。この難役に魅力を吹き込むことが出来る趣里さんも、かなりのモンスターですよ。
[ 2024/12/04 10:20 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

Xがブロックの仕様を変更したようなので、私も方針を変えました

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。これまで私はツイッター(X)で、よほどのことがないかぎり、ブロックをしませんでした。というのは以前のツイッターでは、ブロックをした相手はコメント・フォローができないだけでなく、こちらのツイートを読めなくなるという仕様だったからです。
 それは違うよなあと思ってました。こちらとしては、人のアカウントにクソみたいなコメントをつけてケンカを売ってくるゴロツキを追っ払いたいだけであって、こっちのツイートを読むなと禁じる気はさらさらありません。

 むしろ、読んでほしい。ブログだけでなく、できれば著書も読んでほしい。私の著書は、時間をかけて調べた上で、自分が納得するまで書き直して完成させたものばかりです。出版社の編集者と校閲者にも内容をチェックしてもらってるので、自己満足ではありません。だから100年後の人が読んでも、面白い情報を提供できると自負してます。私自身、国会図書館で100年くらい前の本を読んで、こんなこと書き残してくれた人がいたのか、ありがたいなと思うことがありますので、自分もそう思ってもらうべく、本を書いてます。
 さすがに『反社会学講座』はちょっとテーマが古くなってしまいましたので、いま現在の私の考え、物の見かた、文献調査の実践例をお伝えできる近著の『思考の憑きもの』『読むワイドショー』をぜひ読んでいただきたいのです。だいたい日本全国どこの公立図書館でも取り寄せ可能だと思うので、お金がなくてもお読みいただけます。
 私の文章を読むことで、歪んだ考えに取り憑かれた人たちの憑きものが落ちてくれれば、それに越したことはありません。読ませなければ、彼らが考えを変えるきっかけも取りあげてしまうことになります。

 で、最近、Xが仕様を変えて、ブロックした相手もツイートを読むことだけは可能になったようなので、私も心置きなくブロックできるようになりました。

 私はリベラルな知性を尊重してるので、コメント読んでムカツいたから問答無用でブロック、なんて感情的なマネはしません。先日、松本さんの件だけでなく、関係ないドラマの感想のツイートとかにまでしつこく絡んでくる松本擁護派など、数名をブロックしましたが、ブロックする前に彼らのアカウントを読みにいってます。ざっと目を通したところ、やはりいちゃもんコメントをつけてくるような人たちは、陰謀論的な発言や自分勝手なヘリクツを繰り返してることがわかったので、読解力・思考力・表現力ともに落第点と判定し、ブロックしました。
 以前から再三いってるように、私はもう陰謀論やエセ科学の信者を甘やかさないことにしています。もちろん、それらをエンタメとして楽しむぶんには問題ないけど、事実とフィクションの区別がつかない人がけっこういるから嘆かわしい。

 何度否定しても、私のことを大学の先生だとする説が消えないんです。まあ、そう思ってくれるほどみなさんが私の知性を評価してくれてるのなら光栄です。だったら教育的観点から指導してあげてもいいのかなと。
 今後、私にブロックされた人は、パオロ先生から落第判定を受けたと思ってください。

 最後にもうひとつ教育的なアドバイス。140字の文章を100個書いても、文章力も思考力も向上しません。14000字の文章をひとつ書いてみてください。それを何十回も推敲すれば、文章力と思考力の訓練になります。
[ 2024/11/21 17:58 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

松本さんの件に関する現在の私の考えをお話しします

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。松本人志さんが、予定されていた二回目の弁論をせずに訴訟を取り下げたことに関して、無視するわけにはいかない論点がいくつかあったので、遅ればせながら言及しておきます。

   *

 今年1月に書いたブログ記事
松本人志さんの罪についての考察と提案』はネットメディアに転載されて大きな反響を呼びました。その後、
松本さんについての記事への反響など
被害者の存在を消すな
 この2本の追加記事を出してから、私は松本さんの件には言及してません。なぜかと聞かれたこともあったんですが、いまに至るまで自分の考えにまったく変化はないので、言及する必要がなかったというだけのことです。
 寄せられた多くのご意見にはすべて目を通しました。ご意見といっても、批判の99.9%はまともな日本語の文章にすらなってない誹謗中傷、悪口雑言、泣きごと、負け惜しみ、呪詛、邪言の類。こういった、膿のような人間の悪意博覧会に目を通すのはもちろん不快です。ただ、私は長年物書きをやってきたのでもう慣れてます。権力者や人気者に媚びを売らず、正しいことを正直に書くと、必ずゴミくずのような批判を投げつけられるのです。

 比較的長文の批判も少しありましたけど、論点ずらしの詭弁に終始しているか、無関係の事例をあげて反論したつもりになってるだけでした。女性蔑視イデオロギーに取り憑かれて論旨の破綻した妄言を述べてる人もいましたけど、経験上、この手の人たちは相手にしないほうがいいです。論理的思考が出来ない人とは議論が成立しませんから。
 いずれにせよ、私の考えを変えさせるようなまともな反論はひとつもありませんでした。

 私が松本さんの人間性を軽蔑する気持ちにも、まったく変化はありません。それどころか、先日の訴訟取り下げ後に公表した声明文を読んで完全に見放しました。この人が救われる道はもう、出家して世間と隔絶した山奥の寺にこもり、リアル松本坊主として余生を送るしかないんじゃないかと。

 あれほど人をバカにした声明文も珍しい。しぶしぶ謝罪する体を装ってるだけで、本心では反省も後悔もしてないことが透けて見える、ダメすぎる謝罪文です。こんなのダメだ書き直せ、と松本さんを諫めることができる人が周囲に誰もいないってのが、やはり問題なんです。それが松本さんを腐らせたんです。政治でも会社でも同じことがいえますが、権力者を批判できない体制のもとでは、必ず組織と人間が腐っていき、周辺の人々にまで悪影響を及ぼします。

 事実無根だ、裁判で戦う、とあれだけ気炎を揚げていた松本さんが急に訴訟を取り下げたのは意外ではあったけど、想定内だったとの見かたもできます。
 というのは7月に、被害を訴えていた女性の身辺を探偵に探らせて弱みを握り、裁判での証言をやめさせようと画策してたことが発覚したからです。
 結局、その弱みというのはガセネタだったことが、関係者の実名証言であきらかになったのですが、脅迫まがいの姑息な手段を弄さねばならないほど追い詰められてた時点で、裁判で勝てる材料がなく焦ってる様子が見え見えだったし、そんな裏工作は裁判官の心証を悪くする可能性もあるのだから、松本さんの失点でした。もはや万策尽きた松本さんが白旗を揚げるのは時間の問題だったともいえます。

   *

 先日の声明では、まだ懲りずに物的証拠の有無にこだわって自分を正当化してるところにも呆れました。そもそも性行為に同意してたかどうかなんてのは内面、心理的なことなのだから、物的証拠を出せと要求すること自体にムリがあります。両者の力関係によっては、強制されてイヤなのに拒めないこともありえます。社長や上司や芸能界の大御所みたいな人を訴えることで自分のキャリアが終わってしまうリスクと天秤にかけて、泣き寝入りを選ぶ人が多いことにもうなずけます。なので物的証拠にこだわらず、状況証拠と双方の主張内容を比べて、どちらの信憑性が高いかを判断するしかないんです。

 で、今回の場合はじつは非常に単純なケースだったのです。女性側は文春の記事で、詳細かつ具体的な証言をしてます。だから女性の主張内容に決定的な矛盾がいくつもあることを指摘できれば、松本さんは裁判で勝てたはずです。しかも松本さん側は具体的な証言を一切してないから女性側は松本さんの矛盾を指摘できません。これは松本さん側のワンサイドゲームになっていてもおかしくないケースでした。
 ところが松本さん側は絶対的に有利な立場にありながら、女性の証言内容をまったく切り崩せなかったわけです。唯一の切り札とされたLINEのお礼メッセージも、被害者が恐怖のあまり加害者にへつらうことは普通にあると、性犯罪の事例に詳しい専門家たちから一蹴されてしまいました。
 文春側は、次の弁論に向けて大量の証拠を提出する用意があったそうですが、松本さん側にはもう手持ちの札がない。裁判を続けてさらに悪行が暴露され、恥の上塗りを重ねるか、それとも訴訟を取り下げてしっぽ巻いて逃げるか。プライドお化けの松本さんにとってはどちらに転んでも敗北の屈辱にまみれるのだから、苦渋の選択だったに違いありません。

   *

 これによって文春は記事内容の訂正も謝罪もしなくてよいことになりました。週刊誌がいいかげんな記事を載せることはたしかにありますが、この件では、文春が長期間裏取り取材を重ねた上で掲載に踏み切った様子が読み取れます。裁判でも証言するといってたA子さんの告発はとりわけしっかりとスジが通っており、あれがもし全部作り話だったら、逆に驚きます。もしそんな才能があるのなら、テレビ局はすぐ彼女を脚本家として登用したほうがいい。
 松本擁護派のみなさんは、先に自分が信じたい結論を正解と決めてしまって、その結論に合うようにすべての言説を読みかえてしまいます(これは陰謀論やエセ科学の信奉者に共通する思考法ですし、私の記事を批判してる人たちもこれをやってます)
 彼らは訴訟取り下げという事実上の敗北宣言を認めたくないものだから、「真相は闇の中だ」などと負け惜しみをいってますけど、全然違います。
 記事は事実無根とする訴えが取り下げられたのだから、記事内容と女性たちの主張は大筋で事実であると松本さんが認めたことになります。今後はテレビなどのメディアが女性側の主張をそのまま報道しても、名誉毀損にはあたらないわけです(松本さんはそれに対して新たに訴訟を起こすこともできますが、依頼を受ける弁護士がいますかね)

 そもそも事実無根であるかどうかの議論は、全否定か全肯定かをめぐる議論ではありません。報道は人間がやるものですから、100パーセントの正しさを求めるのは非現実的です。記事が漢字を一文字間違えてたことだけを理由に、記事は事実無根だ! と主張するのはバカげてます。
 細部に一つ二つ誤情報が含まれてたとしても、全体として大筋で事実を伝えていれば、それは事実無根とはなりません。細部の間違いは訂正すれば済む話であり、記事のすべてを撤回する必要もないのです。
 女性側の詳細かつ具体的な多くの証言に対し、松本さん側は細部の間違いを立証する証拠すら出せなかったのだから、彼女たちの主張は大筋で正しいものとみなされて当然です。

 ネットなどでさんざん、ウソつきだ、カネ目当てだ、売名だなどと根拠もなく叩かれてきた女性たちの名誉は、とりあえず回復したことになりますが、あくまで形式上のものにすぎません。彼女たちが被ったさまざまな被害や苦しみを考えれば、報われたとは到底いいがたい。
 ネットで大量の誹謗中傷や侮辱を受けたことに対しては、なんの補償もありません。実名や勤務先を晒されて被害を受けた人もいると聞きましたが、もしかしたら無関係の他人が誤情報で被害に遭ってる可能性もあります。いずれにせよ、女性たちを中傷してた連中はなんの罰も受けず野放しのままです。
 このあと女性たちへ松本さんから正式に謝罪する場が設けられるのかも不明です。松本さんの身勝手さからすると、先日の声明文で、あれで謝罪は済んだからもうええやろ、くらいにタカをくくってることもじゅうぶんありえます。

   *

 これまでテレビのワイドショーなどは、文春の記事内容や女性の証言を詳しく紹介するのを避けていたように私は感じてました。おそらく、裁判で松本さんが勝って記事が撤回される可能性に配慮してのことだったのでしょう。
 でも訴訟が取り下げられたのだから、もう具体的な記事内容を放送してもかまわないのです。なんなら、仰天ニュースみたいな実録もの番組で女性側の告発内容を再現VTRにして放送すれば、視聴者に分かりやすく説明できます。
 私は決してふざけてるわけじゃないですよ。松本さんのテレビ復帰がウワサされるいまだからこそ、あらためて女性たちの具体的な証言を詳しく報じて、視聴者に問うのがスジだと申し上げてるのです。一連の文春記事に書かれた女性たちの告発内容を知れば、松本さんらの行為が常習的かつ計画的で、一般人の常識的倫理からかけ離れたものであるとわかるはずです。それを知ってもなお、視聴者のみなさんは松本さんのテレビ復帰を許しますか、と問いかけるべきです。
 これまでテレビでも詳細が報じられなかったし、週刊文春のバックナンバーをわざわざ読んだ人も少ないだろうから、たぶんほとんどの人たちは、女性たちの具体的な証言内容を知らずに、不確かな伝聞と想像だけで判断してるんです。
 みんなが具体的な詳細を知らないのをいいことに、松本擁護派は、芸人が女性をお持ち帰りしただけだ、些細なスキャンダルにすぎない、などと事実を曲げる印象操作を執拗に繰り返し、事件の矮小化を狙ってました。

   *

 これまでさんざんコンプラ、コンプラとうるさくいってきたテレビ局の本気度が試されるときがやってきました。性加害こそ立証されずうやむやにされたとはいえ、松本さんが結婚後も不倫を繰り返していたのは事実です。それも過去に例を見ないほどゲスなやりかたで。
 不倫が発覚したことで何年もテレビから干されてるタレントが大勢います。松本さんだけを特別扱いするのは不公正です。少なくともこの先2、3年はテレビ出演を見合わせなければ、他の件との整合性が取れなくなってしまいます。

 松本さんが絶対的な地位を利用して後輩に性行為要員としての女性を用意させてたのも事実無根ではなかったわけで、これはパワハラとしてコンプラ違反の審査対象になります。
 もしかしたら、一番わりを食ったのは後輩たちかもしれません。松本さんの勝訴にすべてを託していたのに、あっさり見捨てられたのですから。
 松本さんの訴訟取り下げによって、松本さんに協力していた小沢一敬さんらの行為も事実無根ではないとみなされます。小沢さんが自分の名誉を回復したいなら、今度は自分で文春を訴えねばなりません。
 なんというか、こういうところにも松本さんの、自分さえ良ければいいという器の小ささがあらわれてます。本当に男らしさやアニキぶりを誇示したいのなら、自分が全責任を取って芸能界を引退するから、自分の命令に背けず従っていただけの後輩たちは復帰させてやってくれ、くらいのことをいったらどうですかね。そうすれば世間の風向きも変わるかもしれないのに。

 それと、松本さんは文春に5億越えの破格の賠償金を要求して大物ぶってましたけど、今度は賠償金をもらうことより払うことを心配する番です。
 女性たちに対する賠償金などはないといってますけども、松本さんがテレビ各局とCMスポンサー各社に対して払わねばならない莫大な賠償金、違約金は依然として存在するはずです。
 賠償金などに関する契約内容は非公開なのであくまでウワサですが、松本さんよりかなり格下のタレントでも、過去に数十億の賠償金を払うことになったケースがあると囁かれてます。松本さんクラスのギャラをもらってたタレントなら、テレビ各局とスポンサー各社、すべて合わせて数百億になってもおかしくありません。まあ、それくらい払うのは屁でもないほどのお金持ちだろうから同情はしませんが。

   *

 私がキビシい意見を書いて松本さんと支持者を批判してるのは、彼らが社会に向けてひどく間違ったメッセージを(意図的であれ無意識であれ)発信しているからです。
 それは、権力者は何をしても許される、あるいは、何をしても権力者になれば許されるというメッセージです。それを容認したら、権力者は何をしても許されるのだから、逆らってもムダだ。権力者には黙って服従せよという脅しを正当化することになります。私はそんなことを到底容認できません。権力を自由に批判できることは、民主主義の基本だからです。

 松本さんらがやってたことは、人としてやってはいけないこと、すべきでないことでした。多くの常識的な人たちはその点を批判したのです。他の不倫やパワハラで処分されたタレントと同じ処分をするべきだ、特別扱いはするなと主張してるのです。
 しかし松本さんを擁護したい人たちは、才能ある芸人だからなどと、あの手この手の論点ずらしによる反論を試みました。そのひとつが法律論。常識や倫理なんてのは個人の価値判断でしかない。裁判で法に反していることが確定しなければ批判も処罰もできない、それが法の論理だと牽制してきます。
 それに対して、人としてやってはいけないことは、たとえ法的に問題なくても、すべきではない、などと反論したら、きっと松本擁護派の人たちは、何もわかってないなと嘲笑するのでしょう。
 はたして本当にそうなのかな。もっともらしい法律論を振りかざす彼らの考えは法哲学的な観点からも正しいといえるのでしょうか。
 私の認識は異なります。じつは、倫理的に正しいことは論理的にも正しいことが多いし、倫理的に間違ってることは論理的にも間違いであることが多いんです。

 法に反しなければ何をしてもいいって考えは理論的には成立しますが、現実には実行不能な絵空事にすぎません。
 法に反しなければ何をしてもいいという宣言には、法に反することを絶対にしないという縛りが含まれるからです。それを厳守しなければ矛盾が生じてしまいます。法に反しなければ何をしてもいいと主張する人が法に反することをしていたらそれはあきらかに矛盾ですから。
 それ、現実の世界で実行できますか。不可能ですよね。厳密にすべての法律を適用すれば、誰もがなにかしらの法律違反をしているはずです。でも警察や国家権力が全国民の一挙手一投足まで監視することはできないから、社会通念上問題ない些細な法律違反は見逃されてるというだけのこと。
 それを悪用する人がいるんです。バレなければ法に反することをしてもいいという考えかた。犯罪者の行動原理です。
 法に反しなければ何をしてもいいという、合理性を装った考えと、バレなければ何をしてもいいという堕落した考えは、表裏一体といってもいいほど近い考えかたです。なので自制心、自律心の薄い人ほどその境界を容易に踏み越えて犯罪に走ってしまいます。

 人としてやってはいけないことは、やっぱり、すべきではありません。これは道徳的なお説教ではなくて、論理的に正しい結論なので、堂々と主張してもかまいません。
 松本さんは、人としてやってはいけないことをやっていたと、私はみなしてますし、多くのみなさんが同調してくれるでしょう。
 法的に罪が問われなくても、倫理的な問題が多々あったのは事実なのだから、すぐにテレビに復帰させるという考えは甘すぎます。
 以前松本さんは、テレビのコンプラがうるさくなって、自由にお笑いができなくなったとこぼしてましたけど、皮肉なことに、松本さんみたいな人がいるからコンプラが必要なのだと証明されてしまいました。

   *

 私は、吉本興業の社員と芸人にも問いたいのです。彼らのなかにも、松本さんに批判的な人はたくさんいるんじゃないですか。でも権力に逆らって発言するのをためらっているのではありませんか。
 吉本の内部から、松本さんをテレビに復帰させるべきではないと毅然と主張する声が自主的に上がることを、私は期待しています。
 以前、新潮社の『新潮45』という雑誌に政治家が書いた差別的な記事が掲載され、世間から批判を浴びました。会社の上層部はあまり問題視しない方向で動いてましたが、新潮社の社員の間から記事を批判する声明がSNSなどに続々と上がってきたことで会社も無視できなくなり、結局雑誌は休刊になりました。
 ひとりで権力に逆らうことは危険ですが、常識的な倫理観と少しの覚悟がある人たちが何人も集まることで、吉本の社員・芸人も松本さんのテレビ復帰に反対することは可能ですよ、とお伝えしておきます。
[ 2024/11/18 08:18 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

パオロの著作
つっこみ力

読むワイドショー

思考の憑きもの

サラリーマン生態100年史

偽善のトリセツ

歴史の「普通」ってなんですか?

世間を渡る読書術

会社苦いかしょっぱいか

みんなの道徳解体新書

日本人のための怒りかた講座

エラい人にはウソがある

昔はよかった病

日本文化史

偽善のすすめ

13歳からの反社会学(文庫)

ザ・世のなか力

怒る!日本文化論

日本列島プチ改造論(文庫)

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談

コドモダマシ(文庫)

13歳からの反社会学

続・反社会学講座(文庫)

日本列島プチ改造論

コドモダマシ

反社会学講座(文庫)

つっこみ力

反社会学の不埒な研究報告