なぜ「恋愛格差」は幻想なのか

pikarrr2007-07-18

「恋愛」という幸福な時代の発明品


「恋愛資本主義」ということばが流行っていますが、「恋愛」とは資本主義によって可能になった最近の発明品です。簡単にいえば、日本において「(核)家族」はサラリーマンが全盛の高度成長期のときに生まれ、また「恋愛」がうまれたのは好景気80年代のトレンディードラマからです。

3高、ドラマのような恋愛、結婚、年功序列、安定した家庭生活。これらは資本主義的好景気と終身雇用にささえられたとても幸せな時代の産物と言えます。そしてその始めから欲望される対象として、「恋愛」は、恋愛格差、モテ/非モテの構造を持っていました。




社会性からの退避


最近のネオリベラル化による市場主義の中で、このような幸せな時代が終わりつつあります。幸福な夢が解体されると、社会的に自立を阻まれている日本の女性は、いかにみずからの将来を安定させるか、選択を迫られます。数少ない条件のよい男性を求めて自分を研くか。女性でも自立し生きられる限られた職業を選択するか。あるいはパラサイトシングルとして、幸せな世代である親に依存するか。

幸せの世代へのパラサイト構造は、男性のニート、フリーターにもみられますが、男性は、(自ら楽しむ分の)経済的担保を確保しつつ、恋愛、結婚とは違いみずからの趣味にはしるなど、社会的な拘束から退避します。




「恋愛プア」という郷愁


このような状況は、最近、恋愛格差が広がっているというよりも、「恋愛」そのものが解体されているということです。だから「恋愛プア」というのは、そもそも「恋愛」自体が解体され行く中での郷愁であるといえます。多くにおいて非モテの人は、自らが育った家庭での従順な母のイメージをもとめ、実際の女性の社会的なハングリーさの前に退避するのです。

「彼ら」が求める「恋愛」は、もはや存在しないのです。そして「彼ら」はそこに、まだ「恋愛(格差)」が存在しているように振るまいつづけているのです。より正確にいえば、「恋愛」はいつも非モテが維持してきた幻想であり、「彼ら」こそが残された正当な「恋愛」の継承者であるのでしょう。

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*1:画像元 http://blog.livedoor.jp/kazuhisakitayama/