『風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦

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評価:★★★★★星5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)

■宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠のあたらなる表現への挑戦

大傑作だ。全編、僕はじわっと半泣き状態だった。それにしても、ずっと胸が熱くまったままだった。批判もあるだろうと思う。しかしそれくらいギリギリなエッジにトライしているということだろう。この作品は、宮崎駿という大巨匠をして、エポックメイキングな作品になると思う。それは、これが単純にこれまでの彼の持っていた技術や世界観をすべて総まとめにしたというだけではなく(それだけでもすごいのだが)、それを超える新境地に達しているからだ。この年齢で、ここへきてで、壮大な「その先へ」のチャレンジ。さすが、宮崎駿、としか言いようがない、絶句する。ついこの前まで、後継者がいないななどが主要な批評のテーマだったんだが、そんな子余はぶっ飛んでしまうくらいの最前線感覚。素晴らしかった。しかも、全編大日本帝国の鮮やかな日の丸の戦闘機の美しいシーンの連続は、、、、これ、ウルトラ左翼にして共産主義者の人が作ったの?と心底疑いたくなる(苦笑)。もう凄くて、腰が抜けそうだよ。めっちゃくちゃ挑戦的なテーマで、宮崎駿ほどの巨匠でないと、とてもではないけれども通らなかった企画だし、ありえない作品だ。テーマは全く別のところにあるとはいえ、これが強烈なナショナリステッィクな受け取られ方をしてもぜんぜんおかしくないもの。いやまじで、韓国や中国でどう評価されるのか、、、超やばいよ、これ(苦笑)。日本も国内は価値が分裂しているので、、、、ファミリー層向けのブランドで、ここまでの爆裂爆弾(笑)、もうほんと、宮崎駿の凄さにあきれます。・・・・しかし、、、マーケティング的にも、これは、凄い見事なはまりだと思う、、、。

…でも、それはすべて結果論ですね、一言でいうと、宮崎駿が、ごまかしなしにひたすら自分が作りたいものをつくりたいように作ったという作品だろうと思います。ここまで、いっさいの逃げなし、というのは素晴らしい。まず、子供には全く受けない理解できない、左翼でコミュニストなのに兵器賛美、兵器大好きのオンパレード、ヒューマニズムに回収することが不可能な人物の自己実現への強いコミット、、、、これまでの宮崎駿の意匠、表面をすべて全否定するような、赤裸々ストレートな物語。素晴らしかった(苦笑)。


僕はポニョの記事で、最近の宮崎駿の作品は「脚本の統合性がない・断片的である」ところが、残念だといったことを書いています。ポニョなんかは、それを超えてのイメージの奔流があって、それでも素晴らしいという肯定の評価ですが、脚本で本質的にいたいことが明快でないのは、事実だと思っていました。「とはいえ・・・・」というのは、どんなに肯定しても二番煎じの評価です。しかし『風立ちぬ』は違います。見事な論理性。しかも、日本人の我々の歴史的事実に立脚した上で、人類のモダニストとしての夢と現実に連なる普遍性。そうか、これが、、、、ほんとは、これが言いたかったし描きたかったのかぁ!!!と心底驚きました。素晴らしい作品い出会えて、、、神様ありがとう!と叫びそうです。そして、、、、『未来少年コナン』と漫画版『風の谷のナウシカ』で描かれていた、エンターテイメントにはするのが難しいと思われていた「あの領域」への切り込みです。ああ、ここへきて、最初期のテーマの本質的な問いに戻ってきたのだな、と感心します。


っと、背景解説書かずに煽ったので、次へ行きます(笑)。



■『未来少年コナン』『もののけ姫』と続くモダニスト(近代主義者)の夢と現実をついに日本人が生きてきたリアルに接続


実は本編を見ている最中に、さまざまなイメージが喚起されたのだが、大きなものは『ハウルの動く城』だ。当時、僕はこの作品を酷評している。


その理由は、「意味が分からないから」だった。


精確に言えば、どの文脈で宮崎駿が語りたいのかは、過去の作品の文脈を理解していれば、自ずとわかるのだが、そういう高踏的な作品読解は、アニメーションとしてだけではなく、物語として僕は好きではない。物語は「わかる」ように描いてほしい、というのが僕の好みだ。それが正しいとは言わないが、端的に「それ」を見て、少なくとも表面的にでも言いたいことがわからなければ、やっぱり物語としての整合性がないと思ってしまう。もう少し具体的に書けば、ハウルという青年は、戦争をとても嫌っているようなのだが、「なぜそういう意識を持つようになったのか?」と「それならば、あなたは何をするのか?(=どう行動に起こすのか?)」が全然描かれていないので、ハウルがただ単なる傍観者に見えてしまうのです。絨毯爆撃の凄まじい戦争シーンの悲惨さを描けば描くほど、ハウルという主人公視点が、それに対して、外から見ている受け身であることがわかってしまうし、立ちすくんで苦しんで、ただ動けなくなっているだけなのが伝わって、少なくとも映画という短い時間出来背負い転結なりドラマの展開が要求される媒体としては。で??ってしか思えなかった。


もちろん整合性が取れる作品は小さくまとまってしまうので、『崖の上のポニョ』や『千と千尋の神隠し』のような、何が言いたいのかわからないイメージの本流であっても、もちろん凄い強度は存在する。とはいえ、やっぱり「全体を通して主張したい明快なメッセージ」という言語化の部分とアニメーションならではのタンジブルなイメージが両立してほしいというのが、僕の好みだ。表面の動物の脊髄反射のレベル・・・・ああ、これは菜穂子との恋愛の美しい話ね、といった次元だけで見てしまう人も多々いると思う(信じられないが、それが現実のリテラシーのレベルなのだろう。背中の方で女性の2人組がそういう会話をしていた…良い純愛映画だったね、、、と)が、「そこ」から順々に複雑なものへ連れて行ってくれる構造をしているかが、エンターテイメントの価値だと僕は思う。


そして、、、、この『風立ちぬ』は、「それ」が、見事なレベルで両立している、凄まじい傑作だ。もう年齢で、たぶんちゃんとしたものは作れまい、ぐらいに思っていたが、凄すぎる凄まじすぎる大巨匠の意欲作・超大作だ。5年ぶりの作品だが、5年かかったということなのだろう。

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さて『ハウルの動く城』に戻ろう。僕は、この作品の爆撃機による絨毯爆撃のシーンを見て、このシーンの、、、、なんというか「美しさ」というか魔力に魅了されました。作品としては、言いたいことがわからないイメージの奔流なので、特に見返したいとも思わないし、心にも残りませんでしたが、何か「その部分」だけはいつも違和感というか、引っかかりが存在していました。そして、戦争というマイナスでネガティヴなものへのなぜか感じてしまう美しさの憧憬もよくわかりませんでした。そう、、、それは美しいのだと思うのです。近代という名の魔力の美しさ。スペインの爆撃を描いたゲルニカは、ピカソが衝撃を受けて書いたものですが・・・僕は、やはり美しいと思いました。湾岸戦争の最前線の爆撃の映像出凄まじい爆撃がされている光が美しかったように。それは、マイナスのものであっても、人類の力だからです。そして人間の叡智が結集された技術の光だからです。近代のこの魔力の美しさを感じない人は、この部分は、嫌悪する部分でしょうね。たとえば、リーフェンシュタールの『民族の祭典』。これは大学の授業で、大画面で見ましたが、、、胸が震えるほど感動しました。しかし、、、これって、ナチス礼賛のために造られた映画なんですよね。。。。基本的に、巨大な構築物、建築物や、大衆の動物的脊髄反射を高揚させるマス演出などなど、、、近代に特徴的なテクノロジーとマスにライトアップを浴びさせるものは、人類の「凄さ」ってのを感じさせるんだろうと思います。そして、その「凄さ」ってのは、善悪の彼岸の力なので、非常に影の部分もまた色濃いんですよね。こういう美しさと陰惨さの組み合わせを持ったモダン特有の美と力は、いまだ人類を支配する大きな力でありエネルギーだと僕は思います。文脈的には、ナチス・ドイツやドイツ第三帝国のモダンカルチャーがどうしてもその基盤になってしまいやすいので、なかなか肯定的には出せないものですけれどもね。

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宮崎駿は、その本質で、モダニストです。WW2以降である我々は、単純なオポチュニストのモダニスト(=近代主義者)ではいられない屈折を持ちますが、彼は、その原初のスタート地点であるモダニストの、美しさ、気高さ、面白さ、凄さを十分い知りつくし、描き続けてきました。彼の壮大な物語の世界観は、常にこの究極のモダニストたちが、肯定であれ否定であれ、確固としたポジションで存在し続けます。このモダニストの美しさへの狂気と、それへの深い悔恨の組み合わせこそが、彼のコアの一つだと僕は思っています。以前に書いたことがありますが、『未来少年コナン』のブライアック・ラオ博士、『もののけ姫』のエボシ御前が、そのシンボライズされるキャラクターです。漫画版風の谷のナウシカにでてくる墓所を創りだした科学者たち、ラオ博士の科学者グループ、そのどれもが、科学の人類の英知で、世界を変えることができると信じたモダニストの究極の姿です。


僕はこれらモダニストのことを「設計主義的なもの」と呼んでいます。人間の英知と科学を結集すれば、世界を変えられると信仰し、それを実行する人々です。近代教とも科学教ともいってもいいかもしれません。クラークなど初期のSF作家たちにもこの系統を感じます。この話は、宮崎駿に関することを書くときにいつも書いているので、過去の記事から抜き出してみましょう。モダニストとは何ぞや?、設計主義的なものとは何ぞや?と。

ちなみに近代思想の根本は、すべて共通の基礎を持っていて、それは「世界は可視化でき計量できる!」というサイエンスの思想です。言い換えれば、人間が「神」の代わりにこの世界を再創造できるのだ!という人間本位(ヒューマニズム)に貫かれている思想のことです。僕は、これを「設計主義的なもの」と呼んでいます。つまり、世界は、自分たちの手でよくできるんだ!という指向性です。この究極の具体例が、コミュニズム(共産主義)であることには
異論がないと思います。


中略


■答えの出ないと結論付づけられた世界でなお答えを探す

ちなみに、天才宮崎駿さんは、すでに思想的結論として、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、設計主義的に世界を良くしようとする善意の執行者(=現世に存在する神と言い換えてもいいかもしれない)を、ナウシカが、誰にも黙って殺してしまうという(苦笑)、究極の神殺しを行うという形で、既に結論を出してしまっているんですよね。これって、最高の自己批判で、ものすげぇカッコイイと僕は惚れこんでしまいます。


そういう意味で、そこまでやっておきながら、まぁ気持ちはわかるが今更コミュニズムもなかろう、とは思うんですが(苦笑)。ただし、近代社会とは、世界を人間自身の手でよりよくしていこう!という社会改良の意思で支えられているものなので、たとえその最終結論が間違っていてさえも、『もののけ姫』のエボシのように、この世界の不合理さと闘っていかねばならないという、二重思考的でアンビバレンツな世界なんですね。そして、その「答えの出ないと結論づけられた世界で、なお答えを探すという」ことがすなわち、物語のドラマツゥルギーが最も輝く、現実でリアルなものなんだ!と僕は思うのです。なぜならば、それが僕たちの住む世界の誠実なコピーとなるから。


えっとここで何が言いたいかというと、理由1)のサマライズなんですが、宮崎駿さんの思想的基盤は、「世界を人間の手でより良くしていこうという設計主義的な近代思想の原初的な形」です(←かってに決めつけてるっ!(笑))。これが、コミュニズムの核心部分とニアリーイコールになるんですね。だから、具体的にそれを表現しようとするととっても左翼くさくなる。まぁもともと、あの時代の人ですしねー。しかも、かといってソビエト共産主義の大失敗を経ている現代なので、それが微妙に屈折して、「親子どもが名前で呼び合うフランクな家族」みたいな、それって本質か?のようなリベラルの仮面をかぶる出し方になるんですね。そして、それを上回る「凄み」を出してくれないと、いや、つまらないから、それ、みたいな白けた気分になってしまうんですよ。内容の是非ではなくて、上から説教されることのウソ臭さです。


ちなみに、つまらない理由1の結論として、ようは宮崎駿の左翼的センスというものは、マンガ版の『風の谷のナウシカ』での神殺しの結論のように、物凄い尺をつかって、読者がついてこれないほど難解な深みへ誘い込ませるながら、


・設計主義的な、人が人の手で社会をよくしていこう!(=ヒューマニズム・人間本位)という理想


と

・しかし設計主義的な動機が大規模になると、必ずスターリニズムやクメールルージュのような全体主義に辿り着くアイロニー


というもう、どうしてそんな「正しい動機(=ひとが人の苦しみを救おう!)」から出発して、そんなひどい結末に至るんだよっ!というこの世界の本当に苛酷な真実を描いたときに、こそ、この系統の脚本の思想的「凄み」に到達するんですね。だから、尺が短い作品では、そもそもこの脚本を使ってはいけないんです。2時間ぐらいでは、しんどいですよ。そうでなくとも分りにくすぎて、これって、消費者が理解しないんですよ。それこそ、『もののけ姫』級の圧倒的な映像のパワーとか、そういうものがいるんです。だからこのテーマは、映画では、破綻しやすいと思うのです。


『ハウルの動く城』などを見ると、この思想を描くと、断片しか描けず、まとめきれないで散漫な作品になってしまういい例だと思うんですよ。この作品は、意味不明だもの。脚本的には。


『崖の上のポニョ』にも、世界を滅ぼそうとする魔法使いが出てきて、これって全く説明していないんですが、未来少年コナンのブライアック・ラオ博士や、ナウシカの世界を作った高度文明の科学者たちや、そういったキャラクターの正統なる後継者としか思えないんですよ。でも、たぶんこれを説明していると、消費者がついてこなくなる。だけど、彼の思想的系譜から言って、出さないのはもう許せない(笑)。となって、説明なしで出すんですね。ハウルもそうだったと思います。そうなると、脚本的に意味不明になるんですよねーーー。ぼくは、ちょっと思うんですが、この辺で人生の終幕として、死ぬ気で、テレビシリーズをやってみるのはどうか?って思いますよ、この脚本を最高のクオリティで、2年で50話くらいで(笑)。まぁしんどい割にもうからないかもしれないですが(苦笑)。



『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5


宮崎駿を理解する時に、このモダニストの目指した夢と挫折という文脈を抜きには、不可能だと僕は思っています。今回の作品にも、イタリアのカプリーニ伯爵、ドイツのユンカース博士、日本の堀越次郎と飛行機への夢と戦争への協力という分かちがたいものに対してのスタンスが、はっきりと描かれており、宮崎駿の全作品の奥底に流れる基礎だと僕は考えています。この3人は、自分の愛する飛行機への情熱に対して、3人それぞれの人生を歩みました。この辺の調べれば調べるほど味が出る組み合わせなあたりもとてもしびれます。


■少年を主人公に作ることのできない時代からの脱却

宮崎駿の思想遍歴は、上記のモダニストとしてのコアである


・設計主義的な、人が人の手で社会をよくしていこう!(=ヒューマニズム・人間本位)という理想


が軸になっています。彼が兵器が好きなこと、飛行機が好きなことは、あれが人類の技術の結晶だからです。モダニストは、基本的に、大規模な建築物とか技術によって生まれるとんでもない大きなものとか、技術がなければ不可能であったものが好きなものなんです。それは、人類の英知を感じるからなんじゃないかな、と思います。そして、この技術の発達があればこそ、人は空が飛べるようになったりするし、たとえば、橙乃ままれの『まおゆう』で新しい農法技術の導入やとうもろこしの大規模農業の展開などのシステムが、キラキラ輝いて、貧しくしいたげられた人々を救う兆しとして希望を感じさせるのです。技術の発展がなければ、人は貧しいままですから。


しかし・・・・


・しかし設計主義的な動機が大規模になると、必ずスターリニズムやクメールルージュのような全体主義に辿り着くアイロニー


しかし、モダニストが進める技術の際限のない発展は、人の手に余る膨大な力を生み出してゆき、それはコントロールを失う運命にあります。物語の世界で類似系を探すまでもなく、WW1とWW2で凄まじい災禍を経験した我々人類は、それをよく知っているはずです。たとえば、とても構造的に似ているので何度も上げますが、橙乃ままれの『まおゆう』では、善意で貧困のために苦しむ世界の発展を進めようと、さまざまな技術を導入していく魔王の姿は、まさにエボシ御前と同じく、善意溢れる先導者でした。しかしながら、その結果、余剰生産物が人を支えることが可能になり、あふれた人々を利用した国民皆兵が、巨大な戦争を動員を可能にしていくことになってりします。またマスケット銃が広く広がり戦争の犠牲者のけたを跳ね上げて、人類の滅亡を招きかねない構造と危機をもたらすようになっていきます。

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これは、我々が生きる世界の現実です。そしてもう一歩踏み込んでいうのならば、技術というものの本質(=両義性)です。


WW1-WW2以降の、僕らが住む世界の構造は、このようになっています。善意と熱意と希望によって、人類を、世界を、より良くしていこうとして、それは技術の力によって可能になりました。しかしながら、その技術自体、、、その巨大なプロメテウスの火は、コントロールし切れず、それまでのものとは桁が違う悲劇と、世界の崩壊と滅亡の可能性を、その構造に孕むようになってきてしまっています。核ミサイルや原子力がその典型的なものですよね。


というこの構造をベースに考えると、宮崎駿の思想遍歴が、とてもクリアーになります。『未来少年コナン』の時点で、既に彼は、自分が大好きな、飛行機などの科学技術の際限のない発展の果てに、どんな世界が待っているか・・・・はっきり言って、それが世界の滅亡でしかないことを理解しています。『未来少年コナン』は、そのものずばり、最終戦争で世界が滅びた後の世界を描く物語でした。アレクサンダ−・ケイの『残された人々』というSF作品にインスパイアされてつくられているこの作品の選択は、彼の最初期にすでに現在と同じ結論に辿り着いていることがはっきり示されていると思います。全てが明らかになった後、コナンに語るブライアック・ラオ博士の述懐は、彼の自分が大好きな技術や飛行機の果てにあるものが生み出すであろうものへの悔恨に溢れていました。このモチーフを徹底的に展開したのが、漫画版の『風の谷のナウシカ』ですね。

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これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、


今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった


といっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。


そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。


未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、永遠の日常をめぐる言説というか、解析は、物語三昧とLDさんとは、散々やり続けているので、つながりを実感していただけるのではないかと思います。


さてこれは、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジくんのキャラクターを見ていけばよくわかるのですが、ガンダムなどの類型・・・人類を守る崇高な仕事、敵と戦うロボットの操縦者に選ばれるということに対して、1980-2010の少年像が、どう変化してきたかをビビッドに感じることができるはずです。この部分については、漫研サイトのLDさんとずっと話し合ってきましたが、それまでのロボットアニメでは、どんなに愚痴を言おうが文句を言おうが、結局は、人類を最後は仲間を守るために、必ず敵と戦いました。しかし、それを、どんな理由付けがあろうと、僕は嫌だ!とテレビシリーズのシンジくんは叫んで拒否するに至ります。これは非常に画期的なことであったと、僕等は観察しているのですが、ここで起きた問題点、感覚、時代の受け入れ感覚は、まさにこの宮崎駿が主張した、少年を主人公にできない=少年の夢をストレートに語ることが不可能になってしまったということと同義です。何が正しいかわからない外部環境構造から、正しさが見いだせず、動機を失い行動する意思が消失する。

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その理由は、先ほど書いたように、少年の夢、、、まぁ日本のモダニズムでいえば、立身出世の末は博士か大臣か?的なことに素直に沿っていいのだろうと思うのですが、「成長」の夢の崩壊なんだろと思います。近代の自己実現といってもいい。「成長」というのは、抜きがたく科学技術経済力の国力の進歩と結びついています。このころの少年の夢には、もう既に国家規模や人類規模の発展なくしては達成できないレベルのものばかりになっているからです。「飛行機を作って空を自由に飛びたい」でも、その開発には膨大な投資が必要で、戦争に利用するという国家規模の目的に添わせる以外に、その仕事に携わるのはすぐ不可能になってしまっているのです。ましてや、旧アクシズ諸国(=枢軸国)では、ストックの蓄積も収奪する植民地もないので、どうしても全体主義的に富の傾斜配分が必要になります。また、そういった自己実現が、何をもたらすか、ということもすでに21世紀の我々は、20世紀の地獄を知っているのでわかっています。フォンブラウンは、ミサイルを、世界にもたらしました。ライト兄弟、カプリーニ伯爵、ユンカース博士、本庄季郎などは、爆撃機を世界に広め、空軍力による無差別都市爆撃を可能にするようになりました。


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アインシュタインやオッペンハイマー、ノイマンは、原子爆弾をこの世界にもたらし、アジアの巨大都市を一瞬に灰にしてしまいました。もっと先を描くのならば、たとえば、SFで『エンダーのゲーム』『死者の代弁者』などがあります。これは、主人公が、自分の才能を発露させていくことで、何をしてしまったのか?ということに気づいた後、生涯をかけて償う少年の物語です。ここには先鋭化された罪と罰の問題が凝縮されています。それは、単純な夢を追う自己実現のもたらす帰結が、世界の滅亡に結びつくという気づきが、我々にあることを示しているのだろうと思います。

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これらは何を言っているかといえば、20世紀の科学の発展が支えてきた人類の高度成長、近代社会への飛躍(=モダニズム)にビルトインされてきた少年の夢の不可能性を示すことだと思うのです。君の夢が、世界を滅ぼすんだ!ということです。宮崎駿は、1980−2010年の時代のトレンドが、少年の夢の提示ではなくて、少年の夢の不可能性、少年の夢の解体のドラマトゥルギーが展開する時代だと感じていたんだろうと思います。そして、時代まさに、この解体の流れを紡ぎました。


さて、、、、僕はここで感動したことがあります。


それは、カプローニ伯爵が、次郎に対して、夢の中で一貫して、日本の少年よ!と呼びかけている点です。


演出的に前半は、日本の片田舎に生まれた少年の飛行機への強い憧れと夢が描かれていきます。その流れで、主人公堀越次郎の夢が、その実存のコアがどこにあるのか?ということが確固として確立される脚本です。なので、カプローニが、最後まで日本の少年をと呼びかけるように、彼を支える意志の根源が、最後の最後まで、その「少年の夢」にリンクしていることが主張されていることがわかります。これは、堀越次郎(=宮崎駿)にとって、この問題は


すべての災禍があってさえも、「少年の夢」の方が優先順位が高いんだ!という決断と意思表示に他ならないと僕は感じました。


この話は、技術と倫理の話につながるので、後半に譲りますが、まずここで言いたいのは、宮崎駿が、、、、少年を主人公にするのが困難だと語って実践してきた彼が、まさにその少年を、どかんと主軸に据えて物語を描き始めたことにその凄さを感じるのです。ようは、潮目が変わった、と彼が感じていることにほかなりません。


■美しさの追及がどこへ向かうのか?


いい仕事だな、、、国を滅ぼしたんだからな。


・・・・まさに、シゴトの狂気を表している言葉で、僕は本当に感心しました。。。。

本作において、登場人物たちが繰り返し口にするのが「美しい」と「矛盾」という二つの言葉である。
二郎が作りたいのは美しい飛行機だが、それは同時に兵器でもある。
しかし二郎の夢の中でカプローニは言うのだ。


「飛行機は戦争の道具でもないし、商売の手立てでもない。飛行機は美しい夢だ」


兵器であるにも関わらず、戦争の道具ではないという矛盾。
実際劇中の二郎も、朴訥としたキャラクター故でもあるが、自分が作っている飛行機が、戦場で使われる事に対しては大した葛藤を抱えていない様に見える。
見方によっては、これは宮崎駿の逃げであると捉える事も出来るだろうが、私はもう二郎は矛盾を抱え込み、それでも自分の夢を追求する覚悟を決めているのだと思う。


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この作品は、とても賛否両論がある作品だと思う。その最大のポイントは、技術というものへの倫理の関わり方だ。この作品の最も倫理的に賛否が分かれるであろうポイントは、技術それ自体への情熱と追及に善悪を持ち込むかどうか?ということだ。この作品の堀越次郎と本庄は、この部分に対して葛藤を持っていない。少なくとも描写を論理的につなげれば、前半の「飛行機が作りたい」という少年の夢が、そのまま仕事になり、それを特別に否定する葛藤や苦悩を描くことなく物語は終了している。


ここは、論理的に確実に批判を招くポイントだろうと思う。まず常識的に考えて、中国人がこの作品を見たら、まず絶対に肯定できないと思う。そしてそれは、当然だろうと思う。ここで本庄が設計している爆撃機は、中国本土を爆撃するのにつかわれたわけだから。日本人にもう少しわかりやすく言えば、たとえば原爆をつくったマンハッタン計画のリーダーの一人であるオッペンハイマーの科学への夢をと自己実現を肯定的に美しく描いた物語を見せられたら、それがいかに美しい物語であっても、日本人は肯定しづらいだろう。


また、「少年の夢」と現実・・・・飛行機を作るには兵器をつくるしかないという現実への苦悩を描かない、つまりは、最もドラマチックで悲劇的な太平洋戦争の時期をこの作品を描いていないので、この倫理的な部分は、非常に賛否が分かれてしまう部分だろうと思う。実際のこの爆撃機の犠牲になった中国や、そもそも戦争自体を絶対に許容できない極端な左翼思想の人には、これは到底受け入れられない態度だからだ。そして、それは論理的にいって、理解できる態度だ。


しかしながら、この作品を見た業界大絶賛(苦笑)というのは、よくわかる反応だ。というのは、これは、たとえ矛盾があろうとも、モノづくりに人生の覚悟を決めた人には、感情移入しないはずがないからだ。


この作品のこの危うい両義性の部分に対して、感情移入できるかどうかは、モノづくりに対するコミットの意識があるかどうか、だと僕は思う。何を犠牲にしても、何かを作り出したいと覚悟を決めて人生を歩むものにとっては、この悪魔の取引は、常に目の前にある選択だからだ。海燕さんは、この強烈な「少年の夢」を『プラネテス』のロックスミスの話に例えています。人の情熱というものは、善悪の彼岸にあるものであって、モノづくりの・・・・何かの創造にコミットしたことがある人ならば、この魔力はわかるはずだ。

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逆に、これがわからない人には、兵器をつくるなんておぞましいことを許すことはできないともう。また、その夢によって人生を破壊された人々にとっては、これは許されざる蛮行になる。たぶんどちらも、感情的には、人間なるものの持つ、赤裸々な感情であって、正しいかどうかは抜きにして、人間なるものだろうと思います。正しいかどうかは判断であって、それが自然に生まれるものかどうかとは別物です。


さて、ここまで来た時に、宮崎駿という人が「少年を主人公に描けなくなった」というテーゼを主張した時に、彼が念頭にあったことは、このことだろうと思うのです。


ようは、夢を追えば、戦争になる。それでも、あなたは夢を追いますか?という問いです。こと問いに、彼は逃げてきました。ずっと逃げ続けてきた。善悪の選択があった時に、善悪二元論の選択肢が生まれた時に、正しいという担保がなければ、子供にそれを伝えることができない。また自分も、正しいという風に人が言ってくれなければ、行動にはうつせない・・・・と。


しかし、、、、72歳にして、彼は決断するわけです。それでも、たとえ善悪の彼岸を超えても、夢を追うべきだ、と。


たとえ、国を滅ぼしても、ゼロは美しいのだ、と言い切るわけです。・・・・これってめちゃめちゃ挑発的で、挑戦的なことではないか、と思うのです。そして、、、時代背景的に、少年の夢が去勢され続けてきた時代に、もう一度、少年を夢を強く押し出したわけです。日本の少年よ、と呼びかけて。


これを退行だ、と批判する人もいるかもしれません。これまで少年の夢の善悪の彼岸を超える部分に対して、そのような危険なことには行動を起こせないという風に、世界の複雑さに立ちすくむことから、退行して、ただ単に悪にコミットしただけだ、と。しかし、僕はそうは思いません。それは、彼が『未来少年コナン』や漫画版『風の谷のナウシカ』で追及してきた背景を考えればわかることです。

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既に、この問いに対して、全体主義とは何か?、人がもたらす悪とは何か?、技術のもたらす最果ての地はどこか(=世界の終末)?などなど、宮崎駿の思考履歴、そして作品履歴は、この真摯な追求によって為されています。彼は、少年の夢がもたらす世界の進歩が、世界に終末をもたらすことだということをこれでもかと考え抜いてきました。そもそも、最初期の出発点である『未来少年コナン』にその問いがはっきりとあります。


その背景を、理解し、心底考え抜いた上で、それでも、夢を追うべきだと喝破するわけです。


正直いってゼロ戦の開発者の堀越次郎が主人公であり、これでもかとゼロ戦の美しい姿が描かれるこの物語は、何をどう言おうとナショナリステックにとられてしまうでしょう。ただ僕は、それは浅薄な捉え方だろうと思う。なぜならば、先に書いたように、この作品には旧枢軸国の飛行機の夢を追った3人の人が登場します。大日本帝国の堀越次郎。ドイツのユンカース博士。イタリアのジョヴァンニ・バッチスタ・ジャンニ・カプローニ伯爵。宮崎駿の世界には常にヨーロッパの世界が広がっており、これまで描いてきた数々の作品のこれでもかというヨーロッパの美しい街並みを考えると、彼の世界の中で、日本と西ヨーロッパは、ほぼ同じモダニズムの同時期の世界としてつながって存在していると思う。ようは、人類が、モダニズムに、近代化を成し遂げていく過程に必ず起きる普遍性があることだと描いているのだと思うのです。少なくとも、宮崎駿の表現上のキャリアがすべてぶち込まれている『風立ちぬ』を見ると、その「地続き感」は非常に僕には納得だ。ハウルが爆撃が繰り返される戦争を見て感じた思いや、『耳をすませば』で戦争によってドイツでの恋人と引き裂かれたおじいさんや、、、、あらゆる物語にもモダン(=近代)の世界の普遍性を感じます。この普遍性がとても大事だと思ったのは、日本のゼロ戦の開発者である堀越次郎の実存は認めることができない!と、他国に言われると、実はこれは言い返すのが難しいと僕は思うからです。先ほどの原爆の開発を日本人が受け入れるのは感情的に難しいとの同じです。しかし、ここでイタリア、ドイツ、日本(くしくも旧枢軸国(苦笑))のヨーロッパ近代の、モダニズムの普遍性に基づいて描かれて、かつ、これまで全く同じテーマをファンタジーで描き続けたことによって、これがナショナリズムの発露の文脈ではなくて、人類の「人間的なるもの」の普遍に裏づけられていることが、はっきりと「感じられる」からです。部分的に見れば、確かにナショナリスティツクな解決方法に見えるのですが、この宮崎駿の長い遍歴の広がりのある世界観を前提にすれば、そんな小さな枠で彼が語っていないことは、十分わかるはずです。なので、ここに反論は必要なくなると僕は思います。ここでの主語は「人類」なんです。・・・ちなみに、こういった人類のレベルでの巨匠になった作家が、それでも日本的ローカルな文脈で物語描いてくれることは、本当に僕らはラッキーだと思うし、そういう巨匠を生み出すマーケットの一員である自分に、幸せをを僕は感じます。


また彼の作品の履歴を見ると、『もののけ姫』の生きろ。というキャッチフレーズを見るように、、、、ナウシカが生命とは血を吐いても血を吐いても飛び続ける鳥のようなものだと言っていることからも、腐海や終末に浸された汚物の中であがいて、それでも「生き続けること」だけが、人間なるものなのだ、という答えに到達しています。


そう、、、人は、あがいて生きていくことが、人なのだという結論です。そこに賢しらな善悪の倫理や設計主義的なるもの究極の拒否があります。この「生き続ける意志」に対して理性的であろうとした瞬間に、人は動機を失い行動にコミットすることができない虚構の生を生きるようになるようです。このあたりの、ナルシシズムの地獄に陥って、そこから抜けられなくなる地獄の構造については、このブログでは一貫して語ってきたと思いますが、少年の夢を去勢すると、構造的に永遠の日常に閉じ込められて、そこで脱出に向かってあがくだけの人生になってしまうことは、ずっと語ってきたことです。そういう意味で、この文脈からも、夢を追えば、戦争になる。それでも、あなたは夢を追いますか?という問いに対して、それが不可能であっても、戦争を拒否しながら(=実際は不可能だろう)も夢を追わざるを得ないし、夢を追わなければ人の人生(=生きている)とは言えない、という結論になるんだろうと思います。ナウシカの結論も、『もののけ姫』の「生きろ。」というキャッチフレーズも、


風立ちぬ、いざ生きめやも。


という言葉も、すべて同じ文脈の発展系として解析することができます。特に今回のこのフレーズは、ナウシカの結論と非常に似ています。というか構造的には同じ。風の意味は、人生は設計主義的にはコントロールできない、ということ。風が吹くたびに様々な人間関係やドラマが生まれて、人生は変化していく様がこの映画では象徴的に描かれます。そのなかで、どんなにめちゃくちゃな人生であろうと、血を吐きながらでも生きていかなければならない、、、そして生きるということは、夢を追うことだ、ということ。それが血塗られた道であっても。人は自身の実存に背いて生きていくことはできないのだ、ということ。


そもそもこの物語の類型は、宮崎駿の天才によって、既に漫画版『風の谷のナウシカ』で到達していました。ただ一つ、ここにはウソと欺瞞があって、それが、異世界のファンタジーであることでした。「それは別の世界の話」という逃げを打つことができたのです。


けど、それは、大日本帝国の堀越次郎のゼロの開発だって、まったく同じことなのです。そして、歴史の事実に裏打ちされた、我々の歴史と地続きなりアルと接続された物語を描けば、間違いなく賛否は激しく分かれます。我々の現代日本は、戦前を否定して構築したものなのですから。別に、この作品で戦前を肯定したなんてことは全くないですが、それでも、人類の、あがきながら生きる、という生への肯定を描けば、それはすなわち、血を吐きながら矛盾で引き裂かれながら夢を追った少年の夢に肯定に他ならなくなるのです。


ほんとうにチャレンジングだな、と僕は思いました。ここには、具体的になったが故に強い批判と拒否を引き起こすであろうながらも、それでも近代の世界を生きる、人類の普遍的な問題意識がはっきりと描かれており、それを、近代のフロントランナーの一人であった日本人の若き姿を描いたところに、、、、なんとも、チャレンジングな意思を感じます。決して、ファンタジーにも、ヨーロッパやアメリカ時に仮託して書くような逃げもせず。


まだ書きたいことがたくさんあるので、何とか時間が確保できれば(2)に行きます。賭けないかもなので、メモは以下に残しておきます。まぁタイトル見ればわかるかな(苦笑)。


■宮崎駿の私小説として〜戦前の大金持ちはみな共産主義に転ぶ

■現実とファンタジーをシームレスに描くことで人の内面が捉える主観的な現実を描写

■意外に息子はいい仕事をしたのだな?と思った。『コクリコ坂』の世界との接続について

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